菌[キン]
幼い頃、よく母なんかに言われたものだ。
「手を洗ってきなさい、ばい菌だらけだから」
幼い私は、漠然と「ばい菌」と言われるものが何であるのか、よくわからなかった。
おそらく汚れなんだろうと、そう考えていた。
細菌というものの存在を知り、なるほど恐ろしいものだと思ったものだ。
洗濯をして、乾燥機を使わずに部屋干しをする。
なんだか臭うのだ。
だが朝の慌ただしさから、昨日洗濯して部屋干ししたものを着ざるを得ない場合が、多々ある。
不愉快である。
朝家を出る時点から臭うのだ、その臭いと、一日つきあわなくてはならない。
私自身の体臭と思われるのも不本意である。
いったいこの臭いは何なのだと思っておったら、それは細菌の発する臭いなのだと知った。
体臭は、菌によるものなのだ。
風邪をひいた時の痰が緑色なのも、菌の色なのだ。
細菌というものは、そこかしこに存在していて、我々とは切っても切れない関係なのだな。
逐一感心してしまう。
◆
幼い頃、そうした細菌という概念を知る前から、「ばい菌」という言葉は知っていた。
概念としては、それこそ大差はない。
「菌がうつる」とか、そんなことを言っていたのだから。
小学校の頃、矢吹君という男子がいた。
矢吹君は保菌者であった。
「ヤブ菌」保有者。
なぜ彼が「ヤブ菌」を宿すに至ったのか、その経緯は不明だが、とにかく気づいた頃には彼は感染していたらしい。
普段は皆楽しげに遊ぶ。
矢吹君がいじめられていたのかと言えば、そうともいえない。
私も矢吹君と遊んでいたし、彼が仲間はずれになることもほとんどなかった。
だが、その時は突然訪れる。
休み時間が終わりに近づくと、誰かが突然「ヤブ菌」の存在を思い山し、その猛威に怯えるのだ。
「ヤブ菌がうつる!」
誰かがそう叫ぶと、今まで仲良く遊んでいた子供達も一斉にその存在を意識し始めるのだ。
そして逃げまどう。
例えばそれなりに分別がつくような年頃になれば(?)、矢吹君の振るまいとしては
「ヤブ菌をうつしてやるぞー!」と逃げまどう子供達を追い回す、これが正解だろう。
だが小学生である。
矢吹君は、ただただ、なぜ自分が「ヤブ菌」に感染してしまったのかをわからないまま、悲しそうにしていた。
さて、、ヤブ菌保菌者の彼は、更なるレヴェルに到達することになる。
いよいよ小学校に、恐怖の大王が現れた。
その名も
「ヤブ菌トリオ」
一人なのに。
矢吹君、大変でしたね。
ただ、面白いことに「ヤブ菌トリオ」はいじめられっ子ではなかったのだ。
本当に面白いことに、皆と仲良くやっていたのだ。
そう、恐怖の大王は、突然訪れる。
宇宙[ウチュウ]
人間関係を円滑に進めようと考えるならば、まずは会話からである。
何はともあれ「円滑に」運びたいならば、まずは聞き上手になることである。
その為には、如何なる話題にも難色を示さず、頷き、時にコメントを挟みつつ、あたかもキャッチボールをしているかのように会話するのである、その実、キャッチボールになっていないことが多いのであるが・・・・・・。
そう、投げっぱなしの人が多いのである。
それでも耐えるのである。八方美人への道は険しい。
さて、世の「投げっぱなしさん」達の投げる球種も多様性に富んでいるのだが、特に言及しておかねばならない処があろうな。
宇宙の話が出たらおしまいである。
◆
成人して間もない頃、中学の同級生(女子)から電話をいただいた。
今から会えないか、と言うのである。
たまたま近くに来ているから、と言うのである。
断っておくが、私と彼女は当時ほとんど接点はなかったのだ。
久々に会って話す思い出話もない、弾む会話を見いだすことも出来まい。
ならば、彼女が私に電話をよこした理由は、いくつかに絞られる。
私はむしろ喜んで出向いた。
果たして彼女は、素晴らしいレヴェルに達していたのだ。
絶対的な宇宙の法則を知ったらしい。
全宇宙を支配する法則。
絶対的な規則。
それを知っているから、何に望んでも恐れるところはないのだそうだ。
私もそれを知りたい。
夜、犬が向こうから歩いてくると恐ろしいし、妻からいつ離婚を言い渡されるかもわからぬ、私の毎日は戦慄に充ち満ちている。
学生の頃試験ともなると、いつ何時シャーペンの芯がなくなるとも知れないので、替えの芯を用意し、更にシャーペンそのものが故障するかも知れないので鉛筆を何本も用意して望んでいた。
人に送るメールは最低五回は読み直す、電話をかけるときは何度となく番号を見直す。
そういった事柄から解放される「宇宙の法則」を、私は知りたい。
だが、さすがは「宇宙の法則」である。
彼女が述べること語ること、その全てが超難解であって、一向に理解できないのである。
何度も何度も聞き返し、結局知ることが出来なかった。
残念である。
◆
やさぐれていた頃、公園のベンチでタバコを吸っていると、隣にホームレスの男性が腰掛けた。
五十代と思われる彼は、私にタバコをせがむ。
恐れの多い私は、ここでタバコを拒んで暴れられるのも困るので、一本渡した。
すると、彼はおもむろに過去を語り出したのだ。
リアルフォレストガンプである。
私は、後学のために聞いてみることにしたのだ。
今でこそ彼はホームレスであるが、その昔はアメリカでコンピューター関係の仕事をしていたのだそうだ。
様々な州に飛び、いわゆる「やり手」だったようである。
時に、話を中断し、私の顔を見て、照れ笑いに似た笑みを見せた。
上顎にはほとんど歯が残っていないのが印象的であった。
そして、ついに彼の口からも出たのである。
彼は、努力の甲斐あって、ついにはNASAで仕事することになったのだそうだ。
NASA。
確かにメンインブラックだのマーズアタックだのを彷彿とさせる彼だが、それだけではなかったのである。
NASAの人だったのだ。
それから彼がどういった転落人生を歩んだのか、そんなことはもはや覚えていない。
私は、前歯のないホームレスの男性が「元NASAの人」である現実と向かい合うことで精一杯だった。
◆
ある時、気になる女性に出会った。
容姿に惚れて、どうにかこうにか、連絡を取り合うまでに至った。
危険な香りは多少していたとはいえ、無視できるくらいだと思っていたのだが、メールのやりとりをしているうちに、どうにも違和感をぬぐい去れなくなってきたのだ。
「私は悲しみを抱えて生きているの」
夜中。
唐突に、そんなメールが来たのだ。
何の前触れもなく、そんな言葉が出てくるとなると、とてつもなく危険である。
空から蛙が大量に降ってきたような、そんな驚きである。
訳もわからず、しかしそこは大人の男、どんな投げかけにもソツなく答えるべきなのだ。
ソツなく、とはいえ、考えに考え抜いた。
しかし答えには到達せず、もう自棄になって、結果危険を投げ返す形になってもよいと思ったのだ。
「じゃあその悲しみを、僕にください。少しでも、僕にください」
もう意味がわからない。だが、何度か読み返してみると、なんだがベストアンサーのようにも思えてきたので送信した。
こんな歌詞なら存在しそうな気さえした。
返事はすぐに帰ってきた。
「ううん、いいの。私は悲しみを切り売りして生きているの。だから分けることは出来ないの」
リトルスターウォーズである。
◆
このように、会話に「宇宙」が出てきた場合、もしくは「宇宙」を垣間見た場合、おしまいである。
最近、「宇宙」について語ることがない。
逆に残念である。