命日から1年が経とうとしています。
その後世界はコロナに巻き込まれ
大変な事になりました。
母の入院がコロナにかぶらなくて本当によかった。
それだけはラッキーだったと思います。
閑話休題
今日は私と母の関係について思い出しながら書いていきます。
こんなブログを書いているから
私と母との関係はすごく良かったのでは?
と思われる方も多いのでは?
実は全く違います
大きくなって振り返ると、ある一種の「毒親」だったのではないかと思っています。
とは言え母との関係を書いておく事は
後々の私の為にもなると思うので
書いておきます。
幼少期~小学校
私が生まれたのは東京。
最初の子どもが生まれる前に両親は
母方の祖父母の土地に家を建て生活基盤を整えました。
(同じ土地で同居って二世帯っていうのかな?)
待望の第一子だった私は小さい頃からお利巧なしっかりもの。
教育ママでブランド志向が強かった母親の意向により
幼稚園は近所ではなくいわゆる「ブランド幼稚園」に電車で通っていました。
母のお迎えの都合がつかない時は
1人で電車に乗って帰ったこともあります。
今考えると虐待ですが、昭和はのどかな時代だったんですねw
不安な気持ちでドキドキしながら電車に乗っていた事を
今でも覚えています。
お利巧で大人に従順な私は私立小学校にお受験をして入学。
待望の制服に身を包み通学できるのは誇りでもありました。
ところで母は私にはものすごく厳しかった。
先日、母の学生の頃からの親友にお会いしてお話をしたのですが、
「Cちゃん(私)にはものすごく厳しくてね」
「うちに遊びに来た時にうちの母から
”そんなに怒らないでもいいじゃない、かわいそうよ”
とお母さん(母)が諭されていたわよ」
というお話を聞きました。
私の小中学校の頃に母の印象を聞いても
「Cちゃんのお母さんってあの怖い人だよね~」
そんな印象が強かったようです。
実際に私は「いつ起こられるのではないか?」と
ビクビクした少女時代を送っていたように思います。
もちろん躾も、箸の上げ下げも、電車でおとなしくする事も
(子どもは電車で座らせてもらえなかった)、
テレビを見せてもらえない事も・・
もろもろ制限をされていました。
怒られると家から夜でも追い出され
「ごめんなさい、入れて下さい」と誤っていた思い出も。
昭和時代の躾ってこれがデファクトなんでしょうか?
通りがかりの知らないおじさんが代わりに謝ってくれて
家に入れた事もありました。おじさん、ありがとう!
小学校での大事件
そんな母の言いなりにおとなしかった私ですが、
4年生の頃に席替えでお隣なったNちゃんの影響で
「不良化」します(笑)
授業中にリリアンを編んだり、Nちゃんとおしゃべりをしたり。
(かわいい不良化だなw)
業を煮やした先生からNちゃんとの間に
「ベルリンの壁」といって大きな地図を挟まれたのも良い思い出(笑)
娘がおとなしく学校に通っていると思っていた母は
個人面談でその事を聞かされ大激怒。
帰り道の氷より冷たい空気感は今でも思い出せます(笑)
その後、お約束の『Nちゃんとは遊んじゃダメよ』攻撃もあり
私はNちゃんと順調に疎遠になっていくのでした。
(反抗しろよw)
小学校はお弁当だったのですが、
母の機嫌が悪い時は作ってもらえない事も。
泣きながら作ったお弁当を庭にぶちまけられたこともあります。
(お母さん、毎日お弁当作ってくれたのは感謝なんだけど、
それはやりすぎ。
お父さん、その時何してたの?
妻がご乱心なんだからストップしてよ!)
中学校~高校
中学校からは父の転勤で海外で暮らすことに。
愛着のある母校だったので離れるのは悲しく悔しかった。
インターナショナルスクールに入学するものの、
父の会社は日本人学校には学費は払うものの
インターには出さない。
なので、
『あなたにはお金をかけているんだから』と言われ
せっかく投資をしてもらっているのだから・・・
と頑張る日々。
母からは
『日本人の子と話したら英語習得出来ないから話しちゃだめよ』
と言われており、日本人の子とは疎遠にしていました。
なので、英語が出来るようになるまでは
言葉がしゃべれないので現地の子の友達もおらず、
かといって日本人の友達もおらず、ものすごく孤独な日々。
心の支えはESLと呼ばれる英語習得用のクラスの
先生と友達でした。
母がお弁当を作ってくれるものの
おにぎりについた海苔を奇異な目で見られるのが嫌で
保健室のようなところでランチを食べていました。
今思うと「おにぎりは止めて」と言えばよかったのに・・・💦
なぜか気合満点な母のお弁当は、
竹の皮で包んだおにぎりなのでした・・(笑)
(海外でどうやって竹の皮を手に入れていたんだろう?
おにぎりは母の愛情だったんだろうけど
当時は受け取れませんでした)
不自由ながらも英語で交流しているうちに
日本人では真っ先にESLのクラスを抜け出し
通常のクラスに入る事が出来ました。
と言う意味では英語を身に付けられたのは母のおかげ。
感謝しています。
私がそんな辛い学生生活を送っている頃、
駐妻の母は暇を持て余していました。
当時はまだ盛んではなかったヨガに、刺しゅうに、英語にと
様々な習い事をしていたのを覚えています。
その頃母に言われてショックだったこと。
それは
『私は友達親子にはならないから』というもの。
その頃、【友達親子】と言って、すごく仲良い母娘が
流行っていたんですね。
一緒に買い物行ったり洋服を貸し借りしたり。
私もそんな親子関係が憧れでしたが、
母から先制攻撃されてしまいました。
先日、その頃綴ったポエムが発掘されました(恥)
暗黒史の中身は
「私は母から愛されていない。
母は私が死んでも悲しまないだろう」
みたいな中二病的に拗らせたもの。
※さらにこれをポエム調に書いたものなのでウケる
くだんのポエムノート
こんなにかわいい表紙なのに中身はドロドロ
当時の私にあったら
「そんなことないよー、
お母さんも一生懸命なんだよー」
ってよしよししてあげたい。
そんな愛情に飢えまくった中高時代でした。
海外に暮らすと日本の子のように、カラオケに行くと言った
子どもの自由度は全くないと言っても過言ではありません。
(そもそも娯楽が少ない)
なので、家族と過ごさなくてはいけない長期休暇は
いつも苦痛でした。
帰国後は日本の大学へ。
母は『絶対理系』というので興味もありませんでしたが
当時一番成績が良かった数学ならどうにかなるだろう、
と思って数学科を受験し、某国立大学に入学します。
大学~就職
母の望みで入った数学科。
正直全く興味はなかったので留年ギリギリの日々。
だって内なるモチベーションがないので
勉強頑張るという行動には全く結びつきませんでした。
と言いつつバイトにサークルにと楽しい日々。
全く勉強に興味ないのにモラトリアムを延長したくて入った大学院。
(もちろん母からは『大学院に行って』というプレッシャーもあり
WIN-WINですよね?!)
まだその頃にも門限があり、
サークルの飲み会は1次会で帰らなくてはいけない、
一人暮らしの子がうらやましかったなぁ。
就職活動は氷河期まっさかり。
と言いつつ「リケジョ」という伝統の家宝?を抜いて
5つの企業から内定をゲット!
母の希望は〇〇総研というお堅い会社だったものの、
それに反抗する為に入社したのは当時登り調子、
就職ランキング1位のイケイケだった企業。
(今となってはそんな時代が懐かしい業界です)
母は『浮ついた会社(※)』と言って大反対でしたが、
母に反抗できて自分的には大満足な就活でした。
※母のイメージです、すみません
自宅から通う予定でしたが、
離れた研究所に配属になったので
始めての一人暮らしが出来たのはラッキーな副産物でした!
社会人
そして就職してもやっぱり
「母に反抗する為」という理由で入った会社なので
全くやる気は湧きませんでした。
ところで当時、私には大学1年生から
お付き合いしている方がいました。
両親にも何度も合わせており、周りからも
「当然結婚するよね?」と思われていた彼です。
お互い社会人になり周りの状況も変わって
7年間のお付き合いにピリオドを打つことになりました。
彼から別れを告げられた後、最初に思ったのは
「母になんて言おう」
でした。
母も彼との結婚を期待しているだろう。
そんな母の期待を裏切ってしまった。。。
「お別れしました」報告の電話をかけるのが
物凄く苦しかったのを覚えています。
もしかして私ってアダルトチルドレン?
ところでこの経験から私は一つの単語にたどり着きます。
「アダルトチルドレン」
アダルトチルドレンとは、機能不全家族で育ち、大人になっても生き辛さを抱えた人々のことを総称した言葉です。
アダルトチルドレンの始まりは、1969年マーガレット・コークが書いた「忘れられた子供達」で取り上げられ、
その後1981年アメリカのケースワーカーでもあるクラウディア・ブラックが書いた「私は親のようにはならない」で広まりました。
私の昔からの望みは
「母のようにならない」こと。
正直、両親の夫婦関係は悪く、
家付き娘の母が、マスオさん状態の父をDISっているのを見て育ちました。
私自身も母からは罵倒されたり手をあげられることも多数。
アダルトチルドレンの特徴である
- 周囲が期待しているように振る舞おうとする
- 何もしない完璧主義者である
- 尊大で誇大的な考え(や妄想)を抱いている
- 「NO」が言えない
- しがみつきと愛情を混同する
- 被害妄想におちいりやすい
- 表情に乏しい
- 楽しめない、遊べない
- フリをする
- 環境の変化を嫌う
- 他人に承認されることを渇望し、さびしがる
- 自己処罰に嗜癖している
- 抑うつ的で無力感を訴える。その一方で心身症や嗜癖行動に走りやすい
- 離人感がともないやすい
里帰り出産をしない決断
出産~心理学を学ぶ
母との和解
主体的に生きるという事
- 主体的に生きよう
- 幸せに生きよう
- 良い学校に入れたいのも
- 良い企業に入れたいのも