Memento
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Love you, and bye.

Union SquareのホテルからNob Hillを越えて、Pacific Heightsあたりまで歩く。Nob Hillは頽廃したUnion SquareやMarket Streetとは違い、おしゃれなカフェやレストランが立ち並び、雰囲気も良い。人気のレストランやシーフードショップには行列が出来ている。以前ブランチをしたThe Crepe Houseを通り過ぎる。鈍い痛みが琴線に触れる。

 

Pacific Heightsにはブティックショップやカフェが多くある。天気が良くて、皆上機嫌に見える。Limeの電動スクーターを借りてMarinaまで行ってから、Crissy Beachで本を読む。The Unbearable Lightness of Beingの再読。この日はとても天気が良くて、嘘みたいな晴れの日だった。英語力の問題なのだろうが、日本語訳の方が雰囲気があると感じる。それとも加齢による感受性の減衰だろうか。Palace of Fine Artsまで歩いて行く。6週間前に見たときと同じ威風堂々としている。そこからまたLimeの電動スクーターで海沿いを走る。自転車のレーンが長く続く、なんて最適なサイグリングコースなんだろう。Torpedo Wharfを越えてFort Pointまで行くと、Golden gate bridgeが聳え立つ。夕陽に照らされたGolden gate bridgeは壮麗で、この橋が人々を魅了し続けるのも理解できる。スクーターで坂を登ってBaker Beachで日の入りを見る。相変わらず綺麗だ。空気が透き通っていて、紅い太陽が、太平洋に落ちていくのがくっきりと見える。なんでこんなに綺麗なのだろう。涙すら出てこないような美しさだ。

 

そこからSF Symphonyまで行く。電動スクーターのバッテリーがなくなり、バスに乗って行くとちょうど開演時間になる。RavelのDaphinis and Chloeのオーケストラ。正直言ってオーケストラは苦手だが、全体の完成度はとても高い。サンフランシスコという土地柄か観客の服装は自由なもので、イブニングドレスを着飾っている人もいればTシャツの人もいる。前半は少し退屈したが、その後シャンパンを飲むと後半はより愉しい。

 

翌日、Market Streetでコーヒーを飲んで、本の続きを読む。パンプキンラテを飲み終えると、Missionのメキシコ料理La Taqueriaに行く。ランチ時は相変わらずの行列だが、そこそこ早く流れるので30分も待てば中に入れる。牛肉の頭部を使ったburritoを頼む。期待していたほどの味ではなく、前に食べた豚肉の方が美味しかった。そこからまた電動スクーターでBernal Heights Parkに行く。以前行こうかと思って結局行かなかった高台だ。登ってみると、サンフランシスコの街並みが360度見渡せる。北を見ればNoe ValleyやTwin Peak、東にMission、その先にはFinancial Districtが見える。晴れた、乾いた午後だが、Golden gate parkの上空には厚い雲がかかっている。暑くもなく、寒くもない、完璧な10月の午後。完璧とはこのことだ。カリフォルニアの空はあまりに天国に近く、眩しすぎる。もはや何もしたくない。何も欲しくないし、何も楽しみではない。ただこの完璧な天気の下で、静かに意識が遠のくのを待ちたい。

 

そうしてこの街から去っていく。Love you, and bye.

サンフランシスコ

またサンフランシスコに来ている。今回はSausalitoというGolden gate bridgeの反対側の半島に泊まっている。対岸にはサンフランシスコのFinancial Districtが見えて、夜景が綺麗だ。フライトを終えてホテルに着いたのが4時くらいだったので、夕方周辺を走ってきた。Golden gate bridgeが見える丘まで走って夕陽を見た。相変わらず美しいGoldden hourだった。ロンドンで見た夕陽よりも、既にサンフランシスコで見た夕陽の方が多いかもしれない。サンフランシスコはロンドンほど大きな都市ではないが、なんといっても剝き出しの自然がそこにあることが特徴のように思う。西側のSunsetには太平洋を見渡すビーチがあり、Golden gate parkには多くの植物があり、それらの自然はロンドンや東京のそれと比べてずっと荒々しく、足を踏み外せば断崖絶壁から落下するようなエリアがたくさんある。あるいは、East Bayまで足を延ばせば何もない山岳地帯で脱水症状になるなんてこともある。手に届くところにある雄大な自然が、いつでも自分の小ささや自分自身に対する挑戦を教えてくれる。サンフランシスコやベイエリアという場所がテクノロジーやイノベーションの中心になっている理屈も、分かるような気がする。圧倒的な自然が、常に自分に向けてこれが全力なのか、これが限界なのかと問いかけてくる。その度に自己は成長する。そうして偉大なファウンダーやアントレプレナーが生まれてくる。欧州における中小規模のスタートアップを形成して何かを成し遂げた気になっているファウンダーとはかなり違った精神性だと思う。そして、美しい夕陽に心を洗われて、また明日から全力を尽くす。その熱量に同調する優秀な人材が世界中から集まってくる。シリコンバレー神話が陥落し、テクノロジーの中枢は分散されるかと思われた時期もあったが、今は欧州や日本が米国ベイエリアに勝てないのは、構造的な問題なのだと思うようになった。

Impossible

Sinking, sinking slowly Sinking down, can't hold my breath Sinking out of your respect Drifting, drifting freely Drifting through your mind Drifting out of space and time

Gazing through a glass, am I just dreaming? Falling fast Or is my view of all your thinking Impossible? Lost in lands of dreams of different kingdoms Worlds unseen But something's wrong, it's all too perfect Impossible

Flying, flying solo Flying through your clouds of white Flying from another fight Floating, floating far from home Floating so high up Floating 'til we're out of love

Gazing through a glass, am I just dreaming? Falling fast Or is my view of all your thinking Impossible? Lost in lands of dreams of different kingdoms Worlds unseen But something's wrong, it's all too perfect Impossible

I don't want it to end Don't want to pretend That it wasn't real from the start It will break us apart Oh, no, no I don't want it to end Don't want to pretend That it wasn't real from the start It will break us apart

Gazing through a glass, am I just dreaming? Falling fast Or is my view of all your thinking Impossible? Lost in lands of dreams of different kingdoms Worlds unseen But something's wrong, it's all too perfect Impossible, oh

Gazing through a glass, am I just dreaming? Falling fast Or is my view of all your thinking Impossible? Lost in lands of dreams of different kingdoms Worlds unseen But something's wrong, it's all too perfect Impossible, oh

Wasia Project

Wasia ProjectというUKのバンドの音楽を聴いている。Croydon出身の兄妹で、クラシカル音楽のバックグラウンドを持ち、Jazz調の音楽を作っている。歌声が美しく、聴いていて引き込まれるものがある。2人とも20歳前後にも関わらず音楽は非常に落ち着いて、成熟している。メランコリックな雰囲気もとても良いなと思う。

 

色んな物事がぐるぐると廻って、精神的には一周してきた気がする。つまらない話だが、戻るべきところに戻ってきたということか。痛みを伴わなければならない喜びも、束の間の休息も、ちょうどあと2日ほどで終わりを告げることになる。一周して結局のところ、自分は何か変わったのだろうか。冒険して、得たものより失ったものの方が大きいかもしれない。Burning Eyes R Calling。

 

それでも進んでいくしかない。後退はありえず、人生は進んでいく。下り坂に差し掛かるのはまだ早い。物事の偶有性に右往左往していても仕方なく、僕ができることはこれからも登り続けていくことだけだ。how can i pretend?

長い夏休み

週末にUC Berkeleyを訪れた。先日Stanfordを訪れてあぁなんて立派なキャンパスなんだと思ったが、UC Berkeleyのキャンパスの方がずっと楽しく、こちらを見てしまうとStanfordのキャンパスが妙に権威的でつまらなく思えた。Berkeleyという街も学生が溢れていて、学生向けの飲食店なども多く、京都のような雰囲気だった。Labour day weekendの日曜日だったにも関わらずキャンパスには多くの学生がいて、各自芝生で寝転んだり、サッカーをしたり、ラップトップで作業をしていたりした。時計台に登ると、Berkeleyの街並みと遠くにサンフランシスコが見渡せる。高校生くらいの時にこのキャンパスに来ていたら、本気で米国の大学進学を検討したかもしれないなと思った(最近そんな愚にもつかないことばかり考えている)。芝生に座ってカフカの「城」を少し読んだ。いかにもカフカらしい、どこにも行きつかない物語だ。でも、誰かの人生が本質的にどこかに行きつくなんていうことが実際にあるのだろうか。

 

その後Grizzly Peakに行って夕陽を眺めた。夕陽に照らされたBerkeleyの街は宝箱のようだった。遠く、Bay BridgeやGolden gate bridgeも見える。久しぶりに景色を見て心が洗われるような気分になった。丘に登っていると電波塔に登れると聞いたが、鉄格子が張り巡らされてとてもではないが登る気にはならなかった。

 

Napaの丘陵地帯を覆うブドウ畑が夕焼けに照らされるなかドライブしていると、長い夏休みが終わるのだと思った。Cigarettes After Sexを聞いて、妙に鬱蒼とした感傷に浸っていた。学生時代に留学したり旅行していた時にはよくこのような感傷に浸るときがあった。ここ数年は日々の雑多で圧倒的な現実により、そんなことを感じる余裕もなかったように思う。サンフランシスコはようやく暖かく、夏らしくなってきた。僕のここでの時間は尽きかけている。ロンドンに戻ってどのように感じるのか、自分でもまだわからない。

Life

昨晩Palo Altoで知り合いに紹介してもらった日本人の投資家の人と夕食をした。東京で新卒から働き、米国MBAを出てベイエリアで投資をしている。話を聞いていると、色々と考えさせられることがあった。自分はもともとテックが好きで、大きな話が好きで、世界を変えるようなテクノロジーに関心があった。隣の芝生は青いのだろうが、彼の仕事や環境はとてもダイナミックなものに思え、自分はもっとずっとつまらないことをしているように思えた。これが自分のしたかったことなのだろうか。今の状況をこれからも続けていくのが正しいのだろうか。人生を消化試合にしてよいのだろうか。色々と思うことがある。それでも、僕はもうロンドンに置いていくことのできない根を生やしている。それを動かすのは、とても骨が折れるし、正しいことではない。こんな歳になって夢を見るよりも、筋を通すことが大事なのかもしれない。答えはない。リスクを取ることができる時はいつでもあったし、今でもそうだ。ロンドンに帰ってから、日々の生活がどう見えるだろうか。また以前の心境に戻ることができるか、今は分からない。一時の気の迷いかもしれないが、今は少し感慨に耽っていたい。

再開

久しぶりにここを訪れて、消していた過去の記事を復活させた。過去の記事をざっと読むと、いかにも未熟で頭の悪い学生じみた文体に辟易としたが、それが自分の軌跡であり、自分の過去を記録し、受容することは何かしら意味があるのではないだろうか。

 

この夏米国に来てみて、想定していなかったくらい心境の変化があった。8年前にロンドンに出向したときのような、自分の可能性を刺激されている。米国は大きく、サンフランシスコには優秀な人が多い。これだけ世界の富が集まり、日々世界を変えているだけのことはある。渡英して8年、ロンドンの生活もだいぶ落ち着いてきて、自分の人生も落ち着いてきたような気持ちになっていたが、世界にはまだまだ大きな可能性があるのだと思い知った。日本の大学に行かずに、米国の大学に来ていたら、西海岸で機械工学や物理を学んでいたら、自分の人生は随分と違ったものだっただろう。そこまでいかなくても、米国のMBAに来ていれば、こちらに残った可能性があったかもしれない。高校生の時、海外の大学に行きたいと思い英語の勉強を頑張っていたけれど、どうしたら行けるのかもよくわからなかった。社会人になって海外MBAでも行こうかと思い、また試験勉強をしてみたが、結局中途半端で、出願もせず、そうこうしているうちにロンドン出向の話が来て米国MBAの話なんてどこかに飛んで行ってしまった。スタンフォードMBAに憧れていたので、スタンフォードにもし来れていたらまた違ったキャリアや人生になっただろう。

 

ロンドンの生活に不満があるわけではない。以前からすると、自分は驚くほど幸福な生活を送っているし、仕事もそれなりに順調にできている。それでも、欧州は停滞しており、米国の活力度合いは欧州のそれとは桁違いであり、それを直接肌身で感じるにあたり、自分はロンドンで今の生活を送ることに満足して良いのだろうかと自問する。米国での大きな可能性があるのではないか、いつまでアドバイザリー業などという非効率な仕事をするのか。人生の新しいチャプターを開くべきではないのかなど、色々と思うところはある。このまま歳を取っていってよいのだろうか。今見えるこの新しい可能性をつかむべきではないのか(できることなら掴みたい)と思う。ただ、自分はもう既にロンドンに根を生やし、責任がある立場にある。安易に自分の意志で人生を変えられるようなフェーズではもはやない。それでも、カリフォルニアにきて、米国の大自然を目の前にして、自分が英国という小さな島国、欧州という停滞したマーケットの中で削り合いのゲームをしていることに対して自問せざるを得ない。新しい人生、新しい環境、新しい仕事、新しいパートナー、そういうものに憧れる自分がいる。僕は本当にどうしようもない。今更別の人生を夢見てどうしようというのだろう。ロンドンでもできることはたくさんあるが、現状に対する微修正にしかならない。

 

この数年は、多くの時間を無駄にしてきた。色々な場所に行ったり、色々な経験をしたのに、その一つ一つをしっかり楽しむ努力をしていなかった。本を読むことを止め、同じ音楽をずっと聴き、くだらないSNSやネット動画に時間を浪費した。もっとたくさん楽しめたし、もっと自分の可能性に懸けることができたはずだ。またはフランス語やスペイン語を向上させることもできたはずだ。日々の喧騒に感けて、ぼんやりと生きていた。これはいずれにせよ変えなければならないし、いかにもつまらない人間になっていた自分を変えたい。美しい景色に感動して、美しい瞬間を多く持ちたい。未熟で稚拙な学生時代の方が、まだしっかり自分の人生というものが見えていたかもしれない。このまま老死するところだった。米国に来て良かった。自分はまだまだやれる。

香港

2年ほど前にいた香港にまた来ている。東京での社会人生活に倦怠感しか感じなくなって、そろそろ何か新しいことをやろうかと思っていた矢先、ロンドンへの出向の話が舞い込んで来て、運良く1年間、ロンドンオフィスで仕事をした。出向と言っても僕の仕事はサムライ債や日本株のセールス・リサーチ、トレーディング等ではなく、M&Aのアドバイザリーというその本質はコンサルティングのような内容なので、大手外資系のNYにあるようなジャパンデスクとは異なり、現地のチームの中に入って、現地のクライアントに対して仕事をしなければならない。東京では英語での仕事も卒なくこなしているつもりで、英語を使った仕事でも同僚のネイティブスピーカーにも引けを取らない自負があったが、いざロンドンのチームに入ってみると、社内カルチャーの違いや言葉遣いに苦労をしたし、ネイティブスピーカーしかいないビジネスミーティングを仕切ったり英語で気の利いたことを言って賢ぶったりするのにはまだまだ力不足だと感じた。一年の出向期間が終わりに近づき、いざ帰国する手続きを進めていると、東京オフィスで要領の悪い日本のクライアントに対して仕事を続けることと、東京での便利で楽だが遣り甲斐のない生活に対する厭気が込み上げて来た。結果、僕はロンドンの現地企業へ転職することを決め、2ヶ月半の休暇の後、今こうして香港に来て働き始めようとしている。

 

香港に来たのは純粋に英国の就労ビザ取得のためで、僕は出向時に出向用のビザで英国において就労していたのだが、世界一厳しいとも言われる英国イミグレーション法の下では、このビザの期限が満了後は12ヶ月のクーリングオフ期間が発生し、英国にて異なる企業をスポンサーとして就労ができないことになっている。その規制を迂回するためだけに、香港オフィスで数ヶ月働き、英国ビザが取得でき次第、ロンドンに戻ってロンドンオフィスで働くことになっている。(どうでも良いが、このようなビザ関連のあれこれは非常に面倒で、単純に金で解決できないことも多く、プロセスを通して移民労働者たちの肩身の狭さを垣間見たような気がした)

 

実のところ、僕は香港もロンドンも好きではない。亜熱帯性の香港は夏は猛暑日が続き、コンクリートで覆われた街は埃だらけで泥臭く、屋内はエアコンが効き過ぎていて不快で仕方がない。ロンドンも、どこまで行っても汚い街だし、そもそも香港人も英国人も話し方から内面に到るまで不愉快で好きではない。英国では北部の片田舎の方が、また夏に限ればスコットランドの方がずっと好きだし、人や文化、人生観などはフランスやスペインの方が好きだ。それでも僕がロンドンに戻るのは、これ以上東京でサラリーマンを続けることの情念が尽きてしまったことと、未知の環境にチャレンジすることで無味乾燥した東京では得られない感情の揺らぎを今一度感じたいと思ったからだ。東京では、もはや仕事は僕に何の感慨ももたらさなくなっており、持っている能力の半分くらいの力で日々の業務をこなせるようになっていた。まっとうな仕事をしている20代としてはこの上なく稼いでいたし、自分の給料が1,000万円、2,000万円、3,000万円と上がるにつれて、都内の一等地に億ションを買ったり、何十万もするスーツを着たり、何百万もする腕時計を買ったりもしてみたが、それらは僕の感情の針を動かすことは微塵もなく、虚しい達成感のようなものだけがぼんやりと残り、自分の時間や労力に対する結果(=金銭対価)への失望ばかりが蓄積されていった。右も左も分からない状況からこの業界に入って来た6年前とは打って変わって、すべてが色褪せてしまったように思われた東京の環境で仕事を続けても、僕のサラリーマン人生はどのみち長く持たないだろうと思われた。

 

社会人になって初めて2ヶ月超というまとまった長期休暇を取ってみて、改めて自分のやりたいことや進みたい方向性を自省している中で、東京でのサラリーマン生活を通して培われた自分の古皮が剥がれたような気がした。昔からの友人とも、時間やメールを気にせず、また腐った拝金主義的な価値観を忘れて、久々に真っ当に話ができたような気がした。仕事ができるようになりたい一心で被っていた外皮のせいで、僕はいかにも中身のない、詰まらない人間になっていた。畢竟、どんなに心身を捧げてもサラリーマンとしての稼ぎなんて知れているし、金なんていくら稼いでも生活は詰まらないままだった。知的好奇心の赴くままに学究に励んだり、倒れるまで友人と酒を飲んだりしていた学生時代の方がずっと世界が色鮮やかで心を動かすものだった。世俗的な価値観の中で羨まれるようなところを目指しても、自分には何の達成感もない。自分のモードで生きなければならないと改めて感じた。世間的な評価なんて、いかにもどうでも良いことだ。(そもそも、誰が僕の人生を「評価」する権利などあるだろう?)

 

香港、そしてロンドンの新しい環境での生活が首尾よく運ぶかはやってみないとわからないが、少なくとも今は、小説の新しいチャプターを開くときのような、久々に心踊る気持ちでブログを更新してみたくなった。

旅の終わり

香港国際空港の出発ロビー、旅がまた終わろうとしている。ただのバカンスのつもりだったが、収穫の多い旅だった。自然とまた何かを書きたい気分になった。それは僕にとって意味のあること、日々の雑多な物事の中で唯一と言って良いくらいの精神活動といえるものだろう。

 

一年ぶりの休暇の目的地に、セブ島、ボホール島といういかにも能天気なバカンス地を選んだわけだが、それというのも特に行きたい場所もなく、かと言って1週間家に居てもまったく生産的になれる気がしなかったので、海でも見ながら骨休めしようと思ったのがきっかけだった。セブ島は想像通りつまらない島で、日本人と韓国人で溢れていた。海は大して綺麗ではない上、物価は環境客向けに嵩上げされており、シティは観光客のために作られたような施設しかなく味気なかった。あまりに詰まらなかったのでセブ島から高速船で2時間くらいのボホール島に行ってからは状況は改善した。  海は誰もが夢想するような透き通るターコイズブルーで、砂浜は長く、白かった。ホテルも、セブと同じくらいの値段のホテルだったのだが、ボホールの方が全体の物価が安いのかずっと良かった。(どういう基準が採用されているのかわからないが、経験上5つ星といってもピンキリだ) というわけで、僕は休暇3日目にボホール島のHennan Resortというホテルに滞在していた。昼過ぎにセブを出てボホールのホテルに着いたのが午後4時頃。僕は翌日の予定を考えていた。どうせなので、近隣の無人島に日帰りで足を運ぶアイランドホッピングをしようと思っていた。野生の海ガメと泳げるツアーがあり、ホテルの外の通りにあるローカルな旅行エージェントで予約した(昨年タイに行った時もそうだったが、東南アジアではこのような現地での格安のパッケージツアーがその場でいくらでも見つけられる。大体日本人向けの日本語ガイド付きのツアーや、リゾートホテルで予約する値段の10分の1くらいだ)。翌日、朝6時集合と言われたのでその日はプールサイドで軽くピニャコラーダを飲んで早めに寝た。(日本では決して飲もうとは思わないカクテルだ) 翌朝集合場所に行ってみると、店の前に店頭にいた現地のおばさんがおり、乗っている原付の後ろに乗れと言われたので言われるがまま原付で移動した。すぐ近くの海岸にアイランドホッピング用の小型船(モーター付き)が停まっていた。参加者は10名程度と聞いていたが、僕が着いた時にいたのは韓国人のカップルだけだった。海外にいる韓国人、取り分け若い女性は、なぜか皆一様に自分が有名人であるかのように振舞っており、フレンドリーでない人が多い印象があったが、このカップルもまさにテレビに出てきそうな格好で、要はセレブぶっていた。大抵、英語で話しかけても反応に乏しく、会話にならない(単に英語があまり出来ないのもある)ので、要するに旅行先で出会う相手としてはつまらない連中だった。(韓国語で話しかけると喜んで返してくるのだが、僕の語彙では碌に会話もできないので意味がなかった)その後、西欧風の若いカップル(後に分かったところによると、イスラエル出身のカップルだった。両方とも背が高く、相当な美男美女だった。以前会ったイスラエル人の女性も美人だったが、あの辺りは西欧とオリエントが上手い具合に混ざり合って歴史的に品種改良が行われたに違いない)。後は中国人らしい間の抜けたおっさんが2人と、デンマーク人の女性が1人(30代後半くらいに見えたが、仕事を辞めて世界中を旅して回っているらしかった)、そしてインドと香港出身の若い女性2人組だった。僕はこの2人と仲良くなった。最初の小型船でたまたま隣に座り、島に着いた後にシュノーケリングでさらに小グループに分かれた時にも同じ舟だったこともあり、所々で会話をした。2人は大学時代からの親友で、もうかれこれ10年来の付き合いらしい。(後から分かったことだが、2人はペンシルバニア州立大学で知り合い、歳は僕の2つ歳下だった。)2人とも美人で、スタイルが良く、フレンドリーだった。何より、旅先で会う人間としては知性レベルが申し分なく、話していて不都合がなかった。大体、旅先で出会う人は良い人であっても、知性が高いと感じる人に出会うのは非常に稀だった。一つの可能性としては、それが確率論的な本来の世の中の水準であり、すなわち、世間の人間はその大半が知性らしい知性を持ち合わせていないにもかかわらず、僕が無意識的に今まで自身の属してきたコミュニティの中で出会った人間と比較するせいで、統計的なバイアスがかかっているのだろう。別の可能性としては僕が馬鹿の行くところばかりに行っているというものだが、これに関しても最近の僕の旅先を考えてみるとそれなりに正当性のある仮説のように思われる。(つまり、実際のところ両仮説のミックスであろう) とはいえ、海外で出会う中国人は英語が下手で煩く我儘で、国際社会の基準からはあらゆる点で著しく乖離している人が散見されるものの、香港人は英国の植民地教育の成果か、まともな国際人だなというのが最初の印象だった。彼女らはArshとYanという名前で、Arshはドバイ、Yanは香港で働いているらしかった。僕らは1時間ほどかけて近くの島に小型船を停泊させ、そこから更に手漕ぎボートに乗って近くの浅瀬まで行ってシュノーケリングをした。海の中は綺麗で、別世界だった。何匹かの海ガメにかなり接近し、もう少しで触れられそうだった。海ガメは息継ぎのために浮上してくるのだが、優雅に自然の浮力と大きな前ヒレを使いながら泳いでいた。実のところ僕は理由もなく海ガメに憧憬を覚えている節があったのだが、実際に自然の海ガメを見ると、そのgracefulな出で立ちや動作に感動した。彼らは人間より尊い精神性を持っているに違いない。水中でバタつく僕はいかにも無力で、それに反して海と一体になっている海ガメは神々しくすらあった。鶴は先年、亀は万年というだけあって、古の時代からこの遅効代謝の不思議な生物に人は魅了されてきたのだろう。(かの竜宮城へと浦島太郎を導くのが海ガメであるのを偶然と捉えるべきではない)

 

海ガメを見た後は、より浅瀬に行って珊瑚礁や熱帯魚を鑑賞した。こちらは海ガメほどの感動は覚えなかったが、それでも朝の光が差し込む水中は美しく、色とりどりの魚たちは喜んでいるように思えた。僕らはその後、手漕ぎボートで岸へと戻り、少し休憩してからまた小型船に乗ってVirgin Island目指して出発した。僕はそれの意味するところすら知らなかったが(何せ前日に何の説明も受けずに予約したツアーだった)、Arshによると海に浮かぶ小さな無人島で、そこではシュノーケリングも何もせずただ水辺でchill outするのだそうだ。約30分後、僕らはVirgin Islandに着いた。それは島になっていない島、海の真っ只中に30cmくらい水に沈んだ純白の砂浜が見えるだけの島だった。上から見ると半円を描いているように見えるだろうその砂浜の中心部にはマングローブが点在していた。目を見張る美しさだった。この世のものとは思えなかった。まさに天国があるとしたらこんなところだろう。Eric ClaptonのTears In Heavenを脳内再生しながら、死ぬ時はまたここに来たいなと思った。時間は11時を回っており、その頃には太陽が高く登っていた。遮るもののない陽光が、海や空気を包み込んでいた。僕らは水に浸かってみたり、写真を撮ったりして遊んだ。僕はカメラも携帯も持ってこなかったことを悔やんだ。その代わり、少しでも心中にその写像を残そうとする試みから、ずっとその景色を眺めていた。小型船で日光浴をしていたYanに、「ここなら午後いっぱい景色を見続けていられそうだ」と言った。彼女は、「ウソ、私はホテルに帰ってシャワー浴びたい」と言っていた。確かに塩でパサついた肌に熱帯の太陽が容赦なく照りつけ、僕の肌は既に赤くヒリヒリし始めていた。Virgin Islandには30分かそこらしかいなかった筈だが、僕の肌は翌日には太陽の恩恵を余すことなくに浴びてフィリピン人ばりの黒に近い褐色になった。オフィスに復帰すれば随分顰蹙を買うだろう。だがそれとて何だろうか、僕は太陽を浴びに来ているのだ。(そして僕は日焼け止めとかそういう類のものを塗りたくるのが好きではない)

 

機内は間も無く離陸体制に入り、夕陽の落ちる香港国際空港から発とうとしている。旅がまた終わるのだ。またあの何の実質もない、糞みたいな現実に戻ると思うと鬱蒼とした気分になる。僕が今しようとしていることは、旅の記憶を書き下し、追体験することで、それを長引かせようとする試みに他ならない。少なくとも、搭乗時間中はその余韻に浸り、腐りきった現実に戻るのを少しの時間でも回避できるだろう。久々にエコノミークラスに乗っているが、ふと自分が何の不都合も感じていないことに気が付いた。ビジネスだろうとファーストだろうと、飛行機なんてのは所詮限られた狭い空間に閉じ込められて轟音に耐えながら不味い食事を摂らされる時間以外の何物でもない。それでも僕は移動するのが好きだった。飛行機であれ、列車であれ、船であれ、ボロボロのトゥクトゥクでさえも、僕は何かに乗って移動するのが好きだ。流れていく景色に思いを馳せながら、自分の人生が前進しているような感覚に身をまかせるのが心地良く、どれだけ景色を見ていても飽きない。思うに、僕はパイロットにでもなれば良かったのだ。空の上の神々しい世界はいつ見ても心が洗われるような心地がするし、朝も昼も夜も、空の上を見ているるのは飽きないものだ。僕は優秀なパイロットになっただろう。僕の身体は健全で、気象学にある程度精通しており、航空工学や航空法の実務も直ぐに体得できた筈だ。不規則な生活や、英語を使う生活にも全く問題はない。学生時代、就職活動中に全日空のパイロット枠に応募していたにも関わらず、試験会場が田舎のよく分からない、行ったことのないところだったという理由だけで試験に行かなかったことが悔やまれる。医者にも弁護士にも政治家にも興味を持てた試しがないが、漠然とパイロットか宇宙飛行士にはなりたいと思っていた時期があったくらいなのに、人生というのはこのように些細な物事が分岐点になることがある。(最終的な就職先は、給料の多寡で決定した。ビジネスなんてそもそも僕のさしたる関心毎ではないし、どれだけ御託を並べようと金のために働くことに変わりはないのだと思ったからだ)

 

Virgin Islandの後、僕らは帰途に着き、アイランドホッピングは正午過ぎには終わった。Arshがこのツアーは午後1時まであると聞いていたのに、と愚痴っていたが、確かにランチを挟んで午後も海にいても良かった。僕はというとall dayツアーだと思っていたので、午後は何も予定を入れていなかった。ボホールに着いた後、2人に午後は何をしているの、と聞いてみた。案の定2人も特に予定はないようだった。僕らは連絡先を交換して、夕方、浜辺で落ち合うことにした。僕は自分のホテルに戻って、シャワーを浴びたあと、ホテルのプールで泳いでテラスで本を読んで時間を潰した。気付いたら午睡していた。夕陽が暮れる頃、目を覚ますとYanからメッセージが来ていた。「昼寝しちゃった。これから浜辺に出ようと思うけど、来る?」僕は少ししてから行くと返して、再度シャワーを浴び、服を着てから浜辺に出た。浜辺には多くのレストランやバーが立ち並んでいた。一通り歩き回ってみたが、2人の姿が見当たらないので再度連絡してみた。気が変わってditchされる可能性だって十分にあった。しかし、返信はすぐに来て、「Vine Cafeというバーにいるわ。電燈が灯っているところ。私たちも今入ったところなの」ということだった。

 

そのバーはすぐに見つかった。Arshはlocalビールを、Yanは赤ワインを飲んでいた。僕は2人と合流し、San Miguelを注文した。Yanは自分たちの大学時代の話を始めた。「大学に日本人からの留学生がいたのよ、(Arshに向かって)ほら、覚えてるでしょ。ケンジって名前の」僕は写真まで見せてもらったが、如何にも間抜けそうな日本人がそこには写っていた。それから間も無く、思い出したかのようにYanが唐突に「南京大虐殺って知ってる?」と聞いてきた。僕は自分の知っているところを話した。Yanは注意深く聞いていた。なぜか知らないが僕は早々に被告席に立たされ弾糾されようとしていた。完全に罠にはまった格好だ。正直な話、僕からすれば南京大虐殺も韓国慰安婦も(そう、弾糾は慰安婦にまで及んだのだ)、過去のあらゆる酷い歴史の一つでしかなかった。僕に取ってそれはドイツのナチズムや西欧の植民地政策、米国での南北戦争と同じ色をしていた。つまり、個人的な文脈の中で何の色も持ち合わせていなかった。確かに日本政府は当時狂信的な動きを取っていたし、第二次世界大戦時には独裁下のドイツ、イタリアを同盟を結び、大東亜圏の掌握のために天皇を崇めて全てが正当化されていたのだと話した。だが、それらは所詮、僕に言わせれば一時的な錯乱だった。ナチズムがドイツ人の血に流れていないように、それは日本人の本性ではないように思われた。僕に取って天皇は一個の個人以上の何物でもなかった。大東亜圏構想にしろ、パールハーバーにせよ、一種の錯乱、クーデターなのだと説明したが、それでも弾糾は終わらない。僕は抜けられない罠に嵌められた気分だった。日本人全体のイメージなんてどうでも良いが、楽しい夕暮れを過ごせると思っていた矢先に藪蛇に襲われた気分だった。だが、一連の説明を終えるとYanも静かになり(それでも納得した風ではなかったが)、「日本での教育が中国のそれと違うと聞いていたから、実際のところが知りたかったのよ。ケンジはこの話をした時、黙り込んじゃったから」と言った。僕はケンジ氏はこのような歴史的な事実に対して、ちゃんと説明する準備がないばかりか、その内容を碌に知らなかったのだろうなと思った。いずれにせよ、一通りの説明を終えたら、僕は合格点をもらえたのか、被告席からは降ろされ、また対等な人権が付与された。僕らは一杯目を終える頃にそのバーを後にし、ディナーに行くことにした。「2人で話したけど、あなたのホテルのレストランが良いと思うの。この界隈のレストランって碌な食事なさそうじゃない」とのことだった。確かに僕のホテルはこの島で一番良いホテルらしかった。僕らはホテルの海沿いのレストランで食事をした。食事はさして美味くもなかったが(どこのホテルでもそうだが、ホテルの食事というのはすぐに飽きてしまうものだ)、2人はやっとまともな食事にありつけたという態だった。食事を終えて、僕らはホテルのバーで一杯やろうということになった。ホテルにはプールサイドにいくつかバーがあった。Arshがまだ小型船のエンジン音の耳鳴りがすると言うので(確かにそれは安っぽいエンジンが破裂しそうな轟音だった)、海からは離れた静かなバーに行くことにした。Arshはビールを、Yanはウイスキーを、僕はジントニックを頼んだ。月明かりが海を照らす、中秋の名月だった。それはホテルのプールに囲まれた小さなバーで、僕ら以外には誰もおらず、プールに静かに身を浸している2、3の集団がいるだけだった。僕らは様々な話をした。YanはCommodity traderで、いわゆる商社勤めだった。彼女は大学で経済学を専攻した後、今働きながらファイナンスの修士号を取っているとのことだった。僕は自分の仕事内容や、ファイナンスに関して知っているところを話した。彼女は座学で学んでいることを実務の観点から聞けて満足そうだった。それから僕らの話は集団心理学や動物学(Arshは以前動物病院で働いていたそうで、殊更この分野に詳しかった)、物理学、特に宇宙の起源や今後、時間と空間の関係、ダークマター、地殻の成り立ちやKT boundary(恐竜絶滅期)の仮説等を話した。僕は初めて自分が投資銀行で働いていたことが役に立ったような気がした。また、初めて物理学を専攻して良かったと思った。(僕は、気づけば自分が博学な部類に入るのだろうなと感じていた。数学にしろ、物理学にしろ、哲学や文学にしろ、音楽にしろ、映画であっても、大抵の話題で僕は何の苦もなく話ができた。また、昨今の世界経済、とりわけコモディティ価格の下落やBrexitの欧州に与える影響、米国の選挙の動向に関しても僕なりの見解を事細かに話すことができた。今までの人生で僕が無意識的に積み上げてきたものが、ここにきてようやく一つの全体として完成しつつあるような感覚だった)。そこで、僕は久しぶりに人と話をしているような気分になった。最近の僕の言動は、職場の内外を含め、そのほとんどがポジショントークで、一つ一つにおいて話す内容が決まっており、あらかじめトーキングポイントがあった。僕はその場その場で、僕が話すべきことを話していた。それは必ずしも僕が話したいこと、本当に思っていることではなくとも、外圧により(物事をスムーズに進めるために)僕が話させられている言葉たちだった。僕は、心のどこかでそのような振る舞いが大人になることなのだろうと思っていたのだろう。誰と話をしても面白くなく、会話は消費されるものになってきていた。だから、取り留めのない、目的のない会話の中で、久しぶりに実質的な、僕の人生を物語る際に語りたくなるような話をしているような気がした。(そう、僕の最近の日常の言動には、すべて「目的」があり、プラトニックな対話からは対極に位置するものなのだ) この手の取り留めのない会話ではありがちなことではあるが、会話の内容は徐々に宗教的な方面に向かっていった。この限りない宇宙の中で、地球のような状態の星が誕生し、人間のような知的生命体が自意識を持って存在しているということは驚嘆すべきことであると僕は言った。彼女らはそれは必然的な帰結だ、宇宙には必ず他にも人間と同等、またそれ以上の生命体が存在しているに違いないと言った。彼女らに死後の世界を信じるかと聞いてみた。Arshは当然信じると言った。Yanも信じると言った。彼女は最近父親を亡くしたこと、その直後に父親が夢に出てきて話しかけてきたことなどを話した。(同様のことが祖母の時にも起きたの、と言っていた) 僕は生命体が輪廻転生を繰り返すなら、この増え続ける人口はどこからきたのだろうかと虚空に向かって自問した。それより興味深いのは、今まで地球上で死んでいった人間の数と、地球から見える星の数がほぼ同じくらいの数らしいという、以前読んだアーサー・C・クラークの小説の一節を紹介した。続いて、僕は最近読んだミシェル・ウェルベックの本の話をした。2000年後に人間は遺伝子を改良されたネオ・ヒューマンとなり、クローンに記憶を移植することで永遠の生を手に入れるという「ある島の可能性」の内容だった。(実のところ、僕はミシェル・ウェルベックの「プラットフォーム」を旅行に持って行き、当時まさに読んでいたのだが、旅行中のロマンスの話でもあったのであえて「ある島の可能性」の言及に留めた)。つまり、人間は科学の力で、いつしか宗教を超え、神を超える可能性を秘めている、人間の設計者は神かもしれないが、そのDNAすら人間が自ら書き換えてしまうかもしれないという内容だった。Yanはすかさず、「で、その遺伝子情報に基づくクローンを使った不死の世界っていうのは、セックスはないの?セックスないなら、私やだな」と言った。僕らは笑って、空を見上げた。満月の周りに大きな光の環ができていた。 僕は上空の粒子が月明かりで照らされてあのように光って見えるのだと説明した。2人は初めて見たようで、感動していた。気が付けばバーが閉まる時間になっていた。僕らは浜辺まで歩いて、挨拶して別れた。まだ10時半だった。別れ際に、僕は金曜日に香港に行って2泊する予定であることをYanに伝えた。彼女は翌日帰国するらしかった。都合がつけばまた香港で落ち合おうということになった。僕らは別れ、彼女らは自分たちのホテルに戻ったが、僕はしばらく浜辺に留まり海の上にぽっかりと浮かぶまん丸い月を眺めた。モビィ・ディックが出てきそうな夜だった。

 

翌日、僕は同じツアー会社(というほどのものでもないだろうが、まあ現地人の主催するツアー)でボホール島巡りをすることになっていた。具体的には、ボホール島の持つ景観として最も有名な1Chocolate Hillsの訪問(それは複数の山々から成る景観なのだが、ピラミッド然とした山々が秋には褐色に染まり、チョコレートのように見えるのでその名前が付いたそうだ)、世界最小の猿であるTarsierの鑑賞、その他にもクロコダイルや巨大なニシキヘビを見たり、蝶園に行ったり、島を流れる川のクルージングをしたり、フィリピン最古のキリスト教教会を見に行ったりした。ツアーは12人乗りのバンで終始移動した。僕の隣には20代半ばの中国人の女性2人(両方とも上海出身、1人は米系の経営コンサルティング会社勤務、もう1人は人材コンサルティング会社勤務だった。ぱっと見はまだ20歳くらいに見えた)が座っていた。後ろには中国人の若い男2人、更にその後ろにはイギリス人と思われるそれなりに年端のいった男とそれよりは若いフィリピン人女性のカップルが座っていて、斜め後ろには還暦を迎えたくらいのニュージーランド人の爺さん、前方にはマレーシアかどこかの若い女性2人組(恐らくはレズビアン)という配置だった。この種の集団ツアーでの集団心理を観察するのは興味深い。(「プラットフォーム」の中でミシェル・ウェルベックが詳細な分析をしている)。最初は皆が様子見でお互い牽制しあっているのに、一日の終わりになると不思議と一種の連帯感が生まれる。皆が楽しく、幸せなひと時を共有した仲間といったところか。車の移動が長かったので、僕は隣に座っている中国人の子と話をした。上海出身の中国人の若い女性と対峙すると、時々宇宙人と話しているような気分になるのだが、彼女らもそれほど例外ではなかった。中国の一人っ子政策は完全に失策だったと言わざるを得ない。一人っ子で生まれた子供は親や親戚から全身に寵愛を受け、我儘の限りを尽くしつつ、それでいて幼少期に遊び相手がいないので、テレビゲームやくだらないおもちゃばかりで遊んでコミュニケーション能力の欠落が生じる。出来上がるのはそれはそれは面倒臭いモンスターだ。かつて上海で働いていたドイツ人の同僚と話していた時に、「上海の女は、皆見た目はすごく綺麗なのに、性格は腐りきっている。それでいて西欧人好きですぐに関係を持とうとする。僕からすると、上海出身でロンドン育ちの、Cathy(別の同僚)のような子がベストだな」と言っていた。僕も概ね同意見だ。中国はそのような世間知らずの我儘な世代を次の中国を担う者として抱えることになる。これは国として由々しき事態だろうなと思った。ただ、話を戻すと、僕の隣に座っていた子は2人とも比較的まともで、まあ良い子と言えそうだった。JodieとNaomiという名前だった。(中国人はこういう時のために英語のニックネームを持っているが、Naomiは特段日本の血は入っているわけではないらしい。)スキューバダイビングのライセンスを持っていて、ときたまダイビングのためにタイやフィリピンに来るそうだ。なるほど僕もどうせならダイビングでもやれば良かったと思った。やったことはないが、初心者向けのコースもあっただろう。Jodie曰く、「一度海の下に行ったら、その光景はずっと忘れられない。ただただ美しくて神秘的」とのことだった。次にこのような機会があれば、僕も是非ともトライしてみよう。

 

ツアーは卒なく進行した。最古の教会を見た後に運河のクルーズ船で遊覧した。河は綺麗でもなくクルーズ自体には何か特筆すべきものはなかったが、流されていた音楽がAir SupplyやBee Geesのフィリピン歌手のアコースティック版リメイクで、メランコリックで良かった。遊覧船でランチを食べていた席で隣だったので、ニュージーランド人の訛りの強い爺さんと話した(爺さんは僕がSir扱いしたので満足そうだった)。遊覧船では、途中で現地人のローカル民謡ダンスがあったり、滝の近くを通ったりとそれなりにエンターテイメントもあり悪くなかった。その後、Zip Rideという山と山をワイヤーで結び、ワイヤーに体を固定して滑り落ちるアトラクションに乗ったりした。その後は飼育された巨大ニシキヘビやワニ、蝶園を訪問した。どれも大したものではなかったが、普段わざわざ行かないところではあるので物珍しさはあった。最後の方にツアーの山場であるChocolate Hillsに向かった。Chocolate Hillsと言っても、要は小高い山々が連なっているだけなのだが、山の土壌の影響か、山に生えた植物はそのほとんどが芝のような植物で背の高い植生が見られず、よって山が外形的にそのピラミッドのような形を維持したまま連なり、それが秋口になると褐色に変色することから(トリュフチョコに見立てて)Chocolate Hillsと呼ばれているのだった。Chocolate Hills自体も悪くなかったが、それ以上に高台から見た開けた景色、心地の良い風、海から離れて山の空気などが心地よく、ツアーで一番のハイライトだった。フィリピンの島の中で、アフリカの大地にいるような爽快感があった。存分に風を感じた後に僕らは出発し、クロコダイルや巨大なニシキヘビを見たり、蝶園を訪れたりした。そうこうしているうちに太陽が落ち、辺りは暗くなり僕らは帰途に着いた。帰りの車の中で、Jodieが「今日は中国の祝日で、皆が集まってお祝いするのが慣習なの。中国人のダイバー仲間が集まって夕食を一緒に食べるだけど、来ない?」とのことだった。いかんせん僕は一人だし当然予定も入っていなかったので、生返事でOKした。彼女らの向かったレストランは僕らが止まっていたホテルが点在するエリアから車で20分くらい離れた場所の、海沿いのレストランだった。数人くらいの知り合いかなと思っていたが、着いてみると、12人くらいの中国人の集団が饗宴しており、これまた嵌められたと思った。(そんなところにどうやって混じれというのだ) だが、たまたま向かいに座った同い年くらいのRoyという男が若干の日本通で、米系のコンサルティング会社勤務で東京の丸の内で働いていたことがあるということで僕は自分の居場所を見つけることができた。Royもその他の中国人も、JudieやNaomiもそれほど英語が達者ではないので大した話はできなかったが、僕らはダイビングの話とか(Royはフリーダイバーで、素潜りで水深15mくらいまで潜るらしかった)、日本でのスキーの話などした。中国人の多くは上海や香港近辺のいわゆる経済的に発展している地域の出身者だった。皆それぞれ2,3人のペアで来て、ダイビング中にフィリピンで知り合ったらしい。普段僕らが目にする中国人というのは、過激な連中であったり極端な集団であることが多い。公共の場所で非常に煩かったり、マナーが悪かったりする。しかし、僕の目の前にいる中国人たちは、皆行儀がよく、教養もあり、温厚で、見るからに良い人たちだった。日本人が同じように南の島で若者同士で集まって食事をしたら、どうしても軽率な雰囲気が出てしまうだろう。彼らは、変に気取ったり格好つけるでもなく、やましい下心があるわけでもなく、排他的なわけですらなく、ただただ温和な雰囲気を醸し出しながらその場を楽しんでいた。彼らを見ていて、僕は30年後には、世界は中国のものになるだろうなと思った。馬鹿でイかれた中国人集団というのは、我々の作り上げた幻想、銀座に爆買いに来ている一部の層に過ぎず、中国にまともな人間が出現し始め、その人々が政治のリーダーになれば、この国に勝てる国はなくなるだろう。海岸部と内陸部の格差は彼らの課題であり続けるだろうが、それでも十分に世界ナンバーワンのスーパーパワーになり、他国を圧倒するだろう。韓国はダメだ。彼らは碌に高等教育も発達しておらず、基礎科学の研究がまったくだからだ。サムスン、LG、ヒュンダイ、ポスコしかない国、それらの限られた一流企業で働く事が唯一の価値観である国に未来はない。日本はそれほど悲観的にならなくても大丈夫だろう。もはや、最悪期を迎えて久しいので、逆に言うとこれ以上急激に悪くなる事もないだろう。ただし、僕らが中国人を心のどこかで格下に見る最後の世代になるような気がした。そのくらい、彼らの地力は強く、世界中に燻っている。

 

料理は海鮮BBQだったが、ここはホテルの料理よりも美味しかった。僕らは2時間ほど食事をした後、各々のホテルの方面に解散した。タクシーでホテルに向かう最中に「この後どうする?私たちバーに行くんだけど」とのことだったので僕もノコノコついていくことにした。バーに行く道すがら、Jodieがヘナタトゥーをしたいというのでヘナタトゥーの店に立ち寄った。僕は特段の関心もなかったが、折角だからということで勧められるがままにやってみた。初めての試みではあったが、絵柄を選ぶと、特殊なインクで描画するだけの簡単なものだった(その後二週間くらいで消えるらしい)。昔は自然と新しいものは何でもやってみる傾向があったが、最近は特段興味ないものには見向きもしなかった。この歳になって新しいものに挑戦することはなんだか妙に新鮮に思えたし、今回フィリピンでシュノーケリングやZip Ride、新しい出会いを経て、敢えて今までにないものを取り入れることで少しだけ若さを取り戻し、心が躍るような気がした。今からでも僕はもっと新しいことに挑戦すべきなのだろうと思った。日々の仕事で忙殺され新しい趣味に着手したり、新しい本を読んだり、新しい携帯やパソコンを買うことすら億劫になっているが(設定やらなんやらで時間をとられるため)、何か自分の知らないことをやることがこれほど躍動感があることなのだと感じた。それは、新しい出会いにおいても然りで、思えば僕はほとんど既存の知り合いを除き新しい知り合いにプライベートで会うこともなくなっていたなと思う。

 

ヘナタトゥーを終えた後、僕らは近くのバーに入った。僕と、JodieとNaomi、あと名前を忘れた中国人の子2人(SarahとLouLouだった気がする)だった。僕はまたジントニックを、彼女らは各々のカクテルを頼んでいた。(NaomiはさりげなくLong Island Ice Teaを飲んでいたが、これはアルコールの原液ばかり混ぜて作る、アルコール度数の高い僕が飲むと悪酔いする酒だった。「大丈夫なの?」と聞くと「いつもこれなの」とのことで、大陸の血を感じた)

 

結局、僕らは一杯だけ飲んで解散した。LouLouだかが財布を失くしたらしく、お金も、クレジットカードも、運転免許書やその他もろもろ入ってたのでパニックになってとりあえず探しに帰ることになったためだ。僕はJodieとNaomiをホテルまで送っていき(僕らのホテルは近い距離感にあった)、Hennan Resortに戻った。戻ったところで、これがフィリピン最後の夜だということに気がついた。月は相変わらず大きく、明るく水面を照らしていた。明日発ってしまうことを惜しむように、僕は海に浸かり、まだ生ぬるい海水の上で仰向けになり、夜空を仰いだ。12時くらいだったろうか。海辺には僕のほか人影はなく、僕一人のものだと思った。酔っ払った僕がここで溺死しても、翌朝まで誰も気づかないだろう。海に浮かびながら、不思議な心地だった。ここに来て、ようやく日本のしがらみを少しずつ忘れかけていて(仕事のメールも、出国3日くらいは毎日チェックし、何かあれば対応していたが、ボホールに来てからはもはやチェックすらしないようになっていた)、波にさらわれるに任せながら、自分は何がしたいんだろうと思った。僕は浮き草のようにぷかぷか生きている。今いる場所も、今までいた場所も、最初から過渡期の一時的な棲み家という印象しかなかった。ふと、自分がこの10年ほど、2年以上同じ場所に住んだことがないことに思い当たった。僕は学生時代8回、社会人になってから3回、この10年で11回も引越しをしていた。別に引越し自体が好きでもないにもかかわらず(僕は荷物が多いので、それは毎回大変な作業だった)、ただ同じ場所に逗留していることに耐えられなくなり、たえず棲み家を変えている。引っ越しの度に家具を買い直したりして何十万か使っているが、そんなのであれば最初からマンスリーマンションにでも住んでいれば良かったのかもしれない。いずれにせよ、僕の浮き草人生はもう少し続きそうだ。根を張る土地を探しながら、ここでもない、ここも違うと移動を続け、環境の変化に順応するのに徐々に上手くなっている。今や僕は、どのような環境でもそれなりに生活していくことができるだろう。極端な話、一年くらいであれば獄中の生活もそれほど苦なく過ごすことができるように思われる。(罪の意識や良心の呵責は、もはやそれほど問題にならないように思われる)

 

翌日、朝はゆっくり目覚めて朝食をとった後(ボホールに来てからというもの、ツアーで2日連続朝早い日が続いていたので、日焼けもあり僕の身体は疲れていた)、チェックアウトの準備をして午後のセブ島行きのフェリー乗り場行きのタクシーを予約した。その後は時間ギリギリまでプールサイドで海を眺めていた。これが最後のひとときなのだ、この後は東京というつまらない街に戻って仕事に明け暮れる日々が再開するのだと思った。自分でも、なんのためにそんな日々を送っているのかわからなかった。僕は明らかに幸福ではなかった。明らかに金銭対価以外の何かを得ているわけでもなかった。すなわち、自分の人生を削ってお金に換えていた。換えたお金で南の島に来て、高級リゾートホテルに泊まったりしている。何かがおかしいように思われた。なぜなら、僕は海さえあれば、高級ホテルのプールサイドやデッキチェア、サーバーのサービスは不要で、同じだけの満足度を得られるように思われたからだ。つまり、人生を換えて得たお金で買った時間は、そのまま人生に足し戻されていなかった。そして、その循環はいかにも効率の悪い循環だった(なんせ僕は年に一回しかこのような休暇が取れず、それも一週間取れたら良い方だった)。余った時間を使って頑張って人生を足し戻しても、それはもはや減っていく一方だった。熱力学第三法則に従い、僕の中でエントロピーが増大していた。このままでは、僕のライフポイントはいずれゼロになるだろう。誰でもできるこのような簡単な試算から世の中の社会人たちが目を背けているのは、競争や虚栄心といったカンフル剤でドーピングされ、ドーパミンが過剰分泌しているからだろう。しかし、それとて寿命を縮める以外の何物でもない。数十年しかない人生の中で、その大部分が自分の人生でない他の何かのために消費されていく。蝋燭の蝋は減っていくだけだ。実感のある瞬間、生の充実のない日々に何の価値があるのであろうか。やはり、僕はかつて生の充足を感じた瞬間にメフィストフェレスに連れ去ってもらった方が良かったのかもしれない。

 

その後、タクシーで波止場まで移動し、フェリーに乗ってセブ島に移動した。セブ島からまたタクシーで空港まで行き、香港行きの便に乗った。Dragon Airという名前の格安航空会社で、いかにも墜落しそうな機体だった。香港に着いたのは夜の22時半、Airport Expressを使って、予約してある街の中心部のホテルに向かった。金曜日の夜で、都合が合えばYanと落ち合うことになっていた。(彼女は知り合いの結婚式パーティーがあるとかで、終わったら連絡するとのことだった)。ホテルについて、シャワーを浴びてとりあえず連絡をしてみた。「今ちょうど結婚式が終わって一旦家に帰ってるとこ。LKFっていう繁華街に行きましょ。金曜だから賑わってるはずよ」そういうわけで、僕はタクシーに乗って地下鉄のセントラルステーションを目指した。香港は上海よりはこぢんまりしているし、街も綺麗だった。皆多少の英語を話せるが、それほど上手なわけでもない。セントラルステーション前のabercrombie and fitchで落ち合うことになっていた。肝心のA&Fが見つけれず、駅周りを行ったり来たりしていたところで、Yanが横断歩道の向こう側から歩いてくるのが見えた。2日前に初めて会ったばかりで、2日ぶりの再開だったが妙に嬉しかった。香港の金曜日はものすごい盛り上がりを見せており、バーやクラブのある通りは人だかりで歩けないほどだった。(欧州系の外国人がほとんどで、欧州の地元のサッカークラブが優勝でもしたかのような騒ぎだった) 僕らはStocktonというウィスキーバーに入った。そこは入り口になんの看板もない店で、狭く暗い路地を入って階段を上ったところにあるひっそりとしたバーだった。入ってみると、中は非常にシックでお洒落だった。東京にもこんな良いバーはなかなかないだろう。僕らは山崎を頼んで、ロックで飲んだ。ウィスキーの氷を溶かしながら、結婚式の話、仕事、休暇、米国での大学生活などいろいろなことを話した。話しながら、彼女とは良い友達になれそうだなと思った。外国人で、全く生まれ育った環境が違うのに最初からハイコンテキストな会話ができる人がいるが、そういったuniversal intelligenceのようなものには感銘を受けるものがある。日本で生まれ育った日本人でも話が通じない人間は数多といるが、形而上学的な言葉をお互い外国語で話していてもちゃんと分かり合えるのは心地よかった。(彼女は香港生まれアメリカ大学卒業の割には、英語はまあまあという感じだったが) 一緒に行ったアイランドホッピングのツアーの話、Virgin Islandの話をしたが、それらは移動とともに2日前の出来事とは思えないくらい遠のいてしまっていた。ちょうど一杯目のグラスが空になるころ、「別の店に行かない?せっかくなので香港のいろんなところ見たいでしょ」と言われ、まったく異存なかったので僕らは店を後にした(フィリピンで奢ったお返し、ということで彼女がチェックは払ってくれた)。その後、僕らは通りを歩きながら、彼女が「ここは~系の音楽のクラブ、あそこはシーシャが吸えるシーシャバー(でもあなた煙草吸わないわよね)、お腹が空いたらここに24時間やってるケバブ屋さんがあって、ここの通りには別のウィスキーバーがあるの」といろいろと店に注釈を入れてくれた。彼女がよく行くらしいクラブに入ろうとしたものの、僕の服装がカジュアルだったらしく(短パンにスニーカー、シャツといった出で立ちだった)、断念して別のクラブを目指すことにした。Magnumという名前のクラブの前で立ち止まり、「ここね、私も入ったことないんだけど、そろそろIPOするって噂されてるクラブなの。この名前、なんの意味か知ってる?」と聞かれたので、「マグナム銃のこと?」と聞き返すと少し照れながら「コンドームよ」とのことだった。(そんな意味あっただろうかと思いながらも)僕らはそのクラブには無事入ることができた。中は至って普通のクラブで、音楽も東京のクラブとあまり変わらないようなものだった。(だいたいクラブミュージックというのは欧州(ロンドン、パリ、ベルリン)を中心に流行が始まり、アジアには半年遅れくらいで新しい音楽が流れてくるのだが、香港と東京はあまり時差なく同じくらいのタイミングで音楽が入ってくるのだろう)。クラブの中は皆20代前半の若者ばかりで、僕らは少し浮いていた。僕らは踊ることもなく(僕はいつもこういうところでは踊らないのだが、彼女もそうらしかった)、カウンターで二人ともジントニックを注文した。音楽がうるさかったので、叫びながら話をした。(が、正直何を話したのかあまり覚えていない) 彼女は冗談で「あなたどれだけ飲めるの?テキーラ飲む?」と聞いてきたので、僕は受けて立とうということでテキーラのショットを飲んだ。久々にクラブでテキーラなんて飲んだ気がするが、なぜか蘇るような爽快感を感じ、僕は元気を取り戻した。(一日中移動しっぱなしだったことによる重かった身体が急に軽くなった気がした) それから僕らはまたジントニックを飲み、再度テキーラのショットを飲んで(今度は僕からけしかけた)、結局夜4時前くらいにクラブを後にした。通りにはまだ大量の人だかりがあり、夜はまだまだ続きそうだった。彼女は週末にファイナンスの大学院に通っているそうで、翌日も朝からクラスだということでさすがに帰ることにした。その後、翌日の夜からは仕事で上海に行く予定とのことだった。僕らは束の間の会話を楽しんだ後、別れを言って帰途に着いた。彼女にはもうしばらく会えないはずだったが、そのうちまた会えるような気がした。部屋に戻ると僕はシャワーも浴びずそのままベットに倒れこみ、気がつくと昼過ぎまで寝ていた。

旅の終わり2

帰国してから一週間。東京には台風が到来し、雨の日々が続き、ずいぶんと肌寒くなってきた。日々はけだるく過ぎていき、実感のない時間が過ぎている。寝れど寝れど、充足感が得られない。そして、仕事など心の底からどうでも良くなってしまった。明日からまた月曜日が始まるというのに、眠りにつく気になれない。

 

翌日、僕は昼過ぎに目覚め、ホテルのレストランで昼食を取り(後で気づいたことだが、なぜかシンガポール料理のレストランだった)、フェリーに乗ってマカオに向かった。マカオまでは高速船で1時間、一等席で7,000円くらいだった。船は特に不快感はなく、僕は船内でミシェル・ウェルベックの『プラットフォーム』を読了した。『ある島の可能性』の方が小説としての完成度は高いし、ウェルベックが表現したかった世界が端的に表れているように思うが、こちらは初期の作品ということもあり、素直な文体がより共感を誘った。(村上春樹の『ノルウェーの森』を読んだ時のような、作者の素直さを感じるものがった)悪態をつくので悪名高いウェルベックだが、それほどストレートに鼻につく表現もなく(人によっては気にするだろうが)、衝撃作というようなものを期待する人にとっては期待外れだろうなと思った。僕としては十分楽しめたし、ウェルベックの別の作品を読み進めたい気持ちになった。読みたい作家ができるのは僕にとって稀なことであり、このような発見があるから人生は捨てたものじゃないなと思える。

 

マカオに着いたら、入国審査があり、immigrationを通って街に出た。何をしたら良いかわからなかったので、観光案内所で地図をもらってとりあえずMacao Towerを訪れることにした(馬鹿馬鹿しい発想だが、タワーに登って上から町を眺めればその全容が掴めるだろうと思った)。バスに乗って行ったが、運賃が果たして香港ドル表記なのか、マカオパタカなのかわからず、(バス運賃とはいえ20分ほど乗って50円くらいだったのであまりに安いように思われたものの)僕は香港ドルしか持っていなかったので、そのまま適当に支払いをしたが問題なさそうだった。マカオタワーはマカオの唯一と言って良いくらいの観光地向けのアトラクションで(その他も地図には色々ととってつけたような名所があったが、わざわざ訪れるに値するようなものは見当たらなかった)、東京タワーより少し高いくらいの高さだった。タワー最上階からは、バンジージャンプができるらしく、興味をそそられたものの、あいにく当日は予約がいっぱいだった。その他、タワー横の手すりも何もない外縁を歩くTower Walkingなるツアーもあったが(もちろん、命綱をつけてだが)、見える景色はさして変わらなさそうだったので申し込みはしなかった。タワー展望台まで上がると、そこからはマカオから海に連なる巨大な運河と、マカオの街並み(ケバケバしい変な形をした高級ホテルやカジノばかり)が見えた。運河に夕日が反射し、美しかった。僕は展望階でビールを買って、チップスを齧りながら景色を眺めた。バンジージャンプで誰かが階上から落ちていく度、フロアからはどよめきの声が上がり、皆が行く先を目で追っていた。(僕はといえば、人が自分のオフィスビルから飛び降り自殺をしたらこんな風に見えるのか、窓から落下が見えるのはほぼ一瞬で人なのかどうかもよくわからないな、と思っていた)そこで1時間ほどぼーっとしていると、日が暮れて辺りが暗くなってきたので、僕はタワーを後にし、そこから無料シャトルバスを使ってカジノ村に行くことにした。City of Dreams行きのバスに乗ると、それはそれは見事な建造物群が並ぶカジノ街へとバスは到着した。お城のような建物や、ヴェネチアのサン・マルコ広場にある塔を模した(おそらく実物大の)塔があった。屋内は圧巻の仕様だった。現代の王宮と言ってよいほどの煌びやかな作りは、キラキラしすぎて眩しかったほどだ。僕はふと、マカオのカジノで一番有名と言われているVenetianに行ってみようと思った。Venetianはレイのサン・マルコ広場の塔が建っている建物で、City of Dreamsの隣にあった。中に入ると、王宮さながらの壁画や金ピカの回廊があり、その先に巨大なカジノホールがあって、あらゆるカジノゲームが繰り広げられていた。アジアということもあってか、ドレスコードも特になく、何も登録しなくてもそのまま入っていけた。僕はギャンブルは特に好きでもなく、確率的に、勝てる可能性の方が低いと思っているので(そもそも主要ゲームのルールも碌に知らないので)、少しだけ換金して、ルーレットで遊んだ(ルーレットくらい馬鹿でもわかるものだ)。土産話に100万円くらいパーっと使ってみようかと思ったが、それこそ土産話以外の何物にもならないだろうし、中国人のディーラーたちがあまり英語も流暢ではなく、そもそもあまり面白くも感じなかったので、数万円くらい益が出たところで早々に引き上げた(カジノに傾倒してしまう人間は、どこか欠陥があるに違いない。冷静に考えたら、少なくとも僕は何が楽しいのかわからない)。その後、二階に上がってみると、そこには(屋内にもかかわらず)ヴェネチアを模した小河が流れており、天井には空が描かれていて、あたかも屋外にるかのような気分だった。小河にはヴェネチアの伝統的手漕ぎボート(ゴンドラ)が浮かんでおり、お金を払うとそれに乗れて、船頭がディズニーめいた歌を歌ってくれるようだった。(何が楽しいのかわからない)その他、レストランに加えて、世界中から集めたあらゆるブランドショップが広大な敷地に立ち並んでいた。香港やマカオに来てからというもの、世界中のあらゆる高級ブランドが街じゅうにブティックを出しており、Louis Vitton、Bottega Veneta、Channel、Gucciなど、東京の丸の内や銀座の比ではなかった。世界中のマネーが集まる場所にこれでもかという具合に磁力のように吸い付けられてカネのなるブランドが集まっている。どれだけここのテナントが高く、ここで実際に買い物する人間なんて極稀で店舗の売り上げが常に赤字だったとしても(そもそもカジノに来る人間はどうせ海外からの客が多いので、何かめぼしいものがあれば空港の免税店で買うだろう)、マーケティング費用として考えれば絶大な効果を上げているのだろう。中でも、とりわけRolexのブランディング及びマーケティングは秀逸だった。このブランドだけは(時計ブランドの中では中堅ランクでさした歴史も高級ラインもないにもかかわらず)、カジノフロアと同じ一階に鎮座しており、カジノの煌びやかな装飾の一部に溶け込む形で、二階に上がるアーケードの下に小さな城ような存在感を放っていた。僕は中に入っていくつかのモデルを見せてもらった。個人的にはRolexのデザインに感銘を受けたことはなく、大衆へのブランディングだけが取り柄の馬鹿が好きな見せびらかし時計(金融界でいうGoldman Suchsのような)としか思っていなかったが、ここにきて僕は(製品ではなく)まさにそのブランディング力に感銘を受けていた。仕事の時のフォーマルな時計として身に付けたいとは思わないが、休暇等のカジュアルシーンのために一つくらい持っていたら、馬鹿を手懐けられるかもしれない。今回のようにビーチリゾートで気軽に身につけられるモデルをいくつか見て、結局Sea DwellerというシリーズのDeep Seaというモデルを買った。最も耐水性が強いモデルで、水深3,900mまでの防水を実現している。これで、僕がいつか海に沈んで死んだとしても、この時計だけは海底で生き続けるだろう。現実的には廉価版であるSubmarinaの300m防水で十分すぎるくらいだが、その考えに魅了されて僕は満足してマカオを後にした。(『太陽がいっぱい』や『グランブルー』、『冒険者たち』など、僕が好きな映画には海が多く登場するので、この能天気なモデルがそのような憧憬をかき立てたに違いない。逆にRolexのフォーマルラインなんてPatekやVacheronに比べるとジョークにしか見えない。)

 

マカオから香港へフェリーで戻り、一旦ホテルで帰って落ち着いた後に、僕はまたLKFに行くことにした。時間は12時を回っていた。特にやることもなかったし、身体の疲労はピークに達していたが、昨日Yanと行きそびれたクラブに行ってみようと考えていた。(今頃Yanは上海にいるので、誰と落ち合うわけでもなかったが、なんとなくこの旅でやり残したことのように思われた) そのクラブに入ると、中はまだ人も少なく、フロアはまばらな人影が動くだけだった。正統派クライブミュージックというよりは、テクノとかトランス系で、なんとなく彼女が好きそうだなと思った。別のフロアに行くと、そこはヒップホップが流れており、これまた僕の好みではなかった。いずれにせよ、つまらないクラブだった。人だかりで溢れた通りに出て酔っ払いたちを目の前にすると、一人で来ると、こんなにも違って景色が見えるのかと思った。僕は別のクラブに完全に当てずっぽうで入った。そこはワンフロアしかなく、特段の見世物もないものの、とりあえずものすごく混んでいて、混んでいることだけが取り柄のクラブのようだった。学生らしき集団が集まってパーティーしていた。そこには、日本やヨーロッパにいる学生とは違い、希望に溢れた将来を信じる若者の姿があり、それがダンスフロアの活気につながっていた。陽気な快活さと、輝かしい将来の見通し、そのようなものすべては国の発展に起因しているのだと思った。香港は、国際的に見ても成功した都市だろう。なんといっても、世界最大の市場である中国の門戸となって、そのトレーディングを請け負っている部分は大きい。(Yanのコモディティトレーニングなんてまさに豪州の石炭や鉄鉱石を中国本土に輸入しているのだろう)。僕はかの若者たちが羨ましかった。このような人生も有り得たのだ。なんの憂いもなく、日々を楽しみ、酒や音楽や享楽に明け暮れる。僕の青春時代はその正反対だった。僕は20年間もデフレが続く「失われた時代」を生きてきた男だった。僕の青春は、クリス・ブラウンやジャスティン・ビーバーではなく、レディオヘッドやシガーロスで彩られていた。僕の生存価値がデフレによって失われたとは思わないが、少なくともデフレによって、浮ついた楽天思考の欠如した、つまらない人生を歩んでいたに相違ない。

 

そのクラブも僕はすぐに後にし(誰も話す人や聞く音楽がないクラブというのはいつでも不快で疲れるだけだ)、僕は結局また昨日訪れたMagnumの前にいた。なんとなく、2日連続だったら無料で入れてもらえるのではないかと期待したが、しっかり9,000円くらい取られた。(なお、香港のクラブは日本よりも相場が高く、それぞれのクラブの入場料だけで7-8,000円取られていた。ドリンクは1ドリンク2,500円くらいだったが、ロンドンの4,000円に比べるとマシだと思った。)入ると、昨日とまったく同じ光景が広がっていた。ダンスフロアで踊る人々はとりわけ若者が多く、皆が青春を謳歌しているようだった。音楽も、他のクラブよりも音が大きく、流行の曲をただ流しているだけだった。音楽を聴こうとしたが、音がうるさくて碌に曲が聞けなかった。僕はふと、クラブ3軒もはしごして、誰とも話をしていないことに気がついた。何をしてるんだろう僕は。ここはそういう目的以外の何物でもないというのに。僕はなんとなく、うるさい音楽に身を任せて、外界を、明日帰国すると待ち受けている現実から身を閉ざしたかっただけなのだろう。気晴らしに僕は酒を買いに行き、近くにいた女の子に何か飲みたいか聞いてみた。どこから来たのかと聞くと韓国人だった。なるほど、結構日本が好きで毎年来ているらしい。そうかそうか、ソウル出身か。いきなり話に詰まって、僕は心底相手の事をどうでも良いと思っているなと感じていた(もはや何も聞く事がなかった)。僕は、昔からこの手の出会いになんらの重要性も置いていなかった。たとえ、クラブや出会い系サービスで出会った人が、実際に本当に素晴らしい人だったとしても、僕はそれにまったく魅力を感じないだろう。僕にとっては、人との出会いや馴れ初め、その後の発展の仕様(すなわち、関係性における歴史そのもの)は、現在の関係そのもの以上に、重要ごとのように思われた。クンデラは、「人が、特定の人物そのもの、ありのままその人そのものを愛することなんて到底できない。我々が愛する事ができるのは、『ある特定の状況』、ある状況から生み出されたある人間や、その周りの環境だけだ」というようなことを言っていたが、まさにこれが僕の実感だった。僕は、『特定の状況』の中の、『ある文脈における』誰彼しか好きになれなかっただろう。人間なんて、知能や美醜の多寡はあれ、所詮は肉の塊なのだ。感情を持つタンパク質に愛着を感じるためには、僕にはストーリーが必要だったし、(どんなに紋切り型で、ありがちなものであれ)そのストーリーに僕自身が耽溺する必要があった。つまり、クラブで踊り狂う大小の肉の塊に、僕にとって魅力的なところは何もなかった。唯一、魅力を感じる瞬間があるとすれば、ある特定の人物に注目し、その人物の背景を流れる文脈、その歴史の背景を『僕自身が想像するとき』だろう。つまり、それが肉の塊である有機体が、僕にとって意味を成す瞬間だからだ。

 

韓国人(結局名前すら聞かなかった)は少ししてから友達のところに行くと言ってその場を後にした。僕は、注文した二つのロングアイランドアイスティーを飲む羽目になり、おかげで一気に酔いが回った。(市場価格の10倍のドリンクを飲みつつも、休暇中、毎日のように慢性的に昼からビールやジントニックを飲んでいたせいで、まったく酔いの恩恵を受けていなかったのだ)すると、酔いで感情が浄化され、時間から解放されたような気分になった。

 

ダンスフロアは相変わらず肉の塊どもで溢れかえっていた。飛び散る汗とちぎれそうな肉を眺めながら、クラブは最高潮の盛り上がりを見せていた。旅の最後を噛み締めながら、僕は、自分が今の自分の境遇、仕事や身分、居住地などのステータスを、心の底からどうでも良いと思っていることに気がついた。その気づきは、次の瞬間には確信になった。僕は、もはや自分が仕事にも金にも、何の情熱も持っていないことを確信した。それらはもはや何でもなかった。きっと最初から何でもなかったのだろう。学歴や、教養や、その他世の中で崇められているもののほとんどが何でもなかったように。僕の人生は、見い出すたびに失望が増えていくように思われた。16歳で初めてロンドンに一人旅したときは、自分が小さく、世界が遠く偉大に感じられた。18歳でオープンキャンパスに行ったときは、キャンパス中の人間が頭が良く優秀に思われた。19歳で世界一周旅行に行ったときは、世界が大きく、感動に溢れ、まだまだ未知の領域で溢れているように感じられた。23歳で東京にインターンで来たときは、エリートビジネスマンの世界が洗練され、先鋭的に感じられた。すべては幻想だった。自分が中に入ってみると、素晴らしいものは何もなかった。今となってはもはや、馬鹿でどうしようもないクライアントのために深夜まで働くなど苦痛以外のなにものでもなかった。一生海沿いのコテージで、本と音楽と暮らす権利を買い取りたいと思った。巨額の富を動かす買収劇、よろしいじゃないか。だが、そんな歴史的な買収が僕の人生の何の足しになるのだろう。仕事をやりきった充足感というのは何だろうか。世界を変えた?いやいや、ただ名義上の株や資産を動かしただけで、世界は今日も同じように朝を迎え、同じように夜になるだろう。肉たちは何も変わらず呼吸を続け、電車に乗って社会活動を営んでいくだろう。僕もまた、肉の一つとなり、輸送され、陳列され、値付けされ、売買の対象となるのだろう。人材価値という意味での自分のマーケット価格という言葉を使う肉たちがいるが、なかなかお似合いの台詞だ。こうして夜が明け、僕は輸送され東京の卸売市場に戻っていく。肉の肉による、肉のための生活に戻るために。こんなサイクルから抜けなければならない。それはボディーブローに似た、強い確信だった。

 

日々はめまぐるしく過ぎ、僕はただただ疲れている。帰宅したときには午前3時。ぐったりしていて、この旅行記を書き終えることさえできないように思われた。それでも書いておく必要があるように思われた。帰国後一週間。もうあのときの感覚は殆どなくなっている。あと一週間もすれば、完全になくなってしまうだろう。旅の余韻は失せ、僕の肌は日焼けで一面剥けてしまった。消えゆく感覚の中で、記憶の最後の欠片をここに残していこう。いつか立ち戻ってきたときには、きっと再発見があるだろう。たまには戻ってきて、まばゆい記憶に目を眩ますのも悪くはない。

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