「日本」という国名や国家意識がはじめてこの国に生まれた経緯。

 「天皇」という称号がなぜ使われるようになったのか。

 ここらへんをつらつらと書いてみようと思います。

 

 今回書くのは、ある角度から見た歴史観です。

 (知っている人はふつうに知っている話なので、そういう方には申し訳ない内容になってしまいます)

 

 ここで言う「日本」とは日本という国名と高度な政治制度を持った国家体制のこと。

 

 

   (7世紀の日本と周辺事情)

 

 7世紀の東アジアの勢力図は、中国に大帝国、、朝鮮半島に高句麗百済新羅の三国が三つ巴で争っている様が見てとれます。一方、日本では、大化の改新を終えた中大兄皇子(のちの天智天皇)が新しい政府をつくろうとしています。

 

 唐が新羅と組み、百済を攻め滅ぼしました。これは、(強敵)高句麗を倒したかったからです。隋の時代から倒せなかった高句麗を倒すには、まず背後の百済を滅ぼし挟み撃ちすればよかったからです。

(ちなみに高句麗は朝鮮民族ではなく、北方民族。おそらく女真族系。のちに渤海・金・清などの強国をつくった民族(のちの満州人)。この後もこの地域の歴史にずっと出てくる重要民族です)

 

 当時、百済と日本には密接な関係があったらしく(高麗の正史(『三国史記』という歴史書)には、百済は倭人との連合国家とまで書いてあるそうです(ただし半島の人はこれを無視しています)。たしかに仏教の伝来も百済からでした。半島最南西部に前方後円墳もいくつか発見されています(日本のものの方が古い)。また日本の皇族と血縁関係があったのではないかという推測もあります。謎が多いところですが、日本と関係が深かったのは間違いないようです。

 中国の「隋書」にも「新羅と百済は倭国を文化大国として敬仰している」と書いてあるそうです。(詳しくはググって…)

 その百済が滅ぼされた時、たくさんの王族や人々が日本へ逃げてきたそうです。

 

 

 この時、天智天皇は、当時の日本の人口としては空前絶後の2万五千という軍勢を率い、唐・新羅の連合軍と戦うことを決めます。当時の日本全体の人口からすると相当の規模の兵力だったようです。まさに国力のすべてを賭けて戦いに挑んだ。国の命運をかけた戦い。なぜそこまでして?と思うのですが。非常に興味深い歴史の謎です。それほど当時の日本にとって、朝鮮半島(特に南部)は、重要な地域だったのでしょうか。

 この古代史における重要な(歴史的)戦いを白村江の戦と言います。この大きな戦いで、日本軍は全滅しました。完膚なきまでに打ちのめされたわけです。それ以来、古代日本は朝鮮半島への政治介入を一切やめることになります。

 その後、唐・新羅連合軍は、高句麗を滅ぼし、新羅が朝鮮半島を統一します。(ただし、大国唐と(唐頼りで統一を果たした)新羅とでは対等の条件で条約を結べるわけもなく、新羅は中国に臣下として扱われることになります。(新羅はおろか後につづく高麗、李氏朝鮮…朝鮮半島に生まれた王権はすべて新羅と同じ運命を歩むことになります)

 

 

 さて、その後、日本では何が起こったのでしょうか。あきらかに、国内に動揺があったでしょう。国力が何倍もある大帝国唐に対して、戦いを挑み、これでもかというほどの壊滅的打撃を受け完敗してしまった。国内は、親中派とナショナリズムの両勢力が対立することになります。いわゆる天智天皇の子、大友皇子と天智天皇の弟、大海人皇子(のちの天武天皇)が継承権争いをする壬申の乱がおこります。これは、教科書には、単に継承権争いとしか書いていないようですが、実際は、当時のグローバル派or親中派(大友皇子)と国粋主義者(大海人皇子)の対立と見て間違いないでしょう。

 結果、大海人皇子である天武天皇が勝利します。

 この時、急激に「日本」という国家意識がつくられるようになりました。

 二回目の遣唐使の際、書状に、はじめて「日本」という言葉が使われます。これは、あきらかに7世紀はじめ、聖徳太子が遣隋使を通して当時の中国皇帝(隋の)「煬帝」に贈った書状に書かれた「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に~」に見られるような含意を込めた国名です。

 そして、はじめて「天皇」という称号を使用します。それまでは、「大君(おおきみ」とか「大王」でしたが、わざわざ変えたのです。そして、「古事記」「日本書紀」の編纂。(いろいろなものがかなり乱暴なやり方で統合されていきました。それも歴史の事実でしょう)

 それまでぼんやりとしていた各豪族の連合という世界観にいた日本人にはじめて統一された国家という共有意識が形成されていきます。

 「天皇」がなぜ天皇なのか。それは、明らかに、中国皇帝に対して、日本は独立した国になりますよ、というメッセージです

 当時の東アジア世界は、中華思想という世界(宇宙?)観が幅を利かせていました。(というか今だに中国はこの意識で周辺国を扱うところがあります)宇宙の中心は中華(漢字を使う地域)であって、中国皇帝こそその中心に座するという思想です。近隣諸国は、中国皇帝に「朝貢」という形で貢物をします。そうすることで中国に(準)服従・臣下の礼をとることになります。これを受け皇帝は、朝貢した者をその国の正式な王と認め庇護下に置きます。これを冊封と言います。中国皇帝は、朝貢された2倍も3倍ものお返をします。時に、その地域・王国へ軍隊を派遣し助けてあげることもします。これにより、東アジアの治安のバランスは保たれるという塩梅です。

 日本も、それまでずっと中国の冊封を受けてきました。邪馬台国も魏に朝貢し、「親魏倭王」の称号と金印に加え、多くの銅鏡をもらいました。そしてよろこびました。

 しかし、聖徳太子から天武天皇にかけて、日本は、中国の中華思想から外れ自立しようとしていた流れがあるわけですもう、中国には頭を下げませんよ。朝貢もしませんよ。もう学ぶことはありません。遣唐使もしばらくしたらやめます。中国皇帝と日本の天皇は対等ですよというメッセージを送ったわけです。

 それ以来、日本は、中国に朝貢をしていません。(例外として室町幕府三代将軍、足利義光だけが、経済的理由から売国的政策をしました…)

 これは東アジア全体では、異例で、中国のほとんどの周辺諸国はその後もずっと中国に朝貢をし続けています。

 もちろん、これは中国皇帝からしたら大変失礼なこととして受け止められるでしょう。

 中国の各王朝が、怒って日本に軍隊を派遣しなかったのは、ひとえに地理的条件からの理由でしょう。日本に至るまで、女真族の勢力(渤海)や朝鮮半島があり、しかも海という厄介な自然の障害物があったので、わざわざ攻めにいこうとするモチベーションまでには至らなかったようです。お互いある程度の距離があるので、差し当たっての脅威にはなりにくかったからでしょう。中国自体が(内紛や北方民族の侵攻など)それどころではなくなるという運のいい場合もあります。(大軍を編成し動かすにも莫大なお金がかかる。たびたび大帝国は軍事費が払えずに滅んでいく

 

 

 ただ、新羅をはじめ、その後の朝鮮王朝である高麗、李氏朝鮮は、王国であって統治する者は「」です。圧倒的実力差のある中国皇帝に対して、へりくだってしか生き残る術がなかった。その歴史的苦労は相当なものだったでしょう(三跪九叩頭の礼)。海に囲まれている日本人には決してわからない苦悩です。それなのに、自分たちより下位と思っている日本が、中国皇帝と対等の「天皇」の称号を勝手に名乗り、地理的条件から中国や北方民族の脅威をそんなに感じずに国を運営している。彼らからしたらこれが許せないのです。だから、今でも韓国の政治家やマスコミは、「天皇」陛下のことを「日王」と読んだりしています。皇帝なんておこがましい。東アジアに皇帝はただひとり。中華皇帝のみであるという隠れた心理構造があるわけです。ですので皇帝を含意する天皇ではなく、その下位である「王」を名乗るのが筋だという論調です。

 

 

 

(おわり)