(好きな作曲家100選 その21 フランチェスコ・カヴァッリ) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。

「好きな作曲家100選」シリーズの第21回である。

 

 

前回の第20回では、16~17世紀の前期バロックのドイツの作曲家、ハインリヒ・シュッツのことを書いた。

とはいえ、バロック期の音楽といえば何と言ってもイタリアである。

17世紀初頭生まれのイタリアの作曲家としては、オペラ(世俗音楽劇)の発展に寄与したフランチェスコ・カヴァッリ(1602-1676)と、オラトリオ(宗教音楽劇)の発展に寄与したジャコモ・カリッシミ(1605-1674)の2人が重要だが、私が特に音楽的才能を感じるのはヴェネツィアの作曲家カヴァッリである。

 

 

ヴェネツィアの町は中世後期より地中海貿易の拠点として栄えだし、ルネサンス期にはパリに次ぐヨーロッパ第二の都市になった。

音楽では、フランドル(東フランス~ベルギー)出身の大家アドリアン・ヴィラールト(1490頃-1562)によってヴェネツィア楽派が始まり、アンドレア・ガブリエリ(1532/33-1585)、クラウディオ・メールロ(1533-1604)、ジョゼッフォ・グアーミ(1542–1611)、ジョヴァンニ・ガブリエリ(1554/57-1612)らイタリア人作曲家に受け継がれ発展していった。

 

 

バロック期になると、ヴェネツィアはオスマン帝国の勢いに押され、また大西洋貿易の発達に伴い地中海貿易の重要性が小さくなって、衰退がはじまる。

大西洋貿易で力を付けたスペイン領のナポリやイギリスのロンドンに追い越され、ヴェネツィアはヨーロッパ第四の都市へと低迷してしまう。

それでも文化的発展はしばらく続き、ヴェネツィアの音楽は巨匠クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)の手によって頂点を極めた。

 

 

モンテヴェルディの記事にも書いたように(その記事はこちら)、1600年頃にフィレンツェで誕生した宮廷オペラが頭打ちになると、今度は興行オペラが生まれ結局これが定着するのだが、その最初のきっかけが1637年にヴェネツィアにできた世界初の歌劇場、サン・カッシアーノ劇場だった。

そんな画期的な歌劇場の作曲家として巨匠モンテヴェルディとともに白羽の矢が立ったのが、サン・マルコ寺院のオルガン奏者に就任したばかりの気鋭の作曲家カヴァッリだった。

 

 

当時30歳代だったカヴァッリは「テーティとペレオの結婚」(1639)、「アポロとダフネの愛」(1640)、「ディドーネ」(1641)と立て続けに力作オペラを書いていく。

モンテヴェルディ晩年の三部作「ウリッセの帰還」(1639-40)、「エネアとラヴィニアの結婚」(1640-41、消失)、「ポッペアの戴冠」(1642-43)と併せると、なんと贅沢なラインナップだろうか。

毎年のように傑作オペラの新作が聴けた当時のヴェネツィアのような音楽環境は、現代では不可能なのはもちろんのこと、全音楽史を通じても皆無であったと言っていい。

 

 

カヴァッリは、40歳代にも「キューピッドの矢の効用」(1642)、「エジスト」(1643)、「オルミンド」(1644)、「ドリクレーア」(1645)、「ジャゾーネ」(1649)、「オリモンテ」(1650)、「オリステオ」(1651)、「ロジンダ」(1651)、「カリスト」(1651)と毎年のようにオペラを書いた。

モンテヴェルディ亡き後イタリアを代表するオペラ作曲家となった彼は、イタリア出身のフランスの宰相ジュール・マザランの招きにより1646年にパリで「エジスト」を上演したが、フロンドの乱によるマザランとルイ14世の亡命のためその後しばらくパリ公演は途絶えた。

 

 

50歳代になっても、「エリトリア」(1652)、「ヴェレモンダ」(1652)、「オリオーネ」(1653)、「セルセ(クセルクセス)」(1654)、「チーロ(キュロス大王)」(1654)、「エリスメーナ」(1655)、「ペルシアの王女スタティラ」(1655)、「アルテミジア」(1657)、「イペルメストラ」(1658)、「ヘレナの誘拐」(1659)と引き続き精力的にオペラを作曲し、また「聖母マリアの夕べの祈り」(1656)といった宗教曲も書いた。

1660年にはフランス政界に復帰したマザランの再招聘で、自信作「セルセ」のパリ公演を行った。

 

 

60歳時にはマザラン亡き後のパリのルーヴル宮で、ルイ14世の成婚記念のための新作オペラ「恋するエルコレ(ヘラクレス)」(1662)を上演した。

その後も「アフリカのシピオーネ(スキピオ)」(1664)、「ムティオ・シェーヴォラ」(1665)、「大ポンペオ(ポンペイウス)」(1666)、「エリオガバロ」(1667)、「コリオラーノ」(1669、消失)、「マッセンツィオ」(1673、消失)を書き、この頃には少なくとも7ヶ所にまで増えていたヴェネツィアの各歌劇場で上演した。

1676年、彼は73歳で生涯を閉じた。

 

 

 

 

「ディドーネ」よりプロローグ。

なお全曲聴くにはこちら、YouTubeページに飛ばない場合はhttps://www.youtube.com/watch?v=6WvSg-aos04&list=OLAK5uy_m15K9Htc_aJ9btocxfotbJ8uhRtJ-kzPsのURLへ。

 

 

彼のオペラは後年になるにつれレチタティーヴォとアリアが明確に分離し、より洗練されたオペラらしい形式となっていくが、音楽性としては30歳代からあまり大きな変化はなさそう(彼のオペラは全曲録音されていないものも多く、はっきりしたことは言えないが)。

そういう意味では、R.シュトラウスと似ているかもしれない。

R.シュトラウスにおける「サロメ」「エレクトラ」「ばらの騎士」と同様、カヴァッリのオペラも初期の「テーティとペレオの結婚」「ダフネ」「ディドーネ」においてすでに方向性はほぼ決定づけられている。

「ディドーネ」の溌剌とした音楽は、聴き手の心を明るく湧き立たせる。

それでいて、モンテヴェルディほどとは言わないまでも、それに近い風格がある。

 

 

バロックも後期になるとヴェネツィアの勢いは衰え、経済のみならずオペラ文化の中心もナポリへと南下していく。

また、ウィーンへはアントニオ・チェスティ(1623-1669)、パリへはジャン=バティスト・リュリ(1632-1687)といった後輩の作曲家たちがイタリアから赴いて、オペラが全ヨーロッパに普及する。

これらに伴い、オペラはより優美で軽快なものへと変化し、代わりに当初の新鮮さを失っていく。

バロックの正統派オペラはのちにオペラ・セリアと呼ばれ、初期ロマン派時代に至るまで長く作曲されたが、その生みの親ペーリ(その記事はこちら)、育ての親モンテヴェルディ(その記事はこちら)、そしてカヴァッリ、この最初の三人の格調高さに勝るものがイタリア人の手で作られることは、もはやなかった。

 

 

なお、好きな作曲家100選シリーズのこれまでの記事はこちら。

 

前書き

1~10のまとめ 1500年以前(古代・中世とその周辺)

11~20のまとめ 1501~1600年(ルネサンスとその周辺)

 

 


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