訴訟の目的は…?
もちろん原告の方々自体はまわり(稲田ら)に乗せられてしまい、本気で勝つつもりだったんだろうけど(敗訴の判決に相当落胆した様子が報道からは伺える)、乗せた方はそんなのどうでも良かったってわけだ(あわよくば勝とう、程度だったのかしらん。このあたりはもちろん推測するしかありませんが)。
なんというか、やり方が汚いよね。「訴えられた」という事実を作っておき、判決が出る前に教科書を書き換えさせる。書き換えに成功したら、あとはどうなってもいい(いや、支援者の多くはそうでもないんだろうけど。たぶん)。
文科省は、多くの抗議によって、教科書会社からの「訂正の申請」という形をとって、軍関与について認めるような修正を受け入れたけれども、検定意見の撤回には頑として応じていない。
さて、この判決を前に、どうするのでしょうね。検定意見の根拠は、事実上この裁判だけだったのだから。最高裁まで突っ張るのだろうか。
こうなると、もう検定制度自体が教育に悪影響を与えているというのが明瞭なので、検定制度もなくしてしまったほうがいいのではないかな。
沖縄「集団自決」訴訟と教科書と指導要領
「「沖縄ノート」訴訟、元隊長の請求棄却 大阪地裁」 (『朝日』3/28)から:
判決は、集団自決について、軍から自決用に手榴弾(しゅ・りゅう・だん)が配られたという生存者の証言が多数ある▽手榴弾は戦隊にとって極めて貴重な武器で、軍以外からの入手は困難▽集団自決が起きたすべての場所に軍が駐屯し、駐屯しない場所では発生しなかったことなどを踏まえ、集団自決への「軍の深い関与」を認定した。また別の記事「軍関与を司法明言 元隊長、悔しい表情 沖縄ノート判決」 (『朝日』3/28)には問題の本質が大江健三郎の言葉でこう述べられている:
判決前、大江さんは朝日新聞の取材に「判決にあたって」と題する手書きの回答文を寄せた。「口頭なり文書なりの命令があったかなかったかは、『集団自決』の結果を揺るがせはしない。日本軍の構造の全体が、島民たちにこの大量の死を強制した」と改めて考えを述べ、こう結んだ。なお『産経』の反応が面白い(面白がってる内容じゃないのだけれども)。メインの記事「元守備隊長の請求棄却 沖縄集団自決訴訟」 (『産経』3/28)に長文の判決要旨が載っている(藤岡信勝の悔し紛れの支離滅裂なコメントも載っているけど)。
『産経』には他にも原告・被告双方の記者会見の様子など、詳しく報道されている。それを読むと、原告(および産経)側は、自決命令の(形式上の)有無にのみこだわっていることがよくわかる。従軍慰安婦問題での「狭義」の強制云々というのと同じ構図。極端な場合を想定して、そこを否定して全否定しようとする、無茶苦茶な論理。
ちなみに、この訴訟の応援団、「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会」の代理人の一人は、靖国映画を事前「検閲」しようとした稲田朋美である。
さて、この訴訟は、例の教科書検定の問題と密接につながっている。訴訟が起こされている、というのが理由になって、沖縄戦での「集団自決」の軍による強制、というのが削除されたのだ。
もう何度も見た方も多いと思うが、ここでは『沖縄タイムス』の記事から、少し長いが全文引用しよう:
「訴訟と教科書問題」 (『沖縄タイムス』2007.11.7)
学問的な議論も何もなく、ただ「訴訟が起こされているから」、しかも判決が出ているわけでもない。まさに教科書を書き換えるための訴訟であった-少なくとも結果的には-と言えよう。このような形で強引に歴史が塗り替えられていくのは本当に恐ろしい。提訴のみで記述を変更/素通りした検定意見
二〇〇六年十一月十三日の午後、東京都千代田区丸の内。文部科学省近くのビルの地下一階で、教科用図書検定調査審議会の日本史小委員会が開かれた。文科省職員の教科書調査官が、自ら提案した検定意見について審議委員に説明を始めた。「これまで『集団自決(強制集団死)』の記述は、軍による命令、強要で住民が追い込まれたという記述を認めてきた。しかし、最近の研究状況や大阪の裁判(=『集団自決』訴訟)もあり、『要因はそれ以外にもあったのでは』というのがいまの状況」、「だから、『集団自決=軍の強要』と決め付けるのは適切ではない」
同小委員会に所属する八人の審議委員のうち、四人は日本近現代史が専門の大学教授だが、沖縄戦に詳しい研究者はいない。調査官の説明への意見や質問はなかった。
「沖縄戦の『集団自決』は、日本軍に強制されたものもあった」という趣旨の教科書記述を、「沖縄戦の実態についておそれのある表現」とした検定意見は素通りした。
調査官はこれを基に、高校の歴史教科書から沖縄戦の「集団自決」に対する日本軍の強制を示す記述を削除させた。
同訴訟の提訴は〇五年八月だった。その年の秋に開かれた同小委員会でも、「集団自決」には日本軍の住民への強制もあったことを示す記述がある高校日本史教科書について審議したが、意見は付けられなかった。
それから〇六年十一月までの間に、「『集団自決』では、日本軍の住民への強制もあった」との、従来の歴史解釈を覆すような研究は見当たらない。
今年四月の衆議院で、「前回と今回、どういう根拠で判断が変わったのか」との質問に、伊吹文明文科相(当時、現自民党幹事長)は「裁判を起こされた方もあり、その裁判の中で両方のご意見があった。だから一方に偏った記述は避けるべきという検定意見があった」と答弁した。
同訴訟の原告側の主張が、教科書検定で記述削除を求めた理由になったことを文科相自ら認めたのである。
伊吹氏は六月に閣議後の記者会見でも、同訴訟での原告側の主張が検定意見の理由となったことを認める発言を繰り返した。
だが、法廷で陳述された原告側の証言には従来の主張以上のものは見当たらない。「訴訟が起こされた」だけで、教科書の記述を国が変えた危うさを、「集団自決」訴訟と教科書検定問題ははらんでいる。
なお、教科書調査官の選定は実に不透明である。不透明であるが、一貫して右翼的であり、それを辿ると皇国史観の主唱者にまで行き着くという。国(というか権力)もこういう面での教育、あるいは洗脳、の重要性を熟知しているのだ。教科書調査官については、「世界の片隅でニュースを読む」のこのエントリ がよくわかる。
さてさて、話はさらにつながる。教科書といえば学習指導要領。先日も理科教育に関するエントリ を書いたが、次期指導要領が告示されたそうだ。「指導要領、異例の修正 「愛国心」など追加」 (『朝日』3/28)。中教審の答申からさらに飛躍して、愛国心やら自衛隊の海外活動やら君が代を「歌えるように」指導するなどとんでもない内容が追加されている。この記事も全文引用しておく。
指導要領、異例の修正 「愛国心」など追加まさに教育による子どもの洗脳である。長い議論の積み重ね(まあ中教審の議論自体どうかと思う部分も少なくないが)を反故にし、一部の政治家によって教育の内容を強制してしまう。
渡海文部科学相は28日付の官報で小中学校の改訂学習指導要領を告示する。告示は改訂案とほぼ同じ内容になることが通例だが、総則に「我が国と郷土を愛し」という文言を入れ、君が代を「歌えるよう指導」と明記するなど内容が一部変わった。2月の改訂案公表後、1カ月かけて意見を公募。保守系の国会議員らから改訂案への不満が出ていたこともあり、文科省は「改正教育基本法の趣旨をより明確にする」ため異例の修正に踏み切った。
修正は全部で181カ所。大半は字句の修正や用語の整理だが、総則に「これらに掲げる目標を達成するよう教育を行う」と挿入し、「道徳教育」の目標に「我が国と郷土を愛し」を加えた。
小学音楽では君が代を「歌えるよう指導」とし、中学社会では「我が国の安全と防衛」に加えて「国際貢献について考えさせる」と自衛隊の海外活動を想定した文言を入れた。
改訂案に対しては、自民党内から「改訂案が教育基本法の改正を反映していない」と早くから不満が上がっていた。八木秀次・高崎経済大教授が理事長の日本教育再生機構も同様の立場で、文科省に意見を送るひな型となる「参照用コメント」を公表していた。
一方、中学社会の「北方領土が我が国の固有の領土」という記述には、韓国が領有権を主張している竹島も加えるよう要望が出ていたが、「政治的判断」(文科省幹部)から応じなかった。
改訂案への意見公募は2月16日から3月16日まで実施され、計5679件が寄せられた。
この件についても、「世界の片隅でニュースを読む」が的確にまとめてくださっている。こちらのエントリ 。
いろいろなことが、つながって大きな流れになろうとしているようで、実に怖い。
あの人の相対主義
リファラをたどって知った、黒木さんの「相対主義に関するよくある質問」 。昔々見たような気もするけれども、よく憶えてない。^^;; ということで、ざっと読んでみた。
相対主義を幾つかに分類している(認識的相対主義や道徳的相対主義など)。で、それぞれがどういう性格を持つものかということがコンパクトにまとまっていてわかりやすい。
ところが、読んでいくと、相対主義を擁護する人々は、それらの違いを曖昧にする傾向が強く、極端な相対主義かと思って批判をすると穏健な相対主義を主張したり、穏健な相対主義かと思って読んでいくと極端な相対主義が隠されていたり、ということがあるので注意せよ、なんて書いてある。
こういう曖昧さは、某Mさんの文章からも伺える。たぶん、そこまで考えていない(相対主義の中身について、分析的に考えていない)のではないかと思うが。通り一遍の書物を読んだだけで。
というわけで、(特にMさんに対してというわけではなく)相対主義を放っておくと、初めは穏健なように見えても、その曖昧さによってズルズルと極端な相対主義を含むような主張に拡張されてしまうことにならないか、という危惧を感じる。その果てにあるのが学習指導要領の相対主義だったり。
どうすればいいのかな。曖昧に見える主張には、立場をはっきりしろと言うのがいいのか(どういう相対主義なのかをはっきりしてもらう)。
ま、基本は、科学の考え方を世間に理解してもらう、ということなんでしょうけれども。
ドラえもん…ん?(追記あり)
- 2112年9月3日、ドラえもんは本当に誕生する! (ソフトバンク新書 49) (ソフトバンク新書 49)/桜井 進
- ¥735
- Amazon.co.jp
なにが問題かって、かなりニセ科学的発想が入っているのですよ。量子力学の解釈なんてかなり強引で、むしろ「シンクロニシティ」的、というか。
いわゆる「波動関数の収縮」ってやつですが(とりあえずコペンハーゲン解釈;ちょっとマニアックになってしまいすいません)、この著者は、そこに「心」を絡ませたくて仕方がないらしい。少し引用しよう(p.100、太字による強調は引用者)。
星の観測とは、過去の確認です。遠い宇宙の光が何万光年の時を経て今やっとキャッチされます。この瞬間、その星の存在、つまり宇宙の存在が確定されるのです。このような、「人間が観測したから存在が確定する」というようなフレーズは、この本の随所に登場する。
これを「宇宙原理」といいますが、この原理に真っ向から反対したのがアインシュタインです。アインシュタインは、確認しようがしまいが、あるものはあるのだという「唯物論」に近い「素朴実在論」という考えでした。
アインシュタインが量子テレポーテーションを絶対に信じなかった理由は、ここにあります。唯物論的な発想からすれば、観測したものがここもあそこも同じということはあり得ない事実です。
おそらく彼の哲学もあったのでしょう。こういったところに、じつは、科学の知識ということ以上に心の問題が介入してきます。
極めつけは、これだろう(pp.67-68)。
月はもともと、宇宙空間にあるものとして、私たちは学校で教えられてきました。しかし、Ψが大活躍する量子力学の世界では、誰かが月を見て、「月がある」と思えばΨによってリアリティがつくられ月が存在します。誰一人として、月を見なくなってしまえばΨはリアリティをつくらず、月の存在そのものがなくなってしまうのです。なおこの前の章で、「『宇宙の素』は波動関数『HΨ=0』で製造」と著者は述べている。ここでHはハミルトニアン(エネルギーに関連する演算子、Ψは波動関数である。まあ唐突にこんなところで述べられても、という感じで登場するので、この本の中では「おまじない」あるいは「お経」以上の意味はないのだが、とりあえず量子力学の象徴のような形で書かれている。
(中略)
それにしても、Ψがもし『ドラえもん』の世界で登場するとしたら、藤子・F・不二雄氏はどんなタッチで描き出してくれることでしょう。
(中略)
(プサイ君と会話できる、引用者注)その言語は日本語でも英語でもありません。言葉で話すのではなく、心で話すからです。
心は目には見えませんが、心で思うことによって私たちは形あるいろいろなものをつくり上げてきました。見えないものから見えるものが生み出される。これが、量子力学でいう「波動方程式」として説明されるようになったのです。
あきらかに唯物論とは違う、心を伴うサイエンスといえます。
さて、ここで描かれているのは、量子力学のかなり特異な解釈だろう(もちろん、量子力学を勉強したての頃は、一度はこんなことを考えてみたりもするものだが)。「シュレーディンガーの猫」と同じで、観測するものがなければ波動関数は波のままで古典的*1 なマクロな物体にならない、というわけ。なにが変かって、「人間」による観測だけが絶対視されている、という点だ。誰一人見ていなくても、猫は見ているかもしれない。鳥も見ているかもしれない。いや、生物と無生物を分ける意味があるのだろうか。月からの光を受けた地表の石ころだって、立派な観測者だろう(これは難癖をつけているのではなく、たとえば望遠鏡にセットされたCCDカメラを考えてみれば同じことだとわかるだろう。CCDカメラは人間ではないが、望遠鏡を月に向ければ、確実にカメラは月を撮影してくれるのだ)。
無論、量子力学の観測問題はまだ解決したわけではないし、様々な解釈を考える余地はある。しかし、いまどき人間のみを絶対視する立場はどう考えても変だろう。こういう立場を首尾一貫させようと思えば、なんらかの「存在」によって人間を特別な存在とするか(進化論との関係はどうするのだろう)、独我論的立場に陥るかのどちらかになるのではないか。そんなことより、マクロな物体は人間の存在とは関係なく古典化*2 するのだというのが自然な解釈だと思うのですが(いわゆるデコヒーレンス)。もちろん、これだって確立したものでは全然ないけれども。
さらにこの後段の文章を読めば、著者は「心」をなにか特別な「存在」であると考えているように読める。心で思ったことが伝わるということを言いたいのだろう?ほとんどニューサイエンスだ。ここで「『波動』方程式」を出したり、唯物論をわざわざ名指しして攻撃するあたり、色々と思い当たるフシがありますよね(後述)。
さらにツッコんでおくと、p.109には、藤子・F・不二雄が「科学でも解けない謎」を示していることを賛美した上で、
科学者の中には、これとは反対に、超能力などの説明できない現象を即座に否定する人たちも多くいます。何を根拠に「あり得ない」と断言しているのか、とても不思議に思ってしまうことがあります。とも述べている。いや、問題なのはそういうことじゃないだろう。藤子・F・不二雄は、お話として超能力をふんだんに取り入れつつ、フィクションとしてのその合理的な説明にもとても心を砕いた人だったと思う。著者が言うような、そんな簡単なことじゃないと思うんだが。
「タケコプターは小型UFOだった!」(p.24)の中では、「UFOは、重力をコントロールして、逆重力を発生させて飛んでいると考えられます」(p.27)ってなあ。無論マンガの中の話だし、原理がどのようなものか考えてみるのはとても楽しいことではあるのだけれど、このUFOについてのコメントは、洒落になってない。著者がどう思っているかはともかく、本気ととられても仕方がない書き方だと思う。
こんな感じで、この本は量子力学と心の関係を陰に陽に臭わせつつ、ドラえもんをダシに好き勝手なことを述べまくる。読んでてイヤ~な感じが湧いてくる。
イヤ~な感じはこれだけでも伝わると思うのだが、実は、この本をはじめから読むと、のっけからとてつもない不安感に襲われることになる。「プロローグ」の中に、「テクノロジーとフィロソフィが合体した本物サイエンス」(太字は引用者)という節があるのだ。「本物」サイエンス!船井じゃんよ!!
この著者が船井幸雄と関係しているかどうかはわからない。しかし、内容的にはつながっていると見ていいだろう。量子力学の悪用の仕方といい、困ったものである。
ちなみに作者は「サイエンス・ナビゲーター」という肩書きを持ち、現在は東工大の世界文明センターのフェロー、ということだそうだ(東工大の数学出身)。いや、困りましたねえ。皮肉めいた書き方をするなら、「物理学の心がわかってないよ」ということになるのだが…。
ま、「もっとドラえもんを読みましょう」というのには強く同意するのですが。(^^;;
しかし、この本読むなら、方倉陽二の「ドラえもん百科」の方が100倍面白く、100倍科学的興味を湧きたてられると思うなあ。あれは不朽の名作ですよ。Amazonで見たら、古本でいい値がついているようですが、はるかにオススメ。
(追記)
*1 量子力学に特徴的なことの1つは、いくつかの「状態」が重ねあわされている、ということ。例えば「シュレーディンガーの猫」ならば、箱の中の猫は「生」と「死」の二つの状態の重ね合わせになっていて、観測するまで「生」か「死」かは決まらない、とされる。「観測」によって-なにをもって観測というかは別にして-そのような量子力学的状態から、どこかで日常的な世界、つまり古典力学で記述されるような、これはこれ、あれはあれ、と指定できるような状態、「古典的」な状態に遷移する。と考えられている(通常は)。
*2 で、そのように量子力学的状態から古典的状態へと遷移することを、よく「古典化」と言う。
「にせユダヤ人と日本人」
- にせユダヤ人と日本人 (朝日文庫)/浅見 定雄
- ¥459
- Amazon.co.jp
ありゃ、画像が出ないや。
それはともかく。
イザヤ・ベンダサンなる人物による「日本人とユダヤ人」という本がある。1970年の本だ。この「にせユダヤ人と日本人」という本は、神学博士である浅見定雄氏(当時、東北学院大学教授、旧約聖書学・古代イスラエル宗教史)が書いた本で、「日本人とユダヤ人」を徹底的に批判した本である。1982年に書かれたということだそうだ。
さて、その批判の中身であるが、これが学説同士をたたかわせるような批判かというとそうではない。そうではなく、イザヤ・ベンダサンによる「日本人とユダヤ人」に書かれてあることの多く-ほとんどと言ってもいいくらい-が、事実認識の段階で間違っていることを、プロの目から徹底的に明らかにされているのだ。
間違っていることは単に「ユダヤ人にとっての常識」についてだけではない。古代ユダヤと現代のイスラエルがごっちゃになっていたり、簡単な英語も訳せていなかったり、一冊の本の中で、平気で矛盾することが書かれていたり。これを読めば、イザヤ・ベンダサンなる人物のいうことは信用できない、ということがよくわかる。
ところでAmazonでこの本を検索すればわかるのだが、最近になって、同名の書が新書として山本七平名義で出ているのに気づくと思う。そう、イザヤ・ベンダサンというのは、山本七平のことなのだ。浅見氏は、すでにこの本の中で、イザヤ氏はほぼ間違いなく山本氏であろうと述べている(その後、山本氏は自らそのことを認めたらしい)。ということは、つまりこれを一度読んでしまうと、山本七平の書いたものはどうやっても眉に唾をつけて読まざるを得なくなる、ということだ。単にたまたま山本氏にユダヤに関する知識が足りなくて間違えたことを書いた、ということではなく、資料の吟味の仕方から論理の展開の仕方まで、山本氏の論者としての基本的な資質に重大な欠陥がある、ということがわかってしまうからだ。こんな粗雑な議論をする人の言うことは信用できない、と。
私がこれを取り上げたかった理由であるが、この本は4部構成になっており、その第1部が「日本人とユダヤ人」の直接の批判にあてられている。「直接の」、という意味は、「日本人とユダヤ人」の各章ごとに、原文を引用しながら批判している、という意味だ。つまり、原典批判になっているのだ。
「日本人とユダヤ人」だけでなく、山本七平のイデオロギーを背景にした粗雑な議論は、それだけで批判の対象になる。しかし、その上で、この本のように原文に即して執拗に批判をしているものがあると、それだけ全体の批判(浅見氏以外による)が説得力を増すと思うのだ。
私が「水伝」について原文を引用しながら批判したのも、この本を意識した部分がある。たとえば「水伝」について言うなら、私が「水伝」の問題をよくわかっていない人になにか参考になるウェブサイトを紹介するとしたら、このブログではなくてきくちさんの書いたもの や田崎さんの「『水からの伝言』を信じないでください」 やPSJ渋谷研究所Xの「『水からの伝言』の基礎知識」 をすすめるだろう。そのほうが圧倒的に問題点がわかりやすい。でも、さらに一歩すすんで疑問を持ったときに、そもそも元の文章はどうなっているのか、というレベルでの批判がどこかにあると、強いと思うのだ。それだけ重層的な批判ができている、ということを示すことになるから(だから、他にもTAKESANさんの「『ゲーム脳の恐怖』を読む」シリーズ もとても重要だと思う)。
ちなみにこの本を読んだのは、実は数ヶ月前。なんでまたそんな最近になって読んだか、というと、古本屋の100円コーナーで見かけたから。(^^;;
浅見さん、すいません。でも、この本に出会えてよかったです。