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仮に、目の前に死神が現れ、余命三日を宣告されたとしたらそのものの残り三日は、どのように生きるのかもどのように死ぬのかも同じ意味合いになるのだろうか?photo by myself in Ritsurin Garden Park,Takamatsu City, Kagawa.
『ペスト』カミュ 購入。 この地上で、もっとも恐ろしい感染症の一つペスト。 ヨーロッパ人にとっては悪夢を思い起こす病名だろう。 アフリカ、アルジェリア(当時、仏領)の港町オランを舞台に、ペストの流行を再現体感する。 ただ全然、進まない。二度中断。なんとか読み終える。 オランにいる様々な職業の人たちを通して、ペスト禍での人々のリアルな心情や感染推移を描写。極めて、冷静な筆致に努める文体。 医者 リウー(主人公) 神父 パヌルー 作家志望 グラン ジャーナリスト ランベール 判事 オトン 犯罪者 コタール よそ者 タル― などそれぞれがどんな考えをするようになるのか。文学的な読み処はそんなところか。――現在の新型コロナウイルス感染の状況と照合する読みなら、行政の対応や人々の反応など類似部分をたのしむのかな。(朝日新聞や毎日新聞が注目というところは、上記のような意味合いでだろう) この小説を読んでいて思ったこと。 (疑問A) 客観だけになったら文学と言えるか? 主観を凡て排除した文学を想像できるか? という命題―――観察記録みたいな形式をとっているだけに読んでいる最中、こんな疑問が頭に浮かんだ。 極力、観察に徹した書き方をしているので、逆に人々の感情の現われを正確に捉えられるかもしれない。 小説はもっとも客観的な文学であるという定義はあるが、あくまで文学という主観軸上での客観の極地になる。『ペスト』はどのくらいの位置にあるだろうか。この主観軸を振り切るか切らないかの微妙なライン? ペスト禍での人々の心理を記録したら、それは文学になるのか。心理学と何が違うのか。(わたしごときにはまとめられない) (疑問B) 悲劇について 悲劇とは人間の内的意志や自由の要請に基づいて起こる。悲劇は人間が進んで望んだ事件であって、人間が外的に強制された事件ではない。これは、どんなに妙に聞こえようとそういうものであって、凡ての悲劇の傑作が、これを証している。 『武蔵野夫人』小林秀雄 文学批評からの引用 批評家・小林秀雄が書いていることにも賛否はあるだろう。が、とりあえず、この引用文から『ペスト』を考えてみるとどうなるか。(あくまで文学上での悲劇の意味) 人のやることには何かにつけいろいろ予期せぬものを、知らぬまに巻き込んでいる、ことがあるので、その因果のうちの一つ二つが悲劇につながってしまうことは実際によくある。行為のスケールが大きくなり、悲劇の規模が大きくなればなるほど、(全体のうねりである)ストーリーもまたドラマチックな様相を見せる。 例でいうと(思いついたものが、古典戯曲になってしまったが)、『オデュッセイヤ』や『オイディプス王』、『ロミオとジュリエット』など。日本文学でいうと、『平家物語』、『蜘蛛の糸』などか。 思わず、人間という存在のちっぽけさを嘆いてしまう。 一方、カミュの『ペスト』は、この引用とは異なる悲劇だと言える。自らの内的意志の要請で道を進んだわけではなく、ペストという感染症(外的要因)に襲われた結果の悲劇になっている。これは謂わば、自然災害や交通事故のようなもので、自らの自由意志が招いた悲劇ではない。 悲劇の原因が、事前に自ら踏み込んでいったことに起因しないので、切っかけ自体が悲劇性や運命性を帯びてこない。 人間の恣意的行為が招いた知らぬまの領域からの結果という悲劇ではない。 ただ、別の引用で、 命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ。この思想は宗教的である。だが、空想的ではない。『モォツアルト』小林秀雄 ということがある。しかし、さすがに、舞台は20世紀半ばで。科学的知識が常識となった時代では、感染症(外的偶然)を宗教的に結びつけることは稀だと言える。 むしろ医者リウーの態度がそう示すように無神論的アプローチとなる。(これは当時のカミュのライバル、無神論者で実存主義の標榜者サルトルやボーヴォワールの顔をどこか思い浮かべることができる) この小説は、人々が運命や神に翻弄される話ではなく、むしろ、(たとえ微力でも)意志や決意によって運命論に挑む姿勢を描いた話ではないかと思う。(その意味で、古代戯曲のような個人が運命に翻弄、呑み込まれる悲劇ではない。近代の夜明けを感じさせる小説のひとつ。 ただし(個人的に)リウーと対照的な神父パヌルーのペストと対峙する際の神への忠誠(精神)には興味がわく。 (感染病が蔓延していくリアルな進行過程で) ペストに打ちのめされて、生きようとも死のうとも、どのような精神態度でいたかをリアル感をもって知らせることが、この小説の最大の存在価値であり、文学たらしめん~~うんぬんより注目されることではないかと思う。 (疑問C) 読んでいて、二度も中断してしまったのは何故だろうか。 おそらくの推測… この作品には、「感覚」がたくさんあるが、「直感」が少ないのではないだろうか。特に強烈な閃き(第六感)と結びつく言葉がないため、読むのに疲れてしまう(もしかしたら、退屈してしまうのかもしれない…)。「感情」や「思考」も精緻な文章技術で書かれているが、極端に、「直感」だけが欠落している。垂直的に降りてくる言葉がない。 カミュの処女作『異邦人』もそうだったけれど、その時々の「感覚」が進行しているだけの印象。(映画的?という見方もできるかも) 夢分析で有名な心理学者カール・グスタフ・ユングのタイプ論では、”感覚”と”直感”は同一線上の対極の関係にあり、また”思考”と”感情”も同一線上の対極の関係にあるという。ユング的に分析したら、カミュはどんなタイプになるのだろう。と少し変な興味を抱きながら、想像してみたり…(うまく書けたかちょっと自信ないけどとりあえず)おわり。
パブリックの目に耐えられる詩をもっと読みたい。poetry "People You Love" by Robert Montgomery 何気にBBCで現代アート特集を観ていたのですが、取り上げられていた何人かの(現代アーティスト達の)中に、ロバート・モンゴメリーというテキスト・アーティストがいました。 さまざまな文字を公共の場でアート作品として展示しています。(これは多くの詩人にとって涎が出るほどうらやましい…を通り越して羨望に値することだと思います) 材料・方法も、電光(ネオン)・火炎(フレーム)・貼り紙・ビルボード式など多種多様で、飽きることがありません。(マテリアルとしての意味も作品に敷衍させています)。 外国の詩は、政治性、社会性に結び付くものも多くパブリック・スペースと相性がいいのかもしれません。 英国人ですので、当然、英語で書かれたポエムですが、作品群へのリンクです。 すべて公共のストリートで表現されたもの。(視覚情報とコンセプトを思うだけでもおもしろいと思いますが、なんとなくの感じはわかるかと思います)モンゴメリー作品(英語) 写真はこちら(ふつうにググれば、さまざまな作品が見れてしまうので、いくつか貼り付けてみます) 考えてみれば、街中で見かける文字は(標識を除けば)ほとんどがビルボードであって、ほぼほぼ資本主義・商業主義と結びついています。商業主義=お金儲け・企業利益主義ですね。 なかなか気の利いた文字だな、とかユーモアのある文字、心温まる文字、一家言的な文字、いろいろありますが…どれも完璧に文字の意味だけで独立しておらず、キャピタリズムに支配されているアドバータイズメント(広告)、と気づけば少し、げんなりとしてしまうかもしれません。 これもリアリティということでしょう。このアーティストはそこをジョークと皮肉でアート化して、乗り超えていこうという側面を見せています。 彼自身文字アートを収入にしていることがまた皮肉なのですが、それを含めた巨視的な目で気づかせる、というところまでが彼のアート哲学なのでしょう…ふつうにロゴ入りのTシャツを販売しているし…(最終的には彼の作業はアートに集約されているということで街中にあるビルボードと差別化できます。町や都市にいつもと違う意識を持たせる文字があると新鮮でいいなと思います) 皮肉とジョークを表現形式にするのは英国人らしい(正確にはスコットランド生まれ)。かっこよくぴりっと刺激的でウィットに富んだ皮肉はかの国では評価されますね。 ―”People You Love"に出てくるghostについて― 英国映画『フォー・ウェディング(Four Weddings and a Funeral)』にも、”ghost”という暗喩が出てきたことを思い出しました。そこでの意味は、別れた元カノたちの比喩でした。 ここではもっと広い意味合いで使っていて、番組を観る限り、芸大時代に、交通事故で亡くなった友人への思いが発端だったようです。当時、死んでしまってもどうしても死んだとは思えなかった(夢で見たり、魂がまだいるような気がした)…そんな友人を心の中の”ゴースト”として肯定的に扱ったことでできたポエムのようです。(いまだ”ゴーストとして”存在していると) また、ある人は、昔、戦争で亡くなった人を、別の人は、別れた恋人を、または最近、なくなった親戚と新たに生まれた赤ちゃんのことを…(作品の解釈は作者の事情から離されていくところがありますね)今回、観たBBCプログラム(2:40~3:16)→BBC現代アート(ロバート・モンゴメリー)YouTubewww.youtube.com 余談ですが、韓国人のラッパーが無許可で作品をパクッているとも 本人は、笑っていますが。 (動画によると) 彼の(このパブリック・)ポエムを、自分の腕やお腹にタトゥーしてしまった人たちまででてきたようです。 ある意味、詩人にとって、最高の賛辞・栄誉と言えるのかもしれません… (モンゴメリーは、見ず知らずの他人に感動を与え、何かの一助になればアートの本懐とも…まぁ、出来過ぎた答えですね(笑)) 心に刻む、とはよく聞きますが、自分の体に刻む…、となると、本当に心に残ったように思えてきます…(もちろん、タトゥーについての見方は文化によって違いがあります) ただ詩集を買わせるのではなく、タトゥーさせてしまう詩人…こんな詩人がいるんだなと。感心したところで 今回はおわりです。
雨降りの日はいつもは気づいていないものを気づかせてくれる気がする?しっとりとした雨をしばらく眺めていたあとで君に会ったら…いつもと違う君に気づいてしまう――?photo; free material by Luke, Ma
詩の言葉は残酷であっても繊細であれこの繊細さが読み手の憐憫さに訴える憐憫なリアリズムである
知らない町の雨を5分も眺めていられるならもうその人は詩人でしょうphoto; weathernewsより
雨は静けさを演奏する音楽photo; free material
世界は姿勢を変えたいや寝返りを打っただけかまだ夢でも見ているのだろうかいつになったら目を覚ますのだ題名は、「平和ボケ」くらいか…
(補足と訂正) 数学の問題のように補助線を引くと、すんなり解けるようになる歴史観というのは、たのしいものです。 今回の場合、古代史(7世紀の日本国内の政情)に「グローバル派(親中派)vsナショナリズム派」という視点を持ち込むことが、補助線を引くことになります。 とは言え、この視点は、かなり個人的な見解を盛り込んだものなので、そこは素人のif。ifの範疇は抜け切れていません… 歴史の細かい流れも省いて、特に後半は(ものすごく)ざっくりとしたディテールでしか書いていません。 しかし、白村江の戦いの後、唐との関係をどうするか激しく議論されたことは想像に難くありません。これは間違いないことでしょう(天智天皇は唐の侵攻に備えて九州に防人などをつくっています)。 高句麗を滅ぼした後、半島では、新羅と唐の間で争いが起こります。ごたごたした後、新羅がなんとか半島を統一します。とはいえ旧高句麗の北半分は、渤海や唐が奪い、新羅も唐に対して、朝貢・冊封の態度を継続したので、疲弊した両国はこのあたりを落としどころにしたのでしょう。 ですので、高句麗を滅ぼした後、新羅は、最低限の領土を確保するため、唐と戦争をしています。ここで新羅が、踏みとどまった事実はあります。(ここらへんが前の文章では省かれていたので、印象として正確に伝わらなかったことを反省しています。新羅に抗戦はあったということです。元高句麗の残党を支援したり…) 最終的に紆余曲折して、中華思想の冊封体制に組み込まれていくのですが… 言い方は悪いのですが、新羅が頑張ったおかげで、日本の盾(緩衝地帯)となり、日本は大国唐を隣にすることなく、安全を確保し、自国の文化を保護・発展させることができた面があります。(あるいは、外国勢力がすべて疲弊するところまで読んでいたのかもしれません) 唐と新羅が戦争をする際、大友皇子は唐サイドに近づき、大海人皇子はこれに反対したという説があります…大海人皇子は、唐を恐れ、むしろ新羅が生き残って日本の緩衝地帯になってくれることを望んだのかもしれない。新羅派だったという説もあります。そこらへんも謎ですね。
「日本」という国名や国家意識がはじめてこの国に生まれた経緯。 「天皇」という称号がなぜ使われるようになったのか。 ここらへんをつらつらと書いてみようと思います。 今回書くのは、ある角度から見た歴史観です。 (知っている人はふつうに知っている話なので、そういう方には申し訳ない内容になってしまいます) ここで言う「日本」とは日本という国名と高度な政治制度を持った国家体制のこと。 (7世紀の日本と周辺事情) 7世紀の東アジアの勢力図は、中国に大帝国、唐、朝鮮半島に高句麗・百済・新羅の三国が三つ巴で争っている様が見てとれます。一方、日本では、大化の改新を終えた中大兄皇子(のちの天智天皇)が新しい政府をつくろうとしています。 唐が新羅と組み、百済を攻め滅ぼしました。これは、(強敵)高句麗を倒したかったからです。隋の時代から倒せなかった高句麗を倒すには、まず背後の百済を滅ぼし挟み撃ちすればよかったからです。(ちなみに高句麗は朝鮮民族ではなく、北方民族。おそらく女真族系。のちに渤海・金・清などの強国をつくった民族(のちの満州人)。この後もこの地域の歴史にずっと出てくる重要民族です) 当時、百済と日本には密接な関係があったらしく(高麗の正史(『三国史記』という歴史書)には、百済は倭人との連合国家とまで書いてあるそうです(ただし半島の人はこれを無視しています)。たしかに仏教の伝来も百済からでした。半島最南西部に前方後円墳もいくつか発見されています(日本のものの方が古い)。また日本の皇族と血縁関係があったのではないかという推測もあります。謎が多いところですが、日本と関係が深かったのは間違いないようです。 中国の「隋書」にも「新羅と百済は倭国を文化大国として敬仰している」と書いてあるそうです。(詳しくはググって…) その百済が滅ぼされた時、たくさんの王族や人々が日本へ逃げてきたそうです。 この時、天智天皇は、当時の日本の人口としては空前絶後の2万五千という軍勢を率い、唐・新羅の連合軍と戦うことを決めます。当時の日本全体の人口からすると相当の規模の兵力だったようです。まさに国力のすべてを賭けて戦いに挑んだ。国の命運をかけた戦い。なぜそこまでして?と思うのですが。非常に興味深い歴史の謎です。それほど当時の日本にとって、朝鮮半島(特に南部)は、重要な地域だったのでしょうか。 この古代史における重要な(歴史的)戦いを白村江の戦と言います。この大きな戦いで、日本軍は全滅しました。完膚なきまでに打ちのめされたわけです。それ以来、古代日本は朝鮮半島への政治介入を一切やめることになります。 その後、唐・新羅連合軍は、高句麗を滅ぼし、新羅が朝鮮半島を統一します。(ただし、大国唐と(唐頼りで統一を果たした)新羅とでは対等の条件で条約を結べるわけもなく、新羅は中国に臣下として扱われることになります。(新羅はおろか後につづく高麗、李氏朝鮮…朝鮮半島に生まれた王権はすべて新羅と同じ運命を歩むことになります) さて、その後、日本では何が起こったのでしょうか。あきらかに、国内に動揺があったでしょう。国力が何倍もある大帝国唐に対して、戦いを挑み、これでもかというほどの壊滅的打撃を受け完敗してしまった。国内は、親中派とナショナリズムの両勢力が対立することになります。いわゆる天智天皇の子、大友皇子と天智天皇の弟、大海人皇子(のちの天武天皇)が継承権争いをする壬申の乱がおこります。これは、教科書には、単に継承権争いとしか書いていないようですが、実際は、当時のグローバル派or親中派(大友皇子)と国粋主義者(大海人皇子)の対立と見て間違いないでしょう。 結果、大海人皇子である天武天皇が勝利します。 この時、急激に「日本」という国家意識がつくられるようになりました。 二回目の遣唐使の際、書状に、はじめて「日本」という言葉が使われます。これは、あきらかに7世紀はじめ、聖徳太子が遣隋使を通して当時の中国皇帝(隋の)「煬帝」に贈った書状に書かれた「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に~」に見られるような含意を込めた国名です。 そして、はじめて「天皇」という称号を使用します。それまでは、「大君(おおきみ」とか「大王」でしたが、わざわざ変えたのです。そして、「古事記」「日本書紀」の編纂。(いろいろなものがかなり乱暴なやり方で統合されていきました。それも歴史の事実でしょう) それまでぼんやりとしていた各豪族の連合という世界観にいた日本人にはじめて統一された国家という共有意識が形成されていきます。 「天皇」がなぜ天皇なのか。それは、明らかに、中国皇帝に対して、日本は独立した国になりますよ、というメッセージです。 当時の東アジア世界は、中華思想という世界(宇宙?)観が幅を利かせていました。(というか今だに中国はこの意識で周辺国を扱うところがあります)宇宙の中心は中華(漢字を使う地域)であって、中国皇帝こそその中心に座するという思想です。近隣諸国は、中国皇帝に「朝貢」という形で貢物をします。そうすることで中国に(準)服従・臣下の礼をとることになります。これを受け皇帝は、朝貢した者をその国の正式な王と認め庇護下に置きます。これを冊封と言います。中国皇帝は、朝貢された2倍も3倍ものお返をします。時に、その地域・王国へ軍隊を派遣し助けてあげることもします。これにより、東アジアの治安のバランスは保たれるという塩梅です。 日本も、それまでずっと中国の冊封を受けてきました。邪馬台国も魏に朝貢し、「親魏倭王」の称号と金印に加え、多くの銅鏡をもらいました。そしてよろこびました。 しかし、聖徳太子から天武天皇にかけて、日本は、中国の中華思想から外れ自立しようとしていた流れがあるわけです。もう、中国には頭を下げませんよ。朝貢もしませんよ。もう学ぶことはありません。遣唐使もしばらくしたらやめます。中国皇帝と日本の天皇は対等ですよというメッセージを送ったわけです。 それ以来、日本は、中国に朝貢をしていません。(例外として室町幕府三代将軍、足利義光だけが、経済的理由から売国的政策をしました…) これは東アジア全体では、異例で、中国のほとんどの周辺諸国はその後もずっと中国に朝貢をし続けています。 もちろん、これは中国皇帝からしたら大変失礼なこととして受け止められるでしょう。 中国の各王朝が、怒って日本に軍隊を派遣しなかったのは、ひとえに地理的条件からの理由でしょう。日本に至るまで、女真族の勢力(渤海)や朝鮮半島があり、しかも海という厄介な自然の障害物があったので、わざわざ攻めにいこうとするモチベーションまでには至らなかったようです。お互いある程度の距離があるので、差し当たっての脅威にはなりにくかったからでしょう。中国自体が(内紛や北方民族の侵攻など)それどころではなくなるという運のいい場合もあります。(大軍を編成し動かすにも莫大なお金がかかる。たびたび大帝国は軍事費が払えずに滅んでいく) ただ、新羅をはじめ、その後の朝鮮王朝である高麗、李氏朝鮮は、王国であって統治する者は「王」です。圧倒的実力差のある中国皇帝に対して、へりくだってしか生き残る術がなかった。その歴史的苦労は相当なものだったでしょう(三跪九叩頭の礼)。海に囲まれている日本人には決してわからない苦悩です。それなのに、自分たちより下位と思っている日本が、中国皇帝と対等の「天皇」の称号を勝手に名乗り、地理的条件から中国や北方民族の脅威をそんなに感じずに国を運営している。彼らからしたらこれが許せないのです。だから、今でも韓国の政治家やマスコミは、「天皇」陛下のことを「日王」と読んだりしています。皇帝なんておこがましい。東アジアに皇帝はただひとり。中華皇帝のみであるという隠れた心理構造があるわけです。ですので皇帝を含意する天皇ではなく、その下位である「王」を名乗るのが筋だという論調です。(おわり)
雨とは濡れた時間photo; free material