母との関係 | 母が肺がんになった!闘病記と看取り記録

母が肺がんになった!闘病記と看取り記録

60代の母は肺腺癌(はいせんがん)。仕事、育児をしながら看護をしているワーキングマザーの記録です。

命日から1年が経とうとしています。

 

その後世界はコロナに巻き込まれ

大変な事になりました。

 

母の入院がコロナにかぶらなくて本当によかった。

それだけはラッキーだったと思います。

 

閑話休題

 

今日は私と母の関係について思い出しながら書いていきます。

こんなブログを書いているから

私と母との関係はすごく良かったのでは?

と思われる方も多いのでは?

 

実は全く違います滝汗


大きくなって振り返ると、ある一種の「毒親」だったのではないかと思っています。

 

とは言え母との関係を書いておく事は

後々の私の為にもなると思うので

書いておきます。

 

1幼少期~小学校

私が生まれたのは東京。

最初の子どもが生まれる前に両親は

母方の祖父母の土地に家を建て生活基盤を整えました。

(同じ土地で同居って二世帯っていうのかな?)

 

待望の第一子だった私は小さい頃からお利巧なしっかりもの。

教育ママでブランド志向が強かった母親の意向により

幼稚園は近所ではなくいわゆる「ブランド幼稚園」に電車で通っていました。

 

母のお迎えの都合がつかない時は

1人で電車に乗って帰ったこともあります。

今考えると虐待ですが、昭和はのどかな時代だったんですねw

 

不安な気持ちでドキドキしながら電車に乗っていた事を

今でも覚えています。

 

お利巧で大人に従順な私は私立小学校にお受験をして入学。

待望の制服に身を包み通学できるのは誇りでもありました。

 

ところで母は私にはものすごく厳しかった。

先日、母の学生の頃からの親友にお会いしてお話をしたのですが、

「Cちゃん(私)にはものすごく厳しくてね」

「うちに遊びに来た時にうちの母から

 ”そんなに怒らないでもいいじゃない、かわいそうよ”

 とお母さん(母)が諭されていたわよ」

というお話を聞きました。

 

私の小中学校の頃に母の印象を聞いても

「Cちゃんのお母さんってあの怖い人だよね~」

そんな印象が強かったようです。

 

実際に私は「いつ起こられるのではないか?」と

ビクビクした少女時代を送っていたように思います。

 

もちろん躾も、箸の上げ下げも、電車でおとなしくする事も

(子どもは電車で座らせてもらえなかった)、

テレビを見せてもらえない事も・・

もろもろ制限をされていました。

 

怒られると家から夜でも追い出され

「ごめんなさい、入れて下さい」と誤っていた思い出も。

昭和時代の躾ってこれがデファクトなんでしょうか?

通りがかりの知らないおじさんが代わりに謝ってくれて

家に入れた事もありました。おじさん、ありがとう!

2小学校での大事件

そんな母の言いなりにおとなしかった私ですが、

4年生の頃に席替えでお隣なったNちゃんの影響で

「不良化」します(笑)

 

授業中にリリアンを編んだり、Nちゃんとおしゃべりをしたり。

(かわいい不良化だなw)

 

業を煮やした先生からNちゃんとの間に

「ベルリンの壁」といって大きな地図を挟まれたのも良い思い出(笑)

 

娘がおとなしく学校に通っていると思っていた母は

個人面談でその事を聞かされ大激怒。

帰り道の氷より冷たい空気感は今でも思い出せます(笑)

 

その後、お約束の『Nちゃんとは遊んじゃダメよ』攻撃もあり

私はNちゃんと順調に疎遠になっていくのでした。

(反抗しろよw)

 

小学校はお弁当だったのですが、

母の機嫌が悪い時は作ってもらえない事も。

 

泣きながら作ったお弁当を庭にぶちまけられたこともあります。

(お母さん、毎日お弁当作ってくれたのは感謝なんだけど、

 それはやりすぎ。

 お父さん、その時何してたの?

 妻がご乱心なんだからストップしてよ!)

3中学校~高校

中学校からは父の転勤で海外で暮らすことに。

愛着のある母校だったので離れるのは悲しく悔しかった。

 

インターナショナルスクールに入学するものの、

父の会社は日本人学校には学費は払うものの

インターには出さない。

 

なので、

あなたにはお金をかけているんだから』と言われ

せっかく投資をしてもらっているのだから・・・

と頑張る日々。

 

母からは

『日本人の子と話したら英語習得出来ないから話しちゃだめよ』

と言われており、日本人の子とは疎遠にしていました。

 

なので、英語が出来るようになるまでは

言葉がしゃべれないので現地の子の友達もおらず、

かといって日本人の友達もおらず、ものすごく孤独な日々。

 

心の支えはESLと呼ばれる英語習得用のクラスの

先生と友達でした。

 

母がお弁当を作ってくれるものの

おにぎりについた海苔を奇異な目で見られるのが嫌で

保健室のようなところでランチを食べていました。

今思うと「おにぎりは止めて」と言えばよかったのに・・・💦

 

なぜか気合満点な母のお弁当は、

竹の皮で包んだおにぎりなのでした・・(笑)

(海外でどうやって竹の皮を手に入れていたんだろう?

 おにぎりは母の愛情だったんだろうけど

 当時は受け取れませんでした)

 

不自由ながらも英語で交流しているうちに

日本人では真っ先にESLのクラスを抜け出し

通常のクラスに入る事が出来ました。

 

と言う意味では英語を身に付けられたのは母のおかげ。

感謝しています。

 

私がそんな辛い学生生活を送っている頃、

駐妻の母は暇を持て余していました。

 

当時はまだ盛んではなかったヨガに、刺しゅうに、英語にと

様々な習い事をしていたのを覚えています。

 

その頃母に言われてショックだったこと。

それは

『私は友達親子にはならないから』というもの。

 

その頃、【友達親子】と言って、すごく仲良い母娘が

流行っていたんですね。

 

一緒に買い物行ったり洋服を貸し借りしたり。

私もそんな親子関係が憧れでしたが、

母から先制攻撃されてしまいました。

 

先日、その頃綴ったポエムが発掘されました(恥)

暗黒史の中身は

「私は母から愛されていない。

 母は私が死んでも悲しまないだろう」

みたいな中二病的に拗らせたもの。

※さらにこれをポエム調に書いたものなのでウケる

 

くだんのポエムノート

こんなにかわいい表紙なのに中身はドロドロ

 

当時の私にあったら

「そんなことないよー、

 お母さんも一生懸命なんだよー」

ってよしよししてあげたい。

 

そんな愛情に飢えまくった中高時代でした。

 

海外に暮らすと日本の子のように、カラオケに行くと言った

子どもの自由度は全くないと言っても過言ではありません。

(そもそも娯楽が少ない)

なので、家族と過ごさなくてはいけない長期休暇は

いつも苦痛でした。

 

帰国後は日本の大学へ。

母は『絶対理系』というので興味もありませんでしたが

当時一番成績が良かった数学ならどうにかなるだろう、

と思って数学科を受験し、某国立大学に入学します。

 

3大学~就職

母の望みで入った数学科。

正直全く興味はなかったので留年ギリギリの日々。

 

だって内なるモチベーションがないので

勉強頑張るという行動には全く結びつきませんでした。

 

と言いつつバイトにサークルにと楽しい日々。

全く勉強に興味ないのにモラトリアムを延長したくて入った大学院。

(もちろん母からは『大学院に行って』というプレッシャーもあり

 WIN-WINですよね?!)

 

まだその頃にも門限があり、

サークルの飲み会は1次会で帰らなくてはいけない、

一人暮らしの子がうらやましかったなぁ。

 

就職活動は氷河期まっさかり。

と言いつつ「リケジョ」という伝統の家宝?を抜いて

5つの企業から内定をゲット!

 

母の希望は〇〇総研というお堅い会社だったものの、

それに反抗する為に入社したのは当時登り調子、

就職ランキング1位のイケイケだった企業。

(今となってはそんな時代が懐かしい業界です)

 

母は『浮ついた会社(※)』と言って大反対でしたが、

母に反抗できて自分的には大満足な就活でした。

※母のイメージです、すみません

 

自宅から通う予定でしたが、

離れた研究所に配属になったので

始めての一人暮らしが出来たのはラッキーな副産物でした!

 

4社会人

そして就職してもやっぱり

「母に反抗する為」という理由で入った会社なので

全くやる気は湧きませんでした。

 

ところで当時、私には大学1年生から

お付き合いしている方がいました。

両親にも何度も合わせており、周りからも

「当然結婚するよね?」と思われていた彼です。

 

お互い社会人になり周りの状況も変わって

7年間のお付き合いにピリオドを打つことになりました。

 

彼から別れを告げられた後、最初に思ったのは

「母になんて言おう」

でした。

 

母も彼との結婚を期待しているだろう。

そんな母の期待を裏切ってしまった。。。

 

「お別れしました」報告の電話をかけるのが

物凄く苦しかったのを覚えています。

 

5もしかして私ってアダルトチルドレン?

 

ところでこの経験から私は一つの単語にたどり着きます。

「アダルトチルドレン」

 

アダルトチルドレンとは、機能不全家族で育ち、大人になっても生き辛さを抱えた人々のことを総称した言葉です。
アダルトチルドレンの始まりは、1969年マーガレット・コークが書いた「忘れられた子供達」で取り上げられ、

その後1981年アメリカのケースワーカーでもあるクラウディア・ブラックが書いた「私は親のようにはならない」で広まりました。

 

私の昔からの望みは

「母のようにならない」こと。

 

正直、両親の夫婦関係は悪く、

家付き娘の母が、マスオさん状態の父をDISっているのを見て育ちました。

私自身も母からは罵倒されたり手をあげられることも多数。

 

アダルトチルドレンの特徴である

  • 周囲が期待しているように振る舞おうとする
  • 何もしない完璧主義者である
  • 尊大で誇大的な考え(や妄想)を抱いている
  • 「NO」が言えない
  • しがみつきと愛情を混同する
  • 被害妄想におちいりやすい
  • 表情に乏しい
  • 楽しめない、遊べない
  • フリをする
  • 環境の変化を嫌う
  • 他人に承認されることを渇望し、さびしがる
  • 自己処罰に嗜癖している
  • 抑うつ的で無力感を訴える。その一方で心身症や嗜癖行動に走りやすい
  • 離人感がともないやすい
に当てはまり、20代はとても生きずらいものでした。
 
それからACに関する本を読み漁り、気が付いた事は母は毒親であったという事。
いわゆるヘリコプターペアレントという
子どもを管理しすぎる故に支配してしまっている親です。
 
>毒親についてはこちらが詳しいです
 
私のそれまでの人生は就職先というちょっとした反抗以外は
それはそれは「いい子」なものでした。
ずっと「母が敷いたレールに乗っている」という感覚があり
自分の人生を生きていない感覚がありました。
母を喜ばす事を最優先に色々な物事を判断していました。
 
その中で結婚を考えていた彼とのお別れの際に出てきた
「母に何と言おう」という言葉。
 
自分でもこれは異常だと思いました。
 
ふと気が付くと、何か判断する時に
「お母さんになんて言われるかな?」
「お母さんだったらどうするかな?」
と母を全ての基準に考えている自分に気が付きました。
 
同時に「このままだといけない」と
始めて変わりたいと思ったのもこの頃でした。
 

6里帰り出産をしない決断

その後、同期の彼と結婚。
夫と、夫の両親の間に流れる自由な雰囲気や
親に物申せる雰囲気には心底びっくりしました。
 
妊娠したのは結婚後しばらくたってから。
同じ都内でしたが里帰り出産はしない事にしました。
 
表向きの理由は
「里帰りしてしまうと夫が子供を育てられなくて
 父である感覚を最初から育てられないから」
 
本音は
「母と子育てをしたら絶対喧嘩をする」から。
 
母は常日頃から「子どもは嫌い」と言っていたので
なおさら実家には向かわない理由になりました。
(同じような母理論で
 「女の子より男の子の方がかわいい」と言われたことも。
 母は弟をそれはそれはかわいがっていました)
 
娘の出産は母にとっても喜ばしいものだと思いますが
その喜びを味わってほしくなかった
という黒い理由も大きかったです。
 

7出産~心理学を学ぶ

出産後育児が始まりました。
私は「ジーナ式」というネンネトレーニングに傾倒し、
それはそれは厳しい時間制限を自分に課すように。
 
「子育てを完璧にやらなくては!」
そんな想いで過ごしていた日々、
私の心はぽっきりと折れます。
 
不眠症、産後鬱、パニック障害
 
実家にこそ帰りませんでしたが、
母は毎日のように赤ちゃんと私のお世話をしに
1時半ほどかけて家に通ってくれました。
 
今思うとあの時の私は
「献身的な母の愛情」
を求めてそのような心理状態になっていたのかもしれません
 
そして母は私のほぼ欲しい形で愛情を届けてくれました。
 
その後、産後なぜ自分がそのような状態になったのか
学ぶために心理学のスクールに通うことに。
 
ある日スクールの課題でこんなお題が出ました。
 
【自分の心に浮かぶ大切な誰かに、
あなたの想いを伝えていますか?
その人にあなたの想いを伝えてください】
 
ご丁寧にかわいいハガキも用意してくれていて。
 
 
迷った挙句、やっぱり浮かんだの母の顔だったので
ワンオペで育ててくれたお礼を書いたところ、
母から泣きながら電話がかかってきました。
 
※なんでこのカードをいま私が持っているかというと
母が亡くなる前に読んでいた本に挟んでありました
ずっとしおりとして肌身離さず使っていてくれたんだ、
と思うと今でも涙が出ます
 

8母との和解

結論から先に言うと、実際に何か和解をしたわけではありません。
 
私の捉え方が変わりました。
 
子どもを産んでから母から受けていた事が
「実は愛情であった」という事に気が付いたからです。
 
母が生きている時、一度意を決して聞いた事があります。
「おかあさん、私の事好き?」
※30代の娘にこんな事言わせる自体、アレですが・・
 
母からの答えは
『当たり前じゃない。
 あなたが●●(子どもの名前)を想っているように
 私もあなたの事を想っているわよ』
 
愛しているとか好き、という言葉を使わなかったのは
母の照れだったと思います。
 
この言葉で私は十分でした。
昔、デスノート(※)に「お母さんに愛されたい」と書いていた私。
※例のかわいい猫ちゃんノートです
 
当時の私にも「お母さんあなたの事想っているよ」
と伝えてあげたいです。
 
もう一つ吹っ切れたきっかけは母の死。
水頭症になっていた母は意識もあまりなく、
でもそんな中で溺愛していた弟の誕生日は覚えていました。
でも、私の誕生日は忘れていたのです!
 
「あ~母は弟の方が好きで、
 それはどうしようもない事だったんだなぁ」
と諦めが付きました。
 
気が付くと、母が毒親だったことも、
自分がアダルトチルドレンだったことも忘れ、
母が亡くなった事で母の思い出はキレイなものに変わりつつあります。
 
そしてこうやって書き出す事で、
自分も母のせいにして
全く主体的に生きてなかったことも分かります。
 

9主体的に生きるという事

「7つの習慣」の第一の習慣、【主体的であること】。
 
私はそれをずっと手放して生きて来たのでした。
 
母の言いなり(もしくは反抗して)入った大学・会社でも
  • 主体的に生きよう
  • 幸せに生きよう
とすればできたはず。
 
でも私は自分の意志でそれを手放し
「お母さんのせいで私はこうなっちゃった」とすねて、
またすねる事で愛情を渇望していたのでした。
 
でも愛情はすでにあった
私の望まない形ではあったけど。
 
親として子どもに望むことは幸せであること。
それは子どもを持つ親として私も実感しています。
 
例えば進路にうるさく口を出すのも、
会うたびに容姿に口出ししてくるのも
全部愛からなのです。
 
自分が口出しする事で、
娘が少しでも幸せになる確率が高い方法を選んでほしい。
  • 良い学校に入れたいのも
  • 良い企業に入れたいのも
結局、愛のカタチだったのです。
 
現代において、良い企業=幸せ、とは限らないのだけど。
母はその方法しか知りませんでした。
 
言うても母は「普通の中年女性」なのです。
初めての子育てで奮闘している何も知らないママだったのです。
 
最上志向持ちの私としては、どうしても母には
「完璧な母」を求めてしまいましたが、
母も単なる人間。
 
そしてそういう完璧主義があるからこそ、
私も産後鬱に苦しめられたことが今になってわかります。
 

ID小田桐あさぎさんとの出会い

自分のこのような生い立ちから、
心理学や自己啓発に傾倒していった30代の私。
 
小田桐あさぎさんと出会ったのもこの頃です。
 
以前、小田桐さんの「愛と信頼の親ワーク講座」を受講しました。
※クローズドな講座なので現在募集はしていません
 
親の求めに応じ続けありのままの自分に自信のなかった私。
それは親からの愛情すら受け取れてなく、
だからこそ世界を信頼出来ていない自分と向き合う時間でした。
 
親は無償の愛を注ぐ存在。
なのにその愛すらを受け取れないうちは、
ましてや他人からの愛も受け取れない。
 
親に対して持っていた色眼鏡をリフレーミングする事で
愛を受け取れるようになり、
結果として自分が世界に対して持っていた不信の眼鏡をはずす、
というものです。
 
結果、
母は私の幸せしか願っていなかったし、
私も自分が母を神格化しすぎていたという事が腑に落ちました。
 
そして夫からもらっていた愛情や
父からの愛情
友人からの愛情を素直に感じる事ができました。
 
講座を受けて母に対する想いがどう変わったかは
また日を改めて書きたいと思います。
 
 
愛情に飢えた少女時代を経て、
いい子という幻想に自分で勝手に縛られていた事。
でも外そうと思えばこの鎖は外れる事。
 
まだまだ私にも鎖はあるのでしょう。
でも、鎖の存在に気が付きさえすれば
外す事ができる。
 
そんな自信が今の私にはあります。
 
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