(好きな作曲家100選 その22 ルイ・クープラン) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。

「好きな作曲家100選」シリーズの第22回である。

 

 

前回の第21回では、17世紀の前・中期バロックのイタリアの作曲家、フランチェスコ・カヴァッリのことを書いた。

さて、今回は久しぶりに、フランスの作曲家について書きたい。

前回取り上げたフランス・ベルギーの音楽家はオルランド・ディ・ラッソ(1530/32-1594)だったが(その記事はこちら)、今回はラッソの約100年後に生まれたフランスの音楽家、ルイ・クープラン(1626頃-1661)を取り上げたい。

有名なフランソワ・クープラン(1668-1733)の伯父である。

 

 

この100年の間、フランス・ベルギーに優れた音楽家が全くいなかったわけではない。

ルネサンス末期からバロック初期にかけて、フランスではリュート音楽が栄え、ルネ・メッサンジョー(1568頃-1638)、その弟子のエヌモン・ゴーティエ(1575頃-1651)、その従兄弟のドニ・ゴーティエ(1597/1603-1672)といったリュート奏者兼作曲家たちが舞曲を書いた。

また、フランス国王付きの宮廷クラヴサン(チェンバロ)奏者だったジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエール(1601/02-1672)は、リュートの代わりにクラヴサンのために舞曲を書いた。

 

 

1650年もしくは1651年、シャンボニエールがパリ近郊の彼の館で祝宴を催していたところ、ショーム=ザン=ブリという町に住んでいた当時24歳頃のルイ・クープラン(L.クープラン)が弟たちを連れやってきて、自作の弦楽合奏曲を演奏した。

これを聴いたシャンボニエールは稀に見る才能に感嘆し、パリに来ることを勧めた。

こうして、L.クープランの活躍が始まる。

 

 

1651年にパリに移ったL.クープランは、1652年にパリに来訪したヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(1616-1667)との交流があったとみられる。

イタリアの巨匠フレスコバルディ(その記事はこちら)の高弟だったフローベルガーから影響を受けたかもしれない。

1653年にはパリのサン・ジェルヴェ教会のオルガニストに就任する。

パリに来てまだ2年かそこらの無名の若き音楽家が、早くもこのような地位を手に入れるとは、彼の才能への高い評価が窺い知れる。

 

 

1656年頃、30歳くらいになったL.クープランに、ついに宮廷クラヴサン奏者の地位が提案される。

シャンボニエールの家系が代々受け継いできた地位である。

シャンボニエールがルイ14世の寵を失いこのポストを去ることになったのは、ジャン=バティスト・リュリ(1632-1687)の楽団の通奏低音の演奏を拒否したからだといわれているが、それが一説のように彼が数字つき低音による伴奏法を知らなかったためなのか、それとも他に政治的な理由があるのか、本当のところはよく分からない。

 

 

ともかく、フランスの音楽家としては最高の地位の一つである。

しかし、自分を見出してくれたシャンボニエールの地位を奪うことはできない、とL.クープランはこの提案を辞退した(なおシャンボニエールは最終的には失職を免れず、1663または1664年に弟子ジャン=アンリ・ダングルベール(1629-1691)がこの地位を引き継いだ)。

それならば、ということで今度はL.クープランのために「宮廷ヴィオール(ヴィオラ・ダ・ガンバ)奏者」という新たなポストが作られた。

それほどまでに高い評価を受けた彼だが、急な病気のため、1661年に35歳で生涯を閉じた。

 

 

 

 

クラヴサン曲「ブランロシェ氏の墓」。

組曲 ヘ長調の終曲として奏されることが多い。

 

 

「アルマンド」「クーラント」「サラバンド」「ジーグ」といった舞曲を集めた「組曲」という音楽形式の曲を彼はよく書き、その確立に寄与した。

これはシャンボニエールやフローベルガーの影響であったろう。

しかし、彼の音楽はシャンボニエールの素朴さとも違うし、フローベルガーのドイツ的重厚さとも違う。

もっとフランス風に洗練され、かつ静かな感動を湛えた音楽である。

フローベルガーのパリ滞在中の1652年に階段から転落して事故死したリュート奏者ブランロシェへの追悼のため、L.クープランとフローベルガーがそれぞれ書いた曲を比べると、そのことがよく分かる(フローベルガー作のものはこちら)。

 

 

溢れんばかりの才能に恵まれながら早逝したL.クープランは、「フランスのモーツァルト」とでも言えようか。

もしくは、彼の残された作品のほとんどがクラヴサン曲であることから、「バロックのショパン」とも言えるかもしれない。

ルネサンス期に他国に遅れを取っていたフランスの器楽は、バロック期に彼の手で芸術的に高められ、一気に頂点に躍り出た。

まるで一編の詩のような彼のクラヴサン曲と比べると、後年の巨匠フランソワ・クープランやジャン=フィリップ・ラモー(1683-1764)でさえ、ときにロココ風の華美な趣味が鼻につき、飽き足らなくなってしまうほどである。

 

 

なお、好きな作曲家100選シリーズのこれまでの記事はこちら。

 

前書き

1~10のまとめ 1500年以前(古代・中世とその周辺)

11~20のまとめ 1501~1600年(ルネサンスとその周辺)

21. フランチェスコ・カヴァッリ

 

 


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