ドラえもん…ん?(追記あり) | ほたるいかの書きつけ

ドラえもん…ん?(追記あり)

 ついでにもう一冊、気になっているものを。
2112年9月3日、ドラえもんは本当に誕生する! (ソフトバンク新書 49) (ソフトバンク新書 49)/桜井 進
¥735
Amazon.co.jp
 私は小さい頃よりのドラファンであるのだが、端的に言って、この本には失望した。期待しただけに失望も大きかった、という部分もあるのだが、内容もまずいだろう、という点がいくつもあって、ドラをダシにこういうのを書かれるのはなあ…という気分。

 なにが問題かって、かなりニセ科学的発想が入っているのですよ。量子力学の解釈なんてかなり強引で、むしろ「シンクロニシティ」的、というか。
 いわゆる「波動関数の収縮」ってやつですが(とりあえずコペンハーゲン解釈;ちょっとマニアックになってしまいすいません)、この著者は、そこに「心」を絡ませたくて仕方がないらしい。少し引用しよう(p.100、太字による強調は引用者)。
 星の観測とは、過去の確認です。遠い宇宙の光が何万光年の時を経て今やっとキャッチされます。この瞬間、その星の存在、つまり宇宙の存在が確定されるのです。
 これを「宇宙原理」といいますが、この原理に真っ向から反対したのがアインシュタインです。アインシュタインは、確認しようがしまいが、あるものはあるのだという「唯物論」に近い「素朴実在論」という考えでした。
 アインシュタインが量子テレポーテーションを絶対に信じなかった理由は、ここにあります。唯物論的な発想からすれば、観測したものがここもあそこも同じということはあり得ない事実です。
 おそらく彼の哲学もあったのでしょう。こういったところに、じつは、科学の知識ということ以上に心の問題が介入してきます。
 このような、「人間が観測したから存在が確定する」というようなフレーズは、この本の随所に登場する。

 極めつけは、これだろう(pp.67-68)。
 月はもともと、宇宙空間にあるものとして、私たちは学校で教えられてきました。しかし、Ψが大活躍する量子力学の世界では、誰かが月を見て、「月がある」と思えばΨによってリアリティがつくられ月が存在します。誰一人として、月を見なくなってしまえばΨはリアリティをつくらず、月の存在そのものがなくなってしまうのです。
 (中略)
 それにしても、Ψがもし『ドラえもん』の世界で登場するとしたら、藤子・F・不二雄氏はどんなタッチで描き出してくれることでしょう。
 (中略)
 (プサイ君と会話できる、引用者注)その言語は日本語でも英語でもありません。言葉で話すのではなく、心で話すからです。
 心は目には見えませんが、心で思うことによって私たちは形あるいろいろなものをつくり上げてきました。見えないものから見えるものが生み出される。これが、量子力学でいう「波動方程式」として説明されるようになったのです。
 あきらかに唯物論とは違う、心を伴うサイエンスといえます。
なおこの前の章で、「『宇宙の素』は波動関数『HΨ=0』で製造」と著者は述べている。ここでHはハミルトニアン(エネルギーに関連する演算子、Ψは波動関数である。まあ唐突にこんなところで述べられても、という感じで登場するので、この本の中では「おまじない」あるいは「お経」以上の意味はないのだが、とりあえず量子力学の象徴のような形で書かれている。

 さて、ここで描かれているのは、量子力学のかなり特異な解釈だろう(もちろん、量子力学を勉強したての頃は、一度はこんなことを考えてみたりもするものだが)。「シュレーディンガーの猫」と同じで、観測するものがなければ波動関数は波のままで古典的*1 なマクロな物体にならない、というわけ。なにが変かって、「人間」による観測だけが絶対視されている、という点だ。誰一人見ていなくても、猫は見ているかもしれない。鳥も見ているかもしれない。いや、生物と無生物を分ける意味があるのだろうか。月からの光を受けた地表の石ころだって、立派な観測者だろう(これは難癖をつけているのではなく、たとえば望遠鏡にセットされたCCDカメラを考えてみれば同じことだとわかるだろう。CCDカメラは人間ではないが、望遠鏡を月に向ければ、確実にカメラは月を撮影してくれるのだ)。
 無論、量子力学の観測問題はまだ解決したわけではないし、様々な解釈を考える余地はある。しかし、いまどき人間のみを絶対視する立場はどう考えても変だろう。こういう立場を首尾一貫させようと思えば、なんらかの「存在」によって人間を特別な存在とするか(進化論との関係はどうするのだろう)、独我論的立場に陥るかのどちらかになるのではないか。そんなことより、マクロな物体は人間の存在とは関係なく古典化*2 するのだというのが自然な解釈だと思うのですが(いわゆるデコヒーレンス)。もちろん、これだって確立したものでは全然ないけれども。
 さらにこの後段の文章を読めば、著者は「心」をなにか特別な「存在」であると考えているように読める。心で思ったことが伝わるということを言いたいのだろう?ほとんどニューサイエンスだ。ここで「『波動』方程式」を出したり、唯物論をわざわざ名指しして攻撃するあたり、色々と思い当たるフシがありますよね(後述)。

 さらにツッコんでおくと、p.109には、藤子・F・不二雄が「科学でも解けない謎」を示していることを賛美した上で、
 科学者の中には、これとは反対に、超能力などの説明できない現象を即座に否定する人たちも多くいます。何を根拠に「あり得ない」と断言しているのか、とても不思議に思ってしまうことがあります。
とも述べている。いや、問題なのはそういうことじゃないだろう。藤子・F・不二雄は、お話として超能力をふんだんに取り入れつつ、フィクションとしてのその合理的な説明にもとても心を砕いた人だったと思う。著者が言うような、そんな簡単なことじゃないと思うんだが。

 「タケコプターは小型UFOだった!」(p.24)の中では、「UFOは、重力をコントロールして、逆重力を発生させて飛んでいると考えられます」(p.27)ってなあ。無論マンガの中の話だし、原理がどのようなものか考えてみるのはとても楽しいことではあるのだけれど、このUFOについてのコメントは、洒落になってない。著者がどう思っているかはともかく、本気ととられても仕方がない書き方だと思う。

 こんな感じで、この本は量子力学と心の関係を陰に陽に臭わせつつ、ドラえもんをダシに好き勝手なことを述べまくる。読んでてイヤ~な感じが湧いてくる。
 イヤ~な感じはこれだけでも伝わると思うのだが、実は、この本をはじめから読むと、のっけからとてつもない不安感に襲われることになる。「プロローグ」の中に、「テクノロジーとフィロソフィが合体した本物サイエンス」(太字は引用者)という節があるのだ。「本物」サイエンス!船井じゃんよ!!
 
 この著者が船井幸雄と関係しているかどうかはわからない。しかし、内容的にはつながっていると見ていいだろう。量子力学の悪用の仕方といい、困ったものである。
 ちなみに作者は「サイエンス・ナビゲーター」という肩書きを持ち、現在は東工大の世界文明センターのフェロー、ということだそうだ(東工大の数学出身)。いや、困りましたねえ。皮肉めいた書き方をするなら、「物理学の心がわかってないよ」ということになるのだが…。

 ま、「もっとドラえもんを読みましょう」というのには強く同意するのですが。(^^;;
 しかし、この本読むなら、方倉陽二の「ドラえもん百科」の方が100倍面白く、100倍科学的興味を湧きたてられると思うなあ。あれは不朽の名作ですよ。Amazonで見たら、古本でいい値がついているようですが、はるかにオススメ。

(追記)

*1 量子力学に特徴的なことの1つは、いくつかの「状態」が重ねあわされている、ということ。例えば「シュレーディンガーの猫」ならば、箱の中の猫は「生」と「死」の二つの状態の重ね合わせになっていて、観測するまで「生」か「死」かは決まらない、とされる。「観測」によって-なにをもって観測というかは別にして-そのような量子力学的状態から、どこかで日常的な世界、つまり古典力学で記述されるような、これはこれ、あれはあれ、と指定できるような状態、「古典的」な状態に遷移する。と考えられている(通常は)。

*2 で、そのように量子力学的状態から古典的状態へと遷移することを、よく「古典化」と言う。