物語性のある人生 | Memento

物語性のある人生

ずっと一人でいただけあって、色々考えることができた。一人旅の良いところは、自省する時間、物事をゆっくりと考える時間ができることだ。誰かと旅行すれば、孤独はないかもしれないが、どこかで譲歩しなければならないし、自分の思い通りに動けなくなる。大抵どこかのタイミングで不和に陥るし、旅先での出会いも減ってしまう。僕にとっての旅というのは多分に日々の中で希薄化されてしまった感受性を取り戻すための行為なので、日常の枠組みに属する人や物を連れていくことは本来の目的から乖離してしまう。(結婚して家族旅行などしても、精神的には全くリラックスできないのと同じだろう。それは思い出作りのための旅行で、家族でディズニーランドに行くようなことの延長になるだろう。)

改めて考えて思ったことは、無意識にであれ、半意識的にであれ、僕は映画のような人生を歩みたいと思っているだろうということだ。映画のような人生とは、ストーリーがあり、一つ一つのシーンに文脈があり、何らかの目的なりメッセージ性が内在する人生だ。高校生くらいの頃から、僕は碌に勉強も部活もせず映画ばかり観ていた。大学生になっても映画ばかり観ていたし、そうでなければ小説を読んでいた。そのような中で醸成された僕の人生観は、多分に物語的なものになったのだろう。すなわち、人生にはそれぞれのチャプターがあり、それぞれのシーンや台詞には意味があり、何かしらの結末に向かって進んでいくべきといったものだ。そして、仕事を始めて詰まらない毎日の繰り返しをしている今でも、僕は内在的に同様の感覚を持っていることに気がついた。僕の人生は今の延長線上で終わるべきではないし、遠くない将来に新しいチャプターが開かれるべきであると考えている。(詰まるところ、今やっている仕事なんて何の興味もないし、何の本質的な面白みも感じていない。サラリーマンのおっさんなんて、どうしようもない莫迦ばかりだし、僕は元来ビジネスというものがあまり好きではない ー厳密には、金銭的な損得で物事を判断することを快しとしないー のだ。)仕事を始めてから最後に心動かされたのがいつだろうかと思うくらい、ある意味無駄な時間を過ごしているのだが、次のチャプターのために必要だと思っているからやっているに過ぎない。(序でに言うなら、今の仕事に就いたのも、多分に映画の影響を受けている節がある。仕事をするなら、欧米映画のワンシーンにあるような、良い仕立てのスーツを着て、良い靴を履いて、ハイヤーに乗り、綺麗なオフィスを闊歩するような仕事をしたいと思った。僕に取って、日本のメロドラマにあるような、ヨレヨレのシャツを着て、満員電車に揺られ、昼飯に持参した弁当を食べて夜は安居酒屋で上司の愚痴を言うようなサラリーマン生活は想像できなかったし、そんな生活を送るくらいなら大人しく大学で研究を続けただろう。)

サラリーマンの圧倒的な大多数が、同質的な人生を送っている(送ろうとしている)ことから、最近は僕もそのようなノームに流されそうになっていたように思う。すなわち、結婚して家族を持ち、家や車を買って、出世を目指す。幸い僕はそのような道を選んだとしても、高給を稼ぎ、良い妻や家族を持ち、一等地に住んで東京のサラリーマンヒエラルキーの上位に位置することができるだろう。だが、そんなありきたりな、しょうもない闘争の中で消耗するような人生を僕は歩みたいのだろうか。いつか僕の自伝が書かれたとして(そんな予定は毛頭ないけれど)、そんなつまらない自伝を誰が読むだろうか。ここに一人の男が生きたという、何かしらの到達点を求めるべきであり、他人の歩調に合わせて小魚の群れの一匹になって、小さな幸せを掴んだところで何になるだろう。映画のような人生を歩むことは、夢見がちな青年の描く未熟な発想かもしれない。僕自信、結婚したり家庭を持ったりして、「大人らしく」落ち着くべきかもしれないと考えた時もあったが、そんな社会的なノームに縛られることそのものが自分らしくないと思うようになった。(一人でサラリーマンをやっているだけでひどく消耗させられるのに、くだらない闘争や社会的なノームへの束縛が残りの人生でずっと続いていくなど、考えるだけで頭痛がしてくる。)

夢が見られない人生に、なんの希望があるだろう。冒険のない人生は、死を待つ臨床ではないか。そう考えると、次の動きが自ずと明らかになってきたように思う。次のチャプターが始まるまで、それほど長くはないだろう。