以心伝心なんて信じていいんかな?
そんなのほとんどが失望に変わっていくんじゃないの?
世の中なんて自分は~かふつうは~ばっかじゃないか。
ホテルの壁にかかっていた言葉
これは額縁に入ったものですが、…(移動中に見かけると少し気持ちがあがる気がします…)
壁に書かれた詩ってなんだか(わからないけど)好きです。もちろん内容にもよりますが。それ以前に言葉と壁が、ある種の設定としての仕掛けになっているというか…(ひとりでいるときがいいですね。他者と一緒だと落ち着かない)
「壁」っていうのが、メタファー効いてるというか…比喩が効いてていい。壁の前に立って読むということ。人生で壁に当たった時、いい言葉にめぐりあいたいと思います。(壁を現代アート的な比喩装置として見てもおもしろいのでは的な意味です)
外国にはありそう。日本のはどうしても対幻想的な内容になるのだろうか。同じ目線の高さで相対しますし。
よく、お寺の前を通ると、無理しなくていいよ的な内容の言葉が掲示板に貼りだされているのを見かけます。余分な力みを抜き、スッと気持ちを落ち着かせて、ストレスを軽減させる言葉に目が留まってしまうのは、ふだんからそういうものを欲しているからでしょうか。
街中で撮影しコレクションした言葉…
そういう足で稼ぐ言葉もいい。
こういう言葉にはなにやら「強い意志(なるもの)」に、出会う感覚がある…しかも何気ない外出中にふと。
ツッコミを入れたくなる言葉もあるけど…
「強い意志」を感じとれる言葉があれば毎日(の活気)が違ってきますね。
意志とは、私たちがなすべきことを表して行動する能力のこと。
自由意志とは、実は哲学的には、意志の調整の最適化であって、自分自身の見方に照らして行動する能力のこと。(カント)
秘めた意志を感じる言葉を集めていき、自分に照らし調整、判断してゆくことが自由意志。現実世界における現実的な生の場を活発化させている。
(道徳的判断、背徳的判断も踏まえたあらゆる選択肢の中から決定し、実際の行動をなす意志が自由意志)
「盛んなる自由意志」が活発になるように生きる方がいい。
一方、
現代アーティストがアート作品に展開している詩や言葉も好きです。壁で読む詩というテーマに沿いながら進めます。
愛知トリエンナーレ2013。長者町会場にて。現代アートワークの一要素としての壁詩。
これはまさにテーマ通りで、白い壁にオリジナル詩が印刷されていた。矢島与萌さんという方の作。↓
(ひとり作品と対峙して)
壁を前にして読んでいたら、自分の魂が微妙に軽くなった気がした。(感想)
今日のたき火
この部屋は、
生活のなかで通りかかる一つの景色です。
毎日の顔や手や声のようなもの。
ここで見るのは、
(後略)
個人的な感想ですが、いい詩に対面するとインクの黒と下地の白のコントラストが際立つように見えてくるのですがどうだろう…
(アート作品と相対することで個人幻想はなんらかの刺激的、且つ特殊な形に変わっている。(持説))
愛知トリエンナーレ2016。豊橋会場。サウンド・インタレーション作品の一部としての詩。リビヂウンガ・カルドーゾ(レアンドロ・ネレフ)作。南米出身のアーティストだったような…
前に起こったのは、時間のない時代か、昨日か。
四十年、いや百年、それとも百万年前かもしれない。
あるいは、人間のいない未来の地球かもしれない。だれにもわからない。
感覚や魂や岩々は地球とともに回り続ける。
宇宙、地球、森、砂漠、川、海、山、私たちはどうなるのか。
世界はすでに多様な終わりを迎え、これからも終わり続ける。
最初のつがいがこのパーティーにやって来る。
(後略)
展示場の床に砂が敷いてあったり、宇宙船オブジェアートやサウンド…
不思議な空間でした。
南米のノリと宇宙人のコラージュみたいな。
なんかね…(やっぱり)おもしろいです。
壁と詩の関係って。
「壁に書かれた詩」で検索。いろいろあってよい。→こちら
こちらは「壁に刻まれた詩」で検索。→こちら
壁詩という概念を意識していると、壁の存在を意識してしまう。
壁に書かれてる意味をもの思ったり。
壁を読んでいる気にもなってくる?
人生に壁がなければ詩なんて書けないよな、とか思ったり。(壁は詩に先立つという逆説は成り立つのでは)
背景にあるものを実際の人生の壁に重ねてしまいますね。
社会的・政治的な意味でも壁は象徴的。ベルリンの壁とかイスラエルの分離壁、紫禁城の壁、刑務所の壁…人種の壁、男女の壁など集団的・心理的なものも連想できる。
自由なイメージの詩とまったく対極のイメージがあるので対照(コントラスト)効果が大きい。壁と自由詩が必要条件として出会っている。
もし魂というものが本当にありそれをどこかにぶつけたいなら、あなたはそれをどこにぶつけたいか。刻みたいか。
壁は有力候補です。
おわり