嫌われる相対主義 | ほたるいかの書きつけ

嫌われる相対主義

 最近(に限らないだろうけど)、複数のブログで相対主義の立場からのニセ科学批判批判を見かけたことと、少し前のこのエントリ で取り上げたように学習指導要領に相対主義的な考え方が持ち込まれているので、少し考えてみた。

 ブログなどで発信している人々にとっての相対主義の出発点は、どうも文化的、社会的な面での相対主義のようだ。要するに特定の社会や文化が優れているなんてことはなくて、それぞれの立場によるものだ、と。これについては、ある程度は納得できるし、相対主義なんて言い出さなくても、(例えば)価値観の相対化、なんて言い方もできるだろう。つまり視点を変えて見てみなさいよ、と。
 こういう発想って、しかしある程度科学について考えたことのある人ならば(科学というものについて、という意味)、大なり小なりわかっているんじゃないだろうか。ポストモダン的な、とか、社会構成主義、とまでいくと、同意できない部分も多々あるだろうけれども、見方としては大事なことだと思うし、それについて異論を挟む人はほとんどいないだろう(ま、このあたりについても色々言いたいことはないわけではないのだけど、それは今回はおいておく)。

 ではどこで意見の対立(対立にもなっていないのかもしれないけど)が生じるのか?おそらく、相対主義を擁護する人々が、存在論まで相対主義で議論しようとするからなんだと思う。ここに、ニセ科学に批判的な人々と、それに批判的な人々との差異があるように思う。
 通常、(少なくとも自然)科学では、人間とは独立に(客観的に)自然が存在し、事物の運動にはなんらかの法則性があると想定している。人間の活動(「科学」ですね)はその法則性を明らかにしていくものであり、まさに人間の営み、だ。ところが人間の認識は完全ではなく、いろいろと制約があるため、すぐに自然をそのままの形で認識できるわけではない。その時代の技術や思想に制約され(さらには個人的事情にもよるだろう)、不完全な形で自然の法則性を認識し、それを法則化する。時代がすすみ、制約が弱くなってくるにつれ、ニュートン力学から一般相対性理論へ、あるいは古典物理から量子物理へと、人間が打ち立てた法則は過去の法則を自然への近似として包含しつつ適用範囲を広げ、より「真理」へと近づいていく。
 こういう科学の営みは、ある程度科学を理解していれば誰でもわかることだろう。だから、現在の科学が完全だなんて思ってやしないし、まだまだ未知の世界が広がっていて、それを明らかにするために科学者は日々研究を重ねているわけだ。現在我々が手にしている(物理)法則も、自然のある側面を確実に反映してはいるけれども、完全に記述できているわけではない、と。

 ここで、相対主義を濫用する人々は、どれだけ自覚しているかは人それぞれだろうけれども、人間にとっては人間に認識されたものがすべてで、それ自体、つまり現象のみが人間にとってのカッコつきの「自然」なのであり、また人間の認識には常に制約が伴う以上、得られた科学的知識も相対的なものなので、立場が変われば「真理」もまた変わる、と、こう言うわけだ。
 無論、ここには濃度差があって、水伝にしろマイナスイオンにしろ、「科学」も「ニセ科学とされているもの」も相対的なのだから「ニセ」と言って批判するのはおかしい、という人から、ニセ科学はニセ科学でどんどん批判するべきだけれども、批判する人は科学の相対性をわかってんのかね?という自称中立君的な意見を表明するだけの人まで様々だ。だけれども、結局そのように主張することは、科学が相対的にしろ実証的に真理を明らかにしていくプロセスであるということを無視する、少なくともその意味を低める方向で批判していることになる。

 で、その手の主張は、さらに展開していくと、どうしてもいま学習指導要領で問題になっているように、自然界の法則性の認識というものを軽視し、子どもが認識した世界内での自然の理解を重視する、という方向になるのだと思う。
 科学に携わっている人々からは(全員とは言いませんが)、その流れが多かれ少なかれ見えてしまうので、直感的に「それはまずい」と批判するのでしょう。

 だから、相対主義を擁護する人々は、どういう相対主義を擁護したいのかを明らかにしてくれれば、多くの場合は妙な議論にならずに建設的な方向で議論を進められるのだと思うのだけれども、存在論的な部分までごっちゃにして相対主義を展開されたら、そりゃ批判されても仕方がないよな、と思う。

 もっとも一つ気になるのは、相対主義を擁護する人にとって、その区別は重要だとはひょっとして思ってないんじゃないか、ということ。つまり個々人の認識のみを出発点にするならば、自然の認識も文化の捉え方も同レベルである、となってるのではないか、と。そうだとするならば、相対主義の問題はより深刻で、もっと徹底的に批判されないといけないのではないか、と思う。

 ポストモダンの流行以降、こういう相対主義的な発想が蔓延しているけれども、しかし歴史を振り返ってみると、こういうのは昔もあった。20世紀初頭、物理学者のマッハらを中心に「電子などというものは作業仮説であって実在のものではない」というような(うろ覚えなので正しくないかもしれませんが)主張がなされ、また科学論でもゴリゴリの論理実証主義が台頭したりということがあったわけだ。それに対して多くの科学者が電子(などの素粒子)の実在を主張し、物理学を発展させて行ったし、哲学的にもその手の認識論を踏まえた上で唯物論も深化していったわけだ。
 だから、大局的には「歴史は繰り返す」をやっているのではと個人的には思っている。思ってはいるのだけど、さてどうやって克服しようかというと難しくて、結局地道に批判していくしかないのだけれども。
 もうはるか昔の学生時代に齧った程度なので忘れかけているけれども、認識論を踏まえた上での「真理」というものは「絶対的真理」と「相対的真理」、及び人間の「実践」による検証過程という形でまとめられていたはずだ。

 ではなぜそうやって毎度毎度相対主義に「かぶれた」人々が出てくるのかというと、おそらく(個人的な印象ですが)、子どもの頃はずっと素朴実在論でやってきたのに対し、ある時期、気づいちゃったんだと思う。人間の認識には制約があって、外界そのまま認識しているわけではない、と。その衝撃を引きずって今に至る、と勝手に思ってるんですが、どうでしょうか。
 だから、そういうものを考えたことがある人は必ず通る道だともいえるので、その意味では相対主義ってのは眺めてて微笑ましい部分もあるんだけど、しかしそうはいってもいつまでも放っておくわけにもいかないので悩ましいところ。その衝撃をきちんと克服できるといいんでしょうけれども…。

 学生時代に古本屋で買ったものの、途中で挫折して最後まで読めなかった哲学書って何冊かあるんですよね。久々に読んでみようかな。

(追記)
こちらのエントリ で取り上げた北村正直氏の別の文章がネットで読めます。「数学のいずみ」
特に、「反科学・反理性と科学教育」 と、「なぜ科学教育は必要か」 はおススメ(2001年、2000年と少し古い文章ですが、意義は変わりません)。