母が肺がんになった!闘病記と看取り記録

母が肺がんになった!闘病記と看取り記録

60代の母は肺腺癌(はいせんがん)。仕事、育児をしながら看護をしているワーキングマザーの記録です。

「私だって生きられるなら死にたくない」…そんな思いを抱えながら命の決断をした母がいる。

家族4人でゲームを楽しみ、笑い、語り合う…夫と2人の娘と暮らすマユミさん(44)と家族は、この楽しそうな姿からは想像できないほどの苦悩と向き合ってきた。

3年前、マユミさんに見つかった子宮頸がん。抗がん剤治療などを尽くしてきたものの、がんは再発を繰り返し、全身に広がっていった。そして脳への転移。耐えがたい苦痛の中で、彼女はある選択肢を考え始める。
スイスでの“安楽死”。日本では認められていない選択肢である。悩み抜いた末にマユミさんは、スイスへ渡ることを決断する。

 

母も肺がんから脳に転移して

肉体的にも精神的にも苦しんで亡くなったので

自分の命を尊厳する選択をする理由や怖さ、家族への想いなど

まだ言葉が整理できないくらいすごい内容だった。。。

 

・若くして病気にかかった理不尽さや怖さ

・自分の死に向き合う怖さ

・大切な子供たちとの別れ

 

そんな色々な事を乗り越えて向き合うマユミさんに何度も涙し母を思い出しながら。

 

母は脳転移してから目も見えず、痴ほうのような感じで支離滅裂な事を言い

お漏らしをして最後は痰が詰まって辛そうに吸引されていて、

血管が細くなって点滴の注射を刺すのも悲鳴をあげていて

その点滴を抜かないようにする為に拘束手袋みたいなのをつけられていて

もちろん自分では排泄できないのでオムツで、、、

 

と家族として見てて辛い状態だったし(ショックだったし)

そんな状態を子どもに見せたくはなかっただろうし・・・

 

人間の尊厳、という事を考えざるを得なかった。

 

そんな母の状態を見ながらもし私がマユミさんだったら

同じ選択をできるのかはわからない。

 

けどけど、、、彼女の選択が安楽死というタブーに切り込んでいく

大きなきっかけになるのではないかと思う。

 

まゆみさんも私の母も痛みから解放されてよかった!

 

まだ番組見たばかりなので支離滅裂な感想ですが、、、

 

※今日の投稿で不快に思う方もいるかもしれません、先に謝っておきます💦

 

ところでシルバニアファミリー

小さい頃遊んでいましたよね?

 

 

私は子供の頃、シルバニア、

買ってもらった事がありませんでした💦

 

 

そして多くの女の子が持っていたであろう

りかちゃん

 

これも買ってもらえなくて、

この画像のようなフランス人形ちゃんを

与えられていました


 

フランス人形ちゃんの方が高級だろうし、

りかちゃんに負けないかわいらしさ💓

なんですが・・・

 

でも小さい頃の私は

シルバニアとリカちゃんが欲しかった!

 

なんで買ってもらえなかったかと言うと。。。

 

もう憶測なんですが、

母親は俗っぽいモノが嫌いな人でした。

 

多くの女の子が持っている

シルバニアもりかちゃんもお眼鏡には叶わず・・・

 

そして私もいつしか

シルバニアなんて

りかちゃんなんて

庶民の女の子が遊ぶもの

 

小馬鹿にするようになっていたのです

 

※実家は貴族とかではなくフツーのサラリーマン家庭です

 庶民とか言ってほんとすみません💦

 

 

今思うと、親と同じ価値観をインストールしないと

「シルバニアもりかちゃんも買ってもらえない私」

と辛かったのでしょう・・・

 

 

なのですが・・・

実は私、40代にして

先日ファーストシルバニアを

お迎えしました💓

 

我が家の赤ちゃんかわいいでしょ?とすでに親ばか目がハート

 

そしてそして、、、

お迎えするのも実は1年くらい悩んでいたんです。

 

なぜかと言うと

シルバニア=俗っぽい

という思い込みがあったから。

 

シルバニア買ったら自分も俗っぽくなると思っていたから。

※シルバニアさん、ファンの方、ごめんなさい

 

この思い込みに気づいた時は

愕然としました・・・

 

そんな思い込み握りしめて40年以上生きていたとは!

 

そして、そんな思い込みいらないですよね?

という選択が出来て今回お迎えできたわけ。

 

何十年も前に欲しかったシルバニア、

思いが長ければ長いほど、

可愛さも倍増しています!

 

 

こんなどうしようもない話なんだけど、

こういう小さい思い込みが幸せを阻害しているんだなー

 

だから小さい思い込みに気が付いてあげるのが

大切なんだなー

 

って小田桐あさぎさん「親ワーク」を受講して気が付きました✨

 

親ワークとは、

人間が一番初めに会う他人=親との関係を見直す事で

全人類を信頼できるようになる方法を伝える講座

 

 

たぶん、まだまだ沢山あります

なぞの「引き継いだ思い込み

 

でもね、その都度気がつけばいいの!

そして

 ・いらなければポイ

 ・欲しければとっておく

 

これを自分で選ぶ事が出来るの!

 

もう大人なんだけら、

リトルちゃこんぬが悲しんでいたら

よしよし、って慰めてあげればいいだけなんです。

(こうやってシルバニア買ってあげてね)

 

今回のシルバニアでまた親ワーク出来て

信頼できる器が広がったのを感じています💓

 

なので小田桐あさぎさんの講座には

感謝しかなくて・・・

 

いま私が受けた講座が半期に一度の募集をしています。

なんか生き辛いな~って方にはおススメなので

こちらから詳細ご覧ください💓

 

紹介者名に【ちゃこんぬ】のお名前を書いて下さった方には

講座の受講効率が10倍以上になる

特典をご用意しています🎁

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の電話は今時珍しく「ガラケー」

(スマホも持っています)

 

変えられないのには理由があって。

 

母の声が留守電に入っているから。

もう肉声で聞く事はできないけど、

そこに母の声があるというだけでなんか安心・・・

 

なのだけどそのケータイが壊れた!

 

まだケータイショップには行ってないのだけど。

 

というのも、「もうデータどうしようもないです」と言われるのが怖いから。

母の声が一生聞けなくなると知るのは恐ろしい。

 

母からのLINEはスマホの機種変するときに

うっかり全部消えてしまって滝汗

 

でも声まで消えちゃうって物凄い喪失感を味わった。。。

 

亡き人の大切な思い出、とっておきたい方は

ちゃんとデータバックアップしたほうがいいですよ。

というお話でした。。。

 

 

先日は私の誕生日でした


私の出生時間になるといつもその時間にあわせて

メールを送ってきてくれていた母

「あれ?メール来てないな」

って今年も思いました

3年前からもうメール来ていないのに

 

3年前は母が最期の入院をした日
もうその頃は意識も朦朧としていて

私の誕生日を忘れていたようです


亡くなった去年
そして今年

もうメールは来ません

 

久しぶりに母を想って泣きました

命日から1年が経とうとしています。

 

その後世界はコロナに巻き込まれ

大変な事になりました。

 

母の入院がコロナにかぶらなくて本当によかった。

それだけはラッキーだったと思います。

 

閑話休題

 

今日は私と母の関係について思い出しながら書いていきます。

こんなブログを書いているから

私と母との関係はすごく良かったのでは?

と思われる方も多いのでは?

 

実は全く違います滝汗


大きくなって振り返ると、ある一種の「毒親」だったのではないかと思っています。

 

とは言え母との関係を書いておく事は

後々の私の為にもなると思うので

書いておきます。

 

1幼少期~小学校

私が生まれたのは東京。

最初の子どもが生まれる前に両親は

母方の祖父母の土地に家を建て生活基盤を整えました。

(同じ土地で同居って二世帯っていうのかな?)

 

待望の第一子だった私は小さい頃からお利巧なしっかりもの。

教育ママでブランド志向が強かった母親の意向により

幼稚園は近所ではなくいわゆる「ブランド幼稚園」に電車で通っていました。

 

母のお迎えの都合がつかない時は

1人で電車に乗って帰ったこともあります。

今考えると虐待ですが、昭和はのどかな時代だったんですねw

 

不安な気持ちでドキドキしながら電車に乗っていた事を

今でも覚えています。

 

お利巧で大人に従順な私は私立小学校にお受験をして入学。

待望の制服に身を包み通学できるのは誇りでもありました。

 

ところで母は私にはものすごく厳しかった。

先日、母の学生の頃からの親友にお会いしてお話をしたのですが、

「Cちゃん(私)にはものすごく厳しくてね」

「うちに遊びに来た時にうちの母から

 ”そんなに怒らないでもいいじゃない、かわいそうよ”

 とお母さん(母)が諭されていたわよ」

というお話を聞きました。

 

私の小中学校の頃に母の印象を聞いても

「Cちゃんのお母さんってあの怖い人だよね~」

そんな印象が強かったようです。

 

実際に私は「いつ起こられるのではないか?」と

ビクビクした少女時代を送っていたように思います。

 

もちろん躾も、箸の上げ下げも、電車でおとなしくする事も

(子どもは電車で座らせてもらえなかった)、

テレビを見せてもらえない事も・・

もろもろ制限をされていました。

 

怒られると家から夜でも追い出され

「ごめんなさい、入れて下さい」と誤っていた思い出も。

昭和時代の躾ってこれがデファクトなんでしょうか?

通りがかりの知らないおじさんが代わりに謝ってくれて

家に入れた事もありました。おじさん、ありがとう!

2小学校での大事件

そんな母の言いなりにおとなしかった私ですが、

4年生の頃に席替えでお隣なったNちゃんの影響で

「不良化」します(笑)

 

授業中にリリアンを編んだり、Nちゃんとおしゃべりをしたり。

(かわいい不良化だなw)

 

業を煮やした先生からNちゃんとの間に

「ベルリンの壁」といって大きな地図を挟まれたのも良い思い出(笑)

 

娘がおとなしく学校に通っていると思っていた母は

個人面談でその事を聞かされ大激怒。

帰り道の氷より冷たい空気感は今でも思い出せます(笑)

 

その後、お約束の『Nちゃんとは遊んじゃダメよ』攻撃もあり

私はNちゃんと順調に疎遠になっていくのでした。

(反抗しろよw)

 

小学校はお弁当だったのですが、

母の機嫌が悪い時は作ってもらえない事も。

 

泣きながら作ったお弁当を庭にぶちまけられたこともあります。

(お母さん、毎日お弁当作ってくれたのは感謝なんだけど、

 それはやりすぎ。

 お父さん、その時何してたの?

 妻がご乱心なんだからストップしてよ!)

3中学校~高校

中学校からは父の転勤で海外で暮らすことに。

愛着のある母校だったので離れるのは悲しく悔しかった。

 

インターナショナルスクールに入学するものの、

父の会社は日本人学校には学費は払うものの

インターには出さない。

 

なので、

あなたにはお金をかけているんだから』と言われ

せっかく投資をしてもらっているのだから・・・

と頑張る日々。

 

母からは

『日本人の子と話したら英語習得出来ないから話しちゃだめよ』

と言われており、日本人の子とは疎遠にしていました。

 

なので、英語が出来るようになるまでは

言葉がしゃべれないので現地の子の友達もおらず、

かといって日本人の友達もおらず、ものすごく孤独な日々。

 

心の支えはESLと呼ばれる英語習得用のクラスの

先生と友達でした。

 

母がお弁当を作ってくれるものの

おにぎりについた海苔を奇異な目で見られるのが嫌で

保健室のようなところでランチを食べていました。

今思うと「おにぎりは止めて」と言えばよかったのに・・・💦

 

なぜか気合満点な母のお弁当は、

竹の皮で包んだおにぎりなのでした・・(笑)

(海外でどうやって竹の皮を手に入れていたんだろう?

 おにぎりは母の愛情だったんだろうけど

 当時は受け取れませんでした)

 

不自由ながらも英語で交流しているうちに

日本人では真っ先にESLのクラスを抜け出し

通常のクラスに入る事が出来ました。

 

と言う意味では英語を身に付けられたのは母のおかげ。

感謝しています。

 

私がそんな辛い学生生活を送っている頃、

駐妻の母は暇を持て余していました。

 

当時はまだ盛んではなかったヨガに、刺しゅうに、英語にと

様々な習い事をしていたのを覚えています。

 

その頃母に言われてショックだったこと。

それは

『私は友達親子にはならないから』というもの。

 

その頃、【友達親子】と言って、すごく仲良い母娘が

流行っていたんですね。

 

一緒に買い物行ったり洋服を貸し借りしたり。

私もそんな親子関係が憧れでしたが、

母から先制攻撃されてしまいました。

 

先日、その頃綴ったポエムが発掘されました(恥)

暗黒史の中身は

「私は母から愛されていない。

 母は私が死んでも悲しまないだろう」

みたいな中二病的に拗らせたもの。

※さらにこれをポエム調に書いたものなのでウケる

 

くだんのポエムノート

こんなにかわいい表紙なのに中身はドロドロ

 

当時の私にあったら

「そんなことないよー、

 お母さんも一生懸命なんだよー」

ってよしよししてあげたい。

 

そんな愛情に飢えまくった中高時代でした。

 

海外に暮らすと日本の子のように、カラオケに行くと言った

子どもの自由度は全くないと言っても過言ではありません。

(そもそも娯楽が少ない)

なので、家族と過ごさなくてはいけない長期休暇は

いつも苦痛でした。

 

帰国後は日本の大学へ。

母は『絶対理系』というので興味もありませんでしたが

当時一番成績が良かった数学ならどうにかなるだろう、

と思って数学科を受験し、某国立大学に入学します。

 

3大学~就職

母の望みで入った数学科。

正直全く興味はなかったので留年ギリギリの日々。

 

だって内なるモチベーションがないので

勉強頑張るという行動には全く結びつきませんでした。

 

と言いつつバイトにサークルにと楽しい日々。

全く勉強に興味ないのにモラトリアムを延長したくて入った大学院。

(もちろん母からは『大学院に行って』というプレッシャーもあり

 WIN-WINですよね?!)

 

まだその頃にも門限があり、

サークルの飲み会は1次会で帰らなくてはいけない、

一人暮らしの子がうらやましかったなぁ。

 

就職活動は氷河期まっさかり。

と言いつつ「リケジョ」という伝統の家宝?を抜いて

5つの企業から内定をゲット!

 

母の希望は〇〇総研というお堅い会社だったものの、

それに反抗する為に入社したのは当時登り調子、

就職ランキング1位のイケイケだった企業。

(今となってはそんな時代が懐かしい業界です)

 

母は『浮ついた会社(※)』と言って大反対でしたが、

母に反抗できて自分的には大満足な就活でした。

※母のイメージです、すみません

 

自宅から通う予定でしたが、

離れた研究所に配属になったので

始めての一人暮らしが出来たのはラッキーな副産物でした!

 

4社会人

そして就職してもやっぱり

「母に反抗する為」という理由で入った会社なので

全くやる気は湧きませんでした。

 

ところで当時、私には大学1年生から

お付き合いしている方がいました。

両親にも何度も合わせており、周りからも

「当然結婚するよね?」と思われていた彼です。

 

お互い社会人になり周りの状況も変わって

7年間のお付き合いにピリオドを打つことになりました。

 

彼から別れを告げられた後、最初に思ったのは

「母になんて言おう」

でした。

 

母も彼との結婚を期待しているだろう。

そんな母の期待を裏切ってしまった。。。

 

「お別れしました」報告の電話をかけるのが

物凄く苦しかったのを覚えています。

 

5もしかして私ってアダルトチルドレン?

 

ところでこの経験から私は一つの単語にたどり着きます。

「アダルトチルドレン」

 

アダルトチルドレンとは、機能不全家族で育ち、大人になっても生き辛さを抱えた人々のことを総称した言葉です。
アダルトチルドレンの始まりは、1969年マーガレット・コークが書いた「忘れられた子供達」で取り上げられ、

その後1981年アメリカのケースワーカーでもあるクラウディア・ブラックが書いた「私は親のようにはならない」で広まりました。

 

私の昔からの望みは

「母のようにならない」こと。

 

正直、両親の夫婦関係は悪く、

家付き娘の母が、マスオさん状態の父をDISっているのを見て育ちました。

私自身も母からは罵倒されたり手をあげられることも多数。

 

アダルトチルドレンの特徴である

  • 周囲が期待しているように振る舞おうとする
  • 何もしない完璧主義者である
  • 尊大で誇大的な考え(や妄想)を抱いている
  • 「NO」が言えない
  • しがみつきと愛情を混同する
  • 被害妄想におちいりやすい
  • 表情に乏しい
  • 楽しめない、遊べない
  • フリをする
  • 環境の変化を嫌う
  • 他人に承認されることを渇望し、さびしがる
  • 自己処罰に嗜癖している
  • 抑うつ的で無力感を訴える。その一方で心身症や嗜癖行動に走りやすい
  • 離人感がともないやすい
に当てはまり、20代はとても生きずらいものでした。
 
それからACに関する本を読み漁り、気が付いた事は母は毒親であったという事。
いわゆるヘリコプターペアレントという
子どもを管理しすぎる故に支配してしまっている親です。
 
>毒親についてはこちらが詳しいです
 
私のそれまでの人生は就職先というちょっとした反抗以外は
それはそれは「いい子」なものでした。
ずっと「母が敷いたレールに乗っている」という感覚があり
自分の人生を生きていない感覚がありました。
母を喜ばす事を最優先に色々な物事を判断していました。
 
その中で結婚を考えていた彼とのお別れの際に出てきた
「母に何と言おう」という言葉。
 
自分でもこれは異常だと思いました。
 
ふと気が付くと、何か判断する時に
「お母さんになんて言われるかな?」
「お母さんだったらどうするかな?」
と母を全ての基準に考えている自分に気が付きました。
 
同時に「このままだといけない」と
始めて変わりたいと思ったのもこの頃でした。
 

6里帰り出産をしない決断

その後、同期の彼と結婚。
夫と、夫の両親の間に流れる自由な雰囲気や
親に物申せる雰囲気には心底びっくりしました。
 
妊娠したのは結婚後しばらくたってから。
同じ都内でしたが里帰り出産はしない事にしました。
 
表向きの理由は
「里帰りしてしまうと夫が子供を育てられなくて
 父である感覚を最初から育てられないから」
 
本音は
「母と子育てをしたら絶対喧嘩をする」から。
 
母は常日頃から「子どもは嫌い」と言っていたので
なおさら実家には向かわない理由になりました。
(同じような母理論で
 「女の子より男の子の方がかわいい」と言われたことも。
 母は弟をそれはそれはかわいがっていました)
 
娘の出産は母にとっても喜ばしいものだと思いますが
その喜びを味わってほしくなかった
という黒い理由も大きかったです。
 

7出産~心理学を学ぶ

出産後育児が始まりました。
私は「ジーナ式」というネンネトレーニングに傾倒し、
それはそれは厳しい時間制限を自分に課すように。
 
「子育てを完璧にやらなくては!」
そんな想いで過ごしていた日々、
私の心はぽっきりと折れます。
 
不眠症、産後鬱、パニック障害
 
実家にこそ帰りませんでしたが、
母は毎日のように赤ちゃんと私のお世話をしに
1時半ほどかけて家に通ってくれました。
 
今思うとあの時の私は
「献身的な母の愛情」
を求めてそのような心理状態になっていたのかもしれません
 
そして母は私のほぼ欲しい形で愛情を届けてくれました。
 
その後、産後なぜ自分がそのような状態になったのか
学ぶために心理学のスクールに通うことに。
 
ある日スクールの課題でこんなお題が出ました。
 
【自分の心に浮かぶ大切な誰かに、
あなたの想いを伝えていますか?
その人にあなたの想いを伝えてください】
 
ご丁寧にかわいいハガキも用意してくれていて。
 
 
迷った挙句、やっぱり浮かんだの母の顔だったので
ワンオペで育ててくれたお礼を書いたところ、
母から泣きながら電話がかかってきました。
 
※なんでこのカードをいま私が持っているかというと
母が亡くなる前に読んでいた本に挟んでありました
ずっとしおりとして肌身離さず使っていてくれたんだ、
と思うと今でも涙が出ます
 

8母との和解

結論から先に言うと、実際に何か和解をしたわけではありません。
 
私の捉え方が変わりました。
 
子どもを産んでから母から受けていた事が
「実は愛情であった」という事に気が付いたからです。
 
母が生きている時、一度意を決して聞いた事があります。
「おかあさん、私の事好き?」
※30代の娘にこんな事言わせる自体、アレですが・・
 
母からの答えは
『当たり前じゃない。
 あなたが●●(子どもの名前)を想っているように
 私もあなたの事を想っているわよ』
 
愛しているとか好き、という言葉を使わなかったのは
母の照れだったと思います。
 
この言葉で私は十分でした。
昔、デスノート(※)に「お母さんに愛されたい」と書いていた私。
※例のかわいい猫ちゃんノートです
 
当時の私にも「お母さんあなたの事想っているよ」
と伝えてあげたいです。
 
もう一つ吹っ切れたきっかけは母の死。
水頭症になっていた母は意識もあまりなく、
でもそんな中で溺愛していた弟の誕生日は覚えていました。
でも、私の誕生日は忘れていたのです!
 
「あ~母は弟の方が好きで、
 それはどうしようもない事だったんだなぁ」
と諦めが付きました。
 
気が付くと、母が毒親だったことも、
自分がアダルトチルドレンだったことも忘れ、
母が亡くなった事で母の思い出はキレイなものに変わりつつあります。
 
そしてこうやって書き出す事で、
自分も母のせいにして
全く主体的に生きてなかったことも分かります。
 

9主体的に生きるという事

「7つの習慣」の第一の習慣、【主体的であること】。
 
私はそれをずっと手放して生きて来たのでした。
 
母の言いなり(もしくは反抗して)入った大学・会社でも
  • 主体的に生きよう
  • 幸せに生きよう
とすればできたはず。
 
でも私は自分の意志でそれを手放し
「お母さんのせいで私はこうなっちゃった」とすねて、
またすねる事で愛情を渇望していたのでした。
 
でも愛情はすでにあった
私の望まない形ではあったけど。
 
親として子どもに望むことは幸せであること。
それは子どもを持つ親として私も実感しています。
 
例えば進路にうるさく口を出すのも、
会うたびに容姿に口出ししてくるのも
全部愛からなのです。
 
自分が口出しする事で、
娘が少しでも幸せになる確率が高い方法を選んでほしい。
  • 良い学校に入れたいのも
  • 良い企業に入れたいのも
結局、愛のカタチだったのです。
 
現代において、良い企業=幸せ、とは限らないのだけど。
母はその方法しか知りませんでした。
 
言うても母は「普通の中年女性」なのです。
初めての子育てで奮闘している何も知らないママだったのです。
 
最上志向持ちの私としては、どうしても母には
「完璧な母」を求めてしまいましたが、
母も単なる人間。
 
そしてそういう完璧主義があるからこそ、
私も産後鬱に苦しめられたことが今になってわかります。
 

ID小田桐あさぎさんとの出会い

自分のこのような生い立ちから、
心理学や自己啓発に傾倒していった30代の私。
 
小田桐あさぎさんと出会ったのもこの頃です。
 
以前、小田桐さんの「愛と信頼の親ワーク講座」を受講しました。
※クローズドな講座なので現在募集はしていません
 
親の求めに応じ続けありのままの自分に自信のなかった私。
それは親からの愛情すら受け取れてなく、
だからこそ世界を信頼出来ていない自分と向き合う時間でした。
 
親は無償の愛を注ぐ存在。
なのにその愛すらを受け取れないうちは、
ましてや他人からの愛も受け取れない。
 
親に対して持っていた色眼鏡をリフレーミングする事で
愛を受け取れるようになり、
結果として自分が世界に対して持っていた不信の眼鏡をはずす、
というものです。
 
結果、
母は私の幸せしか願っていなかったし、
私も自分が母を神格化しすぎていたという事が腑に落ちました。
 
そして夫からもらっていた愛情や
父からの愛情
友人からの愛情を素直に感じる事ができました。
 
講座を受けて母に対する想いがどう変わったかは
また日を改めて書きたいと思います。
 
 
愛情に飢えた少女時代を経て、
いい子という幻想に自分で勝手に縛られていた事。
でも外そうと思えばこの鎖は外れる事。
 
まだまだ私にも鎖はあるのでしょう。
でも、鎖の存在に気が付きさえすれば
外す事ができる。
 
そんな自信が今の私にはあります。
 
私の事を救ってくれた
小田桐あさぎさんの無料セミナーが
2023.1.18から3日間開催されます

通常は有料の内容が聞けるので
ぜひ聞いてみてください!

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母がいなくなってから早1年も経ってしまいました

 

1年も話してないなんてびっくり!

私の中で存在感の大きな母です

まだひょっこり帰って来るのではないか?

そんな気すらしています

 

1年前のこの日

他の家族が夕飯か何かで外して病室で母と二人だった時

下顎呼吸が始まりました

 

顎をガクッと動かすような独特な呼吸で

これが出たらあと数時間と言われているものです

 

分かっていたもののプチパニックで

慌てて看護師さんを呼び

一度帰った親族にあわてて連絡をしました

 

その数時間後

最後におおきなため息をついて母は旅立ちました

 

看護師さんが最後のお仕度をしてくれるのですが

キレイにお化粧もしてくれて

 

病気でやつれた顔しか見ていなかったので

往時の母が戻ってきたようで

本当にうれしかったです

 

※亡くなった時に着る洋服はあらかじめ病院に持って行っておくと便利です

葬儀業者によってはお着換え代を取るところもあるそうです

(いきなり現実的な知識w)

 

その後、葬儀業者に連絡して遺体を葬儀まで保管してもらい

次の日から怒涛の準備が始まるわけです

 

なので、お葬式まではなんだかんだバタバタで

悲しんでいる暇はないというのは本当ですね

 

と1年前の回顧録でした

 

母がガンだったので

やはりガンに対するアンテナは立っていて

最近読んだ本が良かったのでシェアします

 

 

先日おまとめした

見ると得するがん知識も併せてご覧ください

 

 

 

ところで来年の2回目の命日は三回忌と言うのですが、

なんで2年目なのに「三回忌」というかお坊さんが教えてくださいました。
 
これは数えで数えるからだそうです。
(なので1年目は2回忌とは言わず一周忌と言うそうです)
 
また、初七日・四十九日から十三回忌まである法要は、
儒教の「十王信仰」に基づいているそう。
へーーー。
 
あの世にはそろそろ慣れたかな?
そっち楽しいといいね。

タイトルにある対談をYoutubeで見ました。

備忘録の為、メモを残しておきます。

 

患者会なんて考えて事もありませんでした。。。

もっと早く知っていれば。。。

 

┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃ 2019.11.30 勝間和代とがん治療医・押川勝太郎の見ると得するがん知識
┗━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
https://www.youtube.com/watch?v=2oBI2s66Htg

 

 

 
▼アジェンダ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
1.自己紹介
2.ガンと予防について
3.ガンにかかったことを言わないのはなぜ?
4.正しい医師の見つけ方について
5.どんな症状が出るのか?
6.ドクターとのコミュニケーション、周りとのコミュニケーション
7.ガン情報のシェアについて
8.予防できる事はした方が良い
9.ガンに対する戦略目標
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
▼1.事項紹介
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
・押川先生
 -がん治療20年以上
 -宮崎善仁会病院でがん専門医として勤務
・勝間和代
 -経済評論家
・今日の目的は

がんになってから慌てふためかない事
防災的な知識
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
▼2.ガンと予防について
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
・予防できないガンは半分以上

ガンは加齢現象
避けられないものもある

 →でもみんな防災に一生懸命になっている
・[質問]
 -予防できるものはあるのですか?
 -何をすれば災害の影響を小さくできるのか?
→ガンは簡単に言うと【飛び火するイボ】
 防止するメカニズムが効かない場合は悪性になる
・がん細胞はどんどん増えていくので
 物理的な圧迫で体に悪影響が出てそれが症状として出る
 栄養状態が悪く機能を圧迫してしまう
・半分以上は治るが
 60代以上は7割以上はなくなるのは加齢に伴う症状だから
・高齢者が最終的に1/2はガンになるが、
 それは栄養状態が良くなったから
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
▼3.ガンにかかったことを言わないのはなぜ?
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
・ガンについてわからないのは治療法が多岐にわたる
 →人によって治療法は全然違うのでガンにあった対応が必要
 →標準治療がたたかれるのはガイドランが
  守られていないこともあるため
・かかる先生によって治癒率が違うのでは?
 →ガンにかぎらずそう
 →経験、専門範囲によって違うが
  ガンと言われた時点でパニック状態
 →そんな時にカミングアウトすると様々な情報で更にパニック
・そのために「治療ガイドライン」が出てきた
 →多くの患者さんに合うものであるが
  その人その人に対応する必要があるが
  そこでガイドラインに執着する医者や患者もあり
  トラブルになることも
・治療にうまく行った患者さんは「言わない人」
 治らない人は「闘病記」を書く人
・65歳以下の人がかかるガンは治る多いのでは?
 →白血病は治りやすいが小児性ガンは99%DNAの変異
・ガンの診療ガイドラインはウェブ上で公開されている
 特に乳がんのものは良いもので他のガンの人でも
 参考になると思う 

ネット上のガン情報の9割は不適切と言われている
・ガン情報のクリック単価は3000円とか高くなっている
 サプリや疑似科学などに誘導されるが結局儲かるから
・どのガン種、どの遺伝子情報によって全く変わるから
 一般的な情報で治るわけない
 それで不幸になる人も多い

治療ガイドラインはあくまでコンパス、
そのためその人の立ち位置が分かるその人の為の地図が必要
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▼4.正しい医師の見つけ方について
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・先生をどう見つけたらいいのか?
 →保険治療は大体のおいて正しい
 →保険診療の為、良い先生のところに患者は集まってくる
・でも情報ない人はそこにたどり着けない
・混んでるお医者さんはどうやって探しているのか?
 -専門医がいる
 -個々人のドクターと患者の相性もある
  ドクターはコミュニケーションの専門家ではない・・
  (患者が不満を持っている事すらドクターは気が付いてない)
・患者会で出てくる一番の不安は「ドクターとのコミュニケーション」
・健康診断の再検査に行きたくない心理とは?
 -いやな事は先延ばしたい心理がある
 -バリウムは10人中2人がひっかがるが本当にガンなのは少ない
\広めにひっかけている/
→先送りせず心の負担は減らした方がいい!
・検診で引っかかってもガンな可能性が低いので早く再検査行って!
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▼5.どんな症状が出るのか?
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・食道ガンの例
 -予後は悪い場合が多いが、内視鏡やった時に見つかったら
  そこで取ってしまうこともある
\バリウム検査医者はほとんど受けない/
・バリウム検査は古い 
 それだったら内視鏡先にやるのが効率的
・誰がどのガンにかかるかわからない
 -女性の場合は女性系のガンが30-50代というピークがある
 -検査は早く受けた方がいい!
・ガンのステージ問題
 -1:その場で取れる
 -2,3:手術で治る可能性高い
 -4:飛んでるので治すのが難しいけど末期がんではない
・末期がんは有効な治療がないという状態
 =ステージ4ではない
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▼6.ドクターとのコミュニケーション、周りとのコミュニケーション
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・気軽にカミングアウトできるためにはどうしたらいいのか?
 -ガンは個別性が高い
 →主治医とどれだけ意思疎通ができているのか?が大切
  どうやってコミュニケーションとるのかを押川先生は教えている
  -①心配なこと、②説明してほしい事③希望することを紙で用意
   (診察時)
・ガンサバイバーの患者会は全国3000くらいある
 -抗がん剤治療は「間接的な痛み止め」と言っている
 -ガンは治らなくても人生の残りの時間が普通の生活できるようにしている
・ガンを治療後の生存率について
 -早くなくなるのは見つかるのが遅かった、進行が速い、治療拒否
 -同じガンでもゆっくり進む場合もあってばらける
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▼7.ガン情報のシェアについて
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・患者の情報をシェアしたほうがいいのでは?
・ガンになっても防災の観点で仕事を辞めない
・医者不審が強いのはなぜ?
 -ネガティブな情報の方が伝搬しやすい
・お医者さんとの相性が悪い時にセカンドオペニオンをとるが
 それが混乱を招いていると思うがどうか?
 -説明が不十分なので他で聞きたくなるが、
  セカンドオペニオンは自由診療
 -主治医の判断が本当に正しいか判断したい気持ち
 -セカンドオペニオンは主治医に返信をするが
  それをベースに主治医と話をしてほしい
・日本の場合は医者の裁量権が強いが変な治療をしている医者の
 トンでも医療が認められてしまう
 →そのためにガイドラインが作られた
・まずはガイドラインを手に入れて主治医と話す、
 セカンドオペニオンに行けばいいというものではない
\良いのは【患者会】に行くこと/
・とは言え「インチキクリニック」に所属している
 インチキ患者会もある・・・
(希望を与えてしまうインチキ治療がある)
・【ガイドライン治療】=結果が出ている治療
 代替治療については「安全性が確保されていない」
 標準治療を阻害することも
・代替療法をしている人の方が死亡率が高いといわれている
 ∵その治療をやっている間にステージが進んでしまう
・闘病記の危険性は同じガンでも同じようには進まない
 しかし「失敗した」は価値になる
・患者会の良いところは患者が複数いるので
 どこが落としどころが分かっているので
 変な方向がいかない
 →なるべく人数が多くて標準治療やっている人が多いところが良い
・肺がんは肺がん学会と連携した大きな患者会がある
 胃がんもあり、メジャーなガンには患者会がある

患者会で絶望と絶望を組み合わせると希望になる
(気持ちがすっきりする)
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▼8.予防できる事はした方が良い
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・予防できる事はした方が良い
 例)喫煙、ピロリ菌除去、肝硬変、子宮頸がん
・子宮頸がんで苦しんだ人は外に出てこない
 積極接種はストップしてしまった
 →オーストラリアでは後20年後に
  子宮頸がんなくなると言われている
・ガンは怖いイメージが先行しているため
 正しい情報が出回っていない
・個人個人としてはガンになるのは運なのみ
 100%下げられる事もない
\ガンと診断されたら患者会に行け!/
・ガンサバイバーのブログは危険
 -個人体験記になるがそれだけに頼るのは危険
・患者会雰囲気は明るい
 病院の患者会はいろいろなガンがあるが
 個別のガンの患者会は外にある?
・患者会では勇気づけられたり、医者が分からない事も分かってくれる
 混乱状態から立ち位置が分かり落ち着く
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▼9.ガンに対する戦略目標
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・今大変なのがガンになっても長生きのリスク
 家族の負担が重くなる等
・将来の投資としてガンの知識を持ってほしい
・治療経験者がガイダンスの作成に入るのがトレンド
 患者としての経験を医師に伝えてほしい
 

患者が優先すべき価値観を主治医に伝える

・メモを持っていく!
・親族として患者会に参加するのもあり?
 落としどころや盲点が分かり将来の防災にもなる
・一番悔しいのは大人に対するガン教育がない事

ディズニー映画の"リメンバーミー"をご存知でしょうか?

(原題はCOCOというらしい!)

 

 

 

子供と何気なく見ていたこの映画

 

メキシコを舞台にした死後の世界の話なのですが。

 

  • 「死者の日」にご先祖様が帰ってくる
  • 帰ってくる道にお花を撒く

 

など日本の伝統と近しい点がありました

(日本はお花は撒かずにきゅうりやナスの牛馬ですが)

 

どこの国でも死者を懐かしく思う気持ち

帰ってきてもらいたい気持ちは共通なんだろうな、

と思うと遠く離れたメキシコも近く感じませんか?

 

 

全世界的に有名な映画「マンマミーア!」の続編

【マンマミーア!ヒアウィーゴー】

 

前作の主人公、ドナは亡くなっているという

衝撃な設定から始まるのですが・・・(ネタばれw)

 

安心してくださいw

この曲でドナは帰ってきます!!

 

"My Love, My Life" by ABBA

 

 

ドナの娘、ソフィが出産して子供の洗礼式

 

ソフィは娘と赤ちゃんを見守るために帰って来るのです

 

亡きドナと娘・ソフィとのデュエットは美しく

特に母を亡くしたソフィとシンクロした私は号泣でした

(飛行機の中で見てやばかった・・・・)

 

どんな事があろうとも

命は受け継がれていく

 

そんな神聖なシーンになっています

 

私の母もABBAが好きで

結果私もABBAに慣れ親しんでいました

 

そんな母を思い出すABBAの曲満載の映画です

白昼夢を見た

 

夜の東京湾を行く豪華な船

その最後尾のデッキ(?)にいる母

 

表情は嬉しそうでも悲しそうでもなく

この世離れした顔をしている

 

あぁ、母は今、彼岸の海を

浄土に渡って行ったと思った

 

時はちょうど四十九日を終えたころ

 

彼岸に渡る船はボートのような物を想像していたが

豪華客船というのが母らしいと思った