MMエッセイズ 増田満のブログ

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「サングラハ教育・心理研究所」の会報誌、「持続可能な国づくりの会」の学習会などで発表したエッセイ等を掲載します

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ピケティの格差解消論を本書の解釈によるミュルダール経済学で分析してみる

 

ピケティの格差解消論

 「サングラハ」誌141号と142号で紹介しましたピケティの考えは、没収的な最高税率を持つ累進課税を所得に課すと同時に、資産そのものにもグローバルな累進課税を課すことで、拡大しつつある富の格差を解消させるということでした。その際目標とされるのは、1970年代~1980年代北欧で実現されていた福祉社会を資産格差においてある程度改善したもの(このような社会を古典的福祉社会と呼ぶことにします)が、グローバルな規模で実現することです。

 ピケティは能力主義による富の格差の正当性を認めていますから、格差を完全になくすことなどは考えていません。ただ、その能力主義的正当性には民主主義的な条件がつくのだと、フランス革命の際の人権宣言にからめて次のように述べています。
 
 フランス人権宣言(1789)1条もまた「人は自由に生まれ、自由のまま権利において平等な   存在であり続ける」と宣言する。でもこの一節の直後には次の宣言がある。「社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない」 (21世紀の資本』p.498 以下断りがなければ引用のページ数は同書のものです)
 
すなわち、格差は共同体の利益に基づかなければならないのですから、社会不安を生じさせたり、能力と努力の成果という正当性をもつことが疑われたり、金融危機の誘因になったり、あるいは福祉社会の維持に反するようなものになってはいけないのです。
 しかし、資本税については、その実現性に大問題があり、彼自身が次のように述べています。

 

 

 

 

 

 

 

 

ピケティの考えをミュルダール経済学で分析する

ミュルダール経済学の全体像を表している図1を見てください。そこにある形式にそってピケティの考えを眺めますと次のようになるのではないでしょうか。

 

Ⅰ 方法論的考察 格差是正ということを価値前提とする

Ⅱ 実践的考察  現実は逆流効果>波及効果となっており、格差が拡大する悪循環の傾向がある。先進諸国では福祉国家の体制が弱化している。

Ⅲ 理想 世界レベルの好循環を起こし福祉世界へ

    政策 所得に対する没収的な最高税率、資本に対する直接の課税、それらを伴うグローバルな累進課税の実施。そしてその世界規模の分配。

 

 ピケティの場合には価値前提は格差是正です。これは、現状の大きすぎる格差がさらに拡大しつつあり、社会不安を起こしたりしているから、共同体の利益に反しないようにより平等に直すべきだということです。格差をなくせというのではなく、自由・平等・連帯という民主主義の理念における平等を今は優先的な価値とするということです。一方ミュルダールは最高の価値は平等だとしていますが、彼とて市場経済での自由な活動を自らの経済学体系の基本にしていますから、やはり民主主義の理念「自由・平等・連帯」の一環としての平等を価値前提にしているのです。したがって、ミュルダールが最高の価値を平等に置くということと、ピケティが格差是正を目指すことは、現時点においては同じだといってよいでしょう。

 実践的考察においては、二人には時代的な相違があります。ミュルダールの当時、福祉国家はより充実していく過程にありました。それに対しピケティの現在、理想的な福祉国家に近づきつつあるように思われた多くの西側先進国においてでさえ、レーガンやサッチャーの登場以来の格差拡大の傾向が継続しているのです。今や低開発国のみならず、多くの先進国においても悪循環が起こっているという違いがあります。しかし世界全体での悪循環ということではピケティもミュルダールも一致しています。そうして世界レベルで好循環を起こし、福祉世界を目指すことにおいても両者は一致しているので、もし今ミュルダールがいれば、ピケティの税制案に基本的には賛成したことでしょう。

ピケティは格差を是正するための税制に主要な関心があるわけですが、そのような税制をグローバルに実施するには、高度な国際協調を実現するという困難もありますし、またその便益を各国同士や各国の中でどうやって公正に分配するのか考えるという困難もあります。それら困難を克服していくには、すでに福祉国家の体裁をある程度整えている先進国と、そうでない発展途上国との相違や関係についてなんらかの妥当な見解を持っている必要があると思いますが、そのようなことに関しての考察をピケティはあまりしていません(と私は思います)

その点ミュルダールの場合、制度派経済学者として、先進国と低開発国それぞれの状況分析と政策提案がなされていて、ピケティの議論にはない包括性をもっています。なによりも特筆すべきは、ミュルダールが人々の思考様式や価値判断の変容という内面的なことを極めて重視していることで、それはピケティの議論にはほとんど見られない部分です。ピケティの議論は極めて明快で得難い価値があると思いますが、それをミュルダールの枠組みで考えることで、より現実に適した議論に発展させることができるのではないのかと私は思いました。

 

緑の福祉国家をミュルダールの枠組みで分析してみる

 

緑の福祉国家とは

ミュルダールあるいはピケティが理想とするような古典的福祉社会では、人は理性と良識を持つ合理的な個人で、そのような個人が互いに連帯して、誰もが人間らしい生活を保障される共同体を構築しています。また、市場経済と私有財産は社会を構成する重要な要素で、自由に発揮した能力と努力に応じて得られた富の所有も、そしてそのために生じる格差も、共同体の利益に反しない限りは認められます。そのため、均一な生き方を強いられて活気をなくしてしまうような社会ではありません。これらのことだけを見ると、古典的福祉社会は文句のつけようのない社会だと思えます。
 しかしエネルギーの有限性、急激な気候変動、有害物質による環境汚染、開発による急激な自然破壊、核廃棄物の増加などによって、現在のような大量生産・大量消費の社会が持続するのは困難だと明らかになることで、古典的福祉社会をかなりの程度確立したスウェーデンは、持続可能な社会を実現するための新たなヴィジョンを創造しました。それが、『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』 (小澤徳太郎著、朝日新聞社、 2006)で紹介されている「緑の福祉国家(生態学的に持続可能な社会)」というヴィジョンです。
 この「緑の福祉国家」には、①社会的側面、②経済的側面、③環境的側面という三つの側面があります。①と②は、合理的な個人としての人間を大事にする、古典的福祉国家としての側面です。③は、新たに加わった環境を大切にするという側面であり、その背景には、「健全な環境は基本的な人権の一部」なのだという考えがあります。人という概念に、土台としての自然生態系(環境)の一部であることが明確に含まれています。人は、合理的存在ではあるけれども、より基本的なレベルでは自然生態系の一員である動物なのです。小澤徳太郎氏が次のように述べていることが的確にそのことを表現していると思えます。

 

人間は動物である。ある範囲の温度・湿度・気圧・重力のもとで、光を浴び、空気を吸い、水を飲み、動植物しか食べられない!

(『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』、p.74)

 

 古典的な福祉社会のメンバーである人間は理性と良心を持つ合理的な個人でしたが、緑の福祉国家のメンバーである人間には、自然生態系の一員たる動物であることも加わります。すなわち、

 

 

人間=理性と良識を持った合理的存在+動物

 

 
なのです。そして環境権は動物の部分での権利ですから、人間だけでなく、動物一般にも賦与されるべき権利なのです。
 

緑の福祉国家をミュルダール経済学で分析する

ピケティの考えと同様に、ミュルダール経済学を表している図1の形式にそって緑の福祉国家の考えを見ていきます。通常の福祉国家の部分に関しては、スウェーデンで古典的福祉国家を建設する際の中心人物の一人であったミュルダールの考えがそのまま当てはまりますから省きます。環境的側面だけにしぼってみますと次のようになりそうです。

 

Ⅰ 方法論的考察 生態学的に持続可能な社会の実現を価値前提とする

Ⅱ 実践的考察  多くの先進諸国では大量生産大量消費の体制が続いており、低開発国も同じ体制を築こうとしている。そのためほとんどの国で環境負荷を伴うエネルギー消費を継続あるいは拡大しており、逆流効果>波及効果となり、環境に関して悪循環が生じている。

     少数の「緑の福祉国家」的政策を履行しつつある国からそれ以外の国への逆流効果はない。

Ⅲ 理想 世界レベルの好循環を起こし持続可能な世界へ

    政策 大量生産大量消費の体制はやめる。

        先進国での生活の質素化と効率化。環境に負荷を与えないテクノロジーを先進国が低開発国へ積極的に伝搬し普及させる。

        二酸化炭素排出量削減など、環境の健全化に関する国際条約を締結し、その取決め内容を実施する。進行状況について国際機関による客観的な評価を行いその知識を世界中で共有し啓発する。そして人々の思考様式・価値観を環境健全化に強く同調するようなものに変える。

 

 福祉国家の国民主義的限界による福祉国家と低開発国との間の悪循環のようなメカニズムは、緑の福祉国家とその他の国々とのあいだでは成り立ちません。環境問題は、温暖化問題で顕著に見られるように、本来的にグローバルなものですから、もし緑の福祉国家と呼べるような国があれば、国民主義的障害などあるはずもなく、率先して他国に波及効果を及ぼそうとするはずだからです。

また価値前提は、人々の平等が最高の価値だとは言えなくなっています。人々の平等が論じられる人間社会を越えて、生態系の持続が価値前提に置かれるからです(あるいは、人々と動物両者の環境権における平等が価値前提なのだと言うことはできるかもしれません)。ミュルダール経済学の形式に従えば、生態学的な持続性を価値前提として波及効果を強め、環境問題を深刻化させる悪循環を食い止める政策を実施し、人々の考えを変えていくということになるのです。

201512月、気候変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)で世界中の国が参加する協定ができました。1992年の地球環境サミットから23年もたってようやく達成したのです。ミュルダールが述べているように人々の内面の変容には時間がかかるということがよくわかります。ただ、各国の目標達成は義務づけられたわけではなく、内面の変化はまだ不足している状況なのだと思います。今後も協定による取り決めの実施に向けて国際的に制度の改善(義務化など)を追求し続ける必要があるのでしょう。

 
(「サングラハ145号掲載)

 

 

低開発諸国の自助努力(国内諸制度の改革)

 

既に述べましたように、ミュルダールは低開発諸国における「貧困の悪循環」の根本的要因は、「低開発諸国における不合理・不平等な制度であり、それと相互連関する人々の保守的・因習的な態度や思考様式」(p.232)だと考えていましたから、「貧困の悪循環」から脱却するために彼が与えた処方箋とは、「何よりも国内諸制度の改革であり、とりわけ平等主義的方向への改革」(p.232)でした。本書では234ページから236ページにかけて、ミュルダールが挙げた四つの領域での具体的な制度改革を紹介しています。それを簡単にまとめてみます。

 

①土地(農地)所有制度:より多くの収穫をもたらす新品種の栽培は、たいていより高度な農法を必要とし、肥料、灌漑、病虫害からの保護、除草などの準備をしなければならない。しかし、それが可能なのは一部の上位階層の農民にすぎないので、多くの農民は労働生産性を上昇させようというインセンティブをもちえないでいる。農地改革なしに農業の技術進歩(「緑の革命」)が進むことはさらなる不平等に結びつく。

②人口:人口爆発が貧困の主要因の一つだが、子どもを労働力として使用するという人々の意図が存在しているため、避妊法や家族計画の考えが普及していない。強力な公共の産児制限政策を制度化し、人々の意志や行動を変革していくより他にない。

③教育:国内における人々の合理性、経済的・社会的移動性を高め、「波及効果」を増大させるには、初等教育と同時に成人教育の充実が不可欠だが、教師の数や質の面から、低開発国では初等教育をより充実させる必要がある。

④軟性国家:地主や官僚などの低開発諸国の上層部が制度変革を妨げがちであり、また先進諸国の企業が彼らに贈賄を行い、そうした勢力を保持させる大きな一因になっている。反贈賄の厳格な制度が必要である。

 

ミュルダールの言う「低開発諸国の自助努力」とは、「低開発諸国の発展は何よりもそれらの国々自身が右記のような国内諸制度改革に向けて何をなすかによって決まる」(p.236)ことを意味します。自助努力によってこそ制度改革に内面の変化が伴い、永続化すると考えたようです。そして、「経済発展は一般にこの種の改革を容易にするので、いったん改革の手が打たれれば、発展と改革が順次に絡み合って累積的な過程をたどる可能性を秘めている」(p.237)とします。ただし、低開発国では、民主主義が政治的闘争によって勝ち取られたのではなく上から授けられたために、大衆が政治に無関心であり、国民統合が進んでいないと指摘しています。そのため、自助努力を進めにくいということなのでしょう。

 

福祉国家の責任

 

たとえ低開発諸国の平等主義的改革および相互協力への自助努力が実現するとしても、低開発諸国が経済的・政治的に威力を高めてくることに脅威を感じて、先進諸国がそれを既存の経済的・政治的圧力を使って封じようとするならば、そうした努力が意味をなしません。そこでミュルダールは、「先進諸国の理解と協力を伴ってこそ、低開発諸国の発展および福祉世界構築の可能性が展望できる」(p.240)のだと主張し、「福祉国家の責任論」を展開します。とくに彼が訴えたのは、先進諸国側における貿易政策や援助の転換の必要性です。

彼は先進諸国が低開発諸国の状況を考慮して貿易上の優遇的措置を与えるべき理由として次の二つを挙げています。(p.242よりまとめました)

 

①経済的な理由:低開発諸国が経済発展を目指すには、先進国からの逆流効果を招く市場諸力の自由放任を相殺する何らかの干渉が必要。

②政治的理由:低開発諸国では国民的統合が十分果たされておらず、政府や行政機関、あるいは司法機関による有効な社会統制がなされていないため、大衆の心理を国民的統合に向かわせるのに、ある程度の国民主義や保護主義の容認が必要。                      

 

そうして、貿易政策の転換は、経済体制の持続的変革を求めるものになると評価しています。

援助に関しては、あくまでも自助に向けてのものであるべきだとしています。また、紐付き援助を厳しく批判し、「狭量な国民主義に基づくものではなく、先進諸国の責任として認識されなければならない」(p.244)としています。理由は、ひも付き援助は国際競争を阻害し、コストを上昇させたりするからです。彼は「援助は主に国際機関もしくは多国間援助を通じて明確な規模と順序に沿って行われるべき」(p.245)ことを強調しているそうです。

 

福祉世界に向けたヴィジョン

 

実現している福祉国家体制は十分なものではなく、「過度の中央集権化・官僚主義化傾向を危惧し、自治化・分権化を進めていかなければならない」(p.252)とミュルダールは考えていました。しかし、「ひとたび国民的福祉国家が存在するようになって、西側世界の民主主義国で政治権力をもつ諸国民の心中にがっちりとその停泊所を築いてしまえば、国際的分裂に代わるべきものは、国際協力と相互調整とによって福祉世界の建設に着手する以外にない」(p.231)ともするのです。

 では「先進諸国側の立場から『福祉国家の国民主義的限界』はいかにして克服でき」、「福祉国家から福祉世界へ至るにはどうしたらよい」(p.248)のでしょうか。それに関してミュルダールは『福祉国家を越えて』で次のように述べているそうです。

 

西側諸国は、民主主義自体を放棄したがらず、利害団体からなる膨大な下部構造を通じて行われる全体への参加とか勢力とかの分散に、民主主義がいっそう深く基礎を持っていることも、これを放棄しようとはしないのであるから、ただ人々を教育して、彼らの真の利害だけでなく、すべての西側諸国に共通の、また世界全体にとって共通な一般的利害をさえ、これを観察して明快に理解することに至らせるという、長期で骨の折れる解決策しか、そこには存在しないのである。(p.248)

 

理解には時間がかかるとしているわけです。しかしながら、人々の理解を早める方策があるとミュルダールは考えています。振り返ってみれば、福祉国家形成過程の初期において、富裕層やそれに味方する保守的政治勢力は平等主義的政策が自分たちに不利益をもたらすと考え抵抗しました。ところが今では大半の人々が福祉国家に賛同しています。それは「福祉国家は生産的である」ということが事後的ではあっても広く認められるようになったからです。そこで彼は、「この『事実』を逆手にとり、今度はそれを歴史的な教訓として前倒しすることによって、福祉世界の構築を実現に近づけることができるだろうと主張」(p.247)するのです。

すなわち、福祉世界の構築は、世界レベルでの「平等」の達成という価値前提に基づいて好ましいだけでなく、世界全体の経済効率を上昇させるという意味においても望ましい目標であることを、社会科学的に示し人々に理解させるのです。そのためには、「国際的統合がすべての国民に与える利益についての知識、現在の趨勢の危険性、そして福祉国家に住む者のこの趨勢に対する責任を明らかにし、人々に流布する努力が社会科学者に求められている」のであり、「時勢を転換させようとするわれわれの希望は、結局、国際的理想がすべての国で一般の人々をとらえる力を強化できるかどうかという可能性にかかっている」(p.248)というのです。

ミュルダールの福祉世界構築のヴィジョンにおいては、たとえば国際連合、ILO(国際労働機関)FAO(国連食料農業機関)IMF(国際通貨基金)IBRD(世界銀行)のような政府間組織の発達や権限強化ということだけでなく、むしろそれを意義あるかたちで成し遂げるための必要条件として、個々人の思考様式や価値判断の変革という問題が重要な位置を占めているのです。こうして、最終的な実践的結論として挙げられたのは「科学による大衆啓蒙」であり、それによって「各国の社会心理というレベルにおいて『福祉国家の国民主義的限界』を乗り越えることが現在の国際機関を国際的統合に向けて十分に機能させる」(p.249)ことになるという見通しを示したのです。

 

ミュルダール経済学の全体像

 

 以上のように、累積的因果関係論の逆流効果・波及効果概念によって先進諸国と低開発諸国とを総体としてとらえることで、ミュルダールは両者の格差拡大という世界レベルでの悪循環を認識し、そして悪循環を好循環へと転換させることで、グローバルに福祉が行き届いている理想の世界(「福祉世界」)が構築され得るとしたのです。本書は、このように累積的因果関係論を中心に据えてこそ、ミュルダールの遠大な考えが統一的な経済体系として理解され得ると主張するのです。その経済体系を図式化したものが、図1です。

 

 

図1の一番上の部分は、「価値前提の明示」の方法論と累積的因果関係論が不可分で一体であることを表現しています。それは、累積的因果関係論において、状況が「好循環」と「悪循環」のいずれであるかを判断するには前提とされる価値が明らかであることが必要ですし、また逆に累積的因果関係論によって得られた科学知識が啓蒙されることで大衆の価値判断は変化し得るという相互循環性があると考えたからです。ただし、最高の価値が平等であることは不変であるとミュルダールは確信していました。

 

なぜいまミュルダールなのか?

 

本書でまとめられたミュルダール経済学についての私なりのレビューはこれで終えます。彼の経済学を通して現実世界を見ると、例えば中国は軟性国家から脱しようとしている最中なのだろうとか、日本は福祉国家としての国民主義的傾向がまだまだ強いので移民をほとんど受け入れないのだろうとか、各国の状況把握に役立てることができそうだと私には思えます。それにしても何故今ミュルダールなのか?それに対する著者の回答が本書冒頭にあります。

 

 なぜいまミュルダールなのか。それは、彼が主力を傾けて取り組んだ経済学上の諸問題が、現在の諸問題にまちがいなく通じていると考えられるからである。さまざまな格差が問題視されている現代、経済面に偏ったグローバル化が危惧されている現代、社会の価値観が多様に変化している現代である。彼の問題提起を受け止めるべき時代が到来しているのであり、少なからぬ人々が彼の思想を再発見すると思われる。(p.4)

 

また、本稿ではミュルダール経済学の体系化ということに集中し触れませんでしたが、ミュルダール夫妻(彼の妻は1982年にノーベル平和賞を受賞したアルヴァです)には人口問題論に関する業績があり、本書でも詳しく扱われています。現在日本は少子化の問題を抱えており、彼らが主張する消費の社会化(育児補助をお金ではなく現物で支給する)などは非常に参考になると思いました。

 

カール・グンナー・ミュルダールは、スウェーデン型福祉国家形成に多大な寄与をなし、1974年にノーベル経済学賞を受賞した大学者です。

彼の研究領域は極めて幅広く、アメリカの財団に依頼され黒人差別問題を研究したり、あるいはインドに渡り低開発国経済を研究したり、また国会議員や国連機関の委員となって自国および国際社会での政策作成に携わったりしました。このような多面性の故に、これまで彼の経済学の全体像を統合的に描くような研究はなかったそうです。そのような状況を世界で初めて打開したのが本書『ミュルダールの経済学』(2010)です。同書で藤田菜々子氏は、ミュルダール経済学の全体像が「累積的因果関係論」を中心にして展望できると論じ、さらにはミュルダールが理想とした福祉世界というヴィジョンについて詳しく述べています。

読後特に印象に残ったことにミュルダール経済学が平等を最高の価値だと明確に規定していることがあります。拡張しすぎた貧富の格差を是正すべきだと多くの人々が訴えている今、平等を目指すミュルダールの考えは極めて示唆に富むものだと本書は指摘していますし、私もその通りだと思いました。そこで皆様に是非本書を手に取っていただきたいと考え、以下で本書の一部概要をご紹介することにした次第です。

ところで、「サングラハ」142号と143号でご紹介しましたピケティの税制案は、まさに格差是正を目指したもので、その目的はミュルダール経済学のものと重なります。そこで彼の考えとミュルダール経済学との比較もしてみました。また、「緑の福祉国家」という環境問題の解決も視野に入れたスウェーデン発の新しい福祉国家像を、古典的福祉国家建設に力のあったミュルダール経済学の枠組みで扱うとどうなるのかも検討してみました。

 

経済学は価値判断から独立し得ない

 

『人間主義経済学序説』(新思索社、2007年)の著者である後藤隆一氏は、既存の経済学についてネット対談で次のように語っています。

 

経済学は、人間を扱う学問ですから、価値や意味を問うことは避けられません。しかし、自然科学を模倣して出発した経済学は、それを避け、むしろ隠そうとしてきました。事実、経済学は、価値判断からの自由を建前としながら、功利主義哲学と自然法思想を前提としています。しかし、欲望や目的の内容を問うことを避け、その手段の効率のみを追求してきました。しかし、隠された欲望の目的は、功利主義哲学の「営利」であり、快楽の追求と苦痛の回避ですから、経済学を根元的に批判すると功利主義の批判になります。

もう一つの隠された前提は、自然法思想で、「市場経済では、欲望を追求する個人の行動によって自動的に社会の需要と供給は均衡する」という予定調和の思想です。この思想をめぐって、経済学のイデオロギーは、自由主義と社会主義に分かれてきたと言ってもよいほどだと思います。

(ネット対談、話し手 後藤 隆一、 聞き手 山本 克郎 「小島志ネットワーク」代表幹事、 テーマ『ヒューマノミックスとは何か、そこで、何が問われるのか』より)

 

 この引用文にあるような、経済学が暗黙裡に自然法や功利主義に基づく価値判断を前提にしているという考えは、ミュルダールに強く自覚されていたことです。そこで彼はどうすれば経済学を価値判断とか政治的思弁から独立した客観的科学にできるかと問うことになります。そして『経済学説と政治的要素』(1930)で次のように結論します。「あらゆる形而上学的要素を徹底的に切り捨ててしまえば、一団の健全な実証的経済理論が残り、そしてそれらは価値判断からまったく独立」(『ミュルダールの経済学』p.78、以下断りがなければ引用は同書からです)なので、経済学を客観的な科学にすることができるだろうと。そうして「選択された一組の価値前提」を、そのような経済学によって得られた事実に関する客観的知識につけ加えれば、政治的結論を推論できるとしたのです。

 しかしその後ミュルダールは価値判断から独立した一団の科学的知識が得られるという信念を素朴な経験主義であるとしてしりぞけます。それは次のように考えたからです。

 

事実というものは、ただ観察によって概念や理論に組織化されるのではない。なるほど概念や理論の枠がなければ科学的事実はなく、混沌があるだけである。どんな科学的な作業にも欠くことのできない先験的要素がある。答えが与えられる前に問いが発せられなければならない。問いはいやしくもわれわれの関心の表現であり、それらは根底において価値判断である。したがって価値判断は当然、われわれが事実を観察し理論的分析を行う段階ですでに含まれており、決してわれわれが事実と価値判断とから政治的推論を引き出す段階で現れるだけではない(p.78)

 

たとえば、自由競争の理論や最適人口の理論といった伝統的経済理論や、経済学において頻繁に使われる「均衡」などの諸概念は、暗黙のうちに政治的に望ましいものを示していて、従って政治的偏向を含むというのです。すなわち「専門用語のほとんどが『価値を担っている』のであり、用語の直接的使用のなかに規範は隠されている」(p.72)のです。

 

「価値前提の明示」という方法論へ

 

こうしてミュルダールは、経済学は実証主義的な意味で客観的にはなりえないという見解に至ったのですが、そこで発想を転換し、論理的前提としての価値判断を選択・明示し、公の議論の対象にする方法によってこそ最も客観的に理論的分析を行えるのではないかと考え始めました。これが「価値前提の明示」という方法論に帰結するのです。『アメリカのジレンマ』(1944)において、ミュルダールは次のように自分の方法論的見地を伝えているそうです。

 

価値評価に立ち向かい、それらを明白に述べられた、特定の、そして十分に具体化された価値前提として導入するよりほか、社会科学における偏向を取り除くための装置はない。(p.82)

 

 ミュルダールは自らの方法論に従い、価値前提を明示したうえで研究分析を行うようになります。『アメリカのジレンマ』では「アメリカ的信条(American Creed)」、『国際経済』(1956)では「経済統合」、『経済理論と低開発地域』(1957)では「政治的民主主義と機会均等」、『福祉国家を越えて』(1960)では「自由・平等・友愛」、『アジアのドラマ』(1968)では「近代化諸理念(Modernization ideals)」が価値前提として望ましいとしました。ただし彼は任意に価値前提を選んでいいとはしません。「諸価値判断の間には階層性が存在し、上位の価値判断は下位の諸価値判断間の対立を解消する」(p.85)と考えており、その最上位に位置するのは「平等」であるとしたのです。ここにおいて彼は明確に価値相対主義を拒否しています。

「価値前提の明示」という方法論のもとで研究を進めるということは、平等を最高の価値とするわけですから、得られる理論は、貧富の格差が拡大したり解消したりする仕組みを示すものとなります。ミュルダールは『アメリカのジレンマ』で、黒人差別による貧富の差拡大の仕組みを説明する理論として「累積の原理」を提示します。それを踏み台にして『経済理論と低開発地域』では、世界における格差拡大とその解消の仕組みに関する一般理論である「累積的因果関係論」に到達します。

 

累積の原理

 

貨幣利子率が自然利子率よりも低い場合、企業は投資を拡大しようとする。投資が拡大すれば、総需要は総供給を上回る。個々の企業にとってそれは自社製品の価格を上げる好機とみなされる。しかし、多くの企業が同時に値上げを決定するならば、物価水準が上昇し、諸企業が物価上昇予想を強めることで、さらに投資は増加する。こうして貨幣利子率が自然利子率よりも低い限り、投資拡大と物価上昇との間に循環的および累積的な相互強化作用が生じる。(p.127)

 

この引用文にあるように、ストックホルム学派に属すヴィクセルの貨幣理論では、投資拡大と物価上昇もしくはその逆の現象が循環的および累積的な関係をもって進行すると考えられていました。このような考え方をミュルダールはアメリカでの黒人差別問題の研究に応用します。

1930年代、1940年代にアメリカでは黒人差別による貧富の差の拡大や治安悪化などが大きな社会問題になっていました。その研究のため、ミュルダールはアメリカに招かれます。アメリカ内ではこの問題の原因を怠惰や乱暴な行為など黒人側にあると考える人が多かったのですが、ミュルダールは、黒人の生活水準の下落と白人の差別意識の増大は、ヴィクセルの貨幣理論における投資拡大と物価上昇のように、相互に関連しながら循環的および累積的な関係のもとで進行するとします。これが『アメリカのジレンマ』における「累積の原理」です。

 

「累積的因果関係論」とは

 

「累積の原理」では、貧富の差の拡大は黒人の生活水準の下落と白人の差別意識の増大という要因が悪循環を起こして生じるとするのですが、ミュルダールは、一般的に経済的格差が拡大したりあるいは縮小したりすることを、悪循環を起こす要因による「逆流効果」と好循環を起こす要因による「波及効果」との大小関係で説明するようになります。

「逆流効果」とは、ある国が貿易などで成功すると、その影響を受けて他のある国で損失が出るというような効果のことです。これは格差拡大の効果であり論理です。対照的に、技術の移転・普及、先進諸国の所得上昇による低開発諸国の生産物への需要増大など、市場諸力が低開発諸国に有利に働く場合、こちらは格差縮小の効果であり論理で、「波及効果」と呼ばれます。

 この対概念によって、格差拡大の増進、停止、解消というものが明確に説明できるようになります。通常の場合、逆流効果の方が波及効果よりも大きいため悪循環が起こり格差は拡大します。しかし政策等で波及効果が逆流効果に対して同等になると悪循環は停止し、相対的に大きくなると好循環が始まり格差縮小の方向に向かうとするのです。

 ミュルダールは、逆流効果や波及効果の要因として、所得、生産条件、生活水準などの「経済的要因」だけでなく、政治、文化、宗教等の制度や人々の思考方法・価値観など、制度的・心理的要素といった「経済外的要因」も重視します。そして、経済状態の変化に関し、「経済的要因」と「経済外的要因」という理論上の区分をするのは無意味だとします。それは、主流派経済学が、均衡攪乱の作用をもたらす「経済外的要因」を分析の埒外に置いたために、格差解消の解決などに関して全く無力だったと考えたからです。

 またミュルダールは波及効果を高めるような政策を意図的に施行することで逆流効果を弱め、好循環への転向を促すことができるとします。具体的には、土地改革、社会保障制度の整備、民主主義的政治体制の構築、人口政策などの平等主義的社会政策を挙げています。

このように、①価値前提として格差解消あるいは平等を提示し、②格差拡大の悪循環やあるいは縮小の好循環を逆流効果と波及効果の大小関係で説明し、③逆流効果や波及効果の要因として経済的なものにもまして経済外的(制度・心理的)なものを重視し、④好循環を実現するためには平等的社会政策を実施することが必要だと主張するのが、「累積的因果関係論」なのです。この理論で現実世界を分析すると、以下のように、先進諸国(諸福祉国家)での好循環、低開発諸国での悪循環、先進諸国と低開発諸国との両者の間の悪循環が存在していることを明確に説明することができるのです。

 

福祉国家内における好循環

 

 福祉国家形成過程では保護主義的手段が導入され永続化したわけですが、その要因には、経済面・政治面の表層的変化が起きたこと以上に、それと対応して人々の思考様式あるいは価値判断が変化したことがあるとミュルダールは考えています。たとえば「第一次世界大戦以来、戦乱や大不況といった政治的・経済的混乱を乗り切るために、各国は国内における雇用や福祉、生産や消費の安定化を図って、様々な保護政策的手段を講じてきた」(p.194)のですが、このように変動の際に何かが行われなければならないという考えに慣らされた結果、「自分たちの利害に合うように社会的・経済的条件を変革したいという人々の心理状態をさらなる保護政策的手段の行使を求めるようにし、それが後戻りできない変化となった」(p.194)というのです。一時的な国難における混乱を乗り切るのを目的に行われたことが、人々の思考様式や価値判断の変化を起こし、それら内面の変化は累積的で不可逆的な性格が強いものですから、制度の永続化にとって大きな役割を果たしたのだとミュルダールは考えるのです。

こうして人々の内面の変化を伴って形成された福祉国家が施す平等主義的社会政策は、格差拡大の逆流効果をもたらす市場諸力を相殺し、波及効果をもたらす交通運輸手段の改善、教育水準の向上、観念や価値の動態的交流等を増大させ、高成長をもたらすことになったとミュルダールは主張します。要するに、「成長と福祉は両立するし、むしろ平等主義的社会政策をもたらす福祉国家の存在こそが効率や成長に必要な制度的基盤である」(p.110)ということが累積的因果関係論の基本的な主張の一つなのです。

 

低開発国内での悪循環

 

低開発諸国は市場の組織化が不十分で、不正や汚職といった政治的腐敗が横行する国家組織を伴った「軟性国家」です。そのため社会的・制度的構造が経済発展を阻害し、波及効果を強める交通運輸手段の改善、教育水準の向上、観念や価値の動態的な交流などが進みません。その結果、不平等が拡大し、社会に不安定性とさらなる貧困を与えることになります。

ミュルダールは、インドを中心とする南アジアの社会システムは、①産出量と所得、②生産条件、③生活水準、④生活と労働に関する態度、⑤制度、⑥政策、これら六つの相互連関する諸要因から成り立っていると分析しました。そして、不平等をもたらしているより根本的な原因は「低開発諸国における因習的で不合理・不平等な制度であり、それと相互連関する人々の狭量で保守的な態度や思考様式」(p.219)だとし、④の態度や⑤の制度といった「経済外的要因」が①~③の「経済的要因」に与える影響を重視しなければならないとしました。

 

先進諸国と低開発諸国間の国際的悪循環

 

福祉国家における好循環、低開発国における悪循環につづき、ミュルダールは、現実世界においては、市場諸力を通じた先進諸国から低開発諸国への逆流効果の方が波及効果よりも大きく、それが悪循環を起こして低開発諸国の貧困の大きな原因となっていると累積的因果関係論で分析します。彼は福祉国家の成功が必ずしも低開発経済に好影響を与えているわけではない理由として、福祉国家の国民主義的限界を挙げています。

既に述べましたように、もともと福祉国家としての計画化は国際的統合を達成しようとするものではなかったのです。戦争などによる政治経済的困難を乗り切るに必要な国民統合を目指すことが発端だったのです。したがって福祉国家は本質的に国民主義的であり、それゆえに限界をもっています。ですから各国で福祉国家が形成されるにしたがって、国家間の利害対立が激化し、国際的分裂が深まるのも当然なのだとミュルダールは考えます。そこには、各国国民における社会心理という根本的な原因があると彼は指摘します。経済的国民主義が生ずるより深い理由は、「福祉国家の成長といっそうの発展が国境外へは及ばない人間的連帯感を築きやすい」(p.230)ことにあるというのです。そうして「各福祉国家は国内における成功を確保するために対外的伸縮性を失ってきた」(p.229)とするのです。先進国は低開発国に技術的な援助や大胆な市場開放をするよりも、台頭することが自国の脅威になりかねないとして圧迫し、自国がより豊かになることの方を追求しがちだというのです。

 

福祉世界構築に向けて

 

一方で先進国(福祉国家)における成長の好循環があり、他方で低開発国(軟性国家)における貧困の悪循環があり、また福祉国家の国民主義的限界による両者間での悪循環もあると累積的因果関係論は現実を分析するのですが、悪循環を克服して福祉世界を構築し、格差を解消するのがミュルダールの理想です。累積的因果関係論では、そのためには平等主義的政策を実施せよとなります。そこでミュルダールはそのための政策論を、低開発諸国向けと先進諸国向けの二通りに分けて展開します。「低開発諸国の自助努力」と「先進諸国の責任」とよばれるものです。そうして福祉国家から福祉世界へと発展するための全般的ヴィジョンを提示していくことになります。

 

 

より先進的な福祉社会と人間観

 

 グローバルと言うには程遠い規模ですが、北欧では19701980年代に、ピケティが許容できる低格差高福祉社会に近いものを達成していたわけです。その中でもスウェーデン(あるいは政権党であった社会民主党)90年代から、古典的福祉国家を超えて、「緑の福祉国家」というより高度な社会の構想を提示しました。

古典的な福祉国家、あるいは福祉社会では、人は理性と良識を持つ合理的な個人で、そのような個人が互いに連帯して、生活が保障されるような共同体を構築することになります。また、市場経済と私有財産は社会を構成する重要な要素で、能力を自由に発揮して、努力することで得られた富の所有とそのために生じる格差も、それが共同体の利益に反しない限りは認められるので、決して活気のない社会ではありません。これらのことだけを見ると、文句のつけようはないと思えます。

 しかしエネルギーの有限性、急激な気候変動、有害物質による環境汚染、開発による急激な自然破壊などによって、現在のような大量生産・大量消費社会が持続するのは困難だということは大分前から明らかになっています。そのため構造改革を実行し、持続できる社会を造る必要にせまられているのです。そのような変革案として登場したのが、『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(小澤徳太郎著、朝日新聞社、 2006)で紹介されているスウェーデンの「緑の福祉国家(生態学的に持続可能な社会)」という考えです。

同書によるとスウェーデンは、「生態学的に持続可能な社会への道(緑の福祉国家)」を選択し、1996年に「25年後の2021年次の望ましい社会を想定したプロジェクト」をスタートさせ、1999年に「2021年のスウェーデン――持続可能な社会に向けて」という研究成果を公表したとありますそして、この「将来のあるべき社会の姿」への長期ヴィジョンを実現するために行動計画が作られ、新しい法律の作成・社会制度の変革・技術開発の変革が実行されつつあるそうです。タイムスケジュールも含んだ、持続可能な社会を実現するための具体的ヴィジョンを持っていて、環境問題への対処を後回しにしていないのです。そして「緑の福祉国家」には、①社会的側面、②経済的側面、③環境的側面という三つの側面があります。①と②は、合理的な個人としての人間を大事にする、古典的福祉国家としての側面です。③は、新たに加わった環境を大切にするという側面であり、その背景には、「健全な環境は基本的な人権の一部」だという考えがあります。つまり、人という概念の中に、その土台としての自然生態系(環境)の一部であることが含まれています。人は、合理的存在ではあるけれども、より基本的なレベルでは動物でもあり、さらには人類が登場するまでの進化の過程で現れた自然の全てのレベルを含んだ存在だという考えがそこにはあるようです。小澤徳太郎氏が次のように述べていることが的確にそのことを表現していると思えます。

 

人間は動物である。ある範囲の温度・湿度・気圧・重力のもとで、光を浴び、空気を吸い、水を飲み、動植物しか食べられない!(『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』p.74)

 

また、同じく『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』によれば、スウェーデンの動物保護法(1998年動物福祉法と改称。小澤氏のブログより)では、「動物は本来持っている自然行動を考慮した環境で飼育されなければならない」ので、例えば繁殖用の母豚の飼育であれば、寝床、餌場、排泄場所を別々にしなければならないとされています。このようなことは、人間の動物としての部分と同様に、自然生態系の一員としてのその他の生物にも、そのレベルに相応しい権利を認め、尊重すべきだと考えていることを示しているのでしょう。

古典的な福祉社会のメンバーである人間は合理的な個人でしたが、緑の福祉国家のメンバーである人間は、内に自然を含む統合的なものなのです。民主主義の理念における連帯ということも、合理的個人をメンバーとする共同体での連帯(世界中心的)から、自然生態系を母体とする共同体での連帯(地球中心的)へと変容しているように見えます。

 ピケティも『21世紀の資本』の最終章で持続可能性について語っています。

 

……公的債務は私たちの主要な心配事ではない(これは総民間財産よりずっと小さいし、なくすのはそんなにむずかしくないかもしれない)。もっと緊急の必要性は教育資本を増やし、自然資本の劣化を防ぐことだ。これははるかに深刻で困難な課題だ。気候変動は一筆書いただけで(あるいは同じことだが資本税で)消えるものではないからだ。(p.599)

 

……先端研究が急速に進歩して再生可能エネルギー源を開発してくれるよう期待するのか、それともすぐさま自分たちの炭化水素消費に厳しい制限を課すべきなのだろうか?たぶん既存のツールすべてを活用する、バランスのとれた戦略を選ぶのが賢明なはずだ。(.599)

 

 これらの引用文から、彼も生態系の変容を差し迫った危機と捉えている様子がうかがわれます。人間は単に理性的な自我を持った個人であるだけではなく、その基本として自然界のレベルも内に持っている。従って人間はグローバルな福祉社会という共同体の一員であると同時に、より基本的には健全な全地球的生態系の一員であるべきなのだ。そういう発想も彼は持っているのかもしれません。そうであれば、民主主義社会としてはあまりに不公正な富の高格差を是正すること以上に、人間の大量生産・大量消費活動によりバランスを崩された、言わば生態系での不公正な高格差の是正こそが実はより緊急な課題なのです。従ってピケティの主張するような税制改革をグローバルに行う際には、その税を一時的には持続可能な社会の建設へ優先的に投資し、一気にグローバルな緑の福祉社会に進む戦略が必ず伴わなければ私たちの共同体に未来はないのでしょう。しかしそれは20年ほど前にはスウェーデンが国の規模で構想し、またそれに倣って5年前にサングラハ教育・心理研究所が母体となって設立した「持続可能な国づくりを考える会」が日本を対象に構想した戦略を、地球規模で行うことにほかならないのだと思います。

格差の拡大を止めるには

 

 富裕国(特にアメリカ)にすでに存在する高格差社会がより激化するのを防ぎ、現在より低格差の社会にするには、英米で一時行われたような没収的な最高税率の累進課税を実施すべきだとピケティは考えています。理由はそのような累進課税が、スーパー経営者の得る不必要に高い報酬を止める作用と、社会国家(ピケティの本では福祉国家を意味します)を維持するための資金を集める作用との二つの役割を果たすからです。彼は次のように述べています。

 

理論モデルにおいては(また累進課税の歴史でも同様)、累進税はまったくちがう二つの役割を果たしてきたことに注目。まず収奪的な税率(分配のトップ0.5あるいは1%に対する8090%の税率)は不適切で無意味な報酬を止めさせる役割を果たし、高いが没収的ではない税率(トップ5あるいは10%の層に対する5060%の税率)は所得分布の下位90%からくる歳入を超えて社会国家のための資金を集める役割を果たす。(14章の原注51)

 

 そして彼は、先進国で最適な最高税率は80%以上であろうと提案します。しかし、このように所得税率を過去の英米で行われた高みに戻すだけでは、グローバル化している金融資本主義をコントロールして、さらなる資本集中を防いだり、リーマンショックのような金融危機を避けたりするには不足だと彼は考え、新しい手段が必要だとします。例えば、スイスの秘密主義的な銀行や、あるいはかつてのキプロスのようなタックスヘイブン的な小国に守られた、世界資本の10%を占めるとも噂される隠れ資産をも含めてコントロールしなければならないからです。そしてそのための「理想的なツールは資本に対する世界的な累進課税で、それをきわめて高水準の国際金融の透明性と組み合わせねばならない」(p.539)と述べています。

もしそのような国際金融の透明性が実現し、「誰が世界中でどんな資産を持っているかが明確に」(p.542)なれば、彼の唱える資本に対するグローバルな累進課税によって、富の格差の拡大を止めるだけでなく、「危機の発生を避けるために金融と銀行のシステムに対して有効な規制をかける」(p.542)ことも可能になりそうです。

もちろん、資本所得の方に一律に重税をかけ、民間資本収益を経済成長率より強引に下げる(すなわち実質的にr<gとする)ことで、資本の集中を避けるということも考えられます。たとえば日本では、現在株の配当などは20%の税率で課税されていますが、それを一律80%にしてしまうような手法です。しかしこれにはピケティは反対して次のように述べています。

 

……資本所得に重税をかけて、民間資本収益を成長率より下げることはできる。でもこれを無差別かつ強硬に実施したら、蓄積の原動力を殺しかねず、成長率をさらに引き下げかねない。すると事業者たちは不労所得生活者になる暇がなくなる。もう事業者もいなくなってしまうからだ。

  正しい解決策は資本に対する年次累進課税だ。これにより、果てしない不平等スパイラルを避けつつ、一次蓄積の新しい機会を作る競争とインセンティブは保持される。たとえば、私は本書で100万ユーロ以下の財産には0.10.5パーセント、100500万ユーロの財産には1パーセント、5001000万ユーロに対しては2パーセント、数億や数十億ユーロの財産には510パーセントという資本税率表を支持した。これは世界的な富の格差の無制限な拡大を抑える。

むずかしいのはこの解決策、つまり累進資本税が、高度な国際協力と地域的な政治統合を必要とすることだ。(.602)

 

 能力と努力に応じて、ある程度資産の格差が生じることは正当で、市場経済を活性化させるとピケティは考えています。また、底辺50%が所有するわずかな資産を増やしていくことは、民主主義の平等の理念にかなうことでもあるでしょう。ですから、資本からの利益に一律に没収的税率をかけることで、下流の資本所有が拡大するのまで妨げるのではなく、資本自体に累進的な課税をして、平等と格差のバランスを取ろうというのが彼の考えなのです。また資本所得に対しては、必ず労働所得と合わせて総合所得として課税するようにすれば、きちんと累進的な課税をすることができます。

ピケティは本の中では触れていません(私が見落としたのかもしれません)が、相続の累進課税も最高税率を没収的なものに当然するべきだと考えているはずです。中流以下では相応の割合で資産を残せられるようにする一方で、上位1%の相続に没収的な最高税率をあてはめるということは、格差と平等のバランスをとるのに当然必要なことだと思えるのです。もう一つピケティが触れていなかったことで私が付け加えたいのは、逆進性の要素が強い消費税は抑制気味にすべきだということです。こうしてあらゆる格差是正の手を打つべきだと思うのです。

 ところで資本税については、その実現性に大問題があり、彼自身が次のように述べています。

 

世界的な資本税というのは空想的な発想だ。世界各国がこんなものに同意するなど、当分の間はなかなか想像もできない。この目的を果たすためには、世界中のあらゆる富についての税率表を作り、それからその歳入をどう山分けするか決めねばならない。でもこの発想が空想にすぎなくても、いくつかの理由で役に立つものではある。まず、この理想に近いものすら当分の間は実施できないにしても、有益な参照点として使える。これを基準にして他の提案を評価するわけだ。もちろん世界的な資本税には、たしかにきわめて高い、そしてまちがいなく非現実的な水準の国際協調を必要とする。でもこの方向に動こうとする国々は、段階的にそちらに向かうことも十分できる。まずは地方レベル(たとえばヨーロッパなど)から始めるといい。(p.539)

 

真にグローバルな資本税を実施するには、すでに引用した文の中にあったように、「誰が世界中でどんな資産を持っているかが明確になる必要がある」わけで、そのためには「高度な国際協力と地域的な政治統合」を実現しなければならないという困難があるわけです。しかし「世界的な資本税は、経済の開放性を維持しつつ、世界経済を有効な形で規制し、その便益を各国同士や各国の中で公正に分配できるという長所がある」(p.540)のです。このような税制をあきらめるのはあまりにももったいなくはないでしょうか。そこで彼が「まずは大陸か地域レベルで導入し、その後地域間の協力を密接にするように取り組めばいい」(p.540)と言っているように、EUと北米などでモデル化と実験を行い、その成果をもとに他の地域へ広めることにするのが現実的なアプローチなのでしょう。

このエッセイの冒頭で、資本所得に対する税率がゼロである想像上の日本における、資産10億円、労働所得1千万円のご夫妻について考え、20年も経過すると、その資産価値が2倍にもなるというシミュレーションを行いました。このご夫妻が、経済成長率1%、資本収益率5%というのは同じでも、税制が格差解消を実現するためのグローバルなものに変わった、別の想像上の日本に住むことになったとします。ここでは、所得税は資本所得と労働所得の両者を合わせた総所得に最高税率80%の累進課税となっています。また資本税は、ピケティの案を参考にして、1億円未満では0.1%、1億~5億円では1%、5億~10億円では2%、10億~100億円では5%、100億円越えでは10%の累進課税だとします。

ご夫妻の資本所得は5千万円になりますから、労働所得の1千万円を加えますと、総所得は6千万円になります。この程度の所得ですと、高収入ではあっても、没収的な税率が課されるスーパー経営者的な所得ではありません。そこで、この所得に対する税率は60%だとします。そうしますと資本収益5%の内の6割、5×0.63%は税金で持っていかれてしまいますから、仮に税引き後の収益を全て再投資しても、532%の成長率にしかなりません。また、10億円の資産は、資本税の税率がぎりぎり2%に収まりますが、これは今計算しました成長率2%をちょうど帳消しにしてしまいます。ですから資産はまったく成長しません。さらに、経済成長率1%を差し引いた資産の成長率(資産価値の成長率)は-1%ということになります。このように、今仮定したような税制を持つ社会では、10億円の資産は、その資本収益を全て再投資したとしても、価値を維持していくことはできません。さらに言えば、労働所得1000万円の方にも総所得に対する60%の税率がかかりますし、子供の一人は高校進学、もう一人は大学進学を控えていますから、教育費を含めた生活費として、資本所得の一部を回す必要も出てくるでしょう。そうしますと、さらに資産価値の成長率のマイナス分は大きくなることでしょう。また、遺産相続での税率も最高税率80%の累進課税になっているとしますと、このご夫妻の子供の代で受け取る相続資産は大幅に減ることになります。同じような低経済成長率、高資本収益率であっても、第一次世界大戦前のような極端な資本集中、あるいは資産格差に至ることはなくなり、それどころか現時点の格差を解消する方向へ向かわせます。これがピケティの考える税制の狙いなのです。

 

ピケティが目標とする格差と彼の理想

 

 ピケティの税制案を採用し、グローバルな資本課税が行えたとして、富の格差はどの程度まで下がればいいと彼は考えているのでしょうか。労働と資本の格差の構造を時間空間的に示した表35を再び眺めてください。彼が目標とするのは、低格差と書かれている欄に示されているもののようです(表4で低格差の欄に理想社会と書かれていることからもそれは推察できます)。労働所得と総所得に関して言えばそれは19701980年代の北欧程度の格差であり、資本所得あるいは資本そのものに関して言えば、19701980年代の北欧でのトップ10%のシェアを50%から30%まで20%減らし、減らした分の5%を中間40%に、15%を底辺50%に移動させ、底辺層でもそれなりに富を保有できるようにしたときの格差です。乱暴に言えば、19701980年代北欧で実現されていた福祉社会で、底辺階層の富のシェアをある程度厚くしたもの(このような社会を古典的福祉社会と呼ぶことにします)を、グローバルな規模で完成させるというのが彼の目指すところです。

 ピケティは現代民主主義社会における能力主義による富の格差の正当性を認めていますから、格差を全くなくすことは考えていません。ただ、その能力主義的正当性には条件がつくのだと、フランス革命の際の人権宣言にからめて次のように述べています。

 

フランス人権宣言(1789)1条もまた「人は自由に生まれ、自由のまま権利において平等な存在であり続ける」と宣言する。でもこの一節の直後には次の宣言がある。「社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない」 (.498)

 

すなわち、能力と努力という正当性があるとしても、格差は共同体の利益に基づかなければならないのですから、社会不安を生じさせたり、能力の正当な評価に基づいているかどうか疑われたり、金融危機の誘因になったり、あるいは福祉社会の維持に反するようなものになってはいけないのです。そのような条件をクリアーしていれば、全体としては先程述べた程度の低めの格差に収まればいいと彼は考えているのでしょう。

 ただ彼には、できれば相続による富の継承は完全になくすべきだという本音があるように私には思えます。「理論上は、すべての人々がすべての富を終身年金に切り替えて、死ぬときにはすべてを使い果たしている世界も十分に想像できる」(.414)とか、「エミール・デュルケムは、現代民主主義社会はいつまでも相続財産の存在を許すはずはなく、最終的には死とともに財産所有権が消えるようにするはずだと予言している」(.438)というようなことを肯定的に述べていることから私はそのように推察します。さらに推察を続けると、彼が考える現代民主主義社会のメンバーたる個人とは、誰もが基本的人権に基づく生活保障を十分に受けられるという意味で平等に生まれるものであり、能力と努力の対価となる富を得ることは正当だと認められ、ある程度の格差を享受することも許されるが、死とともに全ての所有権を失い再び平等な状態に戻って完結するものなのです。能力や努力によらず、血縁などに基づいた相続で得る富は、本来的には個人の人生に全く関与すべきではないのです。個人は、出自などに影響されることなく、等しく理性と良識を持った合理的存在として、同じ合理的な存在と連帯で結び付いた社会で平等に生まれ、平等に死ぬことで完結する存在。フランス革命の人権宣言、そして民主主義の自由、平等、連帯の理念に沿う人間は、本質的にはそのようなものだと彼は考えているように私には見えます。

 

 戦後の累進課税によって最上位への富の集中度は下がり、その意味では格差は縮小しました。しかし、底辺50%に関する格差は変わっていないのです。ピケティは次のように述べています。

 

……大きな構造的変化は、人口のほぼ半数を占める中流階級の出現であり、それは何とか自分の資本を獲得できた個人によって構成されている――その結果、かれらは集団として国富の4分の1から3分の1を占めるにいたった。(p.361)

 

 たとえば現在のフランスは次のような状況にあるというのです。

 

今日のフランスでは、たしかに19世紀に比べ巨額の財産は減った――3000万、あるいは500万、1000万ユーロの財産さえあまりお目にかかれない。しかし相続財産の総額はほぼ以前の水準まで回復し、その結果、20万、50万、100万、200万ユーロというそこそこ大きい相続や、かなり多額の相続が増えた。そのような遺産は受取人がキャリアをすべて捨てて、利子だけで暮らすには小さすぎるが、それでも相当な額で、特に人口の多くが生涯働いて得る額と比べればなおさらだ。言い換えれば私たちは、少数の非常に裕福な不労所得生活者がいる社会から、そこまで裕福ではない不労所得生活者が多数いる社会へと移行したのだ」(.436)

 

 こうして、2010年ヨーロッパは、表3、表4、表5と見渡しますと、労働所得においては中格差、資産においては中高格差、総合所得においては中格差と言えるような状況に至っているのです。

ところで、再び最高税率の表1、表2を見てください。英米では1980年頃まで所得と相続に対する最高税率はほとんど没収と言ってもいいほど高かったのですが、それ以降急激に低下します。1980年頃と言えば、アメリカではレーガン、イギリスではサッチャーが登場し、その後新保守主義が隆盛となり、新自由主義的な考えが支配的になっていく過渡期です。特に所得の最高税率は、大陸ヨーロッパのフランスやドイツより低い状態になっていきます。この所得課税累進性の急激な低下が、特にアメリカで、極めて労働所得の高いスーパー経営者が存在する「超能力主義社会」が登場したことの相当部分を説明するのだと。そうピケティは主張します。確かに、最高税率が没収的であり続けたならば、給与をある限度を超えてまで高める努力をするのはほとんど無意味に思われたでしょう。ところが没収的な最高税率が消えたアメリカでは、そのような努力が報われるようになったのです。そして大企業のCEO(最高経営責任者)COO(最高執行責任者)が十億円以上の労働所得を得たりするのを聞くようになりました。労働所得の格差を表す表3を見てください。2010年ヨーロッパ(中格差)に比べ、2010年アメリカ(高格差)では労働所得の格差が明らかに大きくなっています。さらに同じような状況が続くと、同表にある2030年アメリカのような労働所得における超高格差が生じるとピケティは予測しています。そこではトップ1%の人々が、全労働所得の17%も占めるのです。

資本所得に関しても格差を助長するような状況が生じているとピケティは述べています。それは「近年の自由な資本フロー世界における税制競争の台頭により、多くの政府は資本所得を累進所得税から除外した」(.517)からだと彼は考察しています。金融資産を自由に移動させられることから、より多くの資産を受け入れようとする国同士が競争し、「法人税率が引き下げられたり、利子、配当などの金融収入が、労働所得のような課税対象から外されたり」(.517)したのです。特に域内に多数の国を擁するヨーロッパで顕著だと指摘されています。その結果、多くの国で税率が、所得階層のトップでは逆進的になってしまったそうです。例えば2010年フランスの状況についてピケティは次のように述べています。

 

所得分布の底辺50パーセントは所得の4045パーセントを税金で持っていかれる。次の40パーセントは4550パーセントだ。でもトップ5パーセントと、それ以上にトップ1パーセントは低い税率になり、トップ0.1パーセントはたった35パーセントしか払っていない。貧乏人の高い税率は、消費税や社会拠出金の重さを示す(これはあわせてフランス税収の4分の3を占める)。中間の階層で見られたわずかな累進性は、所得税の重要性が増すことで生じたものだ。逆に、トップ百分位で見られる明らかな逆進性は、この水準では資本所得が重要になってくることを反映している。資本所得は累進課税からほとんど除外されているのだ。この免税の影響は、資本ストックに対する(極めて累進的な)課税による効果よりも大きい。(p.517518)

 

「きわめて格差の大きい総所得の分配(トップ十分位が約50パーセント、トップ百分位が20パーセント)を社会が実現するには、二つの方法がある」(p.274)とピケティは言います。

 一つ目は第一次世界大戦以前に実現した「超世襲社会」に至るまでのような、「資本収益率r>経済成長率g」が長期にわたり成立するという方法です。19世紀に比べれば若干rとgの差は小さくなったものの、基本的にr>gという条件は今も成立し続けています。もちろん19世紀のように資本所得に対する税率がほぼ0ということは現在ありません。しかし先ほど述べましたように、資本所得に対する課税が累進性から除外されていたりもしますから、この方法によって「超世襲社会」は再び実現しつつあると言えそうなのです。

2つ目は、最高税率を低く抑えた所得税を実施して、極めて高額な労働所得を得るスーパー経営者の存在を有意味にさせる、アメリカで顕著になっている方法です。そのようなスーパー経営者がいる「超能力主義社会」では、「所得階層の頂点は相続遺産による所得ではなく、とても高い労働所得によって占められている」(p.274)のです。

 ピケティはr>gによって現れつつある「超世襲社会」の格差と、スーパー経営者の存在による「超能力主義社会」による格差との共存可能性についても述べています。

 

私が示した二種類の超不平等社会――不労所得生活者の社会とスーパー経営者の社会――の明確な対比が、単純で誇張されたものだということはお忘れなく。この二種類の格差は共存可能だ。一人の人間が、スーパー経営者と不労所得生活者を兼ねていけないという理由などない――そして、現在のところ富の集中はヨーロッパでよりも米国でずっと高いという事実は、米国がまさにそういう状態なのではと示唆するものだ。……もし両者が組み合わされば、将来的に空前の極端な格差世界が登場しかねないのだ。(p.274)

 

 表5を見てください。2010年アメリカ(高格差)では、すでに総所得の分配の格差がきわめて大きい社会 (トップ十分位が約50パーセント、トップ百分位が20パーセント)が実現されているのです。そしてこれが二種類の超不平等社会が重なった社会への道程の一コマであるとするなら、2030年のアメリカでは、表5の一番右の欄にあるような総所得における超高格差社会(トップ十分位が約60パーセント、トップ百分位が25パーセント)が実現するだろうというのです。

5 時間空間的に見た総所得(労働と資本)の格差

総所得(労働+資本)に占める各グループの比率

低格差

197080年代スカンジナビア

中格差

2010年ヨーロッパ

高格差

2010年米国

超高格差

2030年米国

トップ10(上流階級)

25

35

50

60

 トップ1(支配階級)

7

10

20

25

 残り9(富裕階級)

18

25

30

35

中間40(中流階級)

45

40

30

25

底辺50(下流階級)

30

25

20

15

 

4 時間空間的に見た資本所得格差

総資本に占める各グループの比率

低格差

前代未聞、理想社会

中格差

197080年代スカンジナビア

中高格差

2010年ヨーロッパ

高格差

2010年米国

超高格差

1910年ヨーロッパ

トップ10(上流階級)

30

50

60

70

90

 トップ1(支配階級)

10

20

25

35

50

 残り9(富裕階級)

20

30

35

35

40

中間40(中流階級)

45

40

35

25

5

底辺50(下流階級)

25

10

5

5

5

 

 

 

3 時間空間的に見た労働所得格差

総労働所得に占める各グループの比率

低格差

197080年代スカンジナビア

中格差

2010年ヨーロッパ

高格差

2010年米国

超高格差

2030年米国

トップ10(上流階級)

20

25

35

45

トップ1(支配階級)

5

7

12

17

 残り9(富裕階級)

15

18

23

28

中間40(中流階級)

45

45

40

35

底辺50(下流階級)

35

30

25

20

 

 

 労働と資本の格差の構造を時間空間的に示したのが次の表35です(.258の表を参考に作成しました)。この中の表4(資本所得の格差の表ですが、資産自体の格差を表していると見なすこともできます)を見て、1910年ヨーロッパと100年後の2010年ヨーロッパを比較してください。トップ10%のシェアは、先ほど述べましたように、1910(ベル・エポック期)90%から2010(今日)60%に30%減少しています。それに対して中間40%のシェアは、1910年の5%から2010年の35%に30%上昇しています。底辺50%のシェアはいずれの年でも5%で変化ありません。つまり、戦後の累進課税の結果、戦前の「最も富める10パーセントが失ったものの大部分」は、「『世襲中流階級』(富の階層の中間40パーセントと定義されている)が得ていて、人口の最も貧しい半数には渡っていない」(p.361)ようなのです。