勧修寺の歴史について(9) | ふるさと会のブログ

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鏡山 次郎

 また、文禄3年(1594)豊臣秀吉は、伏見城築城に際して、「旧道は深草少将百夜通いの道にして怨恨減ぜられば不吉なり」として、新道(現・大岩街道)を開設します。そのため、秀吉は、勧修寺の仏閣、客殿、僧坊、礎石、碑石等をことごとく破壊し、これを山中に移し、禅林を廃し、氷室池を埋め立てました。
 勧修寺境内の「氷室池」は、平安時代の貴族の庭の代表的なものとされ、大小3つの島が浮かび、東山を借景に15の景勝が設けられ、「典雅の極致」と評する書もあり、昔は実際に舟遊びにも使われていました。その頃の呼び名は「栗栖野氷室の池」と呼ばれ、毎年1月2日にこの池に張った氷を宮中に献上し、その氷の厚さでその年の五穀の実りを占ったともいわれている名池です。この池は、かつては、現在よりもさらに南にも広がった池でしたが、新道建設の際に南側の大半が埋められてしまったのです。関連した話ですが、最近、私共ふるさとの会の会員である中川さんが、行者ケ森の山中から「刻印石」や「矢穴跡」などを発見され、話題となっていますが、この大塚の山から切り出した「大名岩」などが、この道を通って運ばれたのではないかと考えています。この道がなぜ「大岩街道」と呼ばれるかも、そうした訳があったのことと思います。後に秀吉は、慶長3年(1598)元勧修寺領であった西林院柳木領100石を勧修寺に返します。これで、勧修寺は合計300石の所領となりました。
 江戸時代に入りまして、慶長19年(1614)9月13日、徳川家康は、勧修寺が約500年間領していた安祥寺を、高野山の寶性院に与えることになります。ここに、平安時代以後、約500年間も続いた勧修寺と安祥寺との関係が断絶することになります。
 元和9年(1623)11月には、勧修寺と縁の深い明正天皇が生まれています。幼名を「女一宮」と言い、父、後水尾天皇の譲位により、わずか7歳で第109代天皇として即位した女帝の天皇です。譲位の理由は将軍徳川家光の乳母春日局が無官のまま参内した事件に、後水尾天皇が江戸幕府への憤りを覚えたからだと言われていいます。明正天皇は即位したものの、実際の政治は後水尾上皇による院政が敷かれ、明正天皇が実権を持つことは一度もなく、寛永20年(1643)に、21歳で異母弟の後光明天皇に譲位して太上天皇となり、出家し、元禄9年(1696)に74歳で没しています。勧修寺の宸殿や書院は、御所での明正天皇住居を移築したものであると言われています。明正天皇の母は、2代将軍徳川秀忠の正妻である江(ごう・崇源院)の子、和子です。また、曾祖父母は浅井長政と市(織田信長の妹)、さらには徳川家康も曾祖父にあたります。(10に続く)