勧修寺の歴史について(10) | ふるさと会のブログ

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鏡山 次郎

 そうした関係がどう影響したのかはわかりませんが、江戸時代、勧修寺は徳川幕府から大きな援助を受けていきます。江戸時代初期には、水戸光圀公から灯籠が寄進されています。書院南の庭園の偃柏槙(ハイビシヤクシン)中に雪見型をアレンジして創作されたユニークな形の灯篭がありますが、これは「勧修寺型の灯篭」といわれ、水戸光圀公の寄進であるとされており、「雪灯篭」「水戸灯篭」とも称されています。また、その横の臥龍の老梅は、江戸時代に京都御所から移植されたものといいます。 
 寛文9年(1669)4月16日、将軍徳川家綱が宇治郡五ケ荘の内において、300石を勧修寺に寄進し、合わせて600石の所領となります。そして、この頃、第29代長吏となった済深(ざいしん)によって、勧修寺が再興されていきます。天和2年(1682)、霊元天皇皇子の済深法親王が第29代長吏として入寺して再興の事業に取り組みます。済深法親王は、「勧修寺中興の祖」とも呼ばれています。現存する本堂、宸殿、書院等の伽藍は、済深の努力により、当時の霊元天皇、明正天皇などの旧殿を下賜されたものであると言われています。
 貞亨3年(1686)済深により、本堂が建立されます。本堂は、寛文2年(1662)造営の仮皇居内侍所仮殿の旧材を用いて、同12年に潅頂道場として建築されたもので、元は近衛家の建物であったといわれています。堂内には本尊である千手観音像を祀っており、本尊の千手観音像は、醍醐天皇の等身大に造られたといわれていますが、現存の像は、室町時代の頃の作といいます。
 また、宸殿の北にある書院(重要文化財、江戸時代)は、入母屋造、柿葺(こけらぶき)で、江戸時代初期の書院造の典型的な建物と言われているものです。延宝元年(1673)に建てられた後西院御所の旧殿を貞享3年(1686)に下賜されたものと言われています。書院にある土佐光起・土佐光成父子の作とされる襖絵「竜田ノ紅葉図」「近江八景図」は有名で、これらの絵画は、江戸幕府や後水尾上皇らの許可なしには外出や他人との面会もままならない一生を過ごした明正天皇を慰めるために、畿内の名所を描いたものであると伝わっています。また、一の間の違棚は、「勧修寺棚」と称されている独特なものです。宸殿は、元禄10年(1697)に明正天皇から御所のの旧殿をもらい移築したものと言われていて、入母屋造、桟瓦葺き(さんがわらぶき)、内部は書院造となっています。また済深は、氷室池の衰退を嘆き、東西20間、南北30間を掘り進め、景観を整え復興しています。 
(勧修寺宮済深法親王:勧修寺第29世門跡。名は寛清、通称一宮。霊元天皇第一皇子。東大寺別当・一身阿闍梨に補せられ二品に叙される。元禄14年(1701)歿、32才。)(灌頂道場・かんじょうどうじょう)宮中で、天皇の安穏を祈り、また年中行事としての加持祈祷を行った真言道場)
 また徳川幕府により所領地や末寺も増えています。元禄8年(1695)7月2日、将軍徳川綱吉により、法親王が東大寺大仏殿再建に功があったとして、山城国綴喜郡水無、山本及び久世郡久世郷の地において500石が寄進され、合わせて所領地は1,012石になりました。そして、正徳3年(1713)9月28日、伏見宮邦永親王の子、尊孝法親王が第30代長吏として任ぜられるのですが、尊法親王は伏見宮出身で、法親王の叔母にあたる真宮理子(さなのみやまさこ)が紀州藩出身の将軍・徳川吉宗の正室であった縁で、紀伊国の約100カ寺が勧修寺の末寺となっています。(11に続く)