「中山道歩き 和田宿から岩村田宿まで②」の続きです。
千曲川を渡ります。 中津橋歩道橋を通ります。 意外と水量の少ない川でした。
橋の袂の階段を下ります。 橋の下を通り川沿いの道に出ます。
舟つなぎ石・千曲川舟橋説明板
「明治初年水害で千曲川橋が落ちた。明治6年(1873)舟橋会社に通行を請負制で運営させた。このとき通行には橋銭が必要であった。
その後、運営が官営になって無料、この頃やや上流から舟つなぎ石の辺りへ移動している。明治25年(1892)県営になり、翌年4月に中津橋(長70間・幅3間)が架けられた。その後、同44年(1911)3月に架け替えられた。それまでは木橋であったが、昭和6年(1931)に鉄橋の中津橋に架け替えられて現在に至っている」
舟つなぎ石は、石に穴をあけ船橋の舟をつなぎとめたもの。
流れが穏やかな時は船を繋いで作った舟橋で渡りました。
長雨が続くと激流に変わり川留めとなり、旅人は何日も待たされました。
おかげで旅籠屋は大いに繁盛した様です。
広重の塩名田宿の絵
川魚料理竹廻家の角を曲がります。 「中山道塩名田宿」の看板が出ています。
坂道を上ると、右側に3階建の元お茶屋さんの「角屋」。昔は3階から段丘上の道に出ていたそうです。
三階建て住居群説明板によれば
「塩名田の「川原宿」には所どころに情緒豊かな三階建て住居がある。通称「お滝通り」に立ちどまると気付く。昭和六年(1931)に中津橋が従来の木造橋から、鋼製のプラットトラス橋に架け替えられた。そのため、国道が以前より高い場所を通過することになって純粋な三階建て住居とは別に、国道沿いの家では既存の二階建てに、更に二階を増築し、四階建てとして国道に出入り可能にした住居もある。また、橋や国道へ上がるための階段も所どころに設けられた」
中山道塩名田宿碑とお滝・十九夜塔・道祖神・水準点説明板
「ここは、もと瀧大明神の境内で、ケヤキの大木の根元から大量の清水が湧き出ていて、江戸時代中山道を往来する旅人も喉を潤した。塩名田の住民の中には茶屋・湯屋や佐久鯉を飼育するなどにも使っていた。傍らの林茶屋の看板は、「かどや」 の名が残る三階建ての家である。
昭和28年(1953)4月、塩名田区川原宿簡易水道組合ができ、組合員各戸へ給水もした。現状は水量が減少して利用者もわずかになっている。
十九夜塔は、暦で4月21日ころ、女性が集まって(講)、十九夜念仏を唱和して、健康の増進や出産の無事を祈念した行事があったことを示している。碑の裏面に、「天保10年(1839)乙亥四月穀雨講中」 とある。この穀雨の日を女性の 「遊び日」 と決め、年の一日の楽しみを確保したのであろう。
この道祖神の石像は、明治40年(1907)頃建立したと思われる。その頃出来た黒い幕に、「川原町道祖神」 の文字と芸妓屋7軒の名が染め抜かれていて、このころの事情を物語る。
水準点は、ここの地点の高さを測ったら622.7mであるとの標識である」
坂道を上り薬屋さんの前に出ます。 正縁寺に向かう途中に「筆塚」があります。
薬屋さんの角を左に曲がり「正縁寺」
に向かいます。
正縁寺山門 参道の石仏
正縁寺本堂
正縁寺の境内向沢山斑稲荷神社
天明7年(1787)に正一位稲荷大明神を
勧請した。養蚕業が盛んな時期は厚く信
仰され、今ではなくし物をした時に油揚
げをお供えしてお願いするとなくし物が
見つかるそうです。
佐藤半左衛門住宅
説明板によれば
「佐藤家(半左衛門)は、塩名田宿で最も古式の町屋の様式を伝えている。天保2年(1831)正月 「家別間数改帳」 によると、間口7間半、入側4畳、上段の間8畳、中の間10畳、下の間10畳、小座敷9畳、茶の間17畳、見世9畳、料理の間4畳半、土間21坪、料理間4畳半をもつ。ほかに板の間などがある。家の裏側には庭があって、土蔵・物置・湯殿各1、雪陰2ヶ所と井戸を配置する」
高札場跡 説明板によれば「江戸時代は、宿の街道筋の真ん中を塩名田用水が西から東へ流れていて、高札場が用水路をまたいで設けられていた。そこには五枚の高札があり内容的には、宿継ぎの人馬賃銭、親子兄弟間の道義、毒薬偽薬、などが掲げられていた。明治九年(1876)三月、公用の伝達啓示にと桂製で総長七尺五寸・内のり6尺二寸の物になった。また道路拡張のために北へ後退し用水路は路肩にふたをされた。高札場は現在公用掲示板に利用されている」
問屋・本陣跡
問屋・本陣跡説明板
説明板によれば 「(丸山新左衛門家・本棟造り、切妻造りで入口が裏側にある)
塩名田宿は、江戸から43里13丁、23番目。中山道筋が定まるのは慶長のはじめころ、塩名田宿は岩村田と望月の中間に位置し、街道筋でも難場の一つ千曲川を前に一宿が必要として、北方の岩下通りや南方段丘上の町田や舟久保の住民を現在地に40軒ほど移して形成した。問屋新左衛門・文左衛門、名主彦兵衛、本陣新左衛門。善兵衛、脇本陣文左衛門で丸山氏の同族が主に勤めた。寛政12年(1800)の宿内総家数は126軒。
問屋・本陣新左衛門家は宿のほぼ中央にあり、宝暦6年(1756)に再建されたが、現在は御殿部分が改装した住宅になった。円山家には宿場関係史料が多数保存されている」
江戸時代に宿場町として栄えた塩名田は、明治になると花街へと姿を変えました。
塩名田宿案内板
左下の説明板によれば
「花街塩名田 塩名田が活気を帯びてくるのは明治三十年代(1897~1906)になってからであろう。
八幡から料理業二人が移転して営業、新角屋は上等の芸妓屋で32年に塩名田一流の料亭として開業して44年に新築して名声が上がった。塩名田が花街として形成された要因は、地理的に北佐久郡の中央、千曲川の川畔にあり,当時の交通事情も良好で、他地域より営業に参加しやすかったのであろう。また商家もここへ営業を求めて詰めかけていた。滋賀銀行支店、肥料会社、製糸工場も出来た。劇場「塩名田座」も出現した。住民は養蚕に精を出し始めた。昭和3年(1928)時点で川原宿に5軒、中宿に3軒」あった。
しかし、昭和10年代になると、今までの平穏な世相は一変してしまって、三味線の音も消えていった」
塩名田節の歌詞より
塩名田帰りの千鳥足 女房起きろよ 戸を開けろ 起きなきゃ 塩名田へ逆もどり
こちらも本陣跡です。川留めに備えて本陣が2軒あったそうです。
大井屋さんの向かい側の丸山煙草屋前に「中津村道路元標」がありました。
「塩名田」信号5差路交叉点を斜め右の道祖神と中山道塩名田宿標柱のある道へ。
重要文化財駒形神社社標 参道の橋を渡ります。
橋を渡ると左側に説明板があります。
「駒形神社の創立については記録に乏しく明らかではないが、この地方は、いわゆる信濃牧の地であり、祭神には騎乗の男女二神像を安置しているので、牧に関連した神社と推定されている。
昭和24年5月30日、国宝保存法により国宝の指定を受けたが、文化財保護法の施行により現在は重要文化財に指定されている。
再建は文明18年(1486)と伝えられているが、形式手法からみてもその頃の建物と考えられる。
その後の沿革については棟札により寛永11年(1634)、延宝4年(1676)、元禄12年(1699)、宝永元年(1704)、および寛保2年(1742)にそれぞれ修理、宝暦8年(1758)および安永7年(1778)に屋根葺替、寛政4年(1792)に再び修理、次いで寛政10年(1798)、文政8年(1825)および万延元年(1860)にそれぞれ屋根葺替が行われたことが知られる。 (佐久市教育委員会)」
説明板の左に道祖神 石段の上に両部鳥居
夫婦岩 駒形神社拝殿
国の重要文化財の本殿
境内の石祠、石燈籠
中山道に戻ります。
大きな介護老人保健施設の隣に妙楽寺の参道 があります。
参道を進み右側に本堂があります。真言宗智山派のお寺。
貞観8年(866)官寺として建立され、若い修行僧の学問寺でした
広い農道を横断して進むと右側に大きな木曽御嶽講の石碑と庚申塔
木曽御嶽講の石碑から5分程進むと左側に
諏訪神社があります。
石段横の男女双体道祖神 諏訪神社拝殿
拝殿の奥に本殿 諏訪神社境内に御嶽山の扁額の掛かった鳥居
御嶽山座生大権現碑などの石塔群
中山道に戻ります。
少し離れた所に
百万遍供養塔
中部横断自動車道のトンネルを通ります。 トンネルを出ると左に石の鳥居
荘山稲荷神社の石灯籠と両部鳥居
石灯籠の右に見えるのは芭蕉の句碑
「野を横に 馬引きむけよ 郭公」(ホトトギス) これは奥の細道で詠んだ句。
荘山稲荷神社拝殿 拝殿横に道祖神
中山道に戻り、この先の信号交差点を過ぎると景色が一変します。田園風景から巨大なショッピングセンター、ホームセンターなど沢山の商業施設が立ち並ぶ現代社会に変わります。
「浅間病院西」信号交差点を横断します。 相生(あいおい)の 松
「相生の松」は、一本の根から二本に分かれた松の木のことで、それは長寿と夫婦の和合を象徴する。
文久元年(1861年)11月7日、皇女和宮は、ここで輿を留め、御野立小休しました。
和宮は縁起をかついで中山道で江戸に向かうことにしたが「相生」の名は縁起が良いと野点を行ったそうです。今の松は三代目だそうです。
便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)歌碑 相生の松三代目碑
「その昔業平朝臣も尋ねこん男女の松のちとせを」
ローソンの角を左に曲がりJR岩村田駅に向かいます。 岩村田駅 15:21
15:35発 佐久平、長野経由で帰宅します。
次は「中山道歩き 岩村田宿から軽井沢宿まで①」です。