ミモザな日々

ミモザな日々

日々のあれこれを綴ったきままブログ

Amebaでブログを始めよう!
横浜の避難場所であるこのマンションに越してからも、
集団ストーカーや嫌がらせ、仄めかしは続いている。
外出が減った分、以前より被害は少なくなったが、
中学生の子はこちらに転校して二週間で、
また学校に登校出来なくなったし、
転校以来、五月雨登校だった小学生の子も、
クラスメイトとのトラブルから再度不登校になった。
そのトラブルのあった親子とは、
なぜかよく、行く先々で偶然出くわすことが多く、
ごく少ない外出にもかかわらず、
ふと振り返ると親子ですぐ後ろにいたこともあった。
もちろん不可解な仄めかしもあった。

以前の住まいでもそうだったが、
偶然を装った付き纏いが多い人ほど、
嫌がらせや仄めかしも多いのが常なのだ。
手口が巧妙で、本人の欠点を上手く利用して
数人がかりで計画的に攻めてくるので、
虐めとして立証しづらいのもこの特徴だ。
とにかくこれが執拗に続く。
親子でだから性質が悪い。
学校の先生も絡んでいることもあり、
そうした場合はもう、こちらが何を言っても
会話はわざと噛み合わせず、のらりくらりとなる。
痺れを切らしてこちらが感情的になったりすれば、
もう相手の思う壺だ。モンスターペアレンツや
トラブルメーカーのレッテル張りをされ、
話に尾ひれをつけて悪評をばら撒かれるため、
どうにも対処不可能になり、泥沼に嵌められるのだ。
かくして、コミュ障が出来上がる。
対人恐怖症、人間不信と言ってもいい。
もともと明るく、人間関係にそつない人間が
突然このような状況に陥ったら、
『死にたい』などと口走るようになったら、
集団ストーカーを疑った方がいい。
そして、よってたかって自殺に追い込まれる前に、
安全な場所を確保し、避難させた方がいい。
命が助かったとしても、その回復にも
信じられないほどの時間がかかるからだ。

今年の七夕は、初めて笹の葉も飾らなかったし、
短冊に願い事も書かなかった。
願い事を書く気力がないなんて、
生まれて初めてのことだ。子供達も同じ心境なのか、
今、ここに避難している家族4人の誰一人として
七夕をやろうとは言わなかった。
集団ストーカーのダメージとはこういうものなのだ。
おそらく、同じ状況を経験しない人には
決してわからないだろう。
でもこれだけはわかってほしい。
この人たち↓↓↓のしたことは、犯罪だということを。

集団ストーキングや仄めかし、盗聴や盗撮、
執拗な音声送信やアンカリングにハッキング、
悪評流布の異常さについては今後少しずつ
書いていきますが、最近気付いたのは、
これがただの虐めや嫌がらせではないということだ。
なぜなら、その仄めかしにはどういうわけか
貸金庫や銀行の暗証番号という、
重要な個人情報が含まれていたから。

以前の住まいである相模原には今、
夫が一人で住んでいる。
週末は家族で戻っていたのだが、
あらゆる仄めかしや洗脳によって、
最近はそれぞれが疑心暗鬼になってしまい、
家族が一同に顔合わせすることも少なくなった。
つまり、我が子が自宅に戻ることが激減したということだ。
その住まいの隣りには米軍と自衛隊の官舎がある。
我が家は賃貸併用住宅になっているため、
2部屋を他人に貸しているのだが、
そのうちの一世帯の住人のポストには聖教新聞。
もう一世帯の住人は事あるごとにゴミを階段にバラ撒く。
そしてこのそれぞれの部屋にはなぜか、
あらゆる人間が入れ替わり立ち替わり出入りし、
ここ数年は子どもも数人住みついている様子。
その子どもたちはどういうわけか我が子と同年齢で、
祖母である彼女の部屋から不定期に
我が子とおなじ小学校に通うようになったのだ。
虐めが酷くなった時期となぜかリンクする。
そしてこの時期から、自衛隊親子の嫌がらせも激化したのだ。

なにか不審なものを感じるのは私だけなのだろうか。
集団ストーカーの相手は、市の職員、建設業者、
学校関係者、自衛隊、米軍関係者、そして自治会員が多く、
嫌がらせは長期に渡っている。激化した時のキーワードは、
『追い出し、追い込み、お布施まだ?自殺しろ』だ。
そうそう、『ウシの代わりはいくらでもいる』もあった。
ウシというのはどうやら、私のことらしいが・・・

追い込みは凄まじく、これに急き立てられるように、
私と子どもたちは横浜に逃げてきたのだが、
ここでひとつ、思い出したのは或ることだ。
同一の建物内に住まいがある場合、
101でも202でも301でも、とにかくなんでも、
同じ住所として登記や届け出が出来るということ。
つまり、全く違う世帯でも、同一住所として
正式な届け出をすることが出来るのだ。
ある警察関係者によると、
「通名の一本化」が7月から実施されることにより、
在日の、日本人の戸籍乗っ取り事件」が、
これから多発するのではないかと警戒しているそうだ。

さて、私と子どもたちの住民票は横浜にある。
相模原にいるのは、現在のところ夫ひとりだ。
夫は仕事の利便性もあり、ここから動く意思はないらしい。
戸籍は全員相模原にあるのだが、
もし、何らかの手違いでその戸籍が誰かとすり替わったら?
もし、何らかの形で私たちが忽然と消えてしまったら?
普段暮らしていないのだから、
妻子が消えても誰も不審には思わないし、
別のところで暮らしていると思い込むのが自然である。
相模原市役所の転出手続きが妙に迅速だったのも
今となってはなにかおかしな感じを受けるのだが、
(ここの窓口でも不可解な仄めかしを何度もされる)
転入の際に横浜の区役所の窓口で、
『普通は、こういう手続きは取らないんだけどねぇ』
と、首をひねられたのも不思議なものだ。
また、長年嫌がらせを続けている家族のご主人が、
市の都市開発(地上げ)担当者であることや、
病院関係者、カルト教信者による、
偶然を装った付き纏いが異常に多いということが
妙に引っかかるところなのだが・・・

ここまで個人情報をこの場に晒すのもどうかと思うが、
こうして晒して、第三者の目に触れたり、
プリントして記録に残した書類を示して
この子たちや私の存在証明をすることでやっと、
ある種の安心を得られるようになるとは。
でも、できればこれが杞憂であるといい。
七夕に願いそびれた願いは、
ただそれだけなのかもしれない。
『殺す』『終わりね』『死にな』『いつでも殺せる』等々
今日も仄めかしは続いている。



























嫌がらせや仄めかし、集団ストーカーが
激化したのは一昨年からだけど、
真ん中の子の中学受験に夢中で
あまり気にならなかった。
というか、気にしないようにしていた。

でも、周囲の状況は刻一刻と深刻に、
異様に変化していた。周囲も、家族も。
はじめて、おかしいと気付いたのはこれ。

上の子がスマホから頻繁に指示を出され、
近所のコンビニで購入しておずおずと
私に無言で差し出した漫画本。

『なんなの?これ。気持ち悪い』
中身を開いてページをめくると、


『こんな気持ち悪い漫画、読むのやめなさい』
上の子は無言のまま、天を仰ぐ。
涙を見せまいと必死で堪えている。
でも、頬を伝う涙。明らかに様子が変。

これが、集団ストーカー激化の序章だった。
この後、畳み掛けるように、
周辺住民や自称防犯パトロール団による、
執拗な付き纏いや嫌がらせ、監視がはじまる。
『追い込み』『追い出し』『死ね』『ゴミ女』『クズ』
こんな言葉が毎日洪水のように飛び交い、
電話回線やネット回線はなぜか不通になる。
この異常な『追い込み』の最中には、
大事な友人、知人に何度相談メールを送っても、
決して相手に届くことはなかった。
代わりに成りすましメールのようなものが
頻繁に届くのだが、文体も文面も、
その人のそれとは明らかに違うものなので、
私は気味が悪くて混乱するようになり、
友人知人と連絡も取れなくなり孤立する。

子ども達は頻繁にあざや怪我をつくって帰宅し、
日々眼つきが険悪になり、学校を休みがちに。
上の子はこの頃、頻繁にチック症状が出ていた。
スマホやアイフォンから頻繁に指示が出て、
家中の壁はそのたび穴だらけになる。
子どもたちは、泣きながら家具を壊し、
私に暴言や奇妙な仄めかしの文句を吐いた。
そして室内を修復するために、
業者が頻繁に出入りする。
このひとたちもまるで盗聴やし盗撮でも
していたかのような仄めかしが多い。

この時子どもが所持していた
スマホやアイフォン、DSやパソコンを次々と、
この子達が不自然に粉々に破損したり、
何度も紛失したりしたのは、
誰かに指示を出されていた証拠品を
隠滅するためだったからだとわかったのは、
つい最近のことだ。

家族は滅茶苦茶になり、
二人の子はいまだ学校にも行けず、
唯一学校に行けている上の子も、
絶えずどこかから頻繁に指示を出され、
お金を使うように立ち回らされている。
このように、
私と子どもたちを自宅から追い出し、
家族それぞれを疑心暗鬼にさせ分断し、
優秀だった真ん中の子を社会的に抹殺し、
これからすくすく成長するはずの
小学生が手にするはずの未来を奪う。
こんなことをして得をするのは誰なのだろう。
こんなことをする目的は、一体なんなのだろう。

ここ数年、自衛隊や米軍関係者、市の職員が、
夫やその会社、趣味の場に巧みに潜入し、
どこにでも偶然を装って顔を出すのはなぜ?

そういえば、その自衛隊の奥さんのひとりが
『うちの主人、航空自衛隊のパイロットなの。
パソコンも自分で全部作っちゃうの。
頭いいのよ。頭だけはすごくいいの』
と、自慢しながらも子どもの名簿作成の際、
私の子どもの名前だけ間違えたり
うっかり外したりしたのも、
なにか特別な意味があったのだろうか。
そしてもう一つ、この人に呼び止められて
立ち話した後はいつもなぜか、
ちゃんと閉めたはずの家の玄関の鍵が
どういうわけか空いていたり、
閉じたはずのパソコンが開いていたのも、
その後、ハッキングが酷くなったのも
なにか特別な意味があるのだろうか。
でも、何より一番異様なのは、
そのひとたちや税理士が、
頻繁にあることを、執拗に知りたがることだ。
そういえば、数年前から舅と姑には
大きなダイヤの指輪をつけた
妙な不動産業者が付き纏っていたけれど。
その舅も去年亡くなり、嫌がらせは増す一方だ。

ここ数日、ブログをアップするたびに、
また嫌がらせが増してきた。
『ジェイソン!ジェイソン!ジェイソン!』
そして包丁を振り下ろす手と血飛沫の画像。
『世田谷一家殺人事件』
『未解決事件』『死ぬよ』『殺すよ』『供養』
『傘で目を突いて脳まで刺さるよ』
『お墓』『うざいよ』『抹殺』『惨殺』
の仄めかしの連続。連続。連続・・・・・
外出したら、また車のガラスを割られるのだろうか。
あの狼の夢の続編は、まだ見れずにいる。



































嫌がらせや仄めかし、集団ストーカーはまだ続いている。
が、今の住まいでは外出が極端に少ないため、
ストレスもなんとか凌ぎながらひっそりと暮らしている。
真ん中の子(中学生)と小学生は相変わらず、
週1の習い事以外は家から出られずにいるので、
ここはさながら戦時中の防空壕のようで、
今まさに避難中といった状態だ。

以前の住まいで受けた、
近隣住民の付き纏いや監視、執拗な追い回し、
自衛隊や公務員からのあからさまな嫌がらせ、
パトカー、消防車、救急車の待ち伏せや
度重なる巡回による心理的圧迫というのは、
受けたものでしかわからないと思うのだが、
執拗に、一斉に繰り返し何度も行なえば、
人間の精神状態を一瞬にして壊してしまう。
ましてやそれが小学生の子どもなら?
なおさら被害は甚大だ。

私の旧友や親戚、知人達には、
彼らに先回りされて悪評を吹き込まれた。
警視庁や公安、地域の防犯課や
あるときは検事や弁護士を名乗って、
言葉巧みにそれらしく言いくるめれば、
大抵の人はそれに従うものだ。
そして最後に一言、こうつけ加えればいい。
『本人には絶対に言わないで下さいね。
ショックで自殺してしまうかもしれないので』
追い込んで自殺したり、何か事件を起こした時、
誰もが『ああ、やっぱり、病んでいたから』と
納得するように巧妙な根回しをするのだ。

友人や知人は私と距離を置く。
子どもは学校に行けなくなる。
朝から晩まで異常に寝込んで、
一歩も外へは出られなくなる。
それなのに、弱っているのをいいことに
見舞いを装って彼らは毎日やってきて、
連絡帳だの宿題だの、心配だからと上がり込み、
家中携帯カメラやDSで録画した挙句に
『汚いね』『臭いね』『なんで学校来ないの?』
などと暴言や嫌味を口々に言いながら
大雨の中大事な飼い犬を外に放してしまう。
泥だらけで惨憺たる様子の犬を見て笑いながら、
『可愛がってあげてる』だなんて、
親子で床に臥せっているお見舞いの場で
家中台無しにしながら軽々しく言う言葉ですか?
買い物先のスーパーや仕事場、銀行、旅行先、
そして学校や病院。子どもの塾や電車バス。
彼らは行く先々で神出鬼没に出現する。
まるで示し合わせたかのように。

この時に、彼らや出入り業者や
通りすがりの人達が、念仏のように
頻繁に口にしていたキーワードが、
『追い込みだからね、奥さん』や
『自害しろ』『障害』『死ね』『殺す』『バイバイ』
『追い出し』『懇願しろ』『お布施まだ?』等々。
弱っている時によく、これみよがしに何度も
玄関先にタイミングよく置かれていたのが、
『エンディングノートの書き方』という回覧板。

これら一連の嫌がらせの意味と目的が、
ネットで、『集団ストーカー』で検索してみて、
やっとわかった時はかなりの衝撃だったけど、
激化する以前からも嫌がらせは多々あったので、
彼らはきっと、私たちを追い込む機会を、
手薬煉ひいて待っていたのかもしれない。

最近なぜか、
子どもの頃、繰り返し何度も見た夢を思い出す。
廃墟のような建物に私は身を潜めている。
外を徘徊する、怖ろしい狼から逃れるため。
身を縮め、息を潜めてひっそりと隠れている。
一緒に籠っている仲間たちがいるのだが、
夢から醒めるとなぜかいつも、
その仲間の顔を思い出すことができない。
それ以外は驚くほど鮮明に憶えているのに。
墨を垂らしたような寂寞とした暗い景色。
迫りくる狼の遠吠えと、奴らの荒い息遣い。
言いようのない恐怖感と不安感。
あらゆるものから取り残されたような孤独感。
身を寄せ合う仲間たちの柔らかく優しい温もり。
何度も繰り返し、このシーンばかり夢で見た。
それなのになぜかいつも、どうしても、
大事な仲間の顔だけわからないのが、
子ども心にも不可解で妙に印象的だったのだが、
その意味が、最近やっとわかったのだ。
あれはきっと、今回のことの暗示だったのだと。
いつか遭う、逃れられない危機に対する
警鐘のようなものだったのだと。
でもだとすると、
そのあと主人公の私たちはどうなるのだろう。
その対処法まで夢の続編で示してくれるなら、
私は夢占いの大家になれるのに。
現実は甘くないのだ。














昨日は、以前暮らしていた住居に
久々に数時間程度戻ったのだが、
嫌がらせや仄めかし、集団ストーカーは
まだまだしつこく続いている。

以前よく行ったスーパーに買い物に行くと、
夫婦らしき二人連れが、
それぞれ『ぺっ!』『ぺっ』と、
わざとらしく大袈裟にアクションする。
何やら大声で話を続けているが無視。
(この集団の特徴は不自然に大声なところ)
買い物を終え車に戻ると、
綺麗に洗車したばかりのフロントガラス一面に
ゴミ屑や茶色い汚物がばら撒かれ、
ボンネットまで汚されている。
またか、と溜め息が出そうになるが、
この程度なら以前よりはまだましだ。

以前暮らしていた頃は、
花壇に大量の犬の糞を撒かれ、
家族の自転車は常にパンクさせられ、
車のドアは何度も傷つけられ、
屋外階段の手摺りのネジを故意に外され、
エアコン屋外機のドレンも故意に外される。
呼んでもいないのに押しかけてくる訪問者、
学校や保育園では子どもが常に虐められ、
事故を装ってしょっちゅう怪我をさせられる。
学校や警察、近隣の責任者に相談しても
気のせいだ。とか、幻聴だ。とか
虐められる方が悪い。とか
相談先は全く頼りにならずに
病院へ行け(統合失調症だ)と言うのが常。

でもこれ、明らかに嫌がらせですよね?
☝で書ききれないほど、
まだまだいっぱいあり過ぎて、
こうして文字にすると驚いてしまうのですが、
(集団ストーカー(YouTube)で出ているのと
手口が同様なので古典的な方法なのかも。
最近はネットアカウントや電話の乗っ取り、
lineの乗っ取りや浴室やトイレの盗撮、
夫婦の寝室の盗撮もあるので非常に陰湿。
地域ぐるみで隠蔽するのは
同じ目に遭いたくなかったり、
色々なしがらみがあるからなんでしょうね。

でもこれ、
大人と一緒に子どもや、
ましてや親子で嫌がらせってね、
時々、顔をひきつらせながら
嫌がらせをしに来る子がいるんだけど、
ああ、この子きっと、良心の呵責とか
感じながらやってるな~って
なんだかとても痛々しくなるんだけど。
ある種の使命感みたいなものに燃えて、
嬉々として嫌がらせしてる子は別として、
前者みたいな子は、後々後遺症が出るから
注意したほうがいいと思う。

世直しだか、防犯だか、宿敵だかの前にね、
こういう子の親は、今後の因果応報について
真面目に考えたほうがいいと思うんだけど、
ああ、もう、長くなってしまったのでまた次回。
















嫌がらせや仄めかし、
集団ストーカーで検索すると色々出てくるのだが、
あれもこれも、もう10年以上ずっと続いていたらしい。
気付いてみるとどっとダメージを受けるのだが、
他者や医者に訴えても、
5分心療で妙な薬を勧められるだけなので
言うだけ無駄なのだ。

このブログも、なぜか他の人とのやり取りが
スムースに出来ないようになっていて、
自由が拘束されている。
身内にすら根回しされていることを
誰かに訴えても無駄なので、
最近は親にも親戚にも友人にも、
言うのをやめた。
その代りにここに書き綴る。
記録として記憶の一部を。

妊娠後期の妊婦のいる家に、
呼んでもいないのに
毎回親子で押しかけた挙句に
遊びと称して家中メチャクチャにして、
ついでに壁に穴まで開ける迷惑行為を
平然と何度も繰り返すご近所さん。
そういえば子どもが大怪我した時も、
なぜかこのひとの子が絡んでいた。
あの時は事故だと思っていたけど
実はそうじゃなかったのか。

夫はあの時もこの時も、
近所とは仲良くやってれ的なことを言って
私の悩みを他人事のように聞き流していた。
自分の自営の仕事ばかり押し付けて、
深夜まで事務仕事を手伝っても
当たり前だ。大したことやってない。
俺は外で稼いでる。
お前と子どもを食わせてるって
舅と姑とついでにニートの小姑の
嫌味の相手もすべて押し付けて
自分は仲間と外出ばかりしていた。

なんだか今日は
色んなものをぶちまけて
台無しにしたい気分。
たぶん気圧のせいだ。
きっとそうに違いない。


















最近はそんなこんなで、人と会うのがひどく億劫だ。
夫や親とすら、会ったり会話したりするのが鬱陶しい。
だからこんな雨の日は、なんだかホッとする。
これが引きこもりの心境なのか。
きっとこの子達も同じなのかもしれない。
だとするとやはり、時間がかかるのかなぁ。

小学生の子は、今日も言っている。

『〇〇小(以前の小学校)は最悪だよ!』

今、通っている小学校ではないのだが、
この子の意識はもしかして、
そこに置き去りのままなのかな。
『今』というより『過去』を見ている。
瞳に映っているのは以前の小学校と、
この子が育ってきた、その周辺地域なのだ。
不登校はそこから引き摺っている。
現在地ではなく、過去にいた場所から。
だから、思ったよりずっと根は深いのだろう。

中学生の子は何も言わない。
何ひとつ語ろうとしないから、
こちらはあれやこれやと勝手に、
憶測を巡らすしかないのだが、
記憶の糸を手繰り寄せるたび、
ぎゅっと胸が締め付けられる。
あのシーンも、このシーンも。
すべて、いじめだったんだと。
やっと私は認識したからだ。

だから、小学校最後の運動会にも出なかった。
練習の際にすでに痛めつけられていたから。
だから、突然泊りがけの行事を欠席した。
準備段階で常に嫌がらせをされていたから。
だから、5、6年生時のメイン行事の前にはいつも、
原因不明の腹痛に襲われた。
心と体は、小学校高学年時にすでに
ボロボロだったから。

医師から『仮病じゃないの?』と言われた時、
どうして気づいてあげなかったのだろう。
登校斑で一緒の同級生に、
蹴られたり、どつかれたりしたのを見た時、
『もしかして虐められてるの?』
と聞いたら、
『そんなわけないじゃない』
と軽く返していたから、
そうよね。そんなはずないわよねと、
あなたが虐めなんかにあうわけないと、
私がそんなニュアンスを含んだ言葉を
先に言ってしまったから、
この子は本当のことを言えなくなってしまった。
この子は真実を心の内の奥底に封印してしまったのだ。

担任の先生は知っていたはずだ。
それなのにあのひとはいつも、
何も言わずに笑っていた。
この子が私立中学を不登校になったことを伝えたときも、
『なにもお力になれませんが』と、笑っていた。
普通は、『なにかお力になれませんか?』と、
すこしは心配そうな顔をつくって、
例え社交辞令でもそう言うのではないだろうか。

地域ぐるみのいじめはある。

鈍い私が、今の今まで気付かなかっただけだ。

























そうそう、ついうっかりと言えば、
先日、うっかり電車に飛び込みそうになった。
高架橋の上にいたから正確にいえば、
飛び込みではなくて飛び降りなのだろうが、
よく晴れた爽やかな平日の朝っぱらから、
こんな物騒な思いつきをしてしまうのだから、
まぁ、私は今ちょっと病んでいるのだろう。

ただ、こんなことを書いてしまうから、
(酔ってぐだぐだ文句言ったこともあるけど)
メンヘラだの統合失調症だの薬中だのと
周囲は気を揉み大袈裟に騒ぎ立てて、
自分たちに危害を加えられるのが怖いから、
医者に行って薬を飲めと言うのだ。
病院に行って何が変わるというのだろう。
ただただ、心も体も疲れ果てるだけだというのに。

私は、飛び降りたりしないために、
そう、理性を保つためにこうやって、
今ここにこうして、長年積もり積もった
心の泥をぶちまけている。

中学生も小学生の子もふたりとも、
先週は学校には行っていない。
でもそれぞれ、
習い事やサポート校には行っている。
週に一度だけなのだけれど、
唯一、外の世界に自分から積極的に
繋がっているのはそれだけだ。
今のところはこれで良しとするべきなのだろう。
急いでも仕方ない。
有り難いことに、それぞれ担任の先生が
頻繁に家庭訪問してくださったり、
本人達の興味に合わせて
あれこれサポートしてくださるので、
その点はとても心強い。

発達障害の検査を受けてみては、と、
最近は周囲に頻繁に勧められるのだが、
丁重にお断りしている。

だって私は知っているから。

この子たちは時間をかけて、
おかしくなっただけだ。
学校という檻の中で。
幼少期から何年もかけて
真綿で首を絞められるようにじわじわと。
苛めという、罪にならない罪によって、
それは巧妙に心と体を蝕んでいった。
それだけだ。
表面化したときは手遅れだった。
ただそれだけだ。

曖昧だった記憶の点を繋いでわかったこと。
溢れて止まらない、
無邪気という名の、邪気にまみれたクライム。













真ん中の子は中学生。
私立中学入学後、すぐに学校に行けなくなり今に至る。
最初はこちらが動揺し、というか、まさしく動転し、
あれこれ必死で、泣いたり走ったり移動したりと、
それなりに手を尽くしたつもりだったのだが、
実際は空回りしていただけだった気がする。
その間に末っ子小学生も学校に行かなくなってしまい、
疲労感はどっと増した。なんだか疲れた。
あれからもう1年経つんだなぁ。
色々手は尽くした、でももうこれ以上打つ手がない。
今は、ちょっと休憩してやりすごそう。という感じだ。
やっと周囲の景色が見えてきた。
木陰に腰を下ろして休みたい。そんな気分。

真ん中の子は、生まれた時から手のかからない子だった。
親の手も、他人の手もあまり煩わせることなく、
いつも周囲を気遣って、人一倍空気の読める良い子だった。
だから、なんでも本人任せにしていて大丈夫だと思っていたし、
すっかり安心しきっていたから、
この子の抱えていた最大の危機を見落としてしまっていた。
とっくに気付けていたはずの異変や違和感を、
私は他の些末的危機に埋もれさせたまま、うっかり見落とした。
事がこうなってしまうと、ついうっかりではすまないが、
うっかりの連続ががっかりな致命傷になったのだ。

そういえば、
幼稚園の頃、コレクションしていたカードゲームのカードを、
一緒によく公園で遊んでいたお友達みんなに配っていたことを知って、
これまたうっかり叱ってしまった。
ただ一方的にあげるだけではだめよ。
交換しないと、自分が損をしてしまうよと、
正しい付き合い方を教えてあげたつもりだったのだが、
このときから既に私は間違えていたのかもしれない。

この子はきっと知っていたのだ。
自らが損をすることを敢えて周囲に示すことで、
この子のアイデンティティとイニシアティブが保たれることを。

私が躾のつもりで余計なことを教えたおかげで、
この子は一か月ほど幼稚園に行けなくなってしまうのだが、
親の私に気をつかって腹痛や頭痛を理由に園を休む我が子を、
この時のこの子の心細く辛い気持ちを、
私は知る由もなかった。
なんてことだろう・・・・・・・・・・・・・・

注意深く思い返してみれば、
こんなエピソードはこの後わんさと記憶の淵から噴き出してくるのだが、
ここまで書いて動悸と吐き気に襲われてきたので、
今日はこの辺でやめておこう。









今日は小学生末っ子の臨床心理士の先生とのカウンセリングがあった。
穏やかな笑顔と優しい口調でリードしてくれる、素敵な女性だ。
この女性と話しているといつの間にか自身の心の奥底の世界に引き込まれてしまい、
前回もそうだけど、ついうっかり本音を話してしまうのでとても困る。
楯のない、無防備な心を他人に晒すのは危険だからだ。
けど、代わりに心は少し軽くなる。
ここだけは話すものかとガチガチに武装して、かなり警戒して臨んだはずなのに、
ぽろぽろと言わなくてもいい本音が。あら、でも心はスッキリ。
さらけ出すのは恥ずかしいから行きたくない、けど行きたい。なんだか不思議なスペースだ。

子どもの登校拒否を治すにはまず母親から、というのは
ネットの記事やその手の本でよく読むけど、実際そうなのだろう。
うちの家庭は問題が多すぎる。というか、多すぎた、というか・・・

ここ数年、なぜか周囲から鬱陶しいお節介を受け続け(一時は押し売りと呼んでいた)、
それがうるさくて、煩わしくて仕方なかったのだけど、最近はその人たちに感謝している。
自分の中の、合わなかったパズルのピースがカチリ、と音を立てて符号したからだ。

あのお節介な人たちがいなければ、私は何も知らないまま無為に時を浪費し、
周囲に恨みつらみを撒き散らしながら勝手に朽ち果てていただろう。
そう、何も知らないから鬱々と無駄な寄り道をして周囲に悪態をつき、
子どもたちを、もっと深い不幸の深淵に落としていたかもしれない。
やっと光は射したのだ。けれど、
今まで限りなく頼りない味方だと思っていた近しいひとは敵に変わり、
長らく想い出の深淵で燻ぶり続けていた限りなく冷徹なひとが、
実は人間的で思いやりのある人だったのだと知った。

キーワードはまるでブーメランのように何十年前の世界ににワープして、
すべての曖昧だった継ぎはぎだらけのシーンを丁寧に拾い上げ、
これまで気づかなかった、ありとあらゆるセリフを瞬時に完成させながら、
現在に戻って私に自信と希望をくれたのだ。

私は間違っていなかった。
(問題行動のあれこれは別として)
子どもに対しての間違いはこれから正していけばいい。
私のアンバランスさも、やっと落ち着くかもしれない。

真ん中の子の復活は時間がかかるかもしれないけど、
気長に治るまで頑張ろう。と、前向きになれる気がしてきた。
今回は誰が見ても、何を言ってるのかよくわからないだろうけど、
まあ、今夜はこんなふうに勝手にあるがままの心境を叫びたい気分なので、
抽象画の文字版と思って、思いのままに文字を滑らせてしまおう。

ありのままに。
















前回のブログのいいね!のチェックをしていたら、うああああああ!
自分で自分にポチっとしてしまった・・・馬鹿なの?

さて、問題の不登校児のうち、末っ子の小学生は元気に学校に通いだした。
それもなんと今日は、放課後に同級生のお友達の家に遊びに行っている、
という実に驚くべき展開だ。
4月に引っ越したばかりで、なかなか新しい環境に馴染めずにいる我が子を見かねて、
そのお友達のお母さんが配慮してくださったからだ。
息子は社交道具のDSを大事そうにリュックに入れ、
嬉しそうに待ち合わせ場所に飛び出して行った。
これをきっかけに仲良しのお友達が出来てくれればいいなぁ、と淡い期待を抱きながら、
帰ってきたときまた、泣きべそ顔だったらどうしよう、と嫌な想像もしてしまう。
これってきっと、期待しては落胆し・・・の繰り返しが続いたので、
大きく落ち込まないための自己防衛手段なんだなあ。

登校させるために引っ越してまで環境を変えるのもどうかと思ったけど、
あのまま以前の家にいても、何も変わらない気がして、
二人の不登校児を抱えて私はオロオロして毎日泣いて荒れてばかりだし、
そのやり場のない悲しみと怒りを激しく夫にぶつけて家庭は崩壊寸前だし、
いや、もともととっくに崩壊していたんだけどね。実のところ。
一度壊して、別の形で再生させるきっかけにはなるかもしれないと思ったから、
というのが本音だったのかもしれない。
(だからといって離婚したわけではないけど、平日の間、私と子供たち3人は夫とは別居し、
週末だけ自宅に帰るという形で、しばらくはこのままのスタイルを貫こうと思っている)

今の町はとても良いところだ。
環境も良いのだけれど、何より私たちに接する人々がいい。
ここに来てから出会ったひと、そのどの人に対しても何かとても真摯な印象を受ける。
きちんと話を聞いてくれて、間違ったことは正そうとして、はっきりと方向指示をしてくれる。
だから何とかここで、ふたりともきちんと毎日学校に通う、元の姿を取り戻してほしいと、
切に、じゃなかった、半分だけ願おう。