霊関係[レイカンケイ] | 五階から胃薬

霊関係[レイカンケイ]

同僚に、霊感が強いと言い張る人間がある。


何かが見えるのだそうだ。

彼と行動を共にすると、時折「なんかいやな感じがします」と耳打ちされる。
何も感じない私には、その行為に最も「いやな感じ」がするのだが。


「何か見えるんですか?」
「いや、見える訳じゃないんですけど、感じるんです。何かがいるって」


それ、風車じゃないのかしら?

私には何も見えないんですけれども。
というよりも、何もいないんですけれども。

多分風車とか、椅子とか、そういったものに「気配」を感じているのだろう。


なるほど、八百万の神という奴か。
万物には魂が宿っている、それを彼は感じているのだ。



私は霊というものを信じてはいない。


霊魂は肉体という物質に宿り、肉体が果てれば霊魂は離れ、浮遊するのだそうだ。


科学で証明できないことは信じない、というスタンスではない。

ただ、科学で説明の出来ることを覆すことは難しい。
そんな頭の固い私だ。


霊魂は、肉体から離れても考える力を持っている。
浮遊して悪さをしたり、見守ったり、うろついたりする。
霊魂は飽くまで肉体に重なっているだけだという。


では肉体の生体反応というやつはいったい何なのだ。
まあ当然霊魂だけでは物質世界に影響を及ぼすことは困難であろうから、肉体という物質の動きで外界と繋がることが出来るのだろう。

では脳とはいったい何なのだ。

霊魂それ自体が既に思考できる状態にある。

脳は肉体という物質を動かすのに、指令を出す。
ならば、霊魂自体に思考する機能があったとしても、物質世界に影響を及ぼすのに、脳は必要であろう。

だが、脳は思考することも出来る。
思考なら、物質世界に直接的な影響を及ぼす必要はない、飽くまで内面の問題である。

実際心は脳にある、と言っても良い。

その脳が機能停止したならば、思考する事もできまい。

だが、霊魂は果てた肉体より離れた後も、思考できる。


いったい脳の「思考」という機能はなんなのか。
重複しているではないか。


まあだからといって否定する材料にはならないのですがね。



どうも墓参りというものは億劫である。


供養とか言われてもピンと来ない私にとって、お墓参りに行きなさいと言われても面倒くさいだけである。


行けばお供え物を買わねばならぬ。
花やら酒やら。

石に花とか酒を?


私にとって墓参りとは、亡くなったその人を思い出すことである。
どこにいても思い出すことは出来る、ただ実際にその場に行けば、そこにはその人の遺骨が眠っているわけで、なんだか感慨深い。
生前の記憶なんかを辿るのである。

そこに、花やら酒やらはいらない。
線香?意味がわからない。


お墓の側でお花を並べておけば、誰もが買うだろうと思ったら大間違いである。


こんなのはどうだろう。


お寺にはスペースがいくつかある。
そこは親族の遺骨を納めなくては得られないスペースだ。
親族が亡くなって、その遺骨と引き替えに、そのスペースを自由に使って良いのである。
水道光熱費は寺持ちだ。
私はそこに大きな水槽を構え、好きな魚を泳がせよう。
そうすれば億劫がることなく、墓参りをする。
花を供えに行くのではない、餌をあげに行くのだ。
そして、その下には亡くなった人の遺骨が眠っているから、生前の記憶に触れ、思い出すだろう。

こんなお墓のスタイルでいかがでしょうか。



その昔、かの福沢諭吉はお地蔵様におしっこをかけたのだそうだ。

そういったものに悪いことをすると罰が当たりますよ、と言われ、試してみたのだそうだ。


結果、待てど暮らせど悪いことは起きなかったそうだ。


霊とかそういった類のものを彼は信じなかったようだ。


先生、賛同します。


ワタクシ、今でも色々な生き物を簡単に殺してしまいます。

蚊を躊躇いなく殺します。
蟻を躊躇いなく踏みつぶします。
ゴキブリを躊躇いなく叩きます。
クモを躊躇いなくつぶします。
蛙を躊躇いなく解剖して参りました。

牛を食べます。
豚も食べます。
鳥も食べます。
鹿も、スッポンも、魚も。


私は地獄に堕ちますか。

動物たちの霊が、私の背後にありますか。


生きる為だから仕方ないと、誰もが言います。

人間、都合の良い生き物ですね。


さて、これからクモだけは殺さないようにしておかなくちゃね。