嫌われる相対主義:補足(というか蛇足というか) | ほたるいかの書きつけ

嫌われる相対主義:補足(というか蛇足というか)

 哲学にも色々あるけれども、グランドデザインというか世界観というのか、「この世界の成り立ち」まで話をつきつめると、結局以下の3つのうちのどれかを出発点にしているように思える(存在論ということになるのだろうけれども)。

  1.外界に絶対的な(非物質的な)存在がある
  2.外界に物質が存在する
  3.いまこれを考えている自分の意識だけが存在する

ほとんどの哲学の(「存在」というか「実在」が絡む)理論というのは、上の3つに分類できるのではないだろうか。例えばヘーゲルは1を出発点とし、2を導いた(というのが私の理解)。(弁証法的)唯物論は2を出発点にし、3→1を導いた(物質の集合体として脳が形成され、脳の機能として意識が生まれ、意識の産物として1を考えるようになった)、カントは2と3の中途半端なところでウロウロしている(いわゆる「物自体」を独立した客観的な存在として認めるかどうかだが、カントは「わからない」とする)。現象学も似たようなところで、意識に現れる表象だけを考えよ、その先は「考えるな」という思考停止の哲学なわけだ。
 いや、非常に雑駁な分類だということはわかってはいるのだけれども、しかし本質は外していないとも思うのだけれどもどうでしょうか。

 現象学にしろなんにしろ、思考の作法としての有用性はあるのだろうけれども、しかし存在論まで考え出すと、色々な理論が結局独我論になるのでは、と思う。「我思う故に我有」を出発点にする限りは、己の意識、それもいまこの瞬間の意識の存在しかどうやっても認められないだろう。過去の記憶さえ、それは意識の表象に上ってきた現象にすぎないのだから。

 だから、相対主義にしても、文化的相対主義なんかは別にそれはそれでいいのだけれども、そうではなくて、科学における相対主義を、現場における科学的思考に対する批判的分析以上のものだとするならば(つまり、たとえば実験データの解釈だとかにつきまとうバイアス的な誤りの分析にとどまるのでなければ)、結局(自然)科学の対象とする物質も人間の意識の表象に現れる現象でしかないということになり、実証的に自然を認識し理解していくという科学の営みを事実上否定することになってしまう。

 相対主義を擁護するひとにお願いしたいのは、そこの峻別をきちんとしてほしい、ということ。相対主義「的」発想の有用性を否定するものはほとんどいないと思うが、科学そのものを相対主義としてみなそうとすれば、そりゃ「違うだろ」と言われるに決まっている。

 ちなみに最初に挙げたようなことも、この世だとか意識だとか存在・実在について興味があれば、若い頃には一度は考えるものだと思う。そういう意味で、「大人なんだから」わざわざ書かんでも、と自分でも思う部分はあるのだけれども、まあそれに還元できない点も(展開しだいだろうけれど)あるかもしれない、と思いつつ。

 このあたりは私が考えている以上に進展している分野だろうから、論じるのはこれぐらいにしておきます。


 と、ここまで書いて、ふと伊勢田さんの「疑似科学と科学の哲学」にもなんか書いてなかったっけ、と思ってパラパラとめくって見ると、科学的実在論をめぐって少し触れられていますね。そのものではないけれども。買って読んだときは線引き問題の文脈で読んでいたので、すっかり忘れていた。(^^;;
 私の雑駁な理解では、昔の「相対的真理」と「絶対的真理」の関係はマクロ的な理解で、それを素過程で検証(というか論立て)していくのが現在に至る科学的実在論の議論で、いわばミクロ的な理解に相当する。無論、科学的実在論にも色々あるようなので、なんともいえない部分はあるのだろうけれども。
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