勧修寺の歴史について(11) | ふるさと会のブログ

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山科の魅力を山科の歴史を通じて記録しようと思います。

鏡山 次郎

 天明6年(1786)、この年に発刊された『捨遺都名所図会』に”氷室池十五勝”が記載されています。そこに描かれた「翆微滝」は今も枯れ滝として残っており、春の桜や夏のスイレンが特に美しく、野鳥も訪れている名所です。また、氷室池越しに南大日山の稜線が迫り、醍醐の山々が望め、奥行きのある空間が見事な庭園で、勧修寺の庭園は、四季の自然美と人工の構成美を兼ね備えた名勝とされているのです。
 そして、文化14年(1817)4月、伏見宮貞敬親王の子、済範法親王が第32代長吏として任ぜられます。この人は、後に元治元年(1864)皇族に復帰し「山階宮晃親王」と称され、現山階宮家の祖となった人です。 
 近代になって、この勧修寺にもいろいろな変化がありました。まず明治元年(1868)には、高野山蓮乗院より、大僧正覚阿が、第33代門主として任ぜられています。そして、明治5年(1872)2月5日、勧修寺内の宸殿(明正殿)で、山科区では初めての小学校(勧修小学校)が開校しました。(別に9月28日開校説もあり山階校が最初との説もある)。ここで明治14年(1881)6月まで小学校の授業が行われ、6月に勧修小学校は現在の場所に移転しています。
 明治31年(1898)大僧正長宥(ちょうう)が、第35代門跡となり、真言宗の長者に任ぜられ、真言宗山階派の初代管長ろなり、私財を投じて勧修寺の寺産を整え、修造を図りました。また、明治40年(1907)当時の「真言宗」が解消されて、山階派、小野派、東寺派、泉涌寺派として独立しましたが、その中で勧修寺は「山階派本山」となりました。 
 昭和になりまして観音堂が再建されます。観音堂は、氷室池に面して建つ楼閣風の建物で、観音菩薩像が安置されています。昭和6年(1931)の再建と言われ、「大斐閣」とも称されるものです。
 昭和11年(1936)には、大石順教尼が、勧修寺境内に身体障害者福祉相談所を開設します。仏光院境内には草庵跡や、吉井勇の歌碑「そのむかし臙脂(えんじ)を塗りしくちびるに筆をふくみて書く文ぞこれ」があり、筆を口にくわえて書画にも精進した順教尼を偲ぶことができます。 第二次大戦中(1941~45)には宗教団体法の施行により、既存仏教各派の統合が進められ、真言宗各派は完全に統合されることになります。
 また、筑波門跡のお話では、第二次大戦中には、勧修寺の宸殿は、伏見にあった国立病院の分院となり、特攻兵や戦病者の治療が行われたということで、今でも当時の患者の人が懐かしん来られることもあるそうです。また、勧修寺(吉利倶)八幡宮の裏山(勧修寺所有地)の崖に、第二次世界大戦時の「防空壕」が3基現存しているということです。伏見の第16師団の兵隊が掘ったもので、最も長いものは奥行き7~10mほどあり、現在は、事故などが起きないように、入口に鉄柵でふたをして中には入れないようになっています。 
 戦後になった昭和26年(1951)4月、大石順教尼によってかつて勧修寺の塔頭のあったとされる場所に仏光院が再興建立されます。そして大石順教尼は、昭和43年(1968)、この地において85歳で亡くなります。
 勧修寺は昭和27年(1952)戦中の統合を経て、再度山階派として独立します。そして、平成12年(2000)6月、宮道神社の社殿等の再整備に併せて「由緒碑」が建立されます。
 平成21年(2009)度の『京都さくらマップ』(制作・京都市 第203115号)によると、京都市内での桜の名所として28カ所があげられていますが、その中で山科では大石神社の「大石桜」、毘沙門堂の「盤若桜」、そしてこの勧修寺の築地掘沿いの桜並木があげられています。説明には「築地掘沿いの桜並木に誘われて門をくぐれば、そこは雅やかな池泉庭園、観音堂を取り囲むように桜が咲きます」とあります。
 千百十余年の古い歴史を持つ勧修寺は、現在もなお、多くの人々を引き付ける魅力を持つ寺院です。春の桜や夏のスイレンが特に美しく、野鳥も訪れています。秋には紅葉が見事で、冬の氷室池もすばらしく、年中多くの人たちがカメラを片手に訪れています。このように深い歴史とすばらしい景観を持つ勧修寺は、地元山科の住民が誇れる、すばらしい寺院だと思います。
 こうしたすばらしい勧修寺の歴史と魅力について、多くの人たちに関心をもってもらえれば幸せに思います。(終わり)