IBDと旅 in 日本 その3
こんにちはその2からの続き【7日目】この日は何と救急車に乗って緊急病院へ🚑浅草のエアビーをチェックアウトをし、実家へ行く日。この日の朝、とうとう娘は歩くこともままならない位衰弱してました。母が実家近くの内科医に電話で聞いてみると、そこまで衰弱したら救急車を呼ぶか、緊急医療センターとかに直に行くしかないと言われ。病院もよく分からないからと救急車を呼ぶことに。エアビーの近くは消防署があったから、呼んで直ぐ来てくれました!!エアビーの建物に横付けして、中に入った後、服用している薬💊や、パスポートを見せたり色々説明をして内容を把握してくれた状態で、行き先の病院を探してくれました。浅草から行ける範囲の病院で、1から内容を説明すると診れないと断られまた、違う病院へ1から説明という作業がこの時も10件程続きました。。日曜日、海外から来ている、国保がない、クローン病というのが病院側が受け入れない内容だったようで。浅草寺病院、順天堂、東大、女子医科大、聖母病院などかけてくれましたが、ことごとく断られ、数日前自分が電話して断れたのを思い出しこんなに受け入れてもらえないんだと悔しい気持ちが蘇ってきてその間も救急士さんは落ち着いて1から説明を病院にしてくれて、忍耐がないと出来ない仕事だと、3人の若い救急士さん本当に尊敬✨病院が中々決まらず、救急車の中に入って約50分位すぎで、ようやく聖路加国際病院が受け入れてくれる事になり、救急車が動きだした🚑日本で救急車🚑に乗るのはこれで2回目。移動中も1人の救急士が私がリラックスできるように話をしてくれ、凄く助かった。本当にありがとう聖路加国際病院について、担架で病室まで運んでもらい、その後は研修医っぽい人と看護師さん2人。ここは英語も多少出来るお医者さんや看護師さんもいたけど、やっぱりnativeではないから、娘は下手な英語より日本語で話して欲しかったみたい数日前に病院から送ってもらった履歴を見せた。今回聖路加での血液検査で、クローン病の数値は出ていない、その治療をする必要は今はないと言われ、今出来る事は脱水症状が出てるから、それを補う点滴をするとの事。医者の質問や、看護師のアメリカ英語訛りの日本語で質問を聞かれどうやって答えればいいか分からず、そのうち体全体が震えだし始めた。こんなに震えているのを見たのは、数年前、喘息の吸引器(ステロイド)をわざと吸いすぎてショックで震えだした時以来。あの時も大変だったけどね何で震えたのかその時は分からなかったけど、色々悔しい感情、戸惑い、不安など、かなりのストレスでそうなったんだなぁと後から思った。私はびっくりして、水分補給のこの点滴だけでいいのかと思ったけど、その処置だけで退院。保険がなく、日曜日だという事で、数時間だけだったけど、78,000円オーストラリアに戻ってから保険会社に申請し、無事戻ってきました😊ただこの手続き、保険会社の申請は凄くシンプルで簡単だったけど、日本の病院のシステムが古すぎて、国内郵送を何度したことか。その度に時間とお金にかなり左右され、そこが大変でした😮💨担当に電話も繋げれない、メールは送れない。病院に直接手渡しか郵送しか対応してくれず。結局郵送をしたら、今度はこれが足りないからまた郵送で送って、書類作成するのに郵便振込など、手間がかかりオーストラリアに戻っていたらどうなっていた事か。。実家へ次の日移動するのは大変だからと思い、数日の間、東京に住んでいる弟家族の家にお世話になろうと思ったけど、義妹が元々体が弱く、私たちが行ったら大変だからと父が反対し、結局その計画は無しにエアビーのチェックアウト日だったけど、事情を話しもう1泊延泊する事にしたから退院後、タクシーでエアビーへ。父と母は一緒に残ってくれ、妹と甥っ子は自宅へ帰宅。実家へ行くのに4人分の新幹線チケットを先に買っていたから払い戻しをしに駅へタクシーに乗っていった父。心配しすぎて、タクシーの中に携帯電話を忘れ、エアビーに戻った時に携帯が無い事に気づき母の助言の元、近くの警察署へ。警察署の電話から自分の携帯に電話をしたら、タクシー運転手が出てくれ無事に手元へ。不幸中の幸いとはこの事かな?!このまま実家に行って1カ月半日本で過ごすか、数日東京にいて、オーストラリアへ戻るのかの選択肢を娘に与えた所、ここまで来てオーストラリアへ帰るのは嫌だという事で、頑張って実家へ行く事に。クローン病の症状が出ていなくて、本当に何より。この後、1カ月半は無理な行動はせず、実家周辺で家族とゆっくりと年末年始を過ごせ、無事オーストラリアへ戻る事が出来ホッとしました