勧修寺の歴史について(7) | ふるさと会のブログ

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山科の魅力を山科の歴史を通じて記録しようと思います。

鏡山 次郎

 延喜10年(910)8月9日、済高僧正が、はじめて勧修寺の長吏に任せられます(『山科町誌』)。また、『扶桑略記』によれば、延長3年(925)8月23日、醍醐天皇が勧修寺に行幸し、刺繍曼荼羅及び宸筆の法華経を供養し、勅会を開き、母胤子の冥福を祈ったとあります。天台座主静観僧正を講師に、仁教法師を堂達に、勅使として左小弁平希世を使わし、盛大な催しであったということです。天慶7年(944)6月、貞誉律師が勧修寺の検校に任ぜられます。これは勧修寺における検校のはじめとされています(『山科町誌』)。 
 そして、天慶9年(946)4月、済高僧正に代わり雅慶大僧正が、勧修寺の二代目長吏に任ぜられます。この雅慶は、宇多天皇皇子敦實親王の子、つまり宇多天皇の孫にあたり、醍醐天皇から言えば甥にあたる人です(『山科町誌』)このあたりから、皇族が勧修寺に来て、門跡寺院となって行きます。また、寛仁4年(1020)8月には、朝廷から山城国葛野(かどの)郡の水田5町を賜っています。また、少し後になりますが、保元3年(1158)5月10日に検注(検地)があり、その結果、永暦元年(1160)9月9日の記録では、勧修寺の領有する田畑山野が「254町5反10歩(田畑109町5反40歩、山林135町)(約90万坪、300ha程度に相当)に相違無い」との官符宣下がありました。たいへん広い所領を持っていたということになります。 
 治安3年(1023)12月に、深覚大僧正が第4代の長吏に任ぜられます。この時、深覚は、山科北部にある安祥寺の寺務も兼ねることになります。どうしてそうなったのかといういきさつは詳しくはわかりませんが、勧修寺がこれより約500年間もの長きにわたって、安祥寺を管轄することになるのです。そして、天永元年(1110)大僧正寛信が勧修寺八代別当となります。寛信(1084~ 1153)は藤原高藤8世の孫・藤原為房の子で、東寺長者、東大寺別当などを歴任した人物で、「勧修寺法務」とも称され、真言密教の事相に通じ、真言宗小野流の一派である勧修寺流の祖とされている人物です。

 しかし、平安時代の終わり頃には、勧修寺はたびたび火災などの災害に見舞われています。天喜元年(1053)には火災で炎上し、三昧堂や本堂を焼失しますし、治暦4年(1068)、勧修寺の寶満院、漢頂堂が焼失し、そのため、三尺彩色如意輪像一体、等身金色阿弥陀像一体、両界曼荼羅二幅を御願堂に安置することとなります(『山科町誌』)。保延元年(1135)には、増坊が焼失し、4月5日には、勝福院も炎上します。そして、文治元年(元暦2年・1185)7月9日、大地震があり、勧修寺の鐘楼、経蔵、廻廊、西中門等が倒壊します。時代の争乱と共に、自然災害も多く、勧修寺にとっても困難な時期であったと言えます。

(8に続く)