中津川宿より京都三条大橋まで歩き、その後中津川宿から江戸日本橋まで歩きました。その間に記録した一里塚を一覧しました。

 

中津川宿をスタートして最初の一里塚です。

上宿の一里塚(江戸から85里目)

   小手ノ木坂を上ったすぐ先にあります。

説明板によれば

中山道の両側には、一里(約4km)ごとに塚が築かれ、松や榎が植えられていた。
 一里塚は旅路の行程の目安を与えるとともに、休息の場としても利用され、市内には4カ所あった。
 この上宿にあった塚は、江戸 から数えて85番目 にあたり、両側とも複が植えられていた。
 現在南側の塚は消滅し、北側にあった塚が昭和9年に復元されている。 規模としては往時の約1/3の大きさである。

奥にある碑には「中津一里塚跡」と刻まれています。

 

三ツ家の一里塚跡(江戸から86里目)

碑のみが草むらの中にありました。

近くにリニア岐阜県駅が出来るため道路工事が行われる予定です。

 

関戸の一里塚(江戸から87里目)

塚は明治時代に開墾の為取り壊され今はこの石柱のみです。

 

槙ヶ根の一里塚(江戸より88里目)  岐阜県の史跡に指定されています。

 

説明板より一部抜粋

 県内の中山道には、全部で32ヶ所あったが、現在はそのほとんどが取り壊され、現存しているのは、当市内のこの槙ヶ根一里塚と紅坂一里塚のほかに瑞浪市内の権現山一里塚など5ヶ所の合わせて7ヶ所にすぎない。また、全国的にも現存する数はきわめて少なく、一里塚は江戸時代の街道の面影を今に残す貴重な文化財である。
 この槙ヶ根一里塚は、北の塚が高さ約3.5m、幅は9.9m、南塚は北塚より少し大きく高さは3.9m、幅は10.11mある。塚の頂上に植えられていたといわれるは両塚とも残っていない。
 近年の土地開発が進む中で、この付近の中山道は開発から免れており、この槙ヶ根一里塚のほかに西行塚や西行坂なども原形をとどめ往時の中山道を偲ぶことができる。 (恵那市教育委員会)

 

紅坂の一里塚(江戸より89里目)  岐阜県の史跡に指定されています。

  北塚

  南塚                                                          

説明板よれば一里塚は、慶長9年(1604)徳川幕府の命によって東海、東山、北陸の3道に各一里(約4㎞)ごとに築かれた里程標で、土くずれを防ぐため頂上には榎の木が植えられました。(県指定史跡)

 

権現山の一里塚(江戸より90里目)   岐阜県の史跡に指定されています。

   北塚

                    

南塚

説明板によれば 「江戸へ90里、京都へ44里という道標で、樫ノ木坂 一里塚とも呼ばれ、石畳とともに中山道当時の姿を偲ばせています。南塚は高さ約5m、 径約9m、 北塚は高さ約3.5m径約9mです。慶長8~9年に十三峠の新設工事とともに築かれたものであり、瑞浪市内の4ヶ所のように完全な形で現存している一里塚は珍しく、貴重です。

 

八瀬沢(やせざわ)の一里塚(江戸より91里目)岐阜県の史跡に指定されています。

北塚                              

南塚

説明板によれば 大湫(おおくて)宿と細久手(ほそくて)宿の間は一里半(約6km)。琵琶(びわ)峠は、美濃十六宿(今は馬籠宿を入れて17宿)で一番高い所にある峠(標高558m)で長さは約1km、古来より中山道の名所の一つです。ここには日本一長いとされる石畳(全長約730m)が敷かれ、峠開削時のノミ跡を残す岩や、峠頂上の馬頭様(ばとうさま)(宝暦13年・1763)、東上り口の道標(文化11年・1814)等の石造物があります。
なお、『八瀬沢(やせざわ)一里塚』はほぼ完全に残っており江戸へ九十一里、京都へ四十三里を示す道標です。

 

奥之田の一里塚(江戸より92里目)   岐阜県の史跡に指定されています。

北塚                               南塚

説明板によれば 「中山道の一里塚は、大湫宿が開宿した慶長9年(1604)から整備が進められ、岐阜県内には31箇所の一里塚が築かれました。一里塚には榎や松が植えられ、松並木も整備されました。一里塚は、現在ではほとんど荒廃し、瑞浪市のように連続した4箇所が当時のまま残っている例は全国的にも稀です。 市内には、東から西へ順に、権現山(樫ノ木坂)一里塚、琵琶峠(八瀬沢)一里塚、奥之田一里塚、鴨之巣一里塚があり、高さ約3m、径10m程の大きさで、自然の地形をうまく利用して築かれ

ています。 なお、鴨之巣一里塚は、地形の制約を受け、塚は尾根沿いに東西16m程離れています。

 (瑞浪市)」 

 

鴻之巣(こうのす)の一里塚(江戸より93里目) 

北塚                               南塚

説明板によれば「江戸へ93里、京へ41里という道標の中山道鴨ノ巣一里塚です。一里塚は道の両側に一対づつ築かれましたが、ここの場合地形上北側の塚が16m東方にずらされているのが特徴です。ここからは鈴鹿、伊吹や北アルプスの山々が一望できます。(市県指定史跡)

南塚は高さ約3.6メートル、径約10メートル、北塚は高さ約3メートル、径約10メートルです」

 

謡坂(うとうざか)の一里塚(江戸より94里目)

十本木立場跡から左の旧道に入った所にあります。

説明板によれば 「慶長9年(1604)2月、徳川幕府は東海道・中山道・北陸道に江戸日本橋を基準として、道の両側に5間4方(約16mほど)の塚を築造させました。これが一里塚です。
一里塚は、一般的に一里ごとに榎10里毎に松を植えて旅人に里程を知らせる重要なものでした。
 現在の御嵩町内にその当時4ヶ所あった一里塚は、幕藩体制崩壊後必要とされなくなり、明治41年 (1908)にこの塚は2円50銭で払下げられ、その後取り壊されました。
 この一里塚は昭和48年(1973)、地元有志の手でかつての一里塚近くに復元されたものです。

江戸より94里目の一里塚です」

 

栢森の一里(江戸より95里目)


国道21号線「井尻」信号交差点を右折し10分程進み左の県道341号線にはいる角のお宅の庭に

「栢森一里塚跡50m東」と書かれた白い小さな木柱があります。

50mほど先を探しましたが分かりません。ここを一里塚の場所とします。

 

比衣(ひえ)の一里塚(江戸より96里目)

国道21号線を右に曲がった所に小さな土盛があり、「中山道 比衣一里塚跡」の石柱が有ります。

 

恵土(えど)の一里塚(江戸より97里目)

上恵土神社を過ぎ国道21号に合流し「中恵土」交差点の手前右側に一里塚跡の石柱がありました。かつては中恵土交差点から東30mの辺りにあったらしい。

 

古井(こび)の一里塚(江戸より98里目)

木曽川沿いの土手道を進み土手下の文化会館の横にあります。

度々河川改修が行われ、場所は特定されていないそうです。

 

木曽川の対岸に同じく「江戸より98里目」の土田の一里塚があります。

天明6年(1786年)の大洪水により木曽川の流れが変わり土田宿周辺の道路が寸断されました。洪水以前は土田宿から木曽川南岸(現在の可児市側)の旧中山道を進み内田の渡し(犬山城北東~犬山橋付近)で鵜沼南町、鵜沼古市場辺りにあった旧鵜沼宿に至るルートがあったそうです。

大洪水の結果土田宿へのルートが寸断され太田宿は中山道の重要な宿場として再整備され、木曽川の渡し場も設けられました。土田の一里塚は旧道の名残として残りました。

鵜沼宿は慶安4年(1651年)に「うとう峠越え」の新道が開削され、うとう峠ルートが中山道の主ルートなり現在の鵜沼宿へ移転しました。

洪水以前は峠越えの陸路と渡しを利用した水路ルート併存していた。

 

取組の一里塚(江戸より99里目)

木曽川の土手道(ロマンス街道)を進み「坂祝町役場前」の歩道橋が見えたら土手道を下り歩道橋を渡ります。

207号線を太田宿方面に戻ります。

エネオスガソリンスタンドを過ぎた所に「史跡一里塚址」の木柱があります。

一里塚のある側には歩道が無いので危険です。

 

うとう峠の一里塚(江戸より100里目)

うとう峠の頂上近くにあります。

直径10メートル、高さ2メートルの大きさで残っています。南側にも対になる塚がありましたが、戦時中陸軍の兵舎が建てられたことにより、半分以上が崩れてしまったそうです。

 

101里目の一里塚 不明です。100里目のうとう峠の一里塚と102里目の山の前の一里塚の距離が本来ならば8km程あるはずですが5kmしかありません。当時中山道はどこかを迂回していたのではないでしょうか。

 

山の前の一里塚(江戸より102里目)

山の前町」信号を過ぎて左の側道に入ります。 工場に挟まれた空き地にあります。

山の前の一里塚跡には、天保4年(1833)の銘が刻まれた播隆上人名号碑が立っています。 この石碑は、濃尾地震と第二次世界大戦時の空襲によって損傷しており、南無阿弥陀仏の6文字のうち「南無」と「陀仏」の4字のみが残るのみです。

一里塚跡の表示は見当たりませんが、ここが一里塚跡と云われています。

 

六軒の一里塚(江戸より103里目)

竹林寺の向かい側にあります。

 

新加納の一里塚(江戸より104里目)  

少し離れて道が二つに分かれる所にも一里塚跡の石柱があります。

 

細畑の一里塚(江戸より105里目)  両塚とも残っています。

 

説明板によれば 中山道は江戸時代の五街道の一つで、江戸と京都を結んでいた。

一里塚は一里(約3.9km)ごとに設置され、旅人に安らぎを与えると共に道程の目安となるように置かれたものである。 街道の両側に5間(約9.1m)四方に土を盛って築かれ、多くはその上にエノキが植えられた。 細畑の一里塚は慶長9年(1604)、中山道の他の一里塚とともにつくられた。東方の鵜沼宿から3里14町(約13.3km)西方の加納宿まで30町(約3.3km㎞)の位置にあり、中山道の風情を今に伝えている」

 

三里の一里塚(江戸より106里目

説明板によれば  中山道は江戸・日本橋から京都・三条大橋まで69次135里余り。旅人の便宜の為に一里(約4km)毎に一里塚が設けられました。 この三里一里塚跡は、江戸日本橋から数えて106里目の一里塚が設けられた跡地になります。
 (三里まちづくり協議会)

 

河渡宿の一里塚(江戸より107里目)

説明板によれば江戸時代、江戸と京都を結ぶ重要な街道として中山道が整備され、69の宿場が設けられた。河渡宿は江戸から106里27町、55番目の宿場であった。(別の資料には107里目となっています。一里は3.93km、一町は109m)   加納宿へ1里半、美江寺宿へは1里6町を隔て、長良川の渡しを東に臨み、大名行列や旅人が往来・宿泊して大いに繁栄した。
 ここはかつて一里塚のあった場所である。塚は道の両側に各々あり榎が植えらて、塚の大きさは3間4方であった。 (中山道河渡宿文化保存会)」

 

 

美江寺の一里塚(江戸より108里目

美江寺大門裏」信号を過ぎたすぐ右側民家の前にあります。

 

柳ケ瀬の一里塚(江戸より109里目)

神明宮の境内付近に柳ケ瀬の一里塚があったそうです。

「美濃中山道と一里塚跡 中山道は江戸幕府成立以後、東海道、日光街道、奥州街道と並んで五街道の一つに数えられていました。 日本の中央部を走るこの中山道は垂井から大垣、墨俣を経て名古屋へ向う美濃路、関ケ原から牧田、多良、時を経て桑名へ出る伊勢街道など沢山の脇街道によって表日本と裏日本とを結んでおり、政治上、軍事上からも重要性ははかりしれないものがありました。又、茶壷道中日光例幣使の他、特に江戸幕府代十四代徳川家茂に降嫁した皇女和宮の下向の際、使用された道でもあります。一方、江戸日本橋を基点に三十六町(約4km)ごとに築かれたのが一里塚で柳瀬地内の一里塚は、現平野井川、柳瀬橋付近にあり旅ゆく人の里程標となっていました」

 

枝郷の一里塚(江戸より110里目)

白山神社境内に「中山道一里塚跡」の石柱が有ります

以前は「池尻の一里塚」云われていました。

 

 

 

次は青野の一里塚(江戸より111里目から御料の一里塚(江戸より135里目)そして京都三条大橋です。