(補足と訂正)
数学の問題のように補助線を引くと、すんなり解けるようになる歴史観というのは、たのしいものです。
今回の場合、古代史(7世紀の日本国内の政情)に「グローバル派(親中派)vsナショナリズム派」という視点を持ち込むことが、補助線を引くことになります。
とは言え、この視点は、かなり個人的な見解を盛り込んだものなので、そこは素人のif。ifの範疇は抜け切れていません…
歴史の細かい流れも省いて、特に後半は(ものすごく)ざっくりとしたディテールでしか書いていません。
しかし、白村江の戦いの後、唐との関係をどうするか激しく議論されたことは想像に難くありません。これは間違いないことでしょう(天智天皇は唐の侵攻に備えて九州に防人などをつくっています)。
高句麗を滅ぼした後、半島では、新羅と唐の間で争いが起こります。ごたごたした後、新羅がなんとか半島を統一します。とはいえ旧高句麗の北半分は、渤海や唐が奪い、新羅も唐に対して、朝貢・冊封の態度を継続したので、疲弊した両国はこのあたりを落としどころにしたのでしょう。
ですので、高句麗を滅ぼした後、新羅は、最低限の領土を確保するため、唐と戦争をしています。ここで新羅が、踏みとどまった事実はあります。(ここらへんが前の文章では省かれていたので、印象として正確に伝わらなかったことを反省しています。新羅に抗戦はあったということです。元高句麗の残党を支援したり…)
最終的に紆余曲折して、中華思想の冊封体制に組み込まれていくのですが…
言い方は悪いのですが、新羅が頑張ったおかげで、日本の盾(緩衝地帯)となり、日本は大国唐を隣にすることなく、安全を確保し、自国の文化を保護・発展させることができた面があります。(あるいは、外国勢力がすべて疲弊するところまで読んでいたのかもしれません)
唐と新羅が戦争をする際、大友皇子は唐サイドに近づき、大海人皇子はこれに反対したという説があります…大海人皇子は、唐を恐れ、むしろ新羅が生き残って日本の緩衝地帯になってくれることを望んだのかもしれない。新羅派だったという説もあります。そこらへんも謎ですね。