ほたるいかの書きつけ -68ページ目

後期高齢者医療制度の発想はひどすぎやしないか

 先日、勤務先で、後期高齢者医療制度の実施に伴い健康保険の被扶養者から後期高齢者を取り消すよう手続きをしてくださいとの連絡があった(75歳以上は別口になる。75歳以上だけじゃないけど)。なんというか、ニュースのコトバが物凄い実感を持って迫ってきた一瞬であったのだが、ちょっと調べたら厚労省の言い分が物凄い。
 共産党の小池議員による、「後期高齢者の特性は?」という質問に対する舛添厚労相の答弁。
特性として、第一に、老化に伴う生理的機能の低下により、治療の長期化、複数疾患への罹患(りかん)、特に慢性疾患が見られること。第二に、症状の軽重は別として、多くの方に認知症が見られること。第三番に、後期高齢者は、いずれ避けることのできない死を迎えることなどがあげられている。
 ちょっと無茶苦茶な性格づけじゃないか?こんな適当な理由で、75歳というところで rigid な線引きをされたらたまらんだろう。
 またその後に、こんなことも言っている。
何度も申し上げますように、一般的に、生活習慣の改善が困難だということもあり、予防効果が特定健診でどこまであるか。むしろ、クオリティーオブライフ(生活の質)を確保して、本人の“残存能力”とわれわれは言っていますけれども、残された能力をいかにするか。
 もちろん医療費をどうするかという問題はあるけれども(法人税が下がりすぎて大企業-なんか知らんけど景気がいいらしい-があまり税金納めてないとか、ゼネコン行政どうするとか、他にも問題は沢山あるが)、それはともかくこの認識は人としてどうかと思う。「残存能力」って、いったい何様だよ。

 まあ高齢者にも色々いる(若いのと同様に)けれども、長年生きてきて、その挙句にこれかい、と思うと、この国の将来に対して暗澹たる気分になる。

 なお質疑全文はこちら で読めます。

216万円当たったらしい(追記あり)

 先週のこと。グローバル・エスクロー・サービシズというカナダの会社から、公式積立資金支払通知というのがやってきた(電子メールではなく、紙の郵便である)。216万円の小切手が当たったので、通知及び手続き料金4500円と送料500円、しめて5000円を払え、と書いてある。
 なんつうか216万円やるから5000円払え、ってのがセコイなあ、と思うのだが、それが逆に信用させるのだろうなあ。
 しかし、これってペイするのかな。郵送料や印刷費で1部100円とすると、50人に1人が5000円払ったとしてトントン。この手のヤツに2%もの人が騙されるだろうか。それとも、書かせたカード番号から5000円どころじゃない多額の金を引き出すか、あるいは送ってきた人のリストを作り、どこかに高く売りつけるのか(カモリストだもんね、高く売れるよね)。

 検索してみたら、あちこちに送りつけているようで。
 かながわ中央消費生活センター が警告を発しているのを発見。ブツをスキャンしてPDFにして公開してくれているのだが、これこれ、うちとおんなじ。番号だけ微妙に違うけど(ちゃんと変えているのが逆に丁寧だなあと驚いたり)。
 「もうちょいちゃんとスキャンしてよ」と思わなくもないが、公開してくれているだけ良い。こういうセンターは重要ですよねえ(追々記:コメントで、hietaroさんから、ファックスの段階での画像の歪みでは、という指摘をいただいた。そうかも。ごめんよ、かながわ中央消費生活センターの皆様。第一義的に重要なのは、「公開した」ってことなので、とても大事な仕事をしていると思います)。

(追記)
 hietaroさん のところにも同じものが来ていることが判明。しかも3通。大金持ちだ。(^^;;;;
2通は別会社のもののようですが、しかし、ということは、よっぽど広範囲にバラまいているようですね。やっぱり、クレジットカードの番号収集が主要な目的かな。

実効的検閲の「成果」

 以前のエントリ で取り上げた、映画「靖国」について自民党の稲田朋美議員らが試写会を要求した事件の続報。映画館が一館、上映を取りやめたそうである(「世界の片隅でニュースを読む」 に詳しい分析)。こうやって「自粛」せざるを得ない「空気」を蔓延させることによって、事実上の検閲が可能になりうるということを如実に示している。
 重大な問題だと思うので、『朝日』の記事 を引用しておく。
「靖国」上映を中止 東京の映画館

2008年03月18日09時03分

 来月公開予定のドキュメンタリー映画「靖国」をめぐり、都内の映画館1館が、予定していた上映を取りやめることを決めた。「問題が起こる可能性もあり、総合的に判断した」としている。

 映画は4月12日から都内4館、大阪1館での上映が、配給・宣伝会社アルゴ・ピクチャーズと映画館側との間で決まっていた。取りやめを決めたのは、東京・新宿の「新宿バルト9」。運営会社ティ・ジョイによると、今月13日ごろに興行担当者で議論して判断。15日にアルゴ側に正式に伝えた。

 担当者は「(上映作品の)編成の調整がつかなくなった」としながら、「色々と話題になっている作品。問題が起きればビルの他のテナントの方への影響や迷惑もある。総合的判断」と話した。

 新宿バルト9は昨年2月にオープンした複合施設内にあるシネコン。ビルの下層には百貨店や飲食店が入居している。アルゴの担当者は「こうした大きな劇場でかかること自体が珍しいタイプの作品なので、非常に残念。上映自粛の動きが広がらなければいいが」と話している。

 思い出すのは昭和天皇死去の前後だ。ちょっとした町内の祭りでさえ「自粛」ということでバタバタと中止になっていった。「空気」というものは恐ろしい。

ソンミ村虐殺事件

 3月16日はベトナム・ソンミ村虐殺事件40周年ということで、現地で式典が行われたそうだ。
 「ソンミ虐殺 忘れない 40周年式典 日本の被爆者ら参加」(『赤旗』)
 この事件で思うのは、もちろん(当時の)アメリカ軍の横暴さなわけだが、その一方で、体を張って虐殺を止めようとした兵士もいたというアメリカ軍の懐の深さ(「元米軍ヘリコプター部隊のラリー・コルバーン氏」[記事より])。日本軍ではどうだったか、と考えると、色々考えさせるものがある。
 ちなみに彼と一緒に参加した被爆者の一人、沢田昭二氏は素粒子論の研究者(名古屋大の名誉教授)で、坂田門下の一人。原爆は物理学とは切っても切り離せない関係にあり、彼のような存在は重要だと思う。

 今回、(少しだけだが)調べて知ったのは、事件首謀者の小隊長・カリー中尉は、軍事法廷の4年後には仮釈放されていた、ということ。米軍が事件を隠蔽しようとしていたのは知っていたし、小隊長のみが有罪になったというのも知っていたけれども。
 折角なので、同じく『赤旗』の3年前の記事 から引用しよう。

 一九六八年三月十六日の早朝、ベトナム中部、クアンガイ省ソンミ村を米軍部隊がヘリコプターで急襲しました。村人たちは家々で朝食を準備したり、食事をしている最中でした。米軍部隊は各家を襲い、老人、女性、子どもを無差別に殺しました。壕(ごう)には手りゅう弾が投げ込まれました。近くの水路に集められ、機銃掃射で殺された人は百七十人にのぼりました。

 米政府はこの事件を覆い隠そうとしました。事件が明るみに出たのは一年半後の六九年十二月です。

 米国内外の世論の追及の前に、七〇年に開かれた軍事法廷は虐殺に関与した十四人を起訴しましたが、十三人は証拠不十分で無罪になりました。有罪判決を受けたのは小隊長のカリー中尉のみ。終身刑を言い渡されたものの、その後、十年の刑に減刑され、七四年三月に仮釈放されました。

 沖縄などで繰り返される米兵による事件を考えると、上層部からしてこの体質は何も変わっていないんじゃないかと思える。

 ところで、手塚治虫がソンミ村虐殺事件をモチーフにしたマンガをかいていましたね。「ブラックジャック」で。「魔王大尉」だったかな。最近刊行された「手塚治虫『戦争漫画』傑作選II」に収録されていましたね。これを読んで、あらためて、手塚は偉大だと思った次第。
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嫌われる相対主義:補足(というか蛇足というか)

 哲学にも色々あるけれども、グランドデザインというか世界観というのか、「この世界の成り立ち」まで話をつきつめると、結局以下の3つのうちのどれかを出発点にしているように思える(存在論ということになるのだろうけれども)。

  1.外界に絶対的な(非物質的な)存在がある
  2.外界に物質が存在する
  3.いまこれを考えている自分の意識だけが存在する

ほとんどの哲学の(「存在」というか「実在」が絡む)理論というのは、上の3つに分類できるのではないだろうか。例えばヘーゲルは1を出発点とし、2を導いた(というのが私の理解)。(弁証法的)唯物論は2を出発点にし、3→1を導いた(物質の集合体として脳が形成され、脳の機能として意識が生まれ、意識の産物として1を考えるようになった)、カントは2と3の中途半端なところでウロウロしている(いわゆる「物自体」を独立した客観的な存在として認めるかどうかだが、カントは「わからない」とする)。現象学も似たようなところで、意識に現れる表象だけを考えよ、その先は「考えるな」という思考停止の哲学なわけだ。
 いや、非常に雑駁な分類だということはわかってはいるのだけれども、しかし本質は外していないとも思うのだけれどもどうでしょうか。

 現象学にしろなんにしろ、思考の作法としての有用性はあるのだろうけれども、しかし存在論まで考え出すと、色々な理論が結局独我論になるのでは、と思う。「我思う故に我有」を出発点にする限りは、己の意識、それもいまこの瞬間の意識の存在しかどうやっても認められないだろう。過去の記憶さえ、それは意識の表象に上ってきた現象にすぎないのだから。

 だから、相対主義にしても、文化的相対主義なんかは別にそれはそれでいいのだけれども、そうではなくて、科学における相対主義を、現場における科学的思考に対する批判的分析以上のものだとするならば(つまり、たとえば実験データの解釈だとかにつきまとうバイアス的な誤りの分析にとどまるのでなければ)、結局(自然)科学の対象とする物質も人間の意識の表象に現れる現象でしかないということになり、実証的に自然を認識し理解していくという科学の営みを事実上否定することになってしまう。

 相対主義を擁護するひとにお願いしたいのは、そこの峻別をきちんとしてほしい、ということ。相対主義「的」発想の有用性を否定するものはほとんどいないと思うが、科学そのものを相対主義としてみなそうとすれば、そりゃ「違うだろ」と言われるに決まっている。

 ちなみに最初に挙げたようなことも、この世だとか意識だとか存在・実在について興味があれば、若い頃には一度は考えるものだと思う。そういう意味で、「大人なんだから」わざわざ書かんでも、と自分でも思う部分はあるのだけれども、まあそれに還元できない点も(展開しだいだろうけれど)あるかもしれない、と思いつつ。

 このあたりは私が考えている以上に進展している分野だろうから、論じるのはこれぐらいにしておきます。


 と、ここまで書いて、ふと伊勢田さんの「疑似科学と科学の哲学」にもなんか書いてなかったっけ、と思ってパラパラとめくって見ると、科学的実在論をめぐって少し触れられていますね。そのものではないけれども。買って読んだときは線引き問題の文脈で読んでいたので、すっかり忘れていた。(^^;;
 私の雑駁な理解では、昔の「相対的真理」と「絶対的真理」の関係はマクロ的な理解で、それを素過程で検証(というか論立て)していくのが現在に至る科学的実在論の議論で、いわばミクロ的な理解に相当する。無論、科学的実在論にも色々あるようなので、なんともいえない部分はあるのだろうけれども。
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