ほたるいかの書きつけ -69ページ目

嫌われる相対主義

 最近(に限らないだろうけど)、複数のブログで相対主義の立場からのニセ科学批判批判を見かけたことと、少し前のこのエントリ で取り上げたように学習指導要領に相対主義的な考え方が持ち込まれているので、少し考えてみた。

 ブログなどで発信している人々にとっての相対主義の出発点は、どうも文化的、社会的な面での相対主義のようだ。要するに特定の社会や文化が優れているなんてことはなくて、それぞれの立場によるものだ、と。これについては、ある程度は納得できるし、相対主義なんて言い出さなくても、(例えば)価値観の相対化、なんて言い方もできるだろう。つまり視点を変えて見てみなさいよ、と。
 こういう発想って、しかしある程度科学について考えたことのある人ならば(科学というものについて、という意味)、大なり小なりわかっているんじゃないだろうか。ポストモダン的な、とか、社会構成主義、とまでいくと、同意できない部分も多々あるだろうけれども、見方としては大事なことだと思うし、それについて異論を挟む人はほとんどいないだろう(ま、このあたりについても色々言いたいことはないわけではないのだけど、それは今回はおいておく)。

 ではどこで意見の対立(対立にもなっていないのかもしれないけど)が生じるのか?おそらく、相対主義を擁護する人々が、存在論まで相対主義で議論しようとするからなんだと思う。ここに、ニセ科学に批判的な人々と、それに批判的な人々との差異があるように思う。
 通常、(少なくとも自然)科学では、人間とは独立に(客観的に)自然が存在し、事物の運動にはなんらかの法則性があると想定している。人間の活動(「科学」ですね)はその法則性を明らかにしていくものであり、まさに人間の営み、だ。ところが人間の認識は完全ではなく、いろいろと制約があるため、すぐに自然をそのままの形で認識できるわけではない。その時代の技術や思想に制約され(さらには個人的事情にもよるだろう)、不完全な形で自然の法則性を認識し、それを法則化する。時代がすすみ、制約が弱くなってくるにつれ、ニュートン力学から一般相対性理論へ、あるいは古典物理から量子物理へと、人間が打ち立てた法則は過去の法則を自然への近似として包含しつつ適用範囲を広げ、より「真理」へと近づいていく。
 こういう科学の営みは、ある程度科学を理解していれば誰でもわかることだろう。だから、現在の科学が完全だなんて思ってやしないし、まだまだ未知の世界が広がっていて、それを明らかにするために科学者は日々研究を重ねているわけだ。現在我々が手にしている(物理)法則も、自然のある側面を確実に反映してはいるけれども、完全に記述できているわけではない、と。

 ここで、相対主義を濫用する人々は、どれだけ自覚しているかは人それぞれだろうけれども、人間にとっては人間に認識されたものがすべてで、それ自体、つまり現象のみが人間にとってのカッコつきの「自然」なのであり、また人間の認識には常に制約が伴う以上、得られた科学的知識も相対的なものなので、立場が変われば「真理」もまた変わる、と、こう言うわけだ。
 無論、ここには濃度差があって、水伝にしろマイナスイオンにしろ、「科学」も「ニセ科学とされているもの」も相対的なのだから「ニセ」と言って批判するのはおかしい、という人から、ニセ科学はニセ科学でどんどん批判するべきだけれども、批判する人は科学の相対性をわかってんのかね?という自称中立君的な意見を表明するだけの人まで様々だ。だけれども、結局そのように主張することは、科学が相対的にしろ実証的に真理を明らかにしていくプロセスであるということを無視する、少なくともその意味を低める方向で批判していることになる。

 で、その手の主張は、さらに展開していくと、どうしてもいま学習指導要領で問題になっているように、自然界の法則性の認識というものを軽視し、子どもが認識した世界内での自然の理解を重視する、という方向になるのだと思う。
 科学に携わっている人々からは(全員とは言いませんが)、その流れが多かれ少なかれ見えてしまうので、直感的に「それはまずい」と批判するのでしょう。

 だから、相対主義を擁護する人々は、どういう相対主義を擁護したいのかを明らかにしてくれれば、多くの場合は妙な議論にならずに建設的な方向で議論を進められるのだと思うのだけれども、存在論的な部分までごっちゃにして相対主義を展開されたら、そりゃ批判されても仕方がないよな、と思う。

 もっとも一つ気になるのは、相対主義を擁護する人にとって、その区別は重要だとはひょっとして思ってないんじゃないか、ということ。つまり個々人の認識のみを出発点にするならば、自然の認識も文化の捉え方も同レベルである、となってるのではないか、と。そうだとするならば、相対主義の問題はより深刻で、もっと徹底的に批判されないといけないのではないか、と思う。

 ポストモダンの流行以降、こういう相対主義的な発想が蔓延しているけれども、しかし歴史を振り返ってみると、こういうのは昔もあった。20世紀初頭、物理学者のマッハらを中心に「電子などというものは作業仮説であって実在のものではない」というような(うろ覚えなので正しくないかもしれませんが)主張がなされ、また科学論でもゴリゴリの論理実証主義が台頭したりということがあったわけだ。それに対して多くの科学者が電子(などの素粒子)の実在を主張し、物理学を発展させて行ったし、哲学的にもその手の認識論を踏まえた上で唯物論も深化していったわけだ。
 だから、大局的には「歴史は繰り返す」をやっているのではと個人的には思っている。思ってはいるのだけど、さてどうやって克服しようかというと難しくて、結局地道に批判していくしかないのだけれども。
 もうはるか昔の学生時代に齧った程度なので忘れかけているけれども、認識論を踏まえた上での「真理」というものは「絶対的真理」と「相対的真理」、及び人間の「実践」による検証過程という形でまとめられていたはずだ。

 ではなぜそうやって毎度毎度相対主義に「かぶれた」人々が出てくるのかというと、おそらく(個人的な印象ですが)、子どもの頃はずっと素朴実在論でやってきたのに対し、ある時期、気づいちゃったんだと思う。人間の認識には制約があって、外界そのまま認識しているわけではない、と。その衝撃を引きずって今に至る、と勝手に思ってるんですが、どうでしょうか。
 だから、そういうものを考えたことがある人は必ず通る道だともいえるので、その意味では相対主義ってのは眺めてて微笑ましい部分もあるんだけど、しかしそうはいってもいつまでも放っておくわけにもいかないので悩ましいところ。その衝撃をきちんと克服できるといいんでしょうけれども…。

 学生時代に古本屋で買ったものの、途中で挫折して最後まで読めなかった哲学書って何冊かあるんですよね。久々に読んでみようかな。

(追記)
こちらのエントリ で取り上げた北村正直氏の別の文章がネットで読めます。「数学のいずみ」
特に、「反科学・反理性と科学教育」 と、「なぜ科学教育は必要か」 はおススメ(2001年、2000年と少し古い文章ですが、意義は変わりません)。

「水からの伝言」に書いてあること(2)

 「水伝3」p.17より。
 「魚のマーク」を見せた水の結晶
 キリスト教は初期の頃、「魚のマーク」で表されたといいます。「魚」はギリシャ語で「イキトゥス」といわれ、「イエス、キリスト、神、息子、救い主」のギリシャ語のイニシャルを順に並べたものと同じであったことに起因するといわれていますが、最初のイエスの弟子4人がみな漁師であったのもおもしろい符号ですね。
 文章の是非については私には知識がないのでおいておく。
 しかし、ですよ。ここでお水様に見せている「魚のマーク」って、手書きの、まるで幼稚園児が書いたようなもんですよ。 こんなの (愛知の農林水産事務所の方、すいません)を、もっといびつにした感じ。
 これ、たしかにキリスト教のシンボルでもあるのかもしれないけれども、このマークから一意にキリスト教に結びつけるのはいくらなんでも無理でしょう。あまりにも強引ですよね。

※「水からの伝言」に書いてあることは間違っています。「科学的にまだ未検証」なのではなく、すでに間違っていることがわかっています。念のため。

江本流「波動」理論(4)

 (3)のつづき。「水伝3」pp.140-141を取り上げる。
 まずは江本の文章を見ていただこう。
 「波動」を目に見えるビジュアルにして表せたら
 それは1994年の夏のことでした。わたしは時間つぶしに立ち寄った本屋で『まだ科学が解けない疑問』(ジュリア・ライ著 晶文社)という本を見つけ買い求めました。そして、会社に戻ってその本を開くと、目次の中から次のような項目が目に飛び込んできました。「雪の結晶には2つとして同じものはない」という項目でした。「これだ!!」と思わずつぶやきました。「雪も水ではないか、ならば水を凍らせれば必ず結晶ができるはずだ」と思ったのです。
 そして、MRAで波動を転写する前の水と、転写した後の水、もし結晶を撮影することができて、「同じ水の結晶がこのように変わった」と人に見せることができたら、「人は波動の存在を認識し認めざるを得ないだろう」。そのときのわたしは、この閃きになぜか絶対の自信を持ったことを覚えています。
「2つとして同じものはない」の意味をもう少し考えてくれていれば、「水からの伝言」みたいなトンチンカンな本は出版されずにすんだのかもしれない。たぶん、目次だけ見てわかった気になって突っ走ったのではないだろか。

 なお同じ趣旨のことが、「水は答えを知っている」のp.18にも載っている。ここでも、「ある日、一冊の本を何気なく開くと、こんな意味の見出しが私の目に飛び込んできました。」と書いてあり、見出しを見て結晶写真のことを思いついた、となっている。ホントに中身読んでないんじゃないか?

 その疑問は、「波動の真理」で解決した。最近「5次元文庫」なるトンデモ本を集めた文庫シリーズが刊行を開始し、本屋で平積みになっていたりするから見かけた方も多いだろう。
 そのp.207以降に『まだ科学が解けない疑問』を引用しながら書いている。長々と引用しているのだが、それ自体はマトモな内容なので、江本勝がいかに誤読をしているかを見るのには最後の部分だけお見せすれば十分だろう。孫引きになるが、江本が引用している形で『まだ科学が解けない疑問』の一部を引用しよう。文脈としては、科学者は実験的にある条件を与えるとどのタイプの結晶が成長するかを知るようになったが、なぜその結晶がその形をとるのかを説明することができていない、ということの説明のあとである。
 (略)しかし、おのおのの結晶が、たくさんのちがった方法で並べることのできる何兆という水の分子をふくんでいる。となると、二つの雪の結晶が同じになりうると考える人がいる方が、おそらくもっと驚くべきことだろう。「それは、なぜ二人としてまったく同じにみえる人がいないのか、と尋ねるのに似ている」と合衆国森林事業団の地質学者、リチャード・ソマーフェルドはいう。「本来の質問は、なぜ同じでなければいけないのかということだ」
つまり、雪の結晶は大量の水分子からなっているので、いくらでも結晶形の自由度はありそうなものなのに、実際には幾つかのある特定のパターンしかない。つまり、問題は、なぜいろいろな形があるか、ではなく、なぜ特定のパターンしかないのか、というべきである、ということである。言い換えれば、実験的に見つかっているいくつかの結晶形のパターンは、どういう条件(温度と水蒸気量)のときにどういうパターンになるかはわかったのだが、理論的に、その温度と水蒸気量を与えたらあるパターンになるということを導けていない、ということだ。
 で、江本はこれをおそろしいまでに完全に誤読し、正反対の意味にとっている。

 ここからわかることは、要するに、江本には文章読解力はない、ということだ。自分に都合のよい単語をピックアップし、自分で勝手に意味を付与しているだけなのだ。付言すれば、太田龍との対談が一見「成立」したのも、自分に都合のよいように相手の言葉を選択していたからなのだろう。

ポストモダン的構成主義教育論:今月の「物理学会誌」

 今月号(2008年3月号)の、日本物理学会が出している「日本物理学会誌」に、「シリーズ『物理教育は今』小特集:日本の理科教育の現状と問題点(1)-『小学校学習指導要領 理科』とその『解説』について-」という特集が載っている(来月も続く模様)。北村正直氏の「理科教育に何が起こっているのか?」と、兵頭俊夫氏の「現行(平成10年告示)小学校学習指導要領解説理科編の問題点について」である。

 小学校理科の学習指導要領に、構成主義がいかに悪さをしているかということが徹底的に批判されている(構成主義そのものではなくて、それに悪乗りしたような教育論に対して)。学習指導要領には「解説」というのがあるのだが(指導要領とは別に売っている。どちらも文科省が出している)、そこでは「科学の理論や法則は科学者という人間と無関係に成立する、絶対的・普遍的なものであるという考え方から、科学の理論や法則は科学者という人間が想像したものであるという考え方に転換してきているということである」と述べられている。これにより、「正しい科学の法則を積極的に教えることを否定している」指導要領ができあがっている。こういう教育論を、彼らは「ポストモダン的構成主義教育論」と呼び批判している。

 残念ながらネットで拾える論文ではないので、お近くの物理学会員に見せてもらうしかないのだが(大きい書店だったら売ってるかもしれない。昔、移転する前の渋谷のブックファーストには置いてあったような)、お持ちの方は読まれると面白いと思う。ちょうど、「粗雑な相対主義批判」への批判にもなっているだろう。

まずは、悩もう

信じぬ者は救われる/香山 リカ
¥1,470
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 というわけで、読みました。「信じぬ者は救われる」。
 ニセ科学やスピリチュアルの蔓延に「なんか変だ、このままでいいのだろうか」と思っている人にはとてもいい本だと思う。さらに言えば、「ニセ科学などを批判している人がいるらしい、でもネットをいくつか見てみたけど、もっとこう批判したほうがいいんじゃないか」というような、いわゆる「ニセ科学批判批判」を考えている方には特に読んで欲しい。ニセ科学を批判している裏で、どれだけ多くのことが、どれだけ深く考えられているのか、実感できると思う。

 kikulogのエントリ「香山さんとの対談」 できくちさんご本人が語っているように、「悩みはつきない」のであるが、悩みを共有するというのは、次のステップへの準備として重要なのだと思う。この対談でもあちこちで語られているが、ニセ科学にしろスピリチュアルにしろ、あるいは社会的・政治的な問題への態度にしろ、なにか共通するものがありそうで、それが現代社会を特徴づけているという側面もあるように見える。なので、色々な問題に共通する部分を「悩み」という形であれあぶりだしていくことは、問題を整理し本質的な問題に迫る有効な方法であろう(そして、こういうのが有効な「メタな議論」だ)。


 科学という営みは、「要素還元」と還元された要素の「総合」だ。この2方向の考察が繰り返されることで、自然や社会に対する理解が深まっていく。ニセ科学批判もそのように捉えることが出来る。個別のニセ科学に対する「ベタ」な考察と、個々のニセ科学に現れる特性を抜き出し法則性を見つけ出す「メタ」な考察とが絡み合い、理解を深めていく。その意味で、ニセ科学批判も科学的な営みだ。

 もちろん我々の置かれた状態は常に「悩ましい」のであって、すぐに答えが出るわけではない。たとえば簡単み見える「質量とはなにか」という問題だって、考えればよくわからない悩ましい問題なのだ。でも、問題を整理し、要素に分解し、問題の本質をあぶりだす中で、素粒子の相互作用として質量獲得のメカニズムが議論されている(まだ実証されていないけれども)。そこに至る段階で、「わかった」ことは沢山ある。「わかった」ということは、当初の問題への解決が得られたということではなく、その問題はどういうことなのか、どういう問題が絡んでいるのか、ということを理解したということであって、いわゆる「問題の切り分け」ができた、ということになろう。

 ニセ科学の問題だって、一足飛びに「こうすればいい」という答えなんか出るわけがないのであって、個別の問題を徹底的に批判的に検討し、各分野-自然科学に限らず、社会的政治的行動まで含めて-で特徴的に現れることを考察する中で、少しづつ理解していくものなのだ。そして、それは実際に行動していくなかで(ネット上で文章を書いていくのだって立派な行動だが)考える材料が得られ、深まっていくものだろう。


 この本の特筆すべき点の一つは、そのような「メタな議論」を展開しながら、ニセ科学批判の射程が潜在的にはものすごく広いことを示唆していることだと思う。おそらくは、この社会のありかたそのものと関わっている、ものすごく大きい問題の一つの表れなのだろう。

 なお、こちら(編集者が見た日本と世界) でこの本を編集された方のコメントが読める。