薄明の世界 第七話
再び、禅清寺の門をくぐる。
八年前、禅清寺を飛び出したことを僅かに思い出した。何の前触れもなく、何も知らせず、宗弦は禅清寺を飛び出した。
あの時は、何も無かった。
手にするものも、身につけるものも、無くすものもなかった。だからこそ、ここを出て行くのは容易だった。
短絡的な考えだけで飛び出したことを、今なら後悔することができた。
出て行かなければ、和尚の元で修行していれば違う道があったのだろう。少なくとも、絶対的な確率で今よりは明るい現在だっただろう。
綾とも出会わなかった。
綾の亡霊とも再会することもない。
僧として、今より輝かしく賢明な人間になっていたはず。
宗弦は思わず踵を返して禅清寺の門を懐かしく見つめた後で、深々と頭を下げた。
「お世話になりました」
八年前に言えなかった言葉を、ようやく口にした。
もう二度と、この門をくぐることはできないだろうと、うすうす感じながら。
宗弦は振り向いて二度と凝視することはできないだろう禅清寺の門と別れた。
長屋へ戻る途中、宗弦は一匹の黒猫を見た。
どこか見覚えのあるその猫は、睨むようにじっとこちらに視線を向けていたが、しばらくするとそっぽを向いてどこかへ消えていった。
黒猫と出会うのは、縁起が良いとは言えない。
宗弦は嫌な予感を払拭できないまま、長屋へ戻っていく。
長屋へ戻るために必ず通る、小さく狭い路地に、ぽつんと寂しげに建つ飲み屋がある。
酒が一切呑めない宗弦は、今まで見向きもしなかったが、今日はふらりと立ち寄った。
「いらっしゃい。あら、宗弦さんじゃない。今日は珍しい人ばかりが来る日ね」
同じ長屋に住む、お涼。
飲み屋で働く二十歳の女で、明るく気前が良い。
飲み屋に訪れる男たちは、お涼目当てで訪れることが多いという。
一人、長屋に住む宗弦は、このお涼に毎日の食事を作って持ってきてもらっている。宗弦にとってなくてはならない人だった。
「済まないね。少しお酒が呑みたくなって。それより、珍しい人ばかりとはどういうことだい?」
「沖浦家のご当主がいらっしゃったのよ。宗弦という男がこの辺に住んでいないかって訊かれたから、長屋の場所を教えたの」
「いつの話?」
「たった今よ。呑めないお酒は後にして、長屋に戻ってみたほうがいいと思う」
「分かった。ありがとう、お涼さん」
宗弦は飲み屋の暖簾を乱暴にたくし上げて、小走りで長屋へと向かった。