五階から胃薬 -2ページ目

とかくこの世はままならぬ

努力してますか?
未来を描いて歩んでいますか?
日々無駄にせず費やしていますか?


昨日までは、胸を張って頷けました。


私は今晩、生きるってなんて辛いんだろうか、と再確認致しました。
無駄なことは一つもないってよく言うでしょ。
全部無駄。
何も残らない。
素晴らしきモノが今日1日でなくなった。全部。


これが生ですか。
ごちそうさまです。

夜歩く
見放された帰り道
夜歩く
帰りたい場所を離れて
夜歩く
二人でいたかった
夜歩く
二人で歩いた道

たくさんの笑顔があった
たくさんの喜びがあった
たくさんの夜が重なって
たくさんの僕らに被さって

ようやく幸せが訪れた

幸せは泡だった

あぶくははじけてなくなった

中から夜が流れ出た

それは新しい夜

たくさんの僕を照らす夜
たくさんの涙を欲しがって

たくさんの思い出たち降らす

たくさん歩けど何もない

夜歩く
君にお休みを言った
夜歩く
君を抱きしめたかった
夜歩く
幸せをありがとう
夜歩く
二人で歩いた道

悲しみ

私はただ、人を愛しただけだ。
愛されるために愛したのではないはずだ。
それなのにいつからか、私は欲していた。
欲の湧き起こるのに、気づかぬふりをしていた。
今改めて思い返すといい。
私はただ、人を愛しただけだ。
その人の幸せを望んだのだ。
ならば、その人に去られたからとて、何を悲しもうか。
何よりその人の望んだ道なのだ。
私は笑顔で送り出せば良い。

お元気で
お幸せに
さようなら

なぜ言えないのだろう。いつからその人から愛されたいと思ったのだろう。
いつから死ぬまで一緒にいたいと思うようになったのだろう。
私はなんて欲張りなんだろう。


私はその人に、何かしてあげられただろうか。
その人が、少しでも幸せに近づける何かを、してあげられただろうか。
いつからか、私はその人に、してもらうことが多くなり、私が安らぎを得ていたのではないか。

今、その人が去ろうとしている。
私の下を離れたいと言っている。
したがって私は、その人を送り出すことに幸せを感じなくてはいけないはずだ。
解き放たれた鳥のように、自由に飛びたいのだ。
私は籠であり、足かせである。その人の自由を奪うもの。

なぜ、そんな簡単なことをわかっていながら、素直にお別れできないんだろう。

愛は与えるもの。
愛は与えるもの。

そうかもしれない。

でも
愛してしまった。
愛し合いたかった。
離れたくなかった。

もうその人に、私のワガママは届かない。

愛は与えるもの。
もういい加減、理解しよう。


でも今は、言えない。
お元気で
お幸せに
さようなら

多分、もう言えない。
だからその人には、もう届けられない。

その人は去っていくだろう。

私はいつか、その人を思い、祝福しよう。
幸せを祈ろう。
愛されていることを願おう。

この悲しみが消えるのを待って。

まずは夢のような日々から去る私に、言っておこう。

お元気で
お幸せに
さようなら

欠陥[ケッカン]

自虐的ではあるが、恐らく私は欠陥人間の部類である。


中学生になった辺りから、気付きはじめた。


何に対しても、さらりとやってのけることが出来ないのである。


他の人々は顔色一つ変えず、むしろ自信に満ちた表情でやってのけることを、私は出来ないのだ。


私は自信を持つことが出来ない。


多少自信を持ってやっていることも、目の前で人がさらっとやってしまえば、私の方が劣っているのではないかと自信をなくしてしまう。


私は人を苛立たせるのが得意である。

わざわざそうしているわけではない。

所謂「鈍臭い奴」であるから、自然と人を苛立たせてしまうのだ。


正直、生まれてこの方死のうなんて思ったことないよ、という人が信じられない。

私はいい加減なことをしているつもりはない、だが周囲からいい加減な奴と見なされる、それに耐えられない時も多々あって、嗚呼生きていてもいいことはなさそうだな、幾度となく思ったモノである。


まあ実際真面目に自殺を企てたことはないので、飽くまで生にしがみついてきた三十年ではあったが。




本日キャッシュカードを忘れてしまったので、お金をおろすことが出来なかった。


帰りがけにタバコを買って、残りが100円。

そんな三十歳。


渇いていた。

車を走らせながら、100円自販機を探していた。

とにかく、残りの100円で甘い飲み物が飲みたかったのだ。

探していると、缶やペットボトルではなく、紙コップで出てくる自販機を発見した。

大抵あの類は100円未満であろう、そう踏んで車を降りた。


カフェオレ 90円


買った。

100円を投入すると、当然釣り銭が10円。

10円玉の落ちる金属音が、私の気持ちを盛り上げる。


もういいだろうか。

紙コップになみなみと注がれた甘いカフェオレが、疲れた私の体に浸透してゆく様子を思い浮かべ、小窓を開けて紙コップを握る。


私の目に飛び込んできたのは、透明な液体が注がれた紙コップだった。


カフェオレが透明であるとは。


私は間違いなくカフェオレのボタンを押したのであって、断じてレモンスカッシュのボタンは押していない。


釈然としない思いで、コップを口に運んだ。




水だった。


迷わずアスファルトにぶち撒いた。



財布には、10円しか残っていなかった。







妻はしっかりした人間である。


私が最も苛立たせるのが得意な人種である(何度も言うように、敢えて相手を苛立たせようとは思わないのだが)。


従って普通であれば、数ヶ月も付き合えば嫌気がさしてくるだろう。


それなのに、私と彼女は結婚し、もうすぐ一年を数える。


私の欠陥具合が原因で、何度も喧嘩はしてきた。


それでも続いている。


決して夫婦仲が悪いわけではない。



不思議である。



妻を大切にしなくてはならない。




反撃をしよう。


考えてみれば、私「ごとき」人間に、いちいちイライラしてしまう方もいけないのだ。


このブログで書いてきたが、つまり修行が足りぬのだ。


私が人に不愉快な思いをさせてしまうから、というわけではなく、私はあまりイライラしない質である。


嘘ではない、頭に来ることはあっても、まあいいか、と思えるのだ。

「イライラ」とは違う。


いつも穏やかにいようと努めているし、実際そう見えるはずだ。



一方私に苛立つ人々は、自然と語調もきつくなってくる。

表情が歪みだし、果ては私をあからさまに馬鹿にしたような顔をするのだ。


どうも修行が足りないのではないのかね。


私は人に不愉快な思いをさせるのが得意である、私自身それは自覚している。

こんな私を馬鹿にするのは簡単である。

そして、そんな私を馬鹿にするのは、人間の行動としては安直すぎるではないか!


どんなことにも動じない、そんな人が素敵である。



まあ本当のところは・・・・・・

あまり馬鹿にされたり呆れられたりしたくないだけなのだが。




妻との関係を知人に話すと


「君はドMだね」


と言われる。



別に私の欠陥部分を指摘されて喜んでいるわけではない。


仕方ないのである。





ところで「ドM」だの「ドS」だの、私は人を「S」「M」に分ける話が嫌いである。


どうして二つに分けようとするのだろうか。



シティボーイズか。


「人間は二つに分けられる。蚊に刺されやすい人と、刺されにくい人」



今年もシティボーイズに行けなかった・・・・・・。

齧歯類[ゲッシルイ]

私の初恋は小学校六年生の時である。


その女子は、身長が比較的高く、前歯が出ていた。


男子達は彼女を「ミッキー○ウス」と呼んで小馬鹿にしていたが、私にとってはその歯が魅力的に映った。




ウルグアイで、体重およそ1トンくらいになろうかというネズミの仲間の頭骨が展示されたという。


こういった類の話は大好きで、愛地球博では東京在住のワタクシ、はるばるマンモスを見る為だけに愛知まで行ったモノである。

後にそのマンモスはお台場で展示されることとなった、わざわざ愛知にまで行かなくてもよかったではないか。


さておき、万博、という響きにはロマンを感じる。


幼い頃つくば万博というビッグイベントがあって、私は行きたくて仕方がなかったのだが、忙しい父は私の申し出を悉く断った。
母も出不精気味だったので、自ずと友人の自慢話の聞き手に回らざるを得なくなった。

今でこそASIMOであるとかリアルドールであるとか、人間はバベルの塔を着実に築き上げているわけであるが、当時はまだ「ロボット」と言えば少年達の目が輝く時分である、ましてや「ヴァーチャル」なんて言葉を聞いたところでさっぱりわからない、そんな時代であった。

私はとにかくそんなハイテクに触れたかった。

子供なら誰しもが、つくば万博に憧れたモノだろう。


というわけで、私は愛地球博を見逃すわけにはいかなかったのである。

チケットを取って、それから下調べをした。

調べれば調べるほど、万博の何たるかが見えてきた。

どこを探しても、どこを突いても、面白みの欠片すら見出せそうになかった。


マンモスを除いては。


そして実際足を運んでみて、その予想は的中した。
何も面白くもない。感動もない。新鮮味がない。

万博というのはどうもアレであるな。


ただ、マンモスには参った。
涙が出るほど、感動した。

この世のモノとは思えない程堂々とした牙、鼻は落ちていたが皮膚は残っている。

百年以上生きた老人の話にも、マンモスは出てこない。

シーラカンスが発見されても、「生きたマンモスを捕獲したよ!」と叫ぶ人には、温かい目で見守り、幸せな老後を願うまでである。

そんなマンモスが、目の前にあるのである。


これに感動しなかったなら、人間は何に納得するだろうか。


そんな話はさておき、大きな齧歯類の話。

1トンくらいの大きさであったら、もう許す。
悪さをすれば捕獲は容易であろう。
恐ろしい。

人間様は種の一つや二つ、根絶させることなんて簡単である。


ところで、現代のネズミどもは、小さい。
一匹捕まえるのに四苦八苦している。


増え続けるネズミに悩まされている我々人間は、どうやってネズミと戦っていけばよいのだろうか。


動物愛護団体は、ネズミをも養護するのだろうか。


人間が生きていく上で、蝿は不愉快だし、蚊は不快である。
ネズミは害獣で、ゴキブリは害虫である。


そう考え、発見するや殺しにかかるという行為を、人間のエゴだと叫ぶだろうか。


動物が自分の害とみなすモノを排除しようと考えるのは道理であろう。
何も人間ばかりに「エゴ」だの何だのと言うモノでもなかろう。


そうやって考えているのなら、動物愛護団体に賛同する。


人間は考える脳髄を持っているから、知識欲というのも芽生えてしまった。

学ぶ為、動物を解剖したり、人類を守るべく動物実験で結果殺すこともする。

無駄な殺生とは思えないのだが、やはり反対する者もあるだろう。


難しい。


ただ、あまり知らない人々に、残酷なシーンばかりを集めた写真展じみた場を設けて
「動物はかわいそうな目に遭っています」
と叫ぶ行為に私は苛立ちを覚える。


それは扇動という。


知ってもらいたい、という気持ちは誰しもが備えているだろうが、現場を知らない人間に極端な例ばかりを見せるのは、端から正しい情報を伝えようとはしていない。

そういった活動家は大嫌いである。




眠いからあまりよろしくない話をしているかもわからないので、そろそろやめておこう。





先に述べた「ミッキーマウ○」女子に、街で偶然再会した。


美しくなった彼女を前に、私はとても良い心持ちになったのだが、彼女の第一声が私の恋心を見事なまでに破壊した。




「ごめん、誰だっけ」






彼女を齧歯類と思うことにした。

朝[グッドモーニングガレージ]

朝は車中でラジオである。


インターFMの「good morning garage」という番組を聴かなければ一日が始まらない。


ラジオというのは不思議な魅力がある。


私はテレビを好まない。

理由は見あたらないのだが、とにかくあまり見ないし、見ようとも思わない。

むしろ嫌いといっても良いだろう。


ラジオは学生時代からずっと聴いている。


伊集院光、電気グルーヴ、嘉門達夫、大槻ケンヂなどからどれほどエネルギーをいただいたことか。


現在、とにかくグッドモーニングガレージである。


久しぶりに心奪われるラジオ番組に巡り会えた。


パーソナリティの三人、友達になってください。

麻薬[ドラッグ]

何も、危険な話をしようというのではない。


日々、麻薬のようなものと戦っておる。




中崎タツヤ氏の漫画が好きだ。

代表作に「じみへん」がある。

最近漫画自体触れる機会が減ったので、中崎氏が今どんな状態にあるのかはよくわからないが、とにかく好きだった。


その中で、駄菓子屋で出されるラーメンが妙に美味かった、という記憶を辿るネタがあった。

「あのラーメンには麻薬が入っていたに違いない」

と当時を振り返る男達の話である。


私も時に、そんなことを思うのだ。


私にとってはKFCがそれである。


KFCとは当然ケンタッキーフライドチキンである。


もう「酔っぱらってカーネルおじさんに絡んだ」などという話は聞き飽きた、あれである。

また「酔っぱらってカーネルおじさんにぶつかって謝った」などという話も聞き飽きた、例のあれである。


ついでに言えば、「酔っぱらってポストにご苦労様です!と敬礼した」などという話も源氏物語クラスの古典である、笑いは取れないが、現代に於いてそれを語ることに芸術性を感じる。


さておき、KFCである。


私にとってKFCのフライドチキンは麻薬である。


KFCの看板を見るや、パブロフの犬の如く唾液を抑えられなくなるのだ。

そして、あまりにもKFCのフライドチキンを食べずにいると、我慢が出来なくなって買ってしまうのである。


10ピース、厭、15ピース下さい。


妻に3ピースくらい渡して、私は残りの12ピースをいただくのである。


だが不健康なので、そうそう12ピースを食べているわけにもいかない。


耐性がついてしまう、中毒になる、ゆえに禁断症状が出てしまう。

そうすると、対象がドラッグであろうがフライドチキンであろうが、人間としてダメになってしまう。


その実経済的な問題で頻度が高くないだけであるのだが。



このように、私にとってKFCのフライドチキンはドラッグそのものである。


我慢できない時は、ファミリーマートのスパイシーチキンでなんとかする。


KFC抜きをする手段としても最低である。


KFC>スパイシーチキン>唐揚げ弁当>唐揚げ単品>棒々鶏


かくして、クリーンな体になるのである。




麻薬的なモノは他にも世に蔓延している。


タバコ、酒、そしてたけのこの里。


タバコは完全にドラッグであり、酒も完璧な麻薬である。

それに並んで、たけのこの里には「タケノコノサトール[tackinoconosatole]」的な麻薬成分が含まれているのは明らかである。


タケノコノサトールの恐ろしさについて言及している機関は、今の段階ではあまりにも少ない。


従ってここで警鐘を鳴らしておくのである。


この日本国は、殊ドラッグに関しては厳しい国だと思っていたのだが、政府はタケノコノサトールを見落としているのだ。

それも、子供も簡単に手に入れることが出来る。


主に経口摂取により、多幸感を得る。


副作用として、血中の血糖値の急激的な上昇、食欲減退が挙げられる。


タケノコノサトールの濫用によって、タケノコノサトール中毒患者は年々増え続け、何の対策も講じられていない。


かくいう私もタケノコノサトール中毒である。


穏やかに効くスタッフなので、抜けるのも時間がかかる、従って数日は我慢できるのだが、抜けてしまうといてもたってもいられなくなり、コンビニに走るのだ。


喫煙者であればわかると思うのだが、例えば給料日前など、極端に財政難の状態にある場合、一日二日食事を抜いてでもタバコに金を裂くだろう。

タケノコノサトールに関してもしかり、食事を抜いて金を浮かせ、購入するのである。


まあタバコに比べて、タケノコノサトールの食欲減退作用が顕著であるから、一日二日食事をタケノコノサトールに置き換えるという事も可能であるが、これが更に依存度を高めるのである。


こうして帰ってこれなくなるのだ。


私のようになってはならない。


酒は百薬の長という。


たけのこの里もまたしかり。




大学時代、生化学の講義に於いて、レポート提出を言い渡された。


皆高尚なテーマでやっていたのだが、私は「ドラッグ」を対象にしてみた。


ドラッグがどういった仕組みで脳に作用するのか。


今では分子式なんて一つも書けないのだが、当時は頑張って仕上げたモノである。


一ページ目からLSDだのコカインだの、見るからに趣味の世界である。



A評価をいただいた。


何だって頑張れば結果がついてくるのである。

何を頑張るのかではない、頑張る行為それ自体が賞賛に値するのである。



盗聴[トウチョウ]

盗聴は犯罪であるが、盗み聞きは犯罪ではないはずである。


聞こえてきてしまうし、聞いてしまう。


誰にも聞かれたくなければ、表で大きな声を出さなければ良いだけである。

現代社会に於いては、自分の身は自分で守れ、とよく言われているではない乎。





若い女性が複数あって、交わされる会話にはなんと恋愛に関するモノが多いことか。

否、恋愛に関する事というのは誤りか。

男に関する話があまりにも多い。


若い女性達にとっても男性同様、そういった類のことが気になって仕方ないのだろう。


複数の女性の構成であるが、まず第一に、仕切る娘がなくてはならない。
所謂メイン司会者である。
司会者は進行もするし、意見も述べる。
意見を述べて進行が出来るのだから、周囲の人間が彼女の発言に異を唱えたとしても、適当にスルーすることが可能である。
上に立つ人間にはある程度の特権が与えられる、と言うことか。
ただ、若年層に於けるそうした特権階級の人間は、大抵に於いて暴君である。
民の声に耳を傾けようとしない。
その代わり、自らの政策に満足しない民、反発する民を罰することなどしない。
次から次へと政策案を提示するのみである、それが実行されようがそうでなかろうがいいのである。


次いでサブの司会者があろう。
彼女は暴君の側近、右腕であって、飽くまで主に従う。
滅私の精神で、時に司会者に戒められ、時に他を戒める。


あとは迷える子羊及びその他大勢の民である。
彼女たちはとにかく迷っている。
迷いの中にあって、誰かの言葉を聞きたくて仕方ない。
的を射た意見であろうがそうでなかろうが、自らの男問題に言及してくれる人を探している。


と、ここまで記せば、会話の一例も挙げるべきかも知れないが、なんだか気が進まないのでその辺の所はまたいずれ。




私の考えは古いのだろうか、それともズレているのだろうか。

公然と「性」について語るのはどうも気が引ける。


それもあって、ファミリーレストランやファストフード店にて、大声でそんな話をしている男子集団を見ると、なんだか嫌になる。


ただ、こういったモノを押しつけるでもあるまい、どんな話がなされているか、知っておくのも勉強である。


そしてその会話に耳を傾けるとなるほど、ただの下品な話でもないのである。



「こないだの女いるじゃん」
「ああ、あの不細工な奴?」
「そうそう、あいつ」


出だしから斯様な具合である。

私は人を「不細工」呼ばわりしない、なぜなら私の生まれた頃には既に人類は鏡というものを発明していたからである。



「あいつマジしつこいんだけど」
「マジで、ヤバくない?」
「ちがうちがう、マジチョーやべぇよ」
「何が」
「俺一回チューしちゃったんだよね、マジ後悔なんだけど」
「マジで」


どれだけ上層の方々なのだろうかと思える口ぶりである。

苛立ちは募るばかり。


現代日本に於いては、こういった事を書いていると単なる僻みだと思われかねない。
確かに僻みも入っているだろう、かくいう私も生物学上オスであるから、当然性欲というモノは持っておる。
だが、どうも彼らのような傲慢な態度は気にくわないし、そうありたくないと思うのだ。



「まあでもさ、過去は過去じゃん」
「いやでも俺マジで後悔してんだけど」
「ははは」
「だから更にしつこくなってんだよね、チョーやべえよ」
「でもさあ、マジ女なんて犬の躾と同じだから」



凄まじい格言が飛び出した。



「女なんて犬の躾と同じ」


ただの下品な話ではなさそうである。

一人の男性が、胸を張って躊躇うことなく、斯くも大それた事を言うのであるから、彼は只者ではないはずである。


品のない話だと端から決めつけて彼らの会話を聞かなかったなら、私はこうした埋もれた偉人に出会うことはなかっただろう。



「出たー」
「マジだって。躾してない犬はさ、腹減ったときに吠えるだろ。そこを躾けるんだよ。そうすりゃ吠えなくなるだろ」
「そうだな」



「そうだな」?
何かわかったのだろうか?
「女なんて犬の躾と同じ」を提唱する男の説明は、その実何一つ説明になっておらぬではないか。
何も解説されていない。
だがもう一人の男にはわかったようで、しきりに頷いている。


「マジ」「やべえ」、私には「チョー」理解できない、また一歩、社会の先頭集団から遅れをとってしまった思いである。




ともかく「女なんて犬の躾と同じ」なのだそうだ。
私には死んでも言えない言葉である。




小学生の側を通りかかると、時として想像を絶する発言を耳にすることがある。


下校中の小学生男子数人が、一人の女子をはやし立てている。


「おまえの母ちゃんひーさーこ!」


久子?


私の幼少の頃は「おまえの母ちゃんでべそ」だった気がする。
この「おまえの母ちゃんでべそ」は普遍的な文句であると思っていたのだが、そうではないようだ。



「おまえの母ちゃんヒサコ」


彼女の母親の名前がヒサコなのだろうか。

何か問題でもあるのだろうか。


萬田久子だったら最高である、何を馬鹿にされようか。


「渡る世間は鬼ばかり」の幸楽の「ヒサコ」だったら最悪だ、確かに「お前の母ちゃんは渡鬼のヒサコみたいだ」と言われればこの上なく腹立たしい。


未だ真実は闇の中である。




盗み聞きはやめられない。


因みに、「お前の母ちゃんヒサコ」のデドコロをご存じの方、ご一報ください。

最近気になって仕方ないモノのうちの一つです。

終焉[シュウエン]


ノストラダムスの名前が語られなくなって久しい。




1999年、大変なことが起きる。

私は小学生の時分から、ノストラダムスに関する本を読み漁っていた。
そして、1999年を心待ちにしていた。


毎回世紀末になると終末思想というか、そういうのが蔓延するのだそうで、とにかくこの現代社会で何かしらの混乱が起こるのではないかと楽しみにしていた。


だが、少なくとも私の住む東京では、目立った混乱は起きなかった。


1998年12月31日午後11時59分。


かのノストラダムスが、そして何人もの偉大な予言者が警告してきた1999年を迎えるにもかかわらず、街は沸いていた。

カウントダウンが始まる。
陳腐な言い方をすれば、それは終末へのカウントダウンである。
誰しもが新年を迎えた瞬間に、嘆き悲しむはずだった。


だが新年1999年を迎えると、街中に歓喜の声が響き渡った。


これは悲しみの果てにある落胆を、何とか希釈しようという現象なのだろうか。
世紀末が喜ばしいはずがない。
なぜならノストラダムスという人類史上最強の予言者が放った人類史上最大の終末論が、現実のものになるからだ。
それなのに、皆口々に「おめでとう」「おめでとう」と笑顔を振りまいている。


私は忘れない。


この嘘に彩られた笑顔の洪水、誰もが終末を恐れ、そしてその恐怖から逃れようと必死になっている。
騒々しいこの街は大きな生き物となって右へ左へ蠢いている。
狂喜乱舞する若者達を見て私は、階段を転げ落ちる乳母車の映像を思い出していた。
あのシーンと大して変わらないように見えた。


いよいよ終焉が訪れる。

それなのになぜ私はこうも、胸を弾ませているのだろうか。

ちょうど二十歳だった私は、別段世を儚んでいたわけでもないし、人生に失望していたわけでもないはずだ。

ただ少しばかり、退屈していただけだ。


時の流れは速い。

程なくして2000年が訪れた。


1999年の終わり、また一年前と変わらぬカウントダウンが始まり、新年を迎えた瞬間に、人々は大声で「おめでとう」を合唱した。
杞憂だった、そう叫んでいるようにも見えた。


退屈な毎日は退屈な毎日のまま、何も変わらずまた続いていくことになった。


ノストラダムスの大予言という、あまりにも力のある予言があったからこそ、それまで頑張ってこれたのに。

終焉を迎える、それをわかっているのなら何をしたって仕方がない、どうせ滅びるならば好きなことをして、自堕落に生きよう、そうすることも出来ただろう。
だが私はそうしなかった。
終焉を迎えるからこそ、一生懸命生きようと思った。
悔いのない二十年間にしようと思った。

結局破滅なんて訪れない、それがわかってしまっては私は何を励みに頑張っていけばいいのか。

頑張って生きて、一生懸命生きたところで、大した幸せを掴めるとも思えない。
満たされぬまま何十年も生き、満たされぬまま天寿を全うするというのはどうだろうか。
満たされなくとも、世界が滅亡するのならば仕方ないと言える。

全ての人類が避けて通れない現実であるからだ。


破滅がなければ、私は妥協を繰り返し、その上に自己嫌悪を積み重ね、ネガティブフィードバックの中でもがき苦しみ続けることになる。


神はいないな。


これを試練というならば、その先には何があるというのだ。
何もないに違いない。
それを試練というのだろうか。


世界は偶然の繰り返し。
小さな粒子の、小さな動き一つで周囲が動き、周囲が動けばその周囲が動き、それが繰り返される。
人の思考も脳によるモノであれば、その範疇にある。
世界は観念的なモノではない、単に空間と物質が広がっているだけだ。
人間は利口になりすぎた、必然という概念を持ってしまった、だが必然なんて人間が勝手に考えた事だ。
偶然の繰り返しである。
そして偶然の上に、人間の言う必然が起こっている、力学的法則に則って変化の連鎖が起こる。


神はいないな。


神はこの世を操ってはいない。


確率の上ではほぼ起こりえない事がある、だが確率の上ではゼロではない、現実世界に生きている人間からしてみれば、それは起こりにくいことではない、絶対に起こらないことなのだ。
だが実はゼロの確率ではない。
それが、起こってしまったとする。
あり得ない、神の仕業だ、という。
奇跡だという。
たまたま起きてしまっただけなのに。


1999年が過ぎ去ったと同時に私は、あたかも生きる目的を失ったかのような状態になった。


その後もノストラダムス研究の残党が、色々な解釈を世に送り出そうと試みていた。
だがどれもこれもつまらぬ。
苦し紛れ、と言う言葉がお似合いである。


そのうち訳のわからない予言者や予言が現れるようになってきた。

わけのわからない、と書いたが、まあノストラダムスだって同じようなモノなのであろうが。


人類はどうやら、どうあっても早急に終焉を迎えたい、結末を知りたいと思っているようである。


しかし未だに終焉は訪れない。



無限に続く日々、これは人類にとって終焉以上に惨いことなのかもしれない。







眠い時に文章を書くとこんな感じになる、といった実験でした。


眠い。

存在[ソンザイ]

驚くべきことが起こった。


先日、スーパーマーケットで失礼な物言いをされた私だが、本日もそんな扱いを受けてしまった。




妻の誕生日が近い。


何か珍しい物でもないかしらんと、一人でショッピングモールへ行ってみた。


コーヒーやワイン、紅茶やチーズなどを売っている輸入食品の店を発見した。


先日も述べた通り、我々夫婦はチーズ好きであるから、面白そうなチーズがあるかも知れぬと入ってみたのだ。


仕事帰りに寄ったので、時間も時間、既に客足も引きつつあって、店内には私だけであった。


それでも仕事熱心の店員が四人ほど、声出しを怠らずせかせかと動いていた。

感心なことである。


チーズコーナーに面白そうな物がなかったのだが、輸入食品が山とあるその店から、すぐに出るにはもったいない、そう思って暫し店内を歩いていた。


そうこうしておるうちに、店内に一組のカップルが入ってきた。


仕事熱心の女性店員が、そのカップルの男に声をかけた。


「いらっしゃいませ、美味しいコーヒーです。どうぞ。ごゆっくりご覧ください」


そう言って、コーヒーの入った小さなカップを二つ、カップルに手渡した。

白い湯気をくゆらせた小さな紙コップ。


再び女性店員は、忙しそうに「いらっしゃいませー」と言いながら動き出した。




店内、決して広いとはいえない。


私は何度か、その女性店員とすれ違っている。


私の両手はフリーである。


カップルは、二人とも片手に紙コップを持っている。





映画「ミステリーメン」をご存じであろうか。


黒人の少年には、超能力があった。


姿を消せるのである。

ただし、人に見られていない時しか姿を消せないのだ。


人が彼を見ている間は姿を消せない。

誰も彼を見ていない時は姿を消せるのだ。


なかなか深い話である。




私は別に超能力者ではないはずだが。


私は、女性店員に存在を確認されているにもかかわらず、半ば無視された形である。

もしや、先のミステリーメンに於ける黒人少年とは逆の能力を持っているというのか(逆である必要はないが)。


存在を確認されていたというのは私自身の認識に過ぎないというのか。


実は私は、人前で自身の存在を消せるのではないだろうか。



それを確認できないまま、そしてその能力を制御する術を知らないまま、突然姿を消したりしてしまうというのか。

いい気持ちはしないな。


実に不愉快である。




結局妻にプレゼントしようと思っていた「何かしら面白い物」は見つからなかった。


夫である私という存在をプレゼントしよう。




こんな男、どうですか。