山科の健サン | ふるさと会のブログ

ふるさと会のブログ

山科の魅力を山科の歴史を通じて記録しようと思います。

山科人

 昔、私の住んでいた家を下宿屋にしていたことがある。ある日のこと、帰ってきた女子大生が、「そこに高倉健がいた」と興奮して話す声が聞こえた。映画のロケをしていたらしい。バス停を降りたところにロケバスが停車していて、車窓にひじをかけ健サンは目をつぶって眠っている風だった、という。しかしそんな話題には正直なところ、高倉健はもちろんのこと、ヤクザ映画にも私はあまり興味がなかった。そんな話をもうすっかり忘れていた。

学生時代の先輩でヤクザ映画の大ファンがいた。ラグビーの練習の始まる前、ボール磨きをしているわれわれ一年生に向かって、見てきた映画のセリフや名場面を声色や顔まで似せてよく話してくれた。「背後から健サンに切りかかろうとする瞬間に客席から声がかかるねん。『健サン、あぶない』」。そんな話を笑いながら私はまるで映画館に行って同時体験を楽しんだ気になって聞いていた。

学生運動の盛んなころ。京都では一乗寺にあったK会館が有名な映画館で、全共闘系の学生もよく行っていたようだ。「ようだ」というのは、私は当時体育会系学生で、関心は持っていたものの、ノンポリだった。

それから十年近くたった。東映のヤクザ路線から移った松竹の『幸福の黄色いハンカチ』(1977)で、ようやく健サンに興味を持つようになった(この映画の素晴らしさは機会を改めて)し、カッコイイと思うようになった。しかも封切りでなく、再上映であった。そして次の年に公開されたのが『冬の華』(1978)である。共演は池上季実子・田中邦衛・北大路欣也・倍賞美津子・池部良。

雑誌か何かで(思い出せない)この映画の監督の降旗康男(脚本の倉本聰だったかもしれない)の文章があり、その中で、「深夜の新宿の映画館でスクリーンに向かって観客の学生が呼びかける」話が出ていた。東映のヤクザ映画の出演者はほとんど毎回決まっていた。映画の冒頭で配役の文字がでてくる。「『イケベツ!』悪役の小池朝雄が出ると『よおし、ご苦労さん』といった具合に観客が一体になった」状況を書いていた。「そんな健サンへのラブレターのつもりで映画を作った」というような内容である。ああそうなんだ、あの先輩の言っていた映画館の様子だったのだ、とその場にいられなかった自分を悔いた。

『冬の華』も封切ではなかったように思う。そしてあの女子大生の大騒ぎもすっかり記憶から飛んでいた。タイムラグがあった。しかも後年、ビデオでもう一度見たときに、初めてようやく「これって山科で撮っていたんや」と気付いたのである。あの時の撮影だったのだ。

国道一号線と新幹線と並んで走るすぐそばにあるマンションの玄関であった。私の自宅からほんの数百メートルである。映画では、国道の車がひっきりなしに走る背景で健サンと三浦洋一だったかが話す場面であった。

また、近くにあった「京都東急イン」というホテルも出てくる。現在は大きなマンションに建て替えられたが、次々とヤクザの親分が玄関に集結するシーンである。

 山科には若さと夢があった。人々がいきいきと希望にあふれて暮らしていた時代でもあった。映画の町、京都の郊外として山科はさかんにロケ地として昔から活用されていたのである。

それにしても本当に悔しい。あこがれの健サンにもう少しで会えたのに。