連載小説 ~物語で愛を描こう~ -3ページ目

生きる。

蓮




生きていて良かった


生かされていて良かった


あなたと出会えたから――






って、そんなことを言ってみたい。

言われてみたい。

薄明の世界 第十二話

「恨めしいお人。和尚のところへ行ったのですね」




 どこからともなく現れた綾は、布団の中で目を閉じている宗弦にそっと話しかけた。首筋をすっと触れられ、宗弦は思わずびくりと身体を強張らせる。意識があることは知られているだろう、綾はふっと笑った。目を開けていなくとも分かる。


 綾は、自分にしっかりと意識があることを分かっている。


 からかっているのだろうか。宗弦は、自分自身の目の前に現れることすら、からかわれているような気がしてきた。恨みつらみは短い時間で収まるほど単純なものではなく、時をかけて絡まり続け、それは複雑に巻かれた解くことのできない糸のようなものだ。


 解くことなどできるわけもないし、宗弦自身、解こうとも思っていない。


 自分を分かってもらおうなどと、甘い考えはない。ただ、忘れてさえくれればそれでいい。むしろ、それが最も難しいことなのかもしれないが。




「あのご老体をあなたはいつまで苦しめるおつもりですか?」




 宗弦は怒りを隠せずに目を見開き、無言で綾を睨みつけた。

 

 怒りに身体が震え、掴みかかれるものならばそうしたいと強く思った。

 

 布団の中では、拳を強く握り締めて生ぬるく、すべるような感覚が両手にじわじわと現れ始めた。

 

 宗弦はここでふと、冷静になるよう自らに言い聞かせた。


 我を忘れて怒りに身を任せ、人を憎むことは、誰にでもできる。

 

 だが、感情のままに流されず、弊害をこうむったとしても流水のごとく、ゆったりと平然とすることは容易なことではない。


 そう接しなければならない。

 

 そうならなければ、自分自身のためにもならない。




「親は子を思う。子は親を思う。何が悪いと言うのだ。そのことが苦しめることだとすれば、私は喜んで和尚を苦しめよう。喜んで、憎まれよう。それは、おまえにも言えることだ」




「戯言でございますね、宗弦さま。私があなたさまを苦しめていることをお忘れですか」




「それが、私にとって喜びとなる」




 嘘だ。



「私はあなたさまが憎い。苦しめて差し上げたい。それが喜びと申されるのですか。それならば、あなたさまは今でも私を愛してくださりますか?」




「それはできぬ。私は生者、おまえは死者だ」




「本当に恨めしいお人。殺して差し上げたくなる」




「それすら、喜びだ」




 嘘だ。


 喜びなど、得られるはずがない。とうに棄てた感情だ。




「ならば、ご老体を……」




「やめろ!」




 その時、すでに綾は消え去っていた。

薄明の世界 第十一話

 おい、待てよ!


 一体、何だってんだ!


 やっぱりてめぇらは用済みの人間を消すような輩だったって訳か?


 冗談じゃねぇ、殺されてたまるか。


 こちとらようやく、宗弦って坊主の所在を突き止めたんだぜ? それだってえらい苦労してんだ。


 てめぇらがどんな手を使って宗弦って坊主を見つけたか知らねぇが、こっちは命削ってやったんだよ。


 それぐらいの努力を認めたっていいじゃねえか。


 くそっ! 聞く耳持たねえってことか。


 どこまでも逃げてやる。


 綾だと?


 そんな女、知るわけねえだろ。


 ったく、俺がてめえらに何をしたって言いやがるんだ。


 おいおいおいおい、冗談じゃねえってんだ。腰のもので俺を斬りつけようって魂胆かい。


 おい、やめろ。やめろー!!


 ぐああああっ! ぐっ……ちきしょうちきしょうちきしょう。


 ちきしょう!!


 覚えてやがれ!


 絶対に、その顔は忘れねぇぞ。


 悪霊だろうが、僧だろうが、大名だろうが皆殺しにしてやる。


 俺が死んだら呪ってやる!!


 こちとら、もう失うものは何もねえんでい。てめえらの大事なもの一つずつ奪っていってやる。


 覚えておくといいや。


 この、石田の佐吉様を敵に回すと、どれだけ痛い目に遭うかとことんその身体に叩き込んで見せらぁな。


 お殿様――おおっと、秀重さまに言っときな。


 あんたが飼いならした男は、あんたがそれこそ大事にしているもん全てを奪いに行くってな!


 俺の腕を斬りおとした代償はでけぇぞ……殺してやる、殺してやる、殺してやる。


 てめえら全部、ぶっ壊す。


 綾の所在を教えろだと? 

 

 だから、綾なんてぇ女は知らねえって言ってんだろうが! 


 これが濡れ衣なら、こちとら覚悟はできてるんでい。


 命張った男の生き様、とくと見やがれ!

所用で

二日間、更新が途絶えたことをお詫び申し上げます。

絶えず、このブログをご愛顧していただくために精進してまいりますので

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。


薄明の世界 第十話

「済まなかった。このような真似をするつもりなど、毛頭なかったのだが、少し事情が込み合っていてな。結果的にそなたの怒りを買うようなことをしてしまった。本当に申し訳ないと思っている」




 決して落ち着いた色とは言いにくい群青色の羽織袴で、背中の中心に扇を象った家紋が施されている。この辺りを領地としている沖浦家の家紋が、扇形だった。だからこそ、後姿しか見えないこの羽織袴の人物が沖浦家の当主であるとすぐに分かった。


 沖浦秀重――。


 弱冠十九という若さで当主となった人物でありながら、類まれなる努力と精神力を用いて家臣を率い、三十五歳となった今では名君として世に知られているほどだった。そんな名君と呼ばれる当主だからこそ、宗弦は憤慨を隠し切れなかった。




「どのような事情がおありか存じませぬが、見下げた行動――もはや、愚鈍としか言いようがございませぬ」




 宗弦の言葉を挑発と受け取り、沖浦秀重の護衛の一人が刀の柄に手を伸ばし、今にも抜かんとばかりに鋭い視線で睨みつけている。




「よせ。宗弦の言うとおりだ。それもこれも我が愚かなる家臣の一人が、戯けたことをしたばかりに、このようなことになったのだ。怪しい男に金を渡して、そなたを捜させたそうだ」




「それとこれとどのような関係があるというのです」




 宗弦は食い下がらなかった。


 自分でも不思議に思うくらい、目の敵にしている。




「町人風の男だそうだが、怪しすぎるのだ。名を石田の佐吉と言ったか。このような大それた名前を付けるなど言語道断。すぐさま、その石田の佐吉とやらを捕らえようとしたのだが、見つからぬ有様。そして、我が沖浦家に巣食う悪霊――何故か胸騒ぎがしてな。急遽、私が出向くことにしたのだ」




「石田の佐吉とは大層ですね。しかし、その胸騒ぎは空振りのようです。私はこの通り無傷。ご心配はありがたいですが、自分の身は自分で守ります。例え、破戒僧の身であっても」




「くれぐれも気をつけてもらいたい。それから、我が沖浦家の悪霊払いを依頼したい。今すぐにでも出向いてもらって払ってもらえればありがたいのだが、そなたにも準備というものがあろう。考えておいてくれ」




「分かりました」




「我が沖浦家の亡霊は綾ではないかと思っている」




「そうでしょうね。そうでなければ、私のところへ依頼に来るはずがない。ただの悪霊払いならば、比叡で修行を積んだ高僧に頼んだほうが正確です」




「そなたの力も相当なものだと聞き及んでいるぞ。謙遜することはない。それでは、邪魔をした。今日の侘びを後日したいと思っている」




「お忘れになられませ。ただ、二度となさらぬようにお願いいたします」




 丁寧な言葉の中に、宗弦ははっきりとした意思をもって応えた。


 いくら金目のものが自分の家の中にないとは言え、土足で踏みにじるような真似をされるのは、二度と経験したくはない。


 もし、綾が姿を現せば、話はややこしくなるばかりだ。


 この長屋には誰も入れたくはない。


 沖浦秀重とその家臣たちは、早々に宗弦の長屋から出て行った。


 宗弦は一息つく。


 そして、もう一つ探らなければならないことが見つかったことを知った。いい加減、嫌気が差してくるところだが、放っておくわけにも行かない。


 綾をこのままにしておくわけにはいかないのだから。




「石田の佐吉……馬鹿げた名前だ。太閤殿が崩御されて、どれだけの時間が流れているか知って言っているのか?」



 宗弦は声を上げて笑った。

 

 久しぶりに、心から笑っていた。


 石田佐吉。


 太閤、豊臣秀吉に仕えた、治部少輔・石田三成のことに違いない。


 ただただ、宗弦は笑った。


 洒落にもならない。


 まだ見ぬ現在の石田三成を思って、笑っていた。

薄明の世界 第九話

 宗弦が長屋へ戻った頃には黄昏時だった。空は朱色に染まり、雲が優雅に泳いでいる。夏の虫が高らかに美しい旋律を奏で、暑さを一層強く思わせる。


 異様なまでの暑さは不思議でさえあり、その異様さはこの場所に似合わぬ人間、物があるからだ。


 もの苦しく、鋭い目つきで辺りを見回す侍。


 家紋付の煌びやかな輿。


 長屋の住人たちも、一様に表に飛び出してぴりぴりとした緊張感に身を浸していた。


 宗弦は一度、歩を休めた。長屋の住人の一人が近づいてきたが、宗弦は無意識に手を上げて制してから自分を納得させるように静かに、頷いた。そして、散々見慣れたはずの狭い部屋の中へ――長屋の一角に過ぎない薄い壁一つで区切られたその中へと入っていく。


 質素な造りの障子張りになっている入り口から入ると、正装をした侍の後姿が見えた。




「人の家に勝手に入り込むとは無粋としか言いようがありませんね。それとも、お殿様は下々の者に意見を言わせることをお許しにならないようなお方なのですか?」


 そこにいるのが、沖浦家の当主であることはすぐに分かった。それと同時に、宗弦は憤慨を隠せずにそのまま感情を口に出した。

薄明の世界 第八話

 若い僧を見なかったか、だって?


 おいおい、この辺には寺なんてひとつしかねぇんだよ。どこにあるかだって?


 そんなもん、自分で、探せよ。


 せっかく昼寝してたってのにわざわざ起こした挙句にくだらねぇこと訊くもんじゃねぇ。


 そりゃ、野暮ってもんだぜ。


 知らないなら、いいだと?


 ちょっと待てよ、そこのお侍。おいらを誰だと思っていやがる。


 この辺じゃ有名な佐吉ってもんだぜ。知らねぇ? そりゃそうかもな。


 あんたみたいな身なりのお侍の耳にまで入っていたら、おいらはとっくに首が飛んでるぜ。


 馬鹿言ってんじゃねぇ、すりでもねぇし火付け盗賊でもねぇやい! 


 こう見えても身は潔白なんでい!


 この辺のことなら、何でも知ってるぜ。だが、タダで教えるわけにゃいかねぇなぁ。


 ほほう、金なら幾らでも払うと来たか。そうこなくっちゃな、お侍。


 あんたぐれぇの身分のお侍なら、気前がよくなくっちゃいけねぇや。


 若い僧のことを教えてくれってか。


 さっき、何でも知ってるたぁ言ったが、その坊主のことは何も知らねぇな。


 だが、調べてやってもいいぜ?

 もちろん、報酬は割り増しでなきゃ、やらねぇがな。


 よし! 交渉成立だ。


 捜してやるぜ。


 宗弦という坊主だな?


 どうも辛気くせぇ名前の坊主だな。


 見つけたらどうするんでい? 


 ……分かった。気は進まねぇが、行ってやる。


 しかし、大名屋敷とはねぇ。


 間違ってもおいらをその刀で殺そうなんて真似しやがるなよ? 


 なぁに、すぐ見つけ出してみせらぁな。


 心配しねぇでお侍はどこかで酒の一杯でも引っ掛けてから帰りなよ。


 さっそく、捜してくるぜ。


 あんたのお殿様によろしく言っときな。


 この「石田の佐吉」が必ず、見つけ出しておくから覚悟しておけってな。


 まぁ、この名前は頂き物だが気に入って使ってるんだ。


 頂いた本人ぐれぇ、でっかくなれりゃ俺もせいぜい贅沢な暮らしができるってもんだがな。


 おっと、話がそれちまった。


 大船に乗ったつもりで、胸張って待ってろや。


 ちょっくら行ってくらぁな!

閑話休題

このブログを立てて10日目になりました。

早いものですね。

思えば、自己紹介すらしていないことに気がつきました。

このブログを開いていただいている、私にとってとても貴重でありながらありがたい人たちの中には、私のことを熟知していらっしゃる方もいるかもしれません。

一言で、自分を評するとすれば



アホ



です、はい。


人間観察をしていても、変なことを考えています。

風景などをぼーっと、見つめている時でも変なことを考えています。

変なことといっても、下品なことではないですよ。


自分は、小説のネタがうかぶのはお風呂に入っているときが殆どです。

しかも小説のことは一切考えていない時ですね。

何気なしに新聞を読んでいる時、雲を見つめている時。

頭を使っていない時にふと浮かぶことが多いようです。

今回、ここで書いている物語も、実は塀の上で優雅に歩く猫を見て書き始めました。

支離滅裂でさえ感じるかもしれませんが、おいおい分かっていくのではないでしょうか。

実際、自分は猫よりも犬好き。

けれど猫のほうが少し神秘的というか――不可思議な気がします(行動自体ということかもしれませんが)

そのためか、自分の小説に猫が登場するのが多いですね。

しかも、黒猫ばかり。


何故、黒猫が好きなのか。

分かりません。

なんせ、アホなので(違)


好きなものは、好きでいいと思います。

理由なんて必要ないと言ってもいいかもしれません。

嗜好に関しての理由は、特殊なこだわりがない限り、とってつける事だって可能ですから。


私は、黒猫好き

それでいいのです。

薄明の世界 第七話

 再び、禅清寺の門をくぐる。


 八年前、禅清寺を飛び出したことを僅かに思い出した。何の前触れもなく、何も知らせず、宗弦は禅清寺を飛び出した。


 あの時は、何も無かった。


 手にするものも、身につけるものも、無くすものもなかった。だからこそ、ここを出て行くのは容易だった。


 短絡的な考えだけで飛び出したことを、今なら後悔することができた。

 出て行かなければ、和尚の元で修行していれば違う道があったのだろう。少なくとも、絶対的な確率で今よりは明るい現在だっただろう。


 綾とも出会わなかった。


 綾の亡霊とも再会することもない。


 僧として、今より輝かしく賢明な人間になっていたはず。


 宗弦は思わず踵を返して禅清寺の門を懐かしく見つめた後で、深々と頭を下げた。




「お世話になりました」




 八年前に言えなかった言葉を、ようやく口にした。


 もう二度と、この門をくぐることはできないだろうと、うすうす感じながら。


 宗弦は振り向いて二度と凝視することはできないだろう禅清寺の門と別れた。 


 長屋へ戻る途中、宗弦は一匹の黒猫を見た。


 どこか見覚えのあるその猫は、睨むようにじっとこちらに視線を向けていたが、しばらくするとそっぽを向いてどこかへ消えていった。


 黒猫と出会うのは、縁起が良いとは言えない。


 宗弦は嫌な予感を払拭できないまま、長屋へ戻っていく。


 長屋へ戻るために必ず通る、小さく狭い路地に、ぽつんと寂しげに建つ飲み屋がある。


 酒が一切呑めない宗弦は、今まで見向きもしなかったが、今日はふらりと立ち寄った。




「いらっしゃい。あら、宗弦さんじゃない。今日は珍しい人ばかりが来る日ね」




 同じ長屋に住む、お涼。


 飲み屋で働く二十歳の女で、明るく気前が良い。

 

 飲み屋に訪れる男たちは、お涼目当てで訪れることが多いという。


 一人、長屋に住む宗弦は、このお涼に毎日の食事を作って持ってきてもらっている。宗弦にとってなくてはならない人だった。




「済まないね。少しお酒が呑みたくなって。それより、珍しい人ばかりとはどういうことだい?」




「沖浦家のご当主がいらっしゃったのよ。宗弦という男がこの辺に住んでいないかって訊かれたから、長屋の場所を教えたの」




「いつの話?」




「たった今よ。呑めないお酒は後にして、長屋に戻ってみたほうがいいと思う」




「分かった。ありがとう、お涼さん」




 宗弦は飲み屋の暖簾を乱暴にたくし上げて、小走りで長屋へと向かった。

薄明の世界 第六話

 宗庵和尚の目は穏やかだった。その澄み切った目は、年齢をも忘れさせる。一転の曇りもなき眼に見つめられて宗弦は何故か、安心感を覚えた。


 父のような……いや、父の目だった。


 孤児だった宗弦にとって、宗庵和尚は血の繋がりがない肉親だった。




「何でも知っておるよ。わしの元から離れたその時から、使いの者を出してはおまえに何事もなきよう、見張っておったのよ。死んでもらっては困る。この世から消えてもらっては困るのだ。未だに、わしはおまえをこの寺の跡継ぎにと思っておる」




「何故、私にそこまで気をお使いなさるのです」




「他の小坊主らは孤児でありながら、わしに引き取られることで孤独を忘れてしまったのだよ。しかし、それではならんのだ。孤独から逃げては何の解決にもならぬ。孤独を知り、孤独を打ち破り、孤独を乗り越えなければならぬ。何度教えても、駄目だった。だが、おまえはわしが教える以前から、そのことを知っているかのようだった」




 孤独を打ち破ったことなどないと宗弦は口にしたかった。

 

 だが、宗庵和尚の自分への期待を裏切ることも宗弦にはできなかった。




「息子よ、帰っては来ぬか。わしもそう長くはない。しかしこの寺をなくすのも惜しい。おまえにこの寺を継いでもらうのが、わしの願いだ」




 宗弦は黙り込んだ。声が出なかった。出せなかった。


 少しでも出せば、嗚咽のような情けのない声が出てしまう。それと同時に、とめどなく涙が流れるだろう。


 一人ではないのだ、決して。


 ここには父がいる。


 こんなどうしようもない自分を求めてくれる人が居る。


 それだけで、充分だった。お世辞だったとしても、嘘だったとしても、和尚からその言葉を聞いただけで目に涙がこぼれそうになる。


 宗弦は涙がこぼれぬよう、天井を仰ぐ。薄汚れ、古びた天井の板張りは今にも崩れんばかりに老朽化が進んでいる。夜、布団に潜り込み、何度となく眺めていた小坊主だった頃、この天井はもっと頑丈でもっと高くそびえていたように記憶している。


 あれから十年足らずで、廃墟のようになってしまった。


 完全に廃れている。


 ここには、宗庵和尚の全てが詰まっている。今にも崩れそうなこの場所に、和尚の一生分がここに刻み込まれている。


 宗弦には重すぎる。


 和尚の想いがふかく刻み込まれたこの寺を守っていく自信は、どこにも見当たらない。


 ましてや、公言していないとはいえ破戒僧だ。隠して住職になったとしても、噂を運ぶ風は敏感だ。破戒僧が住職を務めていることなど、すぐに周知の事実となるだろう。




「考えて、おきます。とりあえず、綾の件を済ませなければなりません」




 精一杯の言葉に、和尚は満足そうな笑みを浮かべた。



 

「そういえば、沖浦家は悪霊に取り付かれているという噂を聞いたことがある。もしやとは思うがな」




「調べてみる価値はあるように思います。ご助言、誠にありがとう存じます」