五階から胃薬 -3ページ目

飴男[キャンディマン]

私は映画を好んで見る。


今まで見てきた映画について二三お話ししようと思う。



表題にもある「キャンディマン」、私はこの映画が大好きだ。


都市伝説をテーマにしたこの映画は、かなり作り込まれているように思うのだが、どうも大袈裟に捉えているだけかもしれない。

というのは、キャンディマンを見たという友人ほとんどが「何も感じなかった」と言うのである。

おかしい。

単なる都市伝説と夢遊病者の話ではない。


人々の都市伝説への恐怖なくしてキャンディマンは存在できない。


なるほど、深い。


キャンディマンは特定の「怪物」である必要はない。

怖い姿の大男とされているが、別にそうでなくてもいいのだ。

そこにキャンディマンとして存在している者がキャンディマンなのである。


なるほど、深い。


私は妙に感心してこの映画を見た。




「パイレーツオブカリビアン」


映画館に行ったが、10分足らずで寝てしまった。

妻はその10分後くらいに寝てしまったらしい。


エンドロールで目を覚ました私は、その瞬間、気まずさのただ中にあった。

デートである。

妻は私がデート中に寝てしまったのを見て、苛立っているに違いない。

嗚呼、どうすればよいか、厭どうしようもないことだ。


恐る恐る隣を見ると、妻はカリブではなく、もっと遠くの夢の国へ行っていた。


私は胸をなで下ろした。


従って、パイレーツオブカリビアンに関しては、ジョニーデップが出ているらしいという情報以外わからない。



それから妻と映画館には行っておらぬ。




「キャストアウェイ」


私は、基本的にトムハンクスとニコラスケイジの作品には、反射的に飛びついてしまう。


トムハンクスもニコラスケイジも、とにかく面白いからだ。

存在自体が。


わかっていただけないかも知れないが、トムといい、ニコラスといい、出てきた瞬間面白いのである。


トムが

「ウィルソーン!」

と叫んだ瞬間、飲んでいたコーヒーを鼻から出してしまった。


申し訳ないが、ストーリーは思い出せない。

とにかく「ウィルソン」に集約される。




「ターミナル」


とにかくトムハンクスである。


感動作品なんですか。


勝手にいろいろやってはまずくないですか?




「ナショナルトレジャー」


何はなくともニコラスである。


ロマンスとか生まれないから。




「ダンサーインザダーク」


悲しすぎる。

そして、あり得なすぎる。

簡単な選択肢を悉く間違っている気がするのだが。


泣いたけれども。



「リトルニッキー」


洋楽を全く知らない友人と見ていた。


彼はラストの意味がわからず、私もどう説明していいやらわからず、可哀想なことをしたと思った。


テル君、ごめんなさい。




「マンオンザムーン」


悲しすぎる。

誰しもにバラ色の人生が送れると思ったら大間違いである、ということを教えてくれる。




「フォーンブース」


あれを作ったやつに説教してやりたい。


もっと普通に終わってくれ。


誰がああいう結末を望んでいるというのだ。




「マグノリア」


トムクルーズ?

知らんな。


最後の最後のシーン。


笑顔。


あれを作った人に心から尊敬の意を表する。


長ったらしく退屈だと思っていたのが全て吹っ飛んだ。


ありがとう。




「マトリックス」


結局わからない。




「マトリックスリローデッド」


結局前作がわからなかったからわからない。




「マトリックスレボリューションズ」


もうなんだかわからない。







もう映画の話はやめようと思います。


それでは。

失礼[シツレイ]


先日夜のスーパーマーケットへ行った。


よく行くそのスーパーマーケットにはパン屋さんが入っている。
夜になると売れ残ったパンを売り切るべく、一袋に五個六個をアソートで入れて安く売っているのだ。
私は時折、翌日の朝食としてそれを買うのだ。


パン屋が開いているうちは、パン屋のレジで会計をする。
だがパン屋が閉まると、そのアソートパンをスーパーマーケットのレジに持って行くのだ。


さて、私は先日の夜、そのスーパーマーケットに行ったのだが、目的は別にあった。
妻の母上が買い物したいというので、私は妻とその母上を車でそのスーパーまで連れて行ったわけである。

当然、私の足はパン屋に向いた。
その日も安くなっていた。

私はそこから一袋取り出しカゴに入れる。


妻も働いているので、夕食を作るのが面倒になるときもある。
そんな時の為に、冷凍食品のコーナーに行ってみた。
たまたまその日は冷凍食品半額デーであった。
当然二三カゴに入れる。


我々夫婦はチーズが好きである。
妻が私を呼んだので行ってみると、美味しそうなチーズが売っていた。
「これも買おうよ」
そう言って妻はチーズをカゴに入れる。


カゴには


売れ残って安くなったパンの詰め合わせ一袋
半額の冷凍食品数点
チーズ 一点


以上が入っていた。


さて、現代社会ではそのまま帰宅するわけにはいかないので、金を払うべくレジに立ち寄った。


若い男が元気よく、バーコードを機械に通す。





・・・・・・


若い男が私に言うのである。


「こちらのチーズは419円の商品ですがよろしいでしょうか?」


随分失礼ではない乎!


別に安いモノしか買わないわけではない。


419円のチーズを躊躇するなら買い物に行かぬわ。

霊関係[レイカンケイ]

同僚に、霊感が強いと言い張る人間がある。


何かが見えるのだそうだ。

彼と行動を共にすると、時折「なんかいやな感じがします」と耳打ちされる。
何も感じない私には、その行為に最も「いやな感じ」がするのだが。


「何か見えるんですか?」
「いや、見える訳じゃないんですけど、感じるんです。何かがいるって」


それ、風車じゃないのかしら?

私には何も見えないんですけれども。
というよりも、何もいないんですけれども。

多分風車とか、椅子とか、そういったものに「気配」を感じているのだろう。


なるほど、八百万の神という奴か。
万物には魂が宿っている、それを彼は感じているのだ。



私は霊というものを信じてはいない。


霊魂は肉体という物質に宿り、肉体が果てれば霊魂は離れ、浮遊するのだそうだ。


科学で証明できないことは信じない、というスタンスではない。

ただ、科学で説明の出来ることを覆すことは難しい。
そんな頭の固い私だ。


霊魂は、肉体から離れても考える力を持っている。
浮遊して悪さをしたり、見守ったり、うろついたりする。
霊魂は飽くまで肉体に重なっているだけだという。


では肉体の生体反応というやつはいったい何なのだ。
まあ当然霊魂だけでは物質世界に影響を及ぼすことは困難であろうから、肉体という物質の動きで外界と繋がることが出来るのだろう。

では脳とはいったい何なのだ。

霊魂それ自体が既に思考できる状態にある。

脳は肉体という物質を動かすのに、指令を出す。
ならば、霊魂自体に思考する機能があったとしても、物質世界に影響を及ぼすのに、脳は必要であろう。

だが、脳は思考することも出来る。
思考なら、物質世界に直接的な影響を及ぼす必要はない、飽くまで内面の問題である。

実際心は脳にある、と言っても良い。

その脳が機能停止したならば、思考する事もできまい。

だが、霊魂は果てた肉体より離れた後も、思考できる。


いったい脳の「思考」という機能はなんなのか。
重複しているではないか。


まあだからといって否定する材料にはならないのですがね。



どうも墓参りというものは億劫である。


供養とか言われてもピンと来ない私にとって、お墓参りに行きなさいと言われても面倒くさいだけである。


行けばお供え物を買わねばならぬ。
花やら酒やら。

石に花とか酒を?


私にとって墓参りとは、亡くなったその人を思い出すことである。
どこにいても思い出すことは出来る、ただ実際にその場に行けば、そこにはその人の遺骨が眠っているわけで、なんだか感慨深い。
生前の記憶なんかを辿るのである。

そこに、花やら酒やらはいらない。
線香?意味がわからない。


お墓の側でお花を並べておけば、誰もが買うだろうと思ったら大間違いである。


こんなのはどうだろう。


お寺にはスペースがいくつかある。
そこは親族の遺骨を納めなくては得られないスペースだ。
親族が亡くなって、その遺骨と引き替えに、そのスペースを自由に使って良いのである。
水道光熱費は寺持ちだ。
私はそこに大きな水槽を構え、好きな魚を泳がせよう。
そうすれば億劫がることなく、墓参りをする。
花を供えに行くのではない、餌をあげに行くのだ。
そして、その下には亡くなった人の遺骨が眠っているから、生前の記憶に触れ、思い出すだろう。

こんなお墓のスタイルでいかがでしょうか。



その昔、かの福沢諭吉はお地蔵様におしっこをかけたのだそうだ。

そういったものに悪いことをすると罰が当たりますよ、と言われ、試してみたのだそうだ。


結果、待てど暮らせど悪いことは起きなかったそうだ。


霊とかそういった類のものを彼は信じなかったようだ。


先生、賛同します。


ワタクシ、今でも色々な生き物を簡単に殺してしまいます。

蚊を躊躇いなく殺します。
蟻を躊躇いなく踏みつぶします。
ゴキブリを躊躇いなく叩きます。
クモを躊躇いなくつぶします。
蛙を躊躇いなく解剖して参りました。

牛を食べます。
豚も食べます。
鳥も食べます。
鹿も、スッポンも、魚も。


私は地獄に堕ちますか。

動物たちの霊が、私の背後にありますか。


生きる為だから仕方ないと、誰もが言います。

人間、都合の良い生き物ですね。


さて、これからクモだけは殺さないようにしておかなくちゃね。

人々[ヒトビト]

街を歩いていると、たまに声をかけられる。
私は見た目ぱっとしない方なので、特にらしい。



「三分間、あなたの幸せを祈らせてください」


大きなお世話である。

確かに私は現在、幸せのただ中にいるのかと言われれば、即答は出来ない。
だが他人にとやかく言われる問題ではない。
だからそっとしておいて欲しい。

なのに彼らはお構いなしに、祈らせてくれと言うのだ。


ある日、私は渋谷の街でそんな「祈らせて」男に出くわした。

これも経験である、私は彼にOKを出してみた。
どうぞ、祈ってくださいましと。

「目を閉じてください」と言う。
私は従った。
「心を空っぽにしてください」と言う。
出来ない、だがとりあえず「はい」とか言ってみる。
「それでは始めます」と言う。

私は恐る恐るではなく、堂々と目を開けた。
すると彼は、目を閉じて、私の額あたりに掌をかざしてブツブツ言っている。


渋谷の街。

雑音のごった返すこの街で、今私がそっと去ったとしても彼は気づかぬだろう。

私はそろりそろりとその場を去った。
彼は夢中になってブツブツ言っている。
私は遠くの物陰から、彼を見つめた。

彼は今、祈る対象を一個人から渋谷の街、いや、世界全体に換えたのだ。
一心不乱に、世界平和を祈っているのだ。
私のような、この世の中からすればちっぽけな人間の幸せを祈るよりも、そちらの方がよっぽど為になるというものだ。

私はとっても良いことをした。


大体彼の脳時計で三分を数えたのだろう、彼は目を開けた。
目の前には、誰もいなかった。
彼は慌てて周囲を見回すも、周囲は誰も彼に目もくれず、足も止めない。
彼はすぐにきょろきょろするのを辞めて、何もなかったかのように歩き出した。
その顔には、あからさまな怒りが浮かび上がっていた。


修行が足りないな。



「すみません、手相の勉強をしているんですけれども。ちょっと手相を見せていただきたいのですが」


勉強してるなら勉強してろ。


いや、彼らの真の目的は何だろうか。
目的があるはずだ。
そうでなくては、町中にあれほどいるはずがない。
何かの組織であろうか。


とりあえず、勉強していてください。
私はそれにおつきあいすることは出来ません。



「生きる事の何たるかを考えています」


ビラを私に見せながらそう言う男。
紙には芥川龍之介と太宰治がプリントされている。
ギャグか。

私は思わず彼に問うた。

「死を考える会の方ですか?」
「いえ、生きることを考えていますが」
「芥川と太宰でですか」
「ええ、生きることのすばらしさを」
「死を通してですか」
「いいえ、死は置いておいてください」
「芥川と太宰は反面教師ですか」
「いえ、反面ではありません。彼らの人生から学ぶことで、生きることのすばらしさを・・・・・・」
「さようなら」


君はどうしちゃったのだね。

さようなら、である。



「近くで絵の展覧会をやってるんです。絵には興味ありますか」


放っておいて欲しい。

私はゴッホ展があれば行く。自分で調べていく。
ラッセンとか興味ない。


「たまには絵画の鑑賞なんかもいいものですよ」

大きなお世話である。


彼らもまた、本当の目的は何なのだろうか。
やはり売りつけるのだろうか。
そして買う人はいるのだろうか。


ラッセンで思い出した。


「うちに凄い絵があるんですよ」
と言ってきた知人。
どんな絵ですか、と問うと、彼は記憶を辿るような仕草をした後
「ああ、確かラッセンとかいう画家の」
その時点で笑いそうになったが、堪えた。
「本物だって言ってましたよ」
誰が言っているのだ。
私はつい吹き出してしまったが、彼は不思議そうにしていた。



「私には未来が見えるのです」


藪から棒に、浮浪者風の男が声をかけてきた。

見えるなら見えるで良いじゃないか。

別に私を選んで自分の能力をアピールしなくてもよろしい。


「このままでは地球が危ないです」

ディスカバリーチャンネルとか見てろ。



「募金をお願いします」


目を輝かせた浮浪者風の男が声をかけてきた。

明らかに手作りの箱に、「ぼきんおねがいします」とひらがなで書いてある。

あまりの面白さに、無視することが出来なかった。


「何募金ですか」
「お願いします!」


・・・・・・
あまりに哀れだったので、財布の中にあるレシートを入れてあげた。


「ふざけるな!」
彼は叫んで駆けて行ってしまった。


修行が足りぬぞ。




「そこのあなた。気をつけて」


易者が声をかけてきた。


こういう場合、易者がものすごい能力者で、どうしてもその人の身に降りかかるであろう災厄を警告したく、呼び止めるといった場面を思い浮かべる。
私が主人公である。


「僕ですか?」
「そうです、ちょっと」
と彼は手招きをする。
「何か?」
「はい、気をつけてください。あなたの後ろに悪い霊がついて回っています」
「そうなんですか」
「はい、非常に危険です」
「何かアドバイス、ありますか」
「ええ、まあとにかく座ってください」
「あの、お金とかかかりますか」
「ええ、四千円です」
「結構です」


金取るのか。

見てもらいたければこっちから出向きますから。

疑問[ギモン]

生きていると様々な疑問に出くわす。


この情報化社会、疑問を抱き、家に辿り着くまでに、何について疑問を抱いたのかを忘れなければ、大抵の場合その疑問を解消することが出来る。
インターネットというのは本当に素晴らしい。

しかし私は、大抵何について疑問を抱いたのかを忘れてしまうので、再び同じ疑問を抱き、嗚呼調べておけば良かったと思うことが多い。

そしてまた忘れてしまうのである。



携帯電話というものの進化のスピードはとてつもない。

私が初めてそれを手にしたのは大学に入った頃で、そのちょっと前まではポケベルが普及していた。
「じぇいりーぐぽけべる」とか、なんだかわからないものがあったのを記憶している。

さておき、初めて私が手にした携帯電話は、当然カラー液晶にあらず、また液晶画面もとても小さく、かろうじて番号表示と、登録した名前が表示されるくらいだった。


気づけば液晶はカラーになって、カメラもつき、軽くなっていった。
十年足らずで相当な進歩を遂げたものである。


ところで、そのカメラである。

インスタントカメラは安価であって、何かイベントがあれば、それに向けて購入したものだ。

デジタルカメラが登場した、インスタントカメラに比べて劇的に高価であるが、撮った画像をその場で見られるという利点があって、なんとなく購入した。


携帯電話にカメラがついた。
携帯電話が手頃な価格で普及するや否や、社会はあたかも携帯電話を必要不可欠なものであるかのように扱った。

大学に於いて、携帯電話を持たぬ私に周囲は「どうして携帯を持っていないんだ」と差別的な目で見られたものだ。
とはいえ私はさほど持たぬ事に信条を持っていたわけでもないので、白い目で見られるのも面倒だったのですぐに購入した。

普及しだした頃に、これである、携帯に標準でカメラがつき始めた頃には、携帯電話は完全に必須アイテム化していた。
誰もが一台は携帯電話を持っているのである。

インスタントカメラも、デジタルカメラも必要なくなった。
携帯電話で、全て事足りるようになった。
なんということだ。


で、本題である。


「芸能人が歩いてたから撮ったよ、写メ送るね」
そんなメールが届いた。
なるほど、インスタントカメラやデジタルカメラでプライベートの芸能人を撮れば明らかに「隠し撮り」の類だが、携帯を構えて撮ればあまり罪の意識も芽生えないだろう。

便利な世の中である。


「可愛い猫がいたから写メするね」
そんなメールが届いた。
なるほど、常日頃からカメラを持っていなくても、携帯電話を持っていればこんな些細なシーンでさえ、切り取ることが出来るのだ。

便利な世の中である。


友人と散歩をしていた。
面白い看板を見つけた。
友人が
「写メ写メ」
と言って携帯を構えた。

なるほど、便利な世の中だ。

・・・・・・いや、ちょっと待てよと。

私は疑問に思った。

「写メ」とは一体何のことだろうか?
元々「写メール」という言葉ではなかっただろうか?
友人が面白い看板を撮影したとき、彼は「写メ写メ」と言っていた。
誰かにその画像を添付して送るのだろうか?
それならばいいのだが、撮る行為それ自体には「カメラカメラ」だとか「写真写真」と言うのが正しくはなかろうか?

そう考えて日常生活を送っていると、「写メ」という言葉が如何にメールと関係なく使われているかがよくわかる。

「写メ撮っておいてよ」
などと言われると私は頭を抱えてしまう。
写メを撮る?
写真を撮ってメールしてよ、ということであろうから、「撮って写メして」が正しいだろう。


しかし、こんな事を考えていると、屁理屈だと言われてしまう。
果たして私の考えていることは間違っているのだろうか、屁理屈なのだろうか?

それも疑問だ。



郷に入っては郷に従え、という言葉がある。
または、郷に入りては郷に従え、と言う。

はずである。


しかし世の中、あまりにも「ごうにはいってはごうにしたがえ、っていうでしょう」などと言う人間がある。


私はとにかく、自分に自信がない。

こうだ、と思ったことでも、すぐに外力に影響されて揺らいでしまうのだ。


従って、私の知識は実はとても貧弱なのではないだろうかと考えてしまう節がある。

この「ごうにいっては」というのも、どこかで私が間違えていて、実は「ごうにはいっては」と読むのではないかと思ってしまう。

そう言う人たちは、見るからに自信家であるから、あまりにも堂々としたその口ぶりに、私は訂正することが出来ない。
そういった事が続くと、私の考えは悉く揺らいでしまって、私が間違っているように思えるのだ。

いや、本当に間違っているのかも知れない。



「志半ばで・・・・・・」
「こころざしなかばで」と読む。読むに違いない。


ある友人があった。
私はずっと、彼を尊敬していた。
彼はとても言葉をよく知っていて、歩く辞書のような人間であった。
彼から様々な書物を借り、彼から面白い話を聞き、とにかく私は、彼に様々なことを教わった。
そんな彼が、ある時言ったのである。
「あいつもこころざしはんばでってかんじだよね」



「こころざしはんば」

私は耳を疑った。

何だろう、「はんば」って。

あまりの衝撃に、珍しく家に帰り着くまで疑問を抱いたことを忘れなかった私は、すぐに辞書を引っ張り出して調べてみた。


「飯場:鉱山・土木・建築工事などの現場近くに設けられた、労働者の宿泊所」


「あいつも志飯場でって感じだよね」
とすると、「あいつ」の志が、労働者の宿泊所でって感じだよね」となる。


「あいつ」は、大志を抱いていた。
「あいつ」は伊豆とか軽井沢で、ペンションをやりたかったのだ。
ペンションで、自慢の料理の腕をふるいたかったのだ。
お洒落な内装で、お洒落なお客様を迎えたかったのだ。
だから「あいつ」は苦労した。
八方手を尽くした。
だが、ついに「あいつ」は諦めてしまった。
そして行き着いた先が「飯場」だったのだ・・・・・・。


これが、「志飯場で挫折した」という事の意味である。


疑問は解消されました。

私の尊敬している友人は、別に間違ったことを言っていなかったのだ。
大丈夫だよ、まだ尊敬しているよ。



性欲、というものは果たして、人間の三大欲求に数えられても良いものだろうか?
疑問である。


私という人間を基準に考えてみる。


食欲、これは絶対に生きることと切り離せないから、重大な欲求の一つであることは間違いないだろう。
睡眠欲、我慢は出来るが、続かない。絶対にどこかで眠ってしまう。クリーンな生活をしている私は、睡眠から逃れることなど絶対に出来ない。


そして性欲。

我慢できる、そして我慢以前に、相手がなければ仕方ない、どうすることも出来ない。
自慰行為だって我慢が出来る、疲れていれば二の次三の次、そして結局何もしないでいられる。

性欲が食欲と睡眠欲に並ぶとするならば、世の中はもっと楽しいものになっているに違いない。
男性も女性も平等に、三大欲求の一つである性欲を解消しようと、もっと必死になるはずだ。
もしくは、そこかしこで痛々しい事件が起きているに違いない。


だが、そんなことはない。

皆、性欲を理性で抑えることが出来るのだ。
そんなの重大な欲求ではないのではないか。



とっても真面目な女性があった。

私よりも二つ年上の、聡明な感じの女性である。
とても魅力的で、頭が良く、落ち着いていた。
美人であるとはいえなかったが、かわいらしく、快活な正確で男性にはもてていた。

彼女と私は、同じ寮に住んでいて、毎日のように顔を合わせていた。
そう、毎日のように。

彼女は外泊をすることなく、夜出歩くこともなかった。


彼女が大学に進学し、私はあと二年、彼女のいない生活をするのだと思っておったが、彼女はその寮にスタッフとして働く為に、残った。
私はとても嬉しかった。

そのうち私には恋心が芽生えた。
だが私には彼女がどうしても遠い存在に思えて、思いを伝えることなど出来なかった。

彼女はその思いを知ってか知らずか、他のどの男よりも私と話す時間を多く取ってくれた。

休日には、彼女は私を花見や散歩に誘い出し、色々な話をしたものである。


結局私は思いを伝えられぬまま、寮を去った。

一ヶ月後、私は、ある時彼女をデートに誘おうと決意した。
彼女は快諾してくれた。

しかし、遅かったのだ。

その一ヶ月の間に、彼女には彼氏が出来たのだ。
それをその場で聞かされて、愕然とした。

その日に何とか思いを伝えようと思っていたのに。


まあそれも世の常。
思い通りになど行くことはまずない。
何より、私が彼女に思いを伝えてうまくいくという確証もなかったわけである。

とりあえず、その場は一ヶ月ぶりの彼女との会話を楽しむべきだ。


彼女は突然泣き出した。

どうしたんですか、私は彼女に問う。


彼女は、付き合って一ヶ月の彼氏がいるにもかかわらず、他の男から告白を受けたのだそうだ。
そして当然断ったのだそうだが、あまりにもしつこかったので、根負けして、セックスをしてしまったのだと、泣いている。


私は幼かったので、こんな女性でもそういった真似をするのだと驚いた。
まあそんなもんなんだろうと思うことにした。

そして、やはり男女とも、性欲というものはそれなりの欲求なのだろうかと思うに至った。

我慢できなくもないが、機会があれば、というものなのかもしれないと。


私の欲求は抑えられないものなのだろうか?

今目の前にいる彼女には、付き合って一ヶ月の男性がいる。

そして私は、その現実を受け止めて、諦めたばかりだ。

そう、性欲を抑えられたといっても良い。

性欲は抑えられるのだ。

現に目の前にいる魅力的な彼女を、諦めたではないか。

彼女をデートに誘って、待ち合わせ場所に行くまで、ずっと彼女と結ばれることを夢見て歩いていたのに。


いや、性欲が、我慢できなくもないが、機会があれば、というものであるならば、機会とは今なのではないか。

彼女には一度、その経験があるというのを今聞いた。
ならば私にも・・・・・・。


清水の舞台から飛び降りる思いで、私は彼女を諦めた気持ちをぶち壊し、再度彼女にアタックすることを決めた。



悉く撃沈した。


ほら、性欲なんて三大欲求に含めるのは間違っているよ。
性欲なんて、そんな大した欲求じゃないんだ。

常識[ジョウシキ]

常識について考えてみる。



カブレラストーンというものがある。


大小様々な石に、絵が刻まれている。
そこに描かれているのは太古の人類の生活風景だった。
そして、人間と並んで描かれているのは、恐竜である。
人間が恐竜を狩っている様子や、逆に恐竜に人間が襲われている様子などが描かれているのである。

常識として、人類と恐竜とは同じ時代を過ごしていない。

恐竜が地上を支配し、その絶滅後に訪れる哺乳類の世界、そして登場したのが人類である、これが常識。

しかしこの石に描かれているのはそんな常識を覆すものだった。
ものの本によると、この石に線が刻まれたのはそう昔ではないようだ。
といっても当然千年や二千年前の話ではない。万単位の昔だったような。
調べれば出てくるはずだが、面倒なので調べない。
とにかく大昔だが、恐竜の時代、つまり億単位の年月は経過していないらしく、要は最近の人が面白がって作ったものではないということが言いたいのだろう。


さて、幾多のカブレラストーンに描かれている恐竜の姿を見てみよう。

特に、ティラノサウルスに代表される二足歩行の恐竜の姿。
近年「ジュラシックパーク」やアメリカ版「ゴジラ」などの映画でお馴染みの、あの恐竜である。
私は今年三十歳であるが、私が幼い頃図鑑なんかで見たティラノサウルスは、ジュラシックパークに出てくるような姿ではなかったはずだ。
そう、ウルトラマンの海獣に見られるような、足の関節をしている。
つまり人間と同じ方向に膝が曲がっていて、ほぼ直立の姿勢であり、それを保つには自ずと尻尾で身体を支えなくてはならない。

私が幼い頃に持っていた恐竜図鑑にあるティラノサウルスの類は、ほぼ直立の姿勢で遠くを見ていた。


それがいつしか、鳥の足の関節に近いものになっていた。
本当に気づいたら、そうなっていた。

そしてその関節で二足歩行をしているならば、直立ではなく前傾姿勢になる。
尻尾は前後のバランスを取るように、地面にはつけず、常に中に浮いている状態になる。
なるほど鳥類の前身段階である。

考えてみれば、直立二足歩行でしかも身体が大きく、尻尾で支えているような恐竜に、上手な狩りが出来るようには見えない。
近年のティラノサウルス像の方が理にかなっているように思える。

そしてもはやその姿が常識となっている。


カブレラストーンに描かれているティラノサウルスの類は、私が幼い頃に見た恐竜図鑑に載っていた姿である。
尻尾を地面につけて、背を伸ばしている。


常識、というものに捕らわれれば、明らかにこの石は「ウソ」である。
なぜなら現在の常識的な恐竜の形をしていないのだから。
もし本当に恐竜と同じ時代に人類があって、その人達が石に絵を刻んでいたとするならば、恐竜の姿を見て描いているのである。
ほぼ直立二足歩行スタイルの恐竜を描いていると言うことは、現在の常識以前の、誤った恐竜像を参考にしていると言うことで、偽物決定である。
だが現代の人々は、誰一人として恐竜の姿を見たものはいないのだ。
常識では、というが、その常識が正しいとは限らないのだ。
従って、この石が「ウソ」かどうかもよくわからない。


まあ基本的にウソだと思いますがね。

こういった話は面白いので大好きです。



「そんなの常識でしょう」
そう言ってしまうことは多々あるし、そういう言葉を耳にすることが多い。
しかし常識というのは、どういうことか。
毎度毎度思うのである。

YAHOOで調べてみたら、こうだった。
「一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力」
なるほど、そう言うことか。
と言うとでも思ったか。

今度は「一般」とは何か、わからなくなってきたのでまた調べた。


なんだか「石を辞書で調べたら砂の大きいものとあり、砂を調べたら石の小さいのとあり」という感じになりそうだが。


「広く全体に共通して認められ、行き渡っていること。また、そのさま。全般」


広く全体に共通して認められる、というところの「広さ」とはなんぞや。
それこそ「そんなの常識でしょう」と発言した人間の主観である。
いや屁理屈ではないと思うのだよ。



ある成人女性とお話をしていた時のこと。

私が「いやむしろこっちの方が良いでしょう」と言ったときである。

「むしろ、って何?」

彼女は日本人であり、日本語が不得手である訳ではない。
外国育ちでもないし、外国語を話せるわけではない。

「むしろ」という言葉を知らないとは信じられなかった。
私は、なんて馬鹿な娘なのだろうかと思ったものだ。

こんな常識的な言葉を知らぬとは。


だが、果たしてこれは常識的な言葉なのだろうか?


相手を馬鹿だと思うのは簡単だが、では果たして自分は馬鹿ではないと言い切れるだろうか。

そう思うと「常識」というのはとても恐ろしい言葉になってくるのです。



ちょっと前に、お客さんに電話をかけたことがあります。
午後六時くらいですね。


「こんな時間に電話をかけてくるなんて、なんて非常識なんですか!」


って言われました。

ね、常識なんて主観的なものなんですよ。


常識って、とても恐ろしい。

魚[サカナ]

私の趣味は、熱帯魚の飼育であった。


過去形である。

結婚すると何かと出費がかさむので、ある程度の安定を築いてから、再開しようと現在はお休み中である。


一人でいる頃は、稼ぎのほとんど全てを魚に費やしていたと言っても過言ではなかった。


幼い頃、父が何となく熱帯魚を飼おうと言い出した。
水族館が大好きな私は、とにかく嬉しかった。
だが父の購入してくる大人しい熱帯魚の数々は、悉く私の好みから外れ、フラストレーションはたまる一方。
ある日、思い切って小遣いをはたいて自分の好きな魚を購入した。
父が帰ってきて、私を叱りつけた。
私の購入した魚が、水槽内にいたおとなしい小さな魚全てを食い尽くしていたのである。


ふとそんなことを思い出して、五年ほど前、水槽と器具を一気に揃えた。

魚を購入すべく、熱帯魚店に向かうと、色々な魚がいるではないか。
何を飼っても、もはや文句を言われない。
喜びのあまり、歯止めがきかなくなった。

水槽はどんどん増えていって、1年もしないうちに水槽は五つに。


ドンコ、ヨシノボリに始まり、ポリプテルスセネガルス、ポリプテルスパルマス、プロトプテルスドロイ、プロトプテルスエチオピクス、レピドシレンパラドクサ
アリゲーターガー、ライオンフィッシュ、南米淡水カレイ、ペーシュカショーロ、シンブランクス、スパイニーイール、リーフキャット、チャカバンカネンシス、カンジル
等々。


そして、特に好きになったのが南米ナイフ。
どうやら日本では大した種類が輸入されないようで、主にブラックゴーストとかカラポナイフ、グラスナイフ、ロストラートゥス、デンキウナギとか、その辺しか来ないようである。
時に、リーフナイフとかいう名前で、珍しい感じの奴も見つけることが出来るので、即購入したものである。
しかしアマゾンの魚のサイトなどを見ていると、南米ナイフには驚くほどの多様性があって、あの独特な形を残しつつも様々な姿の奴らがいるのである。
もっとどうにかしていただきたい。

私がナイフ好きだと言えば、少し熱帯魚好きな人などは、「ああ、ナイフね」といってナギナタナマズを思い浮かべるようであるが、違うのだ。
ロイヤルナイフとか、そんなものには興味はまったくない。
ナギナタナマズを探すのは意外と容易であるが、南米ナイフを探すのは難しい。それもブラックゴーストにはあまり興味がないのである。

どなたか、南米ナイフマニアのお店をご存じの方いらっしゃいましたらご一報ください。


南米ナイフは大人しい。
肉食魚で好きなのは、やはりペーシュカショーロとブルーカンジルである。
一時ペーシュカショーロにははまったものだ。
小さなカショーロは比較的安価で購入できる。レッドフィンなどには手を出せないが、普通の奴で十分なのだ。
あの面構えと、傾いた泳ぎがたまらない。
小さなカショーロを、徐々に大きくしていく喜びと言ったらない。


ブルーカンジルは、恐らく全熱帯魚の中で最も好きな面構えであろう。
水槽の隅でじっとしているカンジルの類はたまに見かけるが、頭のおかしいくらいに泳ぎ回るブルーカンジルにはほとんど出会えない。
なんとか一匹購入したが、まだ未熟だった私は一ヶ月で殺してしまった。
その後何度となく店やネットで探したが、結局見あたらず、アクアライフから遠ざかってしまった。


まあこんなものです。


どなたか魚好きな方、連絡ください。

子供[コドモ]

先日、仕事で小学校を訪れた。

ちょうどお昼休み。
廊下を雑巾がけするちいさな男女。
掃き掃除をする幼い男女。
そう、私は一年生の密集するところに足を踏み入れた。



私は元来、子供が嫌いだった。
どうも好かぬ。
うろちょろする性質も好かないし、意味不明な奇声も忌々しい。
特に、子供特有の「俺が俺が」な態度、それを見ていると妙に悲しくなるのだ。
奴らは何かあれば「僕なんかねー!」とか「俺のが凄いよ」とか。
君らね、言ってるほどみんな注目してくれないぞと。
奴らの下手な鉄砲は、私には絶対にヒットしないのだ。


などと思っていたのだが、最近妙に子供を見ていると笑顔になるのだ。
知人曰く「それは年だね」。
年齢的な問題なのだろうか。
何でも年齢とかのせいにするのは大嫌いです。
そんなのはともかく、子供を見ると、笑顔になっている自分がいる。

恐らく結婚が関係している。
妻に出会って、この女性との間に子供が欲しいと思ってからだ。
まだいないんですけど。


とりあえず、丸くなったのだと思う。

そして、私の平和や安定は、大抵に於いて崩される。
これこそが宇宙の法則だ。

私には平和や安定は訪れない。


先日の小学校訪問。

かわいらしい子供達は、私を見て、お客さんだと思ったようだ。
「こんにちは!」「こんにちは!」幼い声が八方から飛んでくる。
私はとても穏やかな気持ちになって、一人一人に「こんにちは」「こんにちは」と返していく。
笑顔で、私の膝あたりに位置する無垢な彼らを見下ろしながら。


突然目の前に、子供が立ちはだかる。
私を見上げる。
無垢な人間の目ではない。
獣の目である。
隙を見て、私を地獄へ引きずり込もうという、悪魔の目だ。
私の中から笑顔が消えた、一瞬で私はそれを悟った、そして自分の大人げのなさを恥じ、笑顔をこしらえた。

奴はいきなり私のスネを、力の限り蹴飛ばした。
奴は無表情で、私のスネを蹴飛ばしたのだ。
私は驚きと苦痛に、その場に崩れ落ちた。
膝をついた私の目線は、ちょうど奴と一緒だった、しかし奴は明らかに私を見下ろしていた。
「このガキ!」
私はオトナですから、理性がそんな発言を許しません、殴りません。
でも睨み付けてやりました。
奴は無表情のまま、その場を去りました。


いったいなんだったのか。
私が何をしたというのか。
前世で奴に悪いことでもしたんでしょう。
前世でやっちゃったんなら、仕方ないですね。

もう、理由とか考えないようにします。


ただ、子供だから可愛いという思考は、改まった。

薬クスリ]

人間というものは凄いもので、薬というものを作った。
考えてみればとてつもないことである。
犬も猫も、怪我をすれば患部を舐める。
つばをつけておけば治る、いや確かに、だが我々は薬というものを持っている。
故障箇所が体内であれば、舐めることは出来ぬ。
そんな時は薬を飲むのだ、もしくは手術をすればいいのである。
人間というものは凄い。


例えば怪我をする。
怪我をして、痛んだり膿んだりする仕組みを知っているから、人間はそれにあった薬を塗布したり服用したりするのだ。
例えば病気をする。
病気というものがどういうものだか知っているわけであるから、それにあった薬を選ぶ。
そしてそれによって、改善されていることを自覚し、喜ぶのである。

改善している、そう思えるのは当然である。
痛みが消えたり、体調が良くなったり、目に見えて健康になっていったり。

しかし、なかなか難しいところもある。
精神に対して効果を発揮する薬に関して。

気持ちが落ち込む。
それも、普通の落ち込み方ではない。
もうどうにもならないくらいに。
そんな時に、薬を飲んでみる。
気持ちが晴れたとしよう。
それは、薬が効いているのだと思う。
しかし気持ちが晴れなかった場合、薬は効いていないのだと思う。
効いているのか効いていないのか、それを判断する主の部分が変化するのである。
従って、薬の効果を客観的に見ることは困難なのではないだろうか。
薬で改善される前と後を、観察できるのならば、その効果を知ることは出来るだろう。
だが、そういった類の薬では、観察することが出来ない。
主観それ自体が変化しているのだから、客観的に自分を観察しようとして、果たして変化を見出せるだろうか。

なんだか最近安定しているな、まあそう思えれば大成功なのだろう。


世の中には五万と薬局があって、その中に五万と薬が売られている。
薬、というものではないが、健康食品として、いろいろな錠剤やらなにやらも売られている。
この健康食品というのは、いったい何なのか。
特にダイエットに効果を発揮すると謳う商品が目を引く。
脂肪が燃える。
代謝が良くなる。
云々。

とりあえずどれもこれも「絶対に効きますよ」などとは言っていない。
それが眉唾である。
という感じで持論を述べるや、妻にいやな顔をされるのである。
どうして素直じゃないのと。
信じてもいないもの、いや信ずるに値しないものだと思っているから良いのだが、そんなものには一銭も払いたくないだけだ。

「脂肪の70%を燃焼する力のある錠剤」
そんなものの存在を知った。
あまりにもテキトーな説明である。
脂肪とは何か。
70%は何に対しての割合なのか。
「烏龍茶の脂肪分解パワーを遙かに凌ぐ」のだそうだ。
遙かに、とはどれほどなのか。
ダイエットに適していると謳っておきながら、烏龍茶の名前を出してくるというのは、失敗ではないか。
烏龍茶に痩身効果を求めて飲んだことがあろうか、いやない。
烏龍茶は何の変哲もない日常的な飲み物である。
そんなもののパワーを遙かに凌いでも、ゼロに何をかけてもゼロである(まあゼロとは言わないが)。
たかが知れている。

手軽なお値段で簡単に痩せられるのであれば、一週間くらいの昼食代を全部それに回して購入します。
手軽に痩せられないって知ってます、だからこそ、一週間きっちり昼食を採るのです。
一週間きっちりファストフードを。
メガ何とか的な奴らを。
画期的な薬が出ないせいです。

嗚呼痩せたい。

虫[ムシ]

昆虫こそが地球の支配者であると言っても過言ではない。
六本の足を持つ昆虫と呼ばれる生物が、この地球上にどれだけいることか。
そしてどれだけの種類があることか。
ミミズもオケラもアメンボも、ムシと呼ばれることがあるが、ミミズは昆虫ではない。
クモもまた違う。
ちなみにタラバガニはカニではない。

とにかく昆虫というものを考えると夜も眠れないほど、深い。
そして目が覚めると、自分が毒虫に変身していたりするのだ。
これはかなり驚く。
昨日まで人間だった私は、突然ムシになっているのだから。
何よりも最も難しいのは、足の動かし方である。
まあ羽とかは何となくわかる、背中の筋肉をぴくぴくさせてみようかと思ってやってみると、なるほどコツを掴めば軽く動くのだから。
とにかく、足である。
昨晩までは二本の腕と、二本の足を何も意識することなく操っていた私だが、今朝になって足とも手ともつかぬ一対の「アシ」が増えているのだ。
どの辺の筋肉を動かしてみたらいいのかわからない。
そんなもの自然に動かせるものだろうと考えたのだが、どうにもわからない。
試しに腹筋を動かすような気持ちで力を入れても、「アシ」は動かぬ。

男である私が、朝目覚めたら女性になっていた、そんなことを夢見たことはある。
それも綺麗な女性である。
着飾って外に出て、男どもの視線を一身に浴び、恐らくそれは良い気分であろう。
男と交わるのは些か不愉快ではあるが、異性の性的快楽にも興味がある。
男性の快楽と、女性のそれはどういった相違があろうか。
実はこの願望のほとんどは、この要素で占められている。

しかし毒虫では・・・・・・。
確かに注目の的ではある。
部屋を見回してみても、縮尺が昨晩と相違ない。従って私は、昨晩の人間である私の大きさのまま、毒虫になっているのだ。
私が一歩部屋の外に出れば、瞬く間に捕らえられる事だろう。
それはしかし、まったく良い気持ちのするものでもなさそうだ。

さっきから部屋を這い回っているのだが、気持ちが悪い。
人間で言うところの脇腹から生えている一対の「アシ」を、相変わらずまったく動かせないでいるのだ。

思い通りに行かないというのはとにかく気分の悪いことである。
思えば好きな女性を振り向かす事は、ほとんどに於いて出来ない人生を歩んできたものだ。
ストレスは日々蓄積するばかり、ストレスの貯蓄が何かの原動力になるのなら良いのだが、大抵に於いてストレスは身体を蝕むばかりである。
労働が嫌いであるから、金も貯まらない。
金がないので、何をするにも躊躇せざるを得ない。
そうやって、私は思い通りにならない人生を歩んできた。

その結果、毒虫になってしまった。
それでいいではないか、この上私にはまだ災厄が降りかかるというのか。
私は半ば意地になって、とにかく一対の「アシ」を動かそう、六本の足で地を這おう、そう思って暴れた。
あまりに暴れたのでひっくり返った。
ひっくり返った私は、思いの外安定していた。
もう一度ひっくり返って、元の状態になろうとした。
初めは緩やかに、次第に足をばたばたさせた。
毒虫の身体はとにかく硬い。
従って身体を捻る事は困難で、故に姿勢を変えてひっくり返ることは不可能なのだ。
ならば足をばたつかせる事以外に方法はない。

思考がまとまらないくらい、追い込まれていた。
とにかく元の状態に、腹を床側に向けたい。
そう思って暴れた。
すると不意に脇腹から生えている一対の「アシ」が動いた。
おや、その瞬間私は暴れるのを辞めた。
その一瞬で、六本の足にかける感覚の配分を知ったのだ。

これを運動暴発というのだな。
こうして生物は、環境に順応していくのか。
私は感心した。

私はまだひっくり返ったままである。
だがもうしばらく、そうした充足感に浸っているのも悪くないように思った。


知るということは、生き辛くなることだ。
まあこれについてはいずれ述べるとして、とにかく知識を積み上げていくことが即ち障害になる事が多いように思う。

幼い頃、私はゴキブリでも何でも平気で触れたものだ。

私が最も好きな昆虫はカミキリムシとセミである。
ある時、カミキリムシについて語られている何かしらを読んだ。
カミキリムシの体内には、もう気の遠くなるほどの数の寄生虫がいるのだそうだ。
寄生虫。
まだ成熟していない子供にとって、寄生虫と言えばサナダムシだのギョウ虫だの、その辺のイメージしかない。
とにかく害のない寄生虫など存在するはずがない。
全ての寄生虫は人類の敵である。
生命を維持していこうという生命体にとっては捨てておくことの出来ない重大な問題である。
カミキリムシを宿主とする寄生虫がどんなものであるかを知ることもせず、とにかく私はそれ以来、カミキリムシの外観は未だ憧れているが、触れなくなってしまった。

そして、人間にはある程度の応用力が備わっている。

私はカミキリムシと寄生虫、カミキリムシの昆虫と感染、等をイコールで結ぶようになってから、昆虫全般と寄生虫をイコールで結ぶに至った。
今でも昆虫を触る事を躊躇う。
昆虫の持つ、とがった爪先が皮膚を捕らえ、その小さな傷口から何万、何十万の寄生虫が体内に侵入する。
そんなイメージだ。

東京に住む私がカミキリムシに出会うことはまずないが、セミはとても身近である。
従って、三十近い今でも、セミを捕って眺めたい衝動に駆られる。
だが、彼らの爪先の猛威に怯えて、どうしても捕まえることが出来ないのだ。


知人は、人と長くつきあっていくと、大抵その人のことが「ムシに見えてくる」のだそうだ。

なんて酷い人なんだろう。

彼の主観が、人々を毒虫へと変身させているのだ。
なるほど、「変身」とはそんな話なのだ。

もしくは、彼のような人の話なのかもしれない。
彼は「人と長く付き合うと、ムシに見える」のだ。
彼が最も長く付き合っている人間は、彼自身。
つまり自分自身がムシになったのだ。


それにしても、人がムシに見えるってそれ、ビョウキでしょう。