
フェリーがつくる波しぶき。
まぁ、私はこれが好きだなと、気づいたのでした。
眺めていると気持ちいい。
『枕草子』を書いた清少納言なんかだったら、いとをかしなんていう感覚だろうか?
自分が「好きなもの」とか「好きな場所」というものをはっきり知っている、ということは、自分を知るという幸せにつながっている。そんな気がしてくる。ひとつの真理みたいなもの…?
それは個性であり、また個性を知るであり、個性を知るということを知ることでもあると…
生理的に好きなものを思い出せるっていいことですよね。
清少納言みたいに思ったなら、自分の場合……
たとえば、連想してみると…
夕暮れ時の島々が浮かぶ瀬戸内海。北海道のまだ肌寒い春の空気感。よその町の早朝。夏の涼しい夜。現代美術館(建物)。世界の「国際空港」の雰囲気。花火の向こう(を連想できる場所)。外国で飲むビール。外国での会話空間。偉人の眠る共同墓地。
超高層ビルとそれが青空に定規を引いたようなスカイライン。夏の青空。冒険を連想させる入道雲。旅での軽い迷子。ふと出会ったすばらしい言葉。
ある本屋の一画。いつもいく避難所的カフェ。考え事をする散歩道。ある高台からの都会の風景。(最後の方はかなりパーソナルな空間で伝えにくいのですが…)
これが私の自存在。私の個性。
変な言葉ですが・・・
「世界の国際空港」が私。
「夕暮れ時の島々が浮かぶ瀬戸内海」が私。
「よその町の早朝」が私。
「冒険を連想させる入道雲」が私。
「花火の向こうを連想できる場所」が私。
「外国で飲むビール」が私。
「ある本屋の一画」が私。
「考え事をする散歩道」が私。
「夏の涼しい夜」が私。
・
・
・
と、
こんなふうに「 」を増やしていくと、
だんだん自分が掴めてくる。自分の個性がはっきりしてくる。
自分が外にある。そんな考え方。あまり馴れない考え方ですが、exsitentialisme(仏)とかexistentialism(英)の ex は外にいう意味になる。
うじうじ内にひき籠って自己沈潜してしまうより、よっぽどあかるく自分がわかるし、行動的にもなるんじゃないでしょうか。。
とはいえ、己を知るって、なかなか難しいことでしょうけど(泣)
もしかして、清少納言というひとも、自分のことがよくわからなくて、自分自身をすごく知りたい人だったのかも…
あの時代の公家の娘という立場や、世間から隠された世界(視られるだけで犯されるくらいの禁忌意識があった)に生まれ落ちるということで、独特の儚さを心に持っていたと思います。だから、常に自己存在(現代でいうアイデンティティとは少し違う気がしますが)について想いを馳せていたに違いない。
本当に彼女が求めたことは、自分を知るという幸せ、だったのではないだろうか。
「をかし」を通して、自分の「個性」を知ろうとした。
「春は曙~」=私、みたいに。
それが彼女の「世界」であり、「世界(己)を知る」ことだった。
「をかし」は彼女にとって、心がはねたり、ゆれたりすることだから、心的サインだったのでしょう。
上記で示した思いや感覚があるからこそ、『枕草子』の文章は最高に美しくなるのだ。
――そして、何に感動したかが自分の文学的な個性になる。
まぁ、そんなふうに思ってはみたのですが。
でも、…
自分とはなんなのでしょうね…私は苦手だ……それでもまだ。
「知る」が成立するには、「知らない」ことが存在しないといけない…
それはまぁ、たとえば、
ジョハリの窓を見てみる。
4つの窓
1:自分も他人も気づいている自分。(開放の窓)
2:自分は気づいていないが、他人は気づいている自分。(盲点の窓)
3:自分は気づいているが、他人は気づいていない自分。(秘密の窓)
4:自分も他人も気づいていない自分。(未知の自分)
開放の窓と秘密の窓しか自力では気づけない。
知るという領域はずいぶん狭いし、自分の全領域を知ることはできない?
だからこそ、知るということは貴重なのかもしれません。
(駄文、申し訳ありません。)