『ペスト』カミュ 購入。

 

 

 この地上で、もっとも恐ろしい感染症の一つペスト。

 ヨーロッパ人にとっては悪夢を思い起こす病名だろう。

 アフリカ、アルジェリア(当時、仏領)の港町オランを舞台に、ペストの流行を再現体感する。

 

 

 ただ全然、進まない。二度中断。なんとか読み終える。

 

 

 オランにいる様々な職業の人たちを通して、ペスト禍での人々のリアルな心情や感染推移を描写。

極めて、冷静な筆致に努める文体。

 医者 リウー(主人公)

 神父 パヌルー

 作家志望 グラン

 ジャーナリスト ランベール

 判事 オトン

 犯罪者 コタール

 よそ者 タル―

 など

 

それぞれがどんな考えをするようになるのか。

文学的な読み処はそんなところか。

 

――現在の新型コロナウイルス感染の状況と照合する読みなら、行政の対応や人々の反応など類似部分をたのしむのかな。(朝日新聞や毎日新聞が注目というところは、上記のような意味合いでだろう)

 

 

 この小説を読んでいて思ったこと。

 

 

 (疑問A)

 

 客観だけになったら文学と言えるか?

 主観を凡て排除した文学を想像できるか?

 

 という命題

 

―――観察記録みたいな形式をとっているだけに読んでいる最中、こんな疑問が頭に浮かんだ。

 

 

 極力、観察に徹した書き方をしているので、逆に人々の感情の現われを正確に捉えられるかもしれない。

 

 小説はもっとも客観的な文学であるという定義はあるが、あくまで文学という主観軸上での客観の極地になる。『ペスト』はどのくらいの位置にあるだろうか。この主観軸を振り切るか切らないかの微妙なライン?

 

 ペスト禍での人々の心理を記録したら、それは文学になるのか。心理学と何が違うのか。(わたしごときにはまとめられない)

 

 

 

 (疑問B)

 

  悲劇について

 

悲劇とは人間の内的意志や自由の要請に基づいて起こる。悲劇は人間が進んで望んだ事件であって、人間が外的に強制された事件ではない。これは、どんなに妙に聞こえようとそういうものであって、凡ての悲劇の傑作が、これを証している。

 

『武蔵野夫人』小林秀雄

 

 文学批評からの引用

 

 批評家・小林秀雄が書いていることにも賛否はあるだろう。が、とりあえず、この引用文から『ペスト』を考えてみるとどうなるか。(あくまで文学上での悲劇の意味)

 

 人のやることには何かにつけいろいろ予期せぬものを、知らぬまに巻き込んでいる、ことがあるので、その因果のうちの一つ二つが悲劇につながってしまうことは実際によくある。行為のスケールが大きくなり、悲劇の規模が大きくなればなるほど、(全体のうねりである)ストーリーもまたドラマチックな様相を見せる。

 

 例でいうと(思いついたものが、古典戯曲になってしまったが)、『オデュッセイヤ』や『オイディプス王』、『ロミオとジュリエット』など。日本文学でいうと、『平家物語』、『蜘蛛の糸』などか。

 思わず、人間という存在のちっぽけさを嘆いてしまう。

 

 

 一方、カミュの『ペスト』は、この引用とは異なる悲劇だと言える。自らの内的意志の要請で道を進んだわけではなく、ペストという感染症(外的要因)に襲われた結果の悲劇になっている。これは謂わば、自然災害や交通事故のようなもので、自らの自由意志が招いた悲劇ではない。

 

 悲劇の原因が、事前に自ら踏み込んでいったことに起因しないので、切っかけ自体が悲劇性や運命性を帯びてこない。

 人間の恣意的行為が招いた知らぬまの領域からの結果という悲劇ではない。

 

 

 ただ、別の引用で、

命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ。この思想は宗教的である。だが、空想的ではない。『モォツアルト』小林秀雄

 

 ということがある。しかし、さすがに、舞台は20世紀半ばで。科学的知識が常識となった時代では、感染症(外的偶然)を宗教的に結びつけることは稀だと言える。

 

 むしろ医者リウーの態度がそう示すように無神論的アプローチとなる。(これは当時のカミュのライバル、無神論者で実存主義の標榜者サルトルやボーヴォワールの顔をどこか思い浮かべることができる)

 この小説は、人々が運命や神に翻弄される話ではなく、むしろ、(たとえ微力でも)意志や決意によって運命論に挑む姿勢を描いた話ではないかと思う。(その意味で、古代戯曲のような個人が運命に翻弄、呑み込まれる悲劇ではない。近代の夜明けを感じさせる小説のひとつ。

 

 ただし(個人的に)リウーと対照的な神父パヌルーのペストと対峙する際の神への忠誠(精神)には興味がわく。

 

 (感染病が蔓延していくリアルな進行過程で)

 ペストに打ちのめされて、生きようとも死のうとも、どのような精神態度でいたかをリアル感をもって知らせることが、この小説の最大の存在価値であり、文学たらしめん~~うんぬんより注目されることではないかと思う。

 

 

 

 (疑問C)

 

 読んでいて、二度も中断してしまったのは何故だろうか。

 

 おそらくの推測…

 

 この作品には、「感覚」がたくさんあるが、「直感」が少ないのではないだろうか。特に強烈な閃き(第六感)と結びつく言葉がないため、読むのに疲れてしまう(もしかしたら、退屈してしまうのかもしれない…)。「感情」や「思考」も精緻な文章技術で書かれているが、極端に、「直感」だけが欠落している。垂直的に降りてくる言葉がない。

 

 カミュの処女作『異邦人』もそうだったけれど、その時々の「感覚」が進行しているだけの印象。(映画的?という見方もできるかも)

 

 

 夢分析で有名な心理学者カール・グスタフ・ユングのタイプ論では、”感覚”と”直感”は同一線上の対極の関係にあり、また”思考”と”感情”も同一線上の対極の関係にあるという。ユング的に分析したら、カミュはどんなタイプになるのだろう。と少し変な興味を抱きながら、想像してみたり…

 

 

(うまく書けたかちょっと自信ないけどとりあえず)

おわり。