Michel Houellebecq
ミシェル・ウェルベックの「ある島の可能性」を読んだ。初めてウェルベックの作品を読んだが、最近読んだ本の中で一番面白かっただけでなく、今まで読んだ本の中でもベスト10に入るくらいかなり面白く読み進めれた。(なぜ今まで名前も知らなかったんだろう) たまたま手に取って、名も知らぬ作家と知りながら読み始めたことも良かったのかもしれない。文庫本の裏には、「世界の終わりのあと、僕は電話ボックスにいるー快楽の果ての絶望に陥った過激なコメディアン兼映画監督のダニエルは、”永遠の生”を謳うカルト集団に接近する。二千年後、旧人類がほぼ絶滅し、ユーモアと性愛失われた孤独な世界で、彼のクローンは平穏な毎日を生き続ける。「服従」著者による”新しい人類”の物語」という紹介があり、最初に読んだときは訳のわからない解説だなと思ったが、読後には実にしっくり来る解説だと感じている。現代を生きるダニエルと、二千年後の世界(そこでは遺伝子情報を元に人間が再生産され、ダニエルの24世代目がダニエル1の回顧録を読んであれこれ考える)の往復なのだが、最初は遠く離れた二千年後の世界にいるダニエルが、最後には妙に現代人染みて感じられるようになってくる。分類的にはSF小説なのだが、SFっぽさはほとんど感じられない、人間の本質に迫るリアリティがある。世界に対する抗議・不同意(クンデラ風に言うと世界への非連帯)、老いに対する考え、愛の不可能性、人間の卑小さを実に見事に描いている。遠い祖先から引き継いだ人間の群れをなす社会性、集団の中でのアルファオスの振る舞い、種を守ろうとする性に結びついた愛の悲痛さが明け透けに語られる。ヒトという種であると同時に、自由な思想を持つ個人としてのアイデンティティの矛盾律。ずっと前に、遺伝子の檻のような考えが頭の片隅にこびり着いていたことがあったが(僕の限界は、たとえば僕の知性や運動能力は、(極端に言えば人間という種であることを含め)その大部分が遺伝子情報で制限されているように思われるが、一体僕のどれだけの部分が遺伝子により規定されており、どれだけが僕の自由な(可変的な)領域なのか。言い換えれば、僕のアイデンティティは、どれだけの部分が僕の家系、僕の親や祖先に支配されているのか)、「ある島の可能性」では、それの直接の回答とは言わないまでも、その随所に根本的な存在論的な示唆が溢れていたように思う。小説全体に漂う虚無感、悲愴感が心地良かったが、それは僕から言わせれば、非常に現代的な命題であり、現代人が克服しなければならない一つの壁のように思われる。
「…そして僕は自分のうちに再び、弱々しい、ぶよぶよしたものが湧いてくるのを感じる。それは厳密に言えば欲望ではなく(なぜなら「欲望」という言葉は、とにかく実現の可能性が少しでもあると最低限信じているときにしか使えない、と僕には思えるからだ)、思い出や、欲望になっていたかもしれないものの幻影だ。僕は精神の産物(コーザメンタル)、最終的な苦悩の種がはっきりと姿を現すのがわかった。僕はようやくわかった。性的な快楽は、生命が持ちうる他のあらゆる快楽より、洗練されていて、激しいだけではない。それは唯一、組織にいかなるダメージももたらさない快楽、それどころか活力や体力を最高潮に維持することのできる快楽である。実のところ、それは人間という実在にとっての、唯一の快楽、唯一の目的である。ではその他の快楽(贅沢な食事や、アルコール、ドラッグ)はなにかというと、ちっぽけな、悲しい慰めか、正体を言うのを憚る小さな自殺行為、唯一の快楽を実現できなくなった肉体を大急ぎで破壊しようとする試みにすぎない。人生は、こんなふうにひどく簡単に構成されている。そして僕は二十年ものあいだ、映画のシナリオやコントをつくりながら、その気になれば数行で表現できる現実の周りを、ぐるぐる巡っていたにすぎない。青春時代は、幸せな時間、唯一の旬だ。若者たちはみな、部分的にはおもしろくもない勉強に時間を取られるものの、概ね暇で心配事のない生活を送っており、その気になれば、好きなだけ肉体を喜びに晒すことができる。遊びに、ダンスに、恋愛に、たくさんの快楽に身を任せることができる。パーティで選んだパートナーと朝帰りしながら、仕事に向かうサラリーマンの陰気な群れを眺めることもできる。若者は社会のエリート、「地の塩」なのだ。彼らにはすべてが与えられている。すべてが許されている。すべてが可能だ。その後、彼らは家庭を持ち、社会の一員になり、仕事の苦労や心配、責任、実生活の厳しさを知ることになる。税金を払わなければいけない。諸々の行政手続きに従い、つねに無力感や恥辱に甘んじられなければいけない。最初はゆっくりだが次第にスピードを増す、取り返しのつかない肉体の衰えに屈しなければいけない。子供、なによりその不倶戴天の敵を、自分のの家の中で面倒を見なければいけない。連中をかわいがり、食わせ、病気の心配をし、連中の教育や娯楽に金を使わなければいけない。動物界では一シーズンで終わるものが、人間界では延々と続き、彼らは終始、子供の奴隷でありつづける。そして喜びのときは完全に終わる。あとは最後まで、痛みと、次第に増える健康上の問題に悩みながら、やがて役立たずになり、足手まといの無用の老人として、完全にお払い箱になるまで、苦しみつづけなければいけない。苦労して、必死に育てても、子供たちはこれっぽっちも感謝してはくれない。それどころか満足してもらえることもまずない。親であるというだけで、最後まで罪人扱いされる。こうした恥辱ばかりが目立つ苦しみの多い人生からは、喜びという喜びが容赦なく排除される。若い体に触れようとすると、途端に追い回され、つまはじきにされ、愚か者、汚名の烙印を押される。このごろは投獄されるケースも増えてきた。若い肉体は、この世界が生みだしてきたもののなかで、唯一魅力的な存在であり、それを利用できるのは、若者だけだ。そして年寄りは、働くか貧困に苦しむのが定めである。「世代間の連帯」という言葉が真に意味しているところはそれだ。つまり、その中身は、世代交代の際に前の世代を犠牲にする、純然たるホロコーストだ。残酷で、延々と続く、いかなる慰めも励ましもない、物質的にも精神的にも報われることのないホロコーストなのだ。
僕は定めを破った。妊娠した途端に妻を捨て、断固として息子を無視し、彼が死んでも無関心だった。僕は繋がりを拒み、永遠に繰り返される苦しみの再生産を断ち切った。もしかしたらそれは唯一の崇高な振る舞い、唯一、真の反逆を示す行為だったのかもしれない。そのアーティスティックな外見とちがって実に平凡な人生を終えたとき、唯一、僕が誇りに思えるものかもしれない。短い間とはいえ、僕は息子が生きていれば同じ年頃であったろう娘と寝た。あの百二十二歳まで生きた、史上最長寿の天晴れな婆さんジャンヌ・カルマンは、記者から「ではジャンヌさんは、お嬢さんに再会できるとは考えないのですか?このあとなにかがあると思いませんか?」という阿呆な質問を受け、あくまでも自分を曲げることなく、毅然とした態度で「いいえ、なにもない。なにもね。そして、娘に会うこともない。娘は死んでますから」と答えたが、僕も彼女と同じように、自分を曲げず、真実の態度を貫き通した。そもそも僕は以前、彼女へのオマージュとして、コントの中で、彼女の感動の証言「私は百十六歳ですが、死にたくありません」に触れた。僕か彼女と瓜ふたつである皮肉を理解した人間は、当時ひとりもいなかった。そうした無理解は僕にとっては遺憾だ。とりわけ彼女の戦いが全人類にとっての戦いであること、結局はそれだけが、身を投じるだけの価値のある戦いであることを、自分がもっと強調しなかったことが悔やまれる。なるほどジャンヌ・カルマンは死に、エステルは最後には僕を捨てた。もっと一般的な言い方をすれば、生物学は権威を回復した。残念ながら、それは事実だ。それでも僕も、ジャンヌも、それに屈しまいと、自分たちを破壊しようとするシステムに与すること、同意することを、最後まで拒絶した。」
So what, now what?
考えてもみたら、港区の一等地に億ションを購入し、Loro Pianaのコートを羽織り、Hermesのマフラーを巻いて、ZegnaのフルオーダースーツにBerlutiのビスポークを履き、Dunhillの鞄を持ってPatek Philipの時計を腕に巻いている20代なんて、そうそういないだろう。600万円もする時計も、60万円のコートも、40万円の靴も、30万円の鞄やスーツも、生涯で自分が買うなんて思っていなかったものばかりだ。財布も、万年筆も、スーツケースも、そこら辺のサラリーマンのおっさんには手が出せないものばかりで、残る買い物は車くらいのものだが、先日あと少しでポルシェのオープンカーを買いそうになっていたところ、マンションの駐車場が一杯であるばかりか、12人も空き待ちの人がいることを知って漸く思いとどまった次第である。休日は高級オーディオで音楽を聴きながらワインセラーのワインを飲んだり、入会費が30万円もする会員制のジムで泳いだりスカッシュをしたりしている。健康管理に気を付けて最近はグルテンフリーの生活を送っているし、野菜や肉にしてもいわゆる遺伝子操作されていない高級食材ばかりを買って食べている。僕の身体はいつになく健康で、筋肉の質もバランスも人生最良の状態の中、高級な衣装を見に纏い街を闊歩する姿は、東京の20代のサラリーマンの頂点に君臨しているような自信に溢れているだろう。
だが、そんなことすべてはSo What?という言葉で雲散霧消してしまう。それらは結局僕の到達点でも何でもなく、それらが意味するところは畢竟僕が優秀なサラリーマンであるということだけだろう。(そして、そんなことは自分では分かっていたことだ。)最近見たTEDのプログラムで、フィラデルフィアの不良高校を再建したLinda Cliatt-Waymanという黒人女性の校長がスピーチしている動画を見た。ストーリー自体は大したことのない紋切り型の内容だが、その黒人のおばさんのパワフルさときたらオラウータンを彷彿とさせるものがあるほどだ。おばさんは不良高校を再建し、生徒を更生させ、クラスの成績を上げても一向に満足せず、So what, now what?と自問し続ける。そして、過去の業績に耽溺せず、今自分がすべきことに全力を注ぐ。僕は、高級品で身を固めて社会の階層を上がったかのような気分になっているが、それこそSo what?でしかなく、そんな見せかけの装飾品よりもNow what?という実質的な命題の方が僕にとってはずっと大切なのだ。
2012年に上京してきたときの僕の貯金は10万円もなかったし、クレジットカードの残高を引くとマイナスだっただろう。そう考えると、この4年で僕は随分早足で階段を登ってきたものだ。だが、そんなことの一切はSo what?で、問題はNow what?なのだ。若いうちに高級品の嗜好を知ったり、何十万円もするワインを飲んだり、星付きの高級レストランに通ったりするのは良いことだ。要するに、それらのすべてが特段大したことがないということを身を以て知ることができるのだから。では、それらの経験を持って、僕は次に何をするのか。どの道を進んでいくのか。
今の仕事を続けたとしても、最も成功したサラリーマンの1人になれるだろう。僕は要領が良く、人間関係の機微やパワーバランスをいつだって察知できるし、(これは意外と多くの人ができないことだが)いざという時に適切なリスクを取れるし、そんなに緻密ではないにせよその辺の馬鹿なサラリーマンに比べればよっぽどましな頭も持ち合わせている。だが、こんなところでいつまでも燻っているべきではないというのは僕にとって明確な感覚だ。ここは僕の土俵ではないのだ。僕にはもっと自分の良さを出せる領域があるし、そこであれば僕は今の何倍もの価値を創出できるだろう。
自分の不得意な領域であっても、自分が成功できることを知ったのは自信に繋がった。また、最悪どんなに落ちぶれても僕にはいくらでも選択肢があることを確信したのは、僕の魂を少しばかり自由にしてくれた。ビジネスという海の中で、自分が泳いで行けるか不安だったが、いざ水に落とされてみると泳ぐのは難しいことではないことが分かった。問題は、泳ぎ方を身に付けた今、どこに向かって泳いで行くかだろう。やることが決まれば、一心不乱に進んでいくだけだ ー 僕に顧みるものはなく、ただ真っ直ぐに泳いでいけばよい。
月と六ペンス
私たちは皆、世界の中で孤立している。真鍮の塔に閉じ込められ、他の人々とは記号でしか通じ合えない。そして、その記号は、誰に取っても共通の価値を持つとは言えないのだ。したがって、意味はあいまいで不確かにしかなりえない。
私たちは、哀れにも、心の内にある宝を何とかして他人に伝えようとするのだが、相手はそれを受け取るだけの力がないのだ。そして、仲間を真に知ることもなく、仲間に知られることもなく、並んで歩きながら一緒になれもせず、ただ孤独に歩いていかなければならない。
異国に暮らしながらそこの言葉に堪能でない者は、どんなに美しく奥深い事柄を言おうとしても、陳腐な会話入門書に頼るしかない。頭はさまざまな思想でたぎりたっているのに、庭師の伯母さんの日傘は家にあります、としか言えないのである。そして、それが私たちの人間存在なのだ。
なぜだからわからないが、ストリックランドに対して感じるとはとうてい予想できなかった感情を、私は経験した。抑えがたい憐れみが生まれたのである。
『どうしてあんたが、ブランチ・ストルーフェに対する感情に打ち負かされたのか、今分かったような気がする。』私は、彼にそう言った。
『どうしてだ?』
『勇気が足りなかったんだよ。あんたの肉体は衰弱していて、それがそのまま精神に伝わったんだ。ぼくには理解できないが、限りない憧れがあんたに取り付いているらしい。それは、どこかに目的地があって、そこにたどりつけば、あんたは自分を苦しめている霊的なものから解放されると期待している。だからこそ、危険で孤独な探求を続けているんだろう。ぼくの目には、あんたはどこにも存在しないだろう神殿に向かって、永遠の巡礼をしているように感じられる。どんな測りがたい涅槃を目指しているのか、ぼくは知らない。あんた自身知っているのかどうか。
おそらく、あんたが求めているのは、真理と自由なんだろうが、一瞬恋愛に解放が見出せるかもしれないと思ったんだ。女の腕の中に、あんたの疲れた魂は休息を求めた。しかし、そこに休息などないと分かって、彼女を憎んだんだ。彼女を哀れと思わなかったのは、あんたが自分自身を哀れと思わないからだ。そして、恐怖から彼女を殺した。かろうじて逃げ出した危険に、まだおびえていたからだと思う。』」
Be cool
日付が変わるころ、たまたまDaft PunkのInstant Crushを聴いていた。そこで、曲そのものとは全く関係ないのだが、これからはcoolに生きていこうと思った。自分がどこにいて何をしていても、どんな状況にいても、coolにやるべきことをやっていこうと。多くの物事は、大袈裟に考える必要などないものばかりだ。やるべきことをやり、得るべきものを得る。無理してドラマを作る必要はなく、coolに自分として生きていく。どういうわけか強烈にそう思った。
物語性のある人生
改めて考えて思ったことは、無意識にであれ、半意識的にであれ、僕は映画のような人生を歩みたいと思っているだろうということだ。映画のような人生とは、ストーリーがあり、一つ一つのシーンに文脈があり、何らかの目的なりメッセージ性が内在する人生だ。高校生くらいの頃から、僕は碌に勉強も部活もせず映画ばかり観ていた。大学生になっても映画ばかり観ていたし、そうでなければ小説を読んでいた。そのような中で醸成された僕の人生観は、多分に物語的なものになったのだろう。すなわち、人生にはそれぞれのチャプターがあり、それぞれのシーンや台詞には意味があり、何かしらの結末に向かって進んでいくべきといったものだ。そして、仕事を始めて詰まらない毎日の繰り返しをしている今でも、僕は内在的に同様の感覚を持っていることに気がついた。僕の人生は今の延長線上で終わるべきではないし、遠くない将来に新しいチャプターが開かれるべきであると考えている。(詰まるところ、今やっている仕事なんて何の興味もないし、何の本質的な面白みも感じていない。サラリーマンのおっさんなんて、どうしようもない莫迦ばかりだし、僕は元来ビジネスというものがあまり好きではない ー厳密には、金銭的な損得で物事を判断することを快しとしないー のだ。)仕事を始めてから最後に心動かされたのがいつだろうかと思うくらい、ある意味無駄な時間を過ごしているのだが、次のチャプターのために必要だと思っているからやっているに過ぎない。(序でに言うなら、今の仕事に就いたのも、多分に映画の影響を受けている節がある。仕事をするなら、欧米映画のワンシーンにあるような、良い仕立てのスーツを着て、良い靴を履いて、ハイヤーに乗り、綺麗なオフィスを闊歩するような仕事をしたいと思った。僕に取って、日本のメロドラマにあるような、ヨレヨレのシャツを着て、満員電車に揺られ、昼飯に持参した弁当を食べて夜は安居酒屋で上司の愚痴を言うようなサラリーマン生活は想像できなかったし、そんな生活を送るくらいなら大人しく大学で研究を続けただろう。)
サラリーマンの圧倒的な大多数が、同質的な人生を送っている(送ろうとしている)ことから、最近は僕もそのようなノームに流されそうになっていたように思う。すなわち、結婚して家族を持ち、家や車を買って、出世を目指す。幸い僕はそのような道を選んだとしても、高給を稼ぎ、良い妻や家族を持ち、一等地に住んで東京のサラリーマンヒエラルキーの上位に位置することができるだろう。だが、そんなありきたりな、しょうもない闘争の中で消耗するような人生を僕は歩みたいのだろうか。いつか僕の自伝が書かれたとして(そんな予定は毛頭ないけれど)、そんなつまらない自伝を誰が読むだろうか。ここに一人の男が生きたという、何かしらの到達点を求めるべきであり、他人の歩調に合わせて小魚の群れの一匹になって、小さな幸せを掴んだところで何になるだろう。映画のような人生を歩むことは、夢見がちな青年の描く未熟な発想かもしれない。僕自信、結婚したり家庭を持ったりして、「大人らしく」落ち着くべきかもしれないと考えた時もあったが、そんな社会的なノームに縛られることそのものが自分らしくないと思うようになった。(一人でサラリーマンをやっているだけでひどく消耗させられるのに、くだらない闘争や社会的なノームへの束縛が残りの人生でずっと続いていくなど、考えるだけで頭痛がしてくる。)
夢が見られない人生に、なんの希望があるだろう。冒険のない人生は、死を待つ臨床ではないか。そう考えると、次の動きが自ずと明らかになってきたように思う。次のチャプターが始まるまで、それほど長くはないだろう。
Charles Baudelaire
He dreamt of leaving France for somewhere else, somewhere far away, on another continent, with no reminders of ‘the everyday’ (a term of horror for the poet ) - somewhere with warmer weather, a place, in the words of the legendary couplet from L’Invitation au Voyage, where everything would be ‘ordre et beaute/ Luxe, came et volupte’. But he was aware of the difficulties involved. He had once left the leaden skies of northern France and returned dejected. He had set off on a journey to India. three months into the sea crossing, the ship had run into a storm and had stopped in Mauritius for repairs. It was the lush, palm-fringed island that Baudelaire had dreamt of. But he could not shake off a feeling of lethargy and sadness, and he suspected that India would be no better. Despite efforts by the captain to persuade him otherwise, he insisted on sailing back to France.
The result was a lifelong ambivalence towards travel. In Le Boayage, he sarcastically imagined the accounts of travelers returned from afar:
We saw stars
And waves; we saw sands too;
And despite many crises and unforeseen disasters,
We were often bored, just as we are here.
And yet he remained sympathetic to the wish to travel and observed its tenacious hold on him. No sooner had he returned to Paris from his Mauritian trip than he began to dream once again of going somewhere else. Noting, ‘Life is a hospital in which every patient is obsessed with changing beds: this one wants to suffer in front of the radiator, and that one thinks he’d get better if he was by the window,’ he was nevertheless unashamed to count himself among the patients: ‘It always seems to me that I’ll be well where I am not, and this question of moving is one that I’m forever entertaining with my soul.’ Sometimes Baudelaire dreamt of going to Lisbon. It would be warm there, and he would, like a lizard, gain strength from stretching himself out in the sun. It was a city of water, marble and light, conductive to thought and calm. But almost from the moment he conceived this Portuguese fantasy, he would start to wonder if he might not be happier in Holland. Then again, why not Java or the Baltic or even the North Pole, where he could bathe in shadows and watch comets fly across the Arctic skies? The destination was not really the point. The true desire was to get away - to go, as he concluded, ‘anywhere! anywhere! so long as it is out of the world!’
Baudelaire honored reveries of travel as a mark of those noble, questing sounds whom he described as ‘poets’, who could not be satisfied with the horizons of home even as they appreciated the limits of other lands, whose temperaments oscillated between hope and despair, childlike idealism and cynicism. It was the fate of poets, like Christian pilgrims, to live in a fallen world while refusing to surrender their vision of an alternative, less compromised realm.
Against such ideas, one detail stand out in Baudelaire’s biography: he was, throughout his life, strongly drawn to harbors, docks, railway stations, trains, ships and hotel rooms, and felt more at home in the transient places of travel than in his own dwelling. When he was oppressed by the atmosphere in Paris, when the world seemed ‘monotonous and small’, he would leave, ‘leave for leavings’s sake’, and travel to a harbor or train station, where he would inwardly exclaim:
Carriage, take me with you! Ship, steal me away from here!
Take me far, far away. Here the mud is made of our tears!
In an essay on the poet, T. S. Eliot proposed that Baudelaire was the first nineteenth-century artist to give expression to the beauty of modern traveling places and machines. ‘Baudelaire… invented a new kind of romantic nostalgia,’ wrote Eliot: ‘the poesie des departs, the poesy des sales d’attente.’ And, one might add, the poesy des stations-service and the poesy des aeroports."
旅
今回の旅の目的は、大きく2つある。(旅に目的を設定するのはナンセンスかもしれない。どちらかと言うと、旅の「モチーフ」だ。)一つは、この2年間で心身共に疲弊してしまった状態から再度立ち上がり、何がしかに向けて動き始める活力を養生すること。もう一つは、一つ目と関係するものだが、今後の自分の進む道をぼんやりながらでも見出すことだ。今の僕にはいくつかの選択肢があり、差し迫ったものから中期的なものまであるが、いずれにせよまた人生で大きな決断をしなければならない時期に来ているだろう。東京に身を落ち着けるのか、留学するのか、今の仕事を続けるのか、転職するのか、起業するのか、等々・・近々の選択によって、僕の10年後、20年後は大きく変わったものとなるだろう。どんな将来を描きたいのか、見極めなければならない。選択肢は然程多くない。どの道を選んでもそれなりに幸せにはなれるだろう。問題は、自分が後悔しない人生、積極的に歩みたいと思う人生を進んでいくことだ。テンプレート的な生き方や俗物的な凡夫は、僕が最もなりたくないと思っていた存在だった。いまや一介のサラリーマンになってしまったが、色々な点である程度基礎部分は身についてきたので、それを土台に自分らしい人生を歩んで行かなければならない。
「自分らしい人生」というと、僕の場合は結婚や家庭からは程遠いように思われてならない。やはり、そもそもが僕は、恋愛をする主体でこそあれ、家庭的な人物ではないのだろう。少なくとも条件やタイミングで結婚などすべきではないだろうと思う。そのような家庭は、僕にとって重荷にしかならないだろう。僕はいつだって自由に生きたいと思ってきた。抑圧された精神状態で幼少期を過ごしたからか、「自由」というものにそれが持っている以上の憧憬を抱いていた。「自由な学風」、「自由な言語」、「自由な国」いまから思えば、僕の人生には「自由」というモチーフが散りばめられていたように思う。(だからこそ、共同体の空気を押し付けてくる日本社会は住みづらく、早く外に出たいと思っていた。)ただ、抑圧から解放された最初の時期こそ自由の跳躍を感じこそすれ、自由な状態が当たり前になってしまうと、それだけが価値基準とはなり得なくなってしまう。いまの僕は、自由と抑制の間に犇めく意志の希薄な主体だろう。平衡を求めてフラフラしているだけで、自分の意志で流れを作って動いてはいない。そんなことでは、流されるだけの人生になってしまう。確たる自分の線を引いてこその人生だ。外界も、他者にも、僕の線を曲げさせるべきではない。自分の思う道を真っ直ぐ進んでいくために、今僕が何をしなければならないか、それを明確にする必要がある。
Rien
僕は、常になんらかの理想を追い求めていた。世界のどこかには、桃源郷があるように思えたし、27歳くらいになる頃にはそこに近づいていると思っていた。(少なくとも、トスカーナあたりで日焼けした肌に白いシャツを着て昼間からワインを飲むくらいの身分にはなっていると思っていた)ところが、人生は歳が経てば経つほど窮屈になるばかりだ。資産ができたらできたで、株価や為替の動向に一喜一憂しなければならないし、時間は今までのように無限に湧出する噴水ではなく、経済価値の資本としての色合いが強くなった。(何もしなかった一日は、対価の得られなかった一日だ) 一体僕は何がしたいのだろうか。経済的な主体、合理的な個人になりたいのだろうか。(でなければなぜ、こんなところでこんな仕事をしているのだろう)
確かなことは、このような合理性に立脚した世界に、熱狂に価するものなど存在しないということだ。
Decisiveness
僕は以前、自分は決断力のある方だと思っていた。自分が「こうだ」と決めたら疑うことなくそこに向かって邁進し、後ろを振り返ることがなかったし、なぜ疑うことがないのかと問われても、「なぜならば自分がそれを選んだからだ」と考えていた。その時々の悟性に任せて、最適と思われる選択を積み重ね、それを信じて進むことが「正しい生き方」のように思っていた。今から思えば、その自信は多分に無知や了見の狭さに由来していた。
決断とは、要するに選択をすることだ。AとBがあり、AまたはBを選ぶことだ。これは価値判断であり、殆どの場合人がAを選ぶのはAがBよりも優れている(と本人が価値判断をしている)ためだ。だが、「価値」とは何であって、「誰のための」価値なのだろうか。価値を形成するのは、自分自身ではなく、社会であり、市場ではないだろうか?最近よく不動産を見ているが、東京の一等地で坪900万くらいするマンションを見ていると、果たしてこの不動産に、これだけの価値があるのだろうかと思うことが多い。それは誰にとっての価値なのか?不動産価格は通常、賃貸した際の投資利回りから逆算して決定されている。つまり、坪900万で買ったとしても賃貸に出せば自分でない誰か他人が利回り3%なり4%で借りると考えらるため、「坪900万の価値がある」と言えるのだ。企業の価値を評価する際に現在圧倒的に主流の評価手法は将来のキャッシュフローを現在価値に割り戻してその総額を企業価値とする手法(いわゆるCAPM理論)だが、現実の株式市場では売買の成立を持って(つまりは他人による売り買いの結果をして)株価が決められている。経済的な側面では明らかだが、その他多くの場合でも、価値判断をする際の肝心の価値基準は、自分ではない誰かによって決定されている。他人にどう評価されるか、どう見られるかといったことが価値判断に大きく影響している(価値判断は客観的なものでなければならない)。そして、他人の評価や見られ方によって、自分自身、実際に幸せになったり不幸になったりする。(精神的にも、物理的にも大きく影響を受け、客観性と主体性が交錯する)
故に、価値判断は大勢に迎合する形となりやすく、多くの場合大衆迎合型判断が「合理的」であるとされている(この用法には誤謬があるが)。皆が同じように家を買ったり、結婚して子供を作ったり、つまらないサラリーマンをやっているのは、それが現代社会において生活していく中で社会的な合理性が高いからだ。だが、本当にそれが皆のやりたかったことなのだろうか?結婚して子供を作ってサラリーマンを続けることを昔から夢見ていたのだろうか?あるいは夢破れた後の次善策なのだろうか?いずれにせよ、それらの選択は自らの感性にしたがって行われたものではなく、半自動的に水平移動した結果、そのような事態(状況)に陥っているというケースが大半ではないだろうか。それはある種の決断の放棄であり、消極的選択である。
だが、そういうった選択も理解できないものではないと最近は思い始めている。無限にある選択肢の中で、多くの人は自信を持ってAなりBなりを選ぶことなどできないのだ。リスクを取って大海に飛び込むよりは、既に規定されているそれなりの幸福を追い求めて潮の流れに任せているほうが楽だ。人は社会的な生き物であり、誰もが他人より優れていて他人からの評価を潜在的に求めているのだ。だが、それが果たして「自分らしい」人生なのだろうか?自分の人生の所有者は自分以外の誰であろうか。些細な僭越感のために、自らの心の声から耳を塞いで、他人に規定された価値判断を歩む優等生でありたいのか?
今の自分に必要なのはdecisivenessだ。僕が決められないのは、かつてのような悟性や感性がもはや働かなくなってしまい、自分が何をしたいのかわからなくなっているためだ。何に対しても中途半端になっている今の状況を打開するために必要なのは、見切り発車であれ動き始めるための意思決定だ。僕は僕の人生の所有者でありたい。そして、僕の人生は、こんなところで終わるべきではない。
Reinauguration
ずっと、精神世界に生きたいと思っていた。現世は俗物に塗れた莫迦どもの巣窟だし、醜さや愚かさだけではなく、凡庸さや下品さが溢れていて耐え難かった。自分の物理的な存在や、生理にも嫌気がさしていたし、自分よりも樹木の方が優れた生命体であるように感じることが多かった。今や、僕は経済的な生活を送る一介の現代人となっている、多分最も莫迦にして見下していた人種の一種だろう。なぜそうなったのか?僕は現に生命体として存在しているし、現代社会という檻に拘束されているし、何よりも凡人だったからだろう。圧倒的な非凡さ、神にも届くような才能に憧れたところで、僕はせいぜいアマチュア登山家で、羽の生えた選民にはなれなかった。コツコツ登ってきた山頂から界下の人間を笑っても、頭上には見えないところで飛翔している存在がある。それとて、結局僕は僕の山を登るしかない。(自分の山が気に入らなかったところで、降りるという選択肢はあり得ないのだから)
また同じような、繰り返された陳腐な主題を展開しているが、そのことがまさに僕の精神性の単調さを表しているのだろう。またここに回帰してきたということは、そんな自分と向き合おうと思ったからだ。これからどう生きていくか、それこそがここで唯一陳述するに価することだ。今日という日を生きた、少しでもそんな風に思えるための日々の指針となる基準は、結局自分の中にしかないのだから。