鏡山 次郎
現在の勧修寺書院の南の庭には、樹齢750年と伝えられるる偃柏槙(ハイビシヤクシン)が地を這うように枝を広げています。もし、この地に植えられていたとすれば、この「偃柏槙(ハイビシヤクシン)」は、鎌倉時代の初期に植えられたものと推察できます。
勧修寺の歴史を調べている中で、興味を引く出来事もありました。蒙古来襲(弘安の役)の2年前、弘安2年(1279)に蒙古からの使い、周福らが来日し、博多で斬死させられるという事件がありましたが、そうした報がこの山科にももたらされたのでしょうか、勧修寺の僧勝信などが、石山寺に参篭して、「敵国降伏」の祈祷をするということが記録されています。また、建武3年(延元元年・1336)8月3日、勧修寺門跡領の武士が違乱していたため、院宣が出されています。 中世の勧修寺は現在の京都市山科区勧修寺一帯を領するほか、各地に広大な寺領をもち、真言宗小野流の中心寺院、皇室ゆかりの寺院として最盛期を迎えていたと言えます。建武3年(1336)の「勧修寺寺領目録」によると、勧修寺の寺領は加賀国郡家荘をはじめ、三河、備前など、所領は18カ荘に及んでいました。
建武4年(延元2年・1337)1月、後伏見天皇の皇子寛胤法親皇(1309~1376)が第15代の長吏、並びに第16代の別当に任ぜられます。法親皇は安祥寺寺務も兼務しました。これ以後、勧修寺は幕末まで、法親王ないし入道親王が入寺する寺院となりました。
また、悲しい出来事もありました。永亨4年(1432)7月、南朝小倉宮恒敦親王の孫、僧正教尊が第21代の長吏、並びに第22代の別当に任ぜられ、安祥寺寺務も兼務するのですが、教尊は後に後花園天皇と確執が生じ、文安年中(1444~1448)に隠岐国に配流され、同地で死去してしまいました。
また、中世の京都で大変大きな出来事の一つに「応仁・文明の乱」というのがあります。その始まりが応仁元年(1467)で、一応の終息をみたのが文明9年(1477)です。「応仁・文明の乱」は、京都や山科全体だけでなく、全国にも波及した約11年にわたる内乱で、八代将軍足利義政の継嗣争いなど複雑な要因から発生し、幕府管領家の細川勝元と山名持豊(山名宗全)らの有力守護大名が争ったもので、京都及び山科も主要な社寺・郷村など、そのほとんどが灰燼と化し、壊滅的な被害を受けました。そんな中ですので、勧修寺も大きな被害を受けています。文明元年(1469)7月19日、勧修寺は兵火を蒙り、伽藍、堂塔、坊舎等ことごとく焼失し、伝承の宝物、袈裟等が数多く失われてしまいます。しかし、勧修寺の鎮守社である八幡宮の神殿並びに神木は奇跡的に焼失を免れたのですが、その時に神木の焦跡から梵字が見つかっています。現在、勧修寺八幡宮を別名「吉利倶八幡宮」と呼ぶのは、こうした歴史的出来事が基になっているのです。(梵字の発見には、文明2年(1470)説もあります)。
戦国時代に入りまして、勧修寺は織田信長や豊臣秀吉などとも深い関わりを持つことになります。弘治3年(1557)11月6日、織田信長が山城国西院内において、30石の地を勧修寺に寄進します。織田信長は、比較的勧修寺を大切に扱ったのではないでしょうか。しかし、豊臣秀吉はそうではありませんでした。豊臣秀吉と言えば「太閤検地」や「刀狩り」が有名で、検地はすでに天正10年(1582)から始められていましたが、天正17年(1589)豊臣秀吉は勧修寺領を検地して、従来の所領832石を減じて、200石を勧修寺領とし、600余石を公田としてしまいます。所領の4分の3を取られた勧修寺の経営は、たちまち大変な苦境に至ることになります。
(9に続く)