格差の拡大を止めるには
富裕国(特にアメリカ)にすでに存在する高格差社会がより激化するのを防ぎ、現在より低格差の社会にするには、英米で一時行われたような没収的な最高税率の累進課税を実施すべきだとピケティは考えています。理由はそのような累進課税が、スーパー経営者の得る不必要に高い報酬を止める作用と、社会国家(ピケティの本では福祉国家を意味します)を維持するための資金を集める作用との二つの役割を果たすからです。彼は次のように述べています。
理論モデルにおいては(また累進課税の歴史でも同様)、累進税はまったくちがう二つの役割を果たしてきたことに注目。まず収奪的な税率(分配のトップ0.5あるいは1%に対する80―90%の税率)は不適切で無意味な報酬を止めさせる役割を果たし、高いが没収的ではない税率(トップ5あるいは10%の層に対する50―60%の税率)は所得分布の下位90%からくる歳入を超えて社会国家のための資金を集める役割を果たす。(第14章の原注51)
そして彼は、先進国で最適な最高税率は80%以上であろうと提案します。しかし、このように所得税率を過去の英米で行われた高みに戻すだけでは、グローバル化している金融資本主義をコントロールして、さらなる資本集中を防いだり、リーマンショックのような金融危機を避けたりするには不足だと彼は考え、新しい手段が必要だとします。例えば、スイスの秘密主義的な銀行や、あるいはかつてのキプロスのようなタックスヘイブン的な小国に守られた、世界資本の10%を占めるとも噂される隠れ資産をも含めてコントロールしなければならないからです。そしてそのための「理想的なツールは資本に対する世界的な累進課税で、それをきわめて高水準の国際金融の透明性と組み合わせねばならない」(p.539)と述べています。
もしそのような国際金融の透明性が実現し、「誰が世界中でどんな資産を持っているかが明確に」(p.542)なれば、彼の唱える資本に対するグローバルな累進課税によって、富の格差の拡大を止めるだけでなく、「危機の発生を避けるために金融と銀行のシステムに対して有効な規制をかける」(p.542)ことも可能になりそうです。
もちろん、資本所得の方に一律に重税をかけ、民間資本収益を経済成長率より強引に下げる(すなわち実質的にr<gとする)ことで、資本の集中を避けるということも考えられます。たとえば日本では、現在株の配当などは20%の税率で課税されていますが、それを一律80%にしてしまうような手法です。しかしこれにはピケティは反対して次のように述べています。
……資本所得に重税をかけて、民間資本収益を成長率より下げることはできる。でもこれを無差別かつ強硬に実施したら、蓄積の原動力を殺しかねず、成長率をさらに引き下げかねない。すると事業者たちは不労所得生活者になる暇がなくなる。もう事業者もいなくなってしまうからだ。
正しい解決策は資本に対する年次累進課税だ。これにより、果てしない不平等スパイラルを避けつつ、一次蓄積の新しい機会を作る競争とインセンティブは保持される。たとえば、私は本書で100万ユーロ以下の財産には0.1か0.5パーセント、100-500万ユーロの財産には1パーセント、500-1000万ユーロに対しては2パーセント、数億や数十億ユーロの財産には5か10パーセントという資本税率表を支持した。これは世界的な富の格差の無制限な拡大を抑える。
むずかしいのはこの解決策、つまり累進資本税が、高度な国際協力と地域的な政治統合を必要とすることだ。(p.602)
能力と努力に応じて、ある程度資産の格差が生じることは正当で、市場経済を活性化させるとピケティは考えています。また、底辺50%が所有するわずかな資産を増やしていくことは、民主主義の平等の理念にかなうことでもあるでしょう。ですから、資本からの利益に一律に没収的税率をかけることで、下流の資本所有が拡大するのまで妨げるのではなく、資本自体に累進的な課税をして、平等と格差のバランスを取ろうというのが彼の考えなのです。また資本所得に対しては、必ず労働所得と合わせて総合所得として課税するようにすれば、きちんと累進的な課税をすることができます。
ピケティは本の中では触れていません(私が見落としたのかもしれません)が、相続の累進課税も最高税率を没収的なものに当然するべきだと考えているはずです。中流以下では相応の割合で資産を残せられるようにする一方で、上位1%の相続に没収的な最高税率をあてはめるということは、格差と平等のバランスをとるのに当然必要なことだと思えるのです。もう一つピケティが触れていなかったことで私が付け加えたいのは、逆進性の要素が強い消費税は抑制気味にすべきだということです。こうしてあらゆる格差是正の手を打つべきだと思うのです。
ところで資本税については、その実現性に大問題があり、彼自身が次のように述べています。
世界的な資本税というのは空想的な発想だ。世界各国がこんなものに同意するなど、当分の間はなかなか想像もできない。この目的を果たすためには、世界中のあらゆる富についての税率表を作り、それからその歳入をどう山分けするか決めねばならない。でもこの発想が空想にすぎなくても、いくつかの理由で役に立つものではある。まず、この理想に近いものすら当分の間は実施できないにしても、有益な参照点として使える。これを基準にして他の提案を評価するわけだ。もちろん世界的な資本税には、たしかにきわめて高い、そしてまちがいなく非現実的な水準の国際協調を必要とする。でもこの方向に動こうとする国々は、段階的にそちらに向かうことも十分できる。まずは地方レベル(たとえばヨーロッパなど)から始めるといい。(p.539)
真にグローバルな資本税を実施するには、すでに引用した文の中にあったように、「誰が世界中でどんな資産を持っているかが明確になる必要がある」わけで、そのためには「高度な国際協力と地域的な政治統合」を実現しなければならないという困難があるわけです。しかし「世界的な資本税は、経済の開放性を維持しつつ、世界経済を有効な形で規制し、その便益を各国同士や各国の中で公正に分配できるという長所がある」(p.540)のです。このような税制をあきらめるのはあまりにももったいなくはないでしょうか。そこで彼が「まずは大陸か地域レベルで導入し、その後地域間の協力を密接にするように取り組めばいい」(p.540)と言っているように、EUと北米などでモデル化と実験を行い、その成果をもとに他の地域へ広めることにするのが現実的なアプローチなのでしょう。
このエッセイの冒頭で、資本所得に対する税率がゼロである想像上の日本における、資産10億円、労働所得1千万円のご夫妻について考え、20年も経過すると、その資産価値が2倍にもなるというシミュレーションを行いました。このご夫妻が、経済成長率1%、資本収益率5%というのは同じでも、税制が格差解消を実現するためのグローバルなものに変わった、別の想像上の日本に住むことになったとします。ここでは、所得税は資本所得と労働所得の両者を合わせた総所得に最高税率80%の累進課税となっています。また資本税は、ピケティの案を参考にして、1億円未満では0.1%、1億~5億円では1%、5億~10億円では2%、10億~100億円では5%、100億円越えでは10%の累進課税だとします。
ご夫妻の資本所得は5千万円になりますから、労働所得の1千万円を加えますと、総所得は6千万円になります。この程度の所得ですと、高収入ではあっても、没収的な税率が課されるスーパー経営者的な所得ではありません。そこで、この所得に対する税率は60%だとします。そうしますと資本収益5%の内の6割、5×0.6=3%は税金で持っていかれてしまいますから、仮に税引き後の収益を全て再投資しても、5-3=2%の成長率にしかなりません。また、10億円の資産は、資本税の税率がぎりぎり2%に収まりますが、これは今計算しました成長率2%をちょうど帳消しにしてしまいます。ですから資産はまったく成長しません。さらに、経済成長率1%を差し引いた資産の成長率(資産価値の成長率)は-1%ということになります。このように、今仮定したような税制を持つ社会では、10億円の資産は、その資本収益を全て再投資したとしても、価値を維持していくことはできません。さらに言えば、労働所得1000万円の方にも総所得に対する60%の税率がかかりますし、子供の一人は高校進学、もう一人は大学進学を控えていますから、教育費を含めた生活費として、資本所得の一部を回す必要も出てくるでしょう。そうしますと、さらに資産価値の成長率のマイナス分は大きくなることでしょう。また、遺産相続での税率も最高税率80%の累進課税になっているとしますと、このご夫妻の子供の代で受け取る相続資産は大幅に減ることになります。同じような低経済成長率、高資本収益率であっても、第一次世界大戦前のような極端な資本集中、あるいは資産格差に至ることはなくなり、それどころか現時点の格差を解消する方向へ向かわせます。これがピケティの考える税制の狙いなのです。
ピケティが目標とする格差と彼の理想
ピケティの税制案を採用し、グローバルな資本課税が行えたとして、富の格差はどの程度まで下がればいいと彼は考えているのでしょうか。労働と資本の格差の構造を時間空間的に示した表3―5を再び眺めてください。彼が目標とするのは、低格差と書かれている欄に示されているもののようです(表4で低格差の欄に理想社会と書かれていることからもそれは推察できます)。労働所得と総所得に関して言えばそれは1970―1980年代の北欧程度の格差であり、資本所得あるいは資本そのものに関して言えば、1970―1980年代の北欧でのトップ10%のシェアを50%から30%まで20%減らし、減らした分の5%を中間40%に、15%を底辺50%に移動させ、底辺層でもそれなりに富を保有できるようにしたときの格差です。乱暴に言えば、1970―1980年代北欧で実現されていた福祉社会で、底辺階層の富のシェアをある程度厚くしたもの(このような社会を古典的福祉社会と呼ぶことにします)を、グローバルな規模で完成させるというのが彼の目指すところです。
ピケティは現代民主主義社会における能力主義による富の格差の正当性を認めていますから、格差を全くなくすことは考えていません。ただ、その能力主義的正当性には条件がつくのだと、フランス革命の際の人権宣言にからめて次のように述べています。
フランス人権宣言(1789年)第1条もまた「人は自由に生まれ、自由のまま権利において平等な存在であり続ける」と宣言する。でもこの一節の直後には次の宣言がある。「社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない」 (p.498)
すなわち、能力と努力という正当性があるとしても、格差は共同体の利益に基づかなければならないのですから、社会不安を生じさせたり、能力の正当な評価に基づいているかどうか疑われたり、金融危機の誘因になったり、あるいは福祉社会の維持に反するようなものになってはいけないのです。そのような条件をクリアーしていれば、全体としては先程述べた程度の低めの格差に収まればいいと彼は考えているのでしょう。
ただ彼には、できれば相続による富の継承は完全になくすべきだという本音があるように私には思えます。「理論上は、すべての人々がすべての富を終身年金に切り替えて、死ぬときにはすべてを使い果たしている世界も十分に想像できる」(p.414)とか、「エミール・デュルケムは、現代民主主義社会はいつまでも相続財産の存在を許すはずはなく、最終的には死とともに財産所有権が消えるようにするはずだと予言している」(p.438)というようなことを肯定的に述べていることから私はそのように推察します。さらに推察を続けると、彼が考える現代民主主義社会のメンバーたる個人とは、誰もが基本的人権に基づく生活保障を十分に受けられるという意味で平等に生まれるものであり、能力と努力の対価となる富を得ることは正当だと認められ、ある程度の格差を享受することも許されるが、死とともに全ての所有権を失い再び平等な状態に戻って完結するものなのです。能力や努力によらず、血縁などに基づいた相続で得る富は、本来的には個人の人生に全く関与すべきではないのです。個人は、出自などに影響されることなく、等しく理性と良識を持った合理的存在として、同じ合理的な存在と連帯で結び付いた社会で平等に生まれ、平等に死ぬことで完結する存在。フランス革命の人権宣言、そして民主主義の自由、平等、連帯の理念に沿う人間は、本質的にはそのようなものだと彼は考えているように私には見えます。