山科人
前回、「旅」とは稼ぎを目的にしたもの、と定義をしたところで、今回は旅商人の話題である。
『伊勢物語』の有名な「筒井筒」(二十三段)の冒頭は「昔、田舎渡らひしける人の子ども、井のもとにいでてあそびけるを」で始まる。生計を立てるために、家族を連れてあちこちの田舎を歩くこの「田舎渡らひしける人」とは行(旅)商人だったと考えられる。平安時代にどんなものを売っていたかは知らないが、まさしく「旅」をしていたのだ。だから『男はつらいよ』のフーテンの寅さんも典型的な旅人であったと言える。
昨年、「第2回ふるさと講演会」で西野山のWさんが話していたが、山科でも特に西野や西野山の百姓さんの多くは作った野菜を「京」に振り売りしていたという。
「振り売り」とは天秤棒に野菜などを載せ、ゆらゆらと振りながら、売り歩くことである。ほんの20年前までは、私の近所でも自分が作ったものだけでなく、中央市場などで仕入れたものを売りに出かけていた人がいる。「売る場所にたとえば縄張りみたいのはあるの?」と聞いたことがある。「そんなもんあるかい」という返事であったが、昔はそこらへんのことはきっと何か暗黙のルールがあったのではないか、と思う。今度Wさんに会った時に聞いてみようと思う。
1、2年前にも早朝の南禅寺辺りで、大宅のNさんをよく見かけた。オヤジさんが軽トラックを止めて、数人のオバちゃんと話をしながら相手をしている。80歳以上の高齢ドライバーの免許返上が話題になっている昨今、Nさんは確かもう米寿を過ぎていなかったか。収穫した後、おそらく夜に冷たい水で丁寧に洗って選別、1束ずつそろえて軽トラに積み込み、朝一番に山科を出たのだろう。こんな高齢の百姓が自分で大事に育てた青物を運んで、一軒ずつ声をかけて振り売りする姿は恐らく京都でも一番の珍しい光景のはずだ。自分が作ったものは自分で売りに行く、という百姓の気概を感じる。
逆に「行商人」と呼ばれる人たちがよくやって来たころがある。
その場で魚をさばく魚屋。ラッパを鳴らしてリヤカーを引っ張る豆腐屋。風船など子どもの好きなおもちゃを持ってくる薬屋。かつおぶし屋。「ゴウシュウに行っていた」という客に「西ですか、東ですか?」と聞いたら「江州」でなく「豪州」だったというネタを何回も言うポーラだったか化粧品セールスのおばちゃん。紙芝居。子馬にひかせたロバのパン。ポン菓子屋。なぜか学校の前でのひよこ売り。山科の地域の中にある店から売りに来ている場合と、他所からやって来て商売する場合があった。いつしかリヤカーが軽トラックになっていった。振り売りが農村から町へ、というのに対して、町から田舎へという動きもあったのである。
玄関を開けて入ってくるなり「しちみイ―」としわがれた声。背中に大きな風呂敷の荷を背負い、上がり框(あがりかまち)にすわると、でっぷりとしたその老人はいくつかの箱を並べる。見事にメッキのはがれたスプーンを取り出し、これまたすっかりはげたアルマイトの小さなボウルにいろいろな薬味を入れ、その場で調合するのである。おそらく唐辛子の辛さや山椒の量を、客の好みに合わせて七味を作るのであろう。子どもにとってそれはとても不思議な、そして興味深い動作であった。
何か月かに一度、そうやってものを売りに来る人は他にもいた。絣に赤いたすき、あねさんかぶりの装束姿を見かけたことがある。大原女ではなく、実際は高雄あたりから来ていたのだろうか、頭の上に長い梯子を載せて前の道をゆっくり歩いていた。いつ売れるかわからないのに、今から思うと大変な仕事である。今も愛用している鞍掛もそういう人から買ったと聞いた。「くらかけ」という言葉とそのものを知る人は少なくなっているに違いない。小さい腰掛である。梯子のように一つ売れば一日分のもうけになるだろうが、鞍掛なら何脚も運ぶとなると曲芸のような格好であったそうだ。残念ながらその姿は見た覚えがない。
日本がまだ農村と都市の交流が盛んでなかった時代、その間を行き来してしっかり「稼ぎ」という経済活動をしていた人々がいたということを知っておくべきだろう。