(好きな作曲家100選 その23 アレッサンドロ・ストラデッラ) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。

「好きな作曲家100選」シリーズの第23回である。

 

 

前回の第22回では、17世紀の中期バロックのフランスの作曲家、ルイ・クープランのことを書いた。

バロックも中期となる17世紀後半、クラヴサン(チェンバロ)音楽においてはフランスのルイ・クープランに敵う者はイタリアにもいなかったが、それ以外の分野においてはまだまだイタリアが主流だった。

数多く輩出したイタリア中期バロックの作曲家たちの中でも、とりわけ偉大な巨匠だったのが、アレッサンドロ・ストラデッラ(1643-1682)とアルカンジェロ・コレッリ(1653-1713)の二人である。

 

 

専ら協奏曲と室内楽を残したコレッリに対し、ストラデッラはマルチに才能を発揮した作曲家だった。

まず、声楽曲について。

エミリオ・デ・カヴァリエリ(1550頃-1602)の「魂と肉体の劇」(1600)が最初のオペラ風宗教音楽劇とされるが、こうしたものが下地となり、ジャコモ・カリッシミ(1605-1674)の「イェフタ」(1648)等によってオラトリオと呼ばれる演技を伴わないオペラ風宗教音楽劇が確立された。

また、ルネサンス期の声楽曲マドリガーレに代わってバロック期に隆盛したカンタータも、上述カリッシミらによって盛んに作曲された。

ストラデッラはこれらを芸術的に高め、ヘンデルとJ.S.バッハ以前における最大のオラトリオとカンタータの作曲家となった。

 

 

次に、器楽曲について。

ルネサンス期にはア・カペラで歌われていたモテットが、前期バロックには器楽による通奏低音の伴奏をつけられるようになり、これをコンチェルトと呼んだ(ハインリヒ・シュッツなどが作曲している)。

そして中期バロックになるとコンチェルトは、“声楽に対して器楽の伴奏”というものから、“器楽の独奏楽器群(コンチェルティーノ)に対して器楽の伴奏楽器群(コンチェルト・グロッソ)”へと変わっていった。

ストラデッラはこの器楽コンチェルトの形式を確立し、オラトリオやカンタータの序曲において頻繁に用いた。

この序曲がのちにコレッリにより独立され、いわゆる協奏曲となる。

 

 

ボローニャで生まれたとされるストラデッラは、貴族の出身で、ローマで作曲家として活躍した。

20歳代前半にしてすでに、世俗カンタータ「ねぇ、恋人さんたち!」(Amanti, ora!)(1665)にて他のどの作曲家とも違う独自の感性を発揮し、また彼の最初のオラトリオ(消失、1667)を書いた。

20歳代後半には、世俗カンタータ「ラ・キルケ」(La Circe)(1668)、オペラ「ラウリンダ」(1672)や「ドリクレア」(1672)、オラトリオ「エステル」(1672-73)や「聖女エディッタ」(1672-73)を書いて名を上げ、他の著名な作曲家たちのオペラ上演のために新たな序曲や間奏曲、アリアの作曲を任されるようになった。

 

 

30歳代前半には、世俗カンタータ「飛べ、飛べ、他の胸の中へ」(Vola, vola in altri petti)(1674)、「解放された捕われびと」(Lo Schiavo liberato)(1674)、「暗黒のタルターロの怒りの女神とあなたを呼ぼう」(Furie del nero Tartaro)(1676)、「星の力」(La forza delle stelle ovvero Il Damone)(1677)、オラトリオ「サン・ジョヴァンニ・クリソストモ」(1674-76)、「洗礼者聖ヨハネ」(1675)、「聖ペラージャ」(1676)、オペラ「Amare e fingere」(1676)や「Il Corispero o L'Almestilla」(1677)といった中期の傑作群を精力的に書いた。

 

 

ただ、いわゆるイタリア男というべきか(偏見?)、恋多き人だったようで、浮名が絶えなかった。

33歳時に彼は貴族の結婚にまつわる陰謀に巻き込まれ、投獄されたのち釈放され、ローマを離れヴェネツィアに移った。

ヴェネツィアでは貴族アルヴィーゼ・コンタリーニの愛人アニェーゼの音楽教師として雇われたが、ストラデッラとアニェーゼはすぐに恋に落ち、二人はトリノに駆け落ちした。

結婚しようとしたところ、ストラデッラはコンタリーニが復讐のために雇ったとみられる暗殺者に刺され、命からがら逃げた。

 

 

34歳時、ストラデッラは単身ジェノヴァに移った。

30歳代後半にはオペラ「父の愛の力」(1678)、「オラツィオ・コクレ」(1679)、「家庭教師トラスポロ」(1679)、「愛に死す」(1681)、世俗カンタータ「舟遊び」(Il Barcheggio)(1681)、オラトリオ「スザンナ」(1681-82)といった後期の美しい作品を書いた。

1682年、ジェノヴァの貴族ジョヴァン・バッティスタ・ロメリーニが自身の妹(または姉)とストラデッラとの関係を疑って雇ったとみられる暗殺者によってストラデッラは殺害され、38歳で生涯を閉じた。

 

 

 

 

教会カンタータ「あぁ! なんという真実」(Ah! Troppo è ver) より 序曲(Sinfonia)。

晩年好きの私としてはオラトリオ「スザンナ」も捨てがたく、また前期の世俗カンタータ「ねぇ、恋人さんたち!」も驚くべき作品であり、中期の代表作であるオラトリオ「洗礼者聖ヨハネ」も良い。

しかし、ここでは作曲年不明のこの教会カンタータを選びたい。

教会カンタータ、世俗カンタータ、室内カンタータとあらゆる種類のカンタータを多数作曲したストラデッラとしても、特に見事な一曲だと思う。

 

 

この序曲は、上述のように独奏楽器群(2つのヴァイオリンと通奏低音)と伴奏楽器群(いわゆるオーケストラ)によるコンチェルト・グロッソの形式で書かれている。

J.S.バッハのブランデンブルク協奏曲第5番と似た構成である(バッハではヴァイオリンのうちの一つがフルートに置き換えられているが)。

バッハに比べるとごく短いが、生気に満ちたメロディやリズムといい、2つのヴァイオリンの美しい掛け合いといい、音楽の充実度はバッハを先取りしている。

バッハよりもからりとしたイタリアの底抜けの明るさに、ときどきはさまれる半音階的和声進行が陰影を添える。

 

 

そして、この序曲は急-緩-急のイタリア風序曲の様式で書かれている点で、コレッリのコンチェルト・グロッソを飛び越え、ヴィヴァルディやJ.S.バッハ以降の近代的な協奏曲を指し示している。

また、このイタリア風序曲の様式は(ストラデッラ自身は常にこの様式を使用したわけではないが)その後イタリアで大いに流行し、18世紀には序曲のみ独立して交響曲となっていった。

つまりこの序曲は、18世紀から現代に至るまで花形であり続けてきた交響曲と協奏曲、この二つの音楽形式が生まれる直前の分岐点に当たる曲の一つと言えるのではないだろうか。

そうした立ち位置にふさわしい、記念碑的な力作だと思う。

 

 

もちろん、序曲だけでなくカンタータ全体が素晴らしい。

なお全曲聴くにはこちら、YouTubeページに飛ばない場合はhttps://www.youtube.com/watch?v=b4RVkgvssWo&list=OLAK5uy_kjZBzh_MHW6FFuY2SOYVSX2IRVyfxEIdU&index=17のURLへ。

特に、三名のソプラノにそれぞれ割り当てられたアリアの美しさは、J.S.バッハの最良のカンタータにも全く引けを取らない(ソプラノ1のアリアはこちら/ソプラノ2のアリアはこちら/ソプラノ3のアリアはこちら)。

 

 

数奇な生涯を送ったストラデッラは、末期ルネサンスの奇才カルロ・ジェズアルド(1566頃-1613)(その記事はこちら)を彷彿させる。

半音階的和声進行を好んだことも共通している(ジェズアルドに比べるとストラデッラはスパイス程度にしか使っていないが)。

その生き様から変わり者として扱われ、ジェズアルドはモンテヴェルディの、ストラデッラはコレッリの影に隠れがちだが、実は全く劣らぬ高い芸術性を持つ、という点でもよく似ている。

特定の声楽形式を追求した点も共通しており、“マドリガーレのジェズアルド、カンタータのストラデッラ”と言ってもいいかもしれない。

カンタータやオラトリオを完成させ、協奏曲や交響曲の礎を築いたストラデッラは、音楽史において決して無視できない重要な存在である。

 

 

なお、好きな作曲家100選シリーズのこれまでの記事はこちら。

 

前書き

1~10のまとめ 1500年以前(古代・中世とその周辺)

11~20のまとめ 1501~1600年(ルネサンスとその周辺)

21. フランチェスコ・カヴァッリ

22. ルイ・クープラン

 

 


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