枝郷の一里塚(江戸より110里目)からの続きです。
青野の一里塚(江戸より111里目)
教覚寺の前を通り中山道の戻り少し先の右側に「史跡 中山道一里塚跡」の石柱と大正5年(1916)建立の大神宮常夜灯があります。
垂井の一里塚(江戸より112里目)
少し先の日守の茶所の隣にあります
南側の一基だけがほぼ完全に残っています。
国の史跡に指定された一里塚は、中山道では垂井一里塚と東京都板橋区志村の一里塚の2ケ所です。
一里塚の整備以前に行われた関ヶ原の戦いでは、この場所に浅野幸長が陣をかまえました。
関ケ原の一里塚(江戸より113里目)
この「東公門」交差点付近に関ケ原の一里塚があったそうです。
今須の一里塚(江戸より114里目)
今津峠を越え国道21号線に合流するとすぐ先の左側にあります。
国道工事で削られたのを復元したものです。
柏原一里塚(江戸より115里目)
一里塚は開発により取り壊され現存しません。現在の一里塚は復元されたものです。
本来の一里塚があった場所は今では川の底で、復元された一里塚も元あった場所に復元されたわけではありません。
一色の一里塚(江戸より116里目)
久禮(くれ)の一里塚(江戸より117里目)
久禮の一里塚には右側には「とねり木」、左側には「榎」が植えられていたそうです
磨針一里塚(江戸より118里目)
磨針(摺針)峠の途中の民家の庭先にあります。
こんな話があります。
「諸国を修行して歩いていた青年僧が、磨針(摺針)峠にさしかかったとき、白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに出会いました。
何をしているのか聞くと、一本きりの大切な針を折ってしまったので、斧をこうして磨いて針にすると言うのです。
ハッと悟った青年僧は、自分の修行の未熟さを恥じ、修行に励み、後に、弘法大使になった」 「意志の強さと努力の積み重ねが、ついには成果を生む」という、修行者だけでなく人生を歩むすべての人に通じる教えです。弘法大師(空海)にまつわる説話のひとつとして伝えられ、僧だけでなく一般の人々にも大切な心構えとして語り継がれてきました。
磨針(摺針)峠の頂上には望湖堂跡があり、そこから遠くに琵琶湖が見えます。
原村の一里塚(江戸より119里目)
原八幡神社地蔵尊入口を50m程過ぎた辺りではないかと云われています。
このカーブミラーの辺りかな?
法士(ほぜ)の一里塚(江戸より120里目)
むちん橋から3~4分程進み、小さな橋を渡った左角のスレート葺きの建物の空き地に、「一里塚跡」の小さな石柱があります。
石畑の一里塚(江戸より121里目)
八幡宮境内にあります。
説明板によれば
「江戸時代後期には街道の往来でにぎわう中山道・高宮宿と愛知川宿の間の宿(あいのしゅく)として発展し、立場茶屋が設けられ旅人や馬の休憩の場として栄えました。
さらに、中山道の役場前交叉点南(小字一里山)には、『一里塚』が設けられ、「高さ丈余の塚で、松が植えられてあって、塚の上から湖水が見えた」と豊郷村史に記されています」
愛知川の一里塚(江戸より122里目)
不飲橋を渡り、不飲橋交差点で国道と合流したすぐ右側民家の庭先に「一里塚跡」の石柱がありました。
石塚一里塚(江戸より123里目)
観音正寺への道標から300m近く進んだ右側にあります。
説明板によれば
「石塚一里塚は、中山道を江戸日本橋から123里483km)の、この地にありました。徳川家康は、慶長六年(1601年)江戸城防衛を目的に、街道の整備を始め、東海道は寛永元年(1624年)に完成しました。中山道は木曽路の街道化に時間が取られ、全体の完成は元禄七年1694年)でしたが、近江地区の中山道は、慶長13年(1608年)に完成していました。
石塚一里塚は、明治六年の『石塚村地券絵図』に、『一り塚(地番)二百三十五』と円形に記録され、一里塚の存在を証明しています。昭和40年発行の『近江神崎郡志稿 下巻』には、『本郡中山道なる一里塚は旭村大字石塚の郊外おぶく田(御仏供田)と呼ぶ處にあり、塚は担らげられ畑となってあるが、下廻の石垣は在してある。』と記され、つい最近まで、一里塚史跡の石塚が残っていたことが確認できます。
天保年中に出版された『東海木曾両街道道中懐寳圖鑑』に、『清水鼻北町屋間の一里塚には東方榎二本西方一本』とあり、石塚一里塚には、恵野木が植えられ、石塚が側は2本、山本側は1本で、これは『中山道分間延絵図』の一里塚の図に一致します」
西生来(にしょうらい)一里塚(江戸より124里目)
「亀川」信号交差点から10プmm程進んだ右側民家の玄関先に「西生来一里塚跡」の石柱があります。
馬渕の一里塚(江戸より125里目)
この画像の右の干し物が見える辺りが一里塚跡と云われています。
大篠原一里塚(江戸より126里目)
大篠原北信号交差点を過ぎ300m程進むと左側に堤(東池)があります。
道路向かい側のガードレールから身を乗り出して写真を撮っている人がいたので気付きました。ガードレールの切れ目から下に下りた所に説明板があります。
説明板によれば 「一里塚は、江戸幕府が、国内の主要な街道の整備の一端として、距離の目安となるように一里(約4km)毎に設けたものである。
宝暦六年(1756)出版の岐蘇路安見絵図によれば、中山道が横切る光善寺川(砂川なるみ橋とあり)の西にあり、右 榎一(北側)、左 松四(南側)と記されている。 ここを三軒松と称し、戦前まで大きな松が一本残っていた。なお、この付近の小字名も一里塚という。 野洲市大篠原自治会 大篠原郷土史会」
野洲の一里塚((江戸より127里目)
この燈籠付きの標柱の辺りに一里塚があったのではという説と、暁酒造を過ぎ新幹線高架下を通り直ぐに左折し広い道路に出てすぐに左の一方通行の細い道に入った辺りにあったという説があります。
今宿一里塚(江戸より128里目)
先代の榎は昭和中頃に枯れたが、脇芽が成長して現在に至っています。
草津の一里塚(江戸より129里目)
草津駅を出て、「ファミリーマート大路1丁目店」の前を通り、パチンコ屋さんある交差点の中央分離帯の辺りが「草津の一里塚跡」と云われています。説明板があります
中山道最終の一里塚跡と記されています。
次の一里塚からは東海道に合流します。
野路一里塚(江戸より130里目)
上北池公園に「野路一里塚跡」の石柱があります。
説明板(一部を抜粋)によれば
「東海道分間延絵図(文化3年作成)には、ここ野路の北川の北方の街道の両側にも、長い松並木と共に一里塚が描かれているが、その立木は天保14年作成の東海道宿村大概帳や元禄3年刊行の東海道分間絵図によれば、双方とも松であったことが明らかである。 草津市」
一里山一里塚(江戸より131里目)
進行方向からは死角になります。注意しないと気付かず通過してしまいます。
説明板によれば 「一里塚は、徳川幕府が旅人の目印に江戸日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。 ここにあった一里塚は、東海道の大津と草津の間に位置するもので、大きな松の木が植えられた塚でしたが、惜しくも明治末期に取り除かれました。その場所は旧道と広い市道の交差しているこの地点にあたります。
現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。 (大津市教育委員会)
粟津の一里塚(江戸より132里目)
この辺りに一里塚があったと云われています。
石場の一里塚(江戸より133里目)
東海道を精大明神常夜燈の方に10m程進んだ辺りに一里塚があったと云われています。
走井の一里塚(江戸より134里目)
月心寺の石垣の辺りに一里塚があったと
云われています。
御料の一里塚(江戸より135里目)
府道143号線から左に東海道を5分程進んだ住宅街の辺りに一里塚があったと云われています。
この先は三条大橋まで一里塚はありません。中津川宿から京都三条大橋までの一里塚は以上です。
次は中津川宿から日本橋までの一里塚です。