中山道歩き 一里塚一覧 平出の一里塚59里目~一里山の一里塚30里目の続きです。

 

中宿の一里塚(江戸より29里目)

正面に「中宿一里塚跡」、右側面に「京へ 百七里」と刻まれています。

 

藤塚一里塚(江戸より28里目)

そこに一里塚がある事を忘れぼんやり国道を歩いてしまいました。気が付いて国道を横断しようとしましたが交通量が多く、道幅も広く中央分離帯もあるので諦めました。

「小林山入口」交差点まで戻ればよかったのですが

疲れに負けました。

ここは群馬県で唯一形の残っている一里塚です。塚

の上には、樹齢400年と言われるムクノキが茂っています。他の中山道歩きの方のSNSには大きなムクノ木と一里塚碑の画像があります。
 

江戸より27里目の一里塚は不明です。

 

高崎の一里塚(江戸より26里目)は不明です。

本町3丁目交差点を右折し次の九蔵町交差点付近までのどこかに高崎の一里塚があったのではと言われています。江戸より26里目です。前の藤塚の一里塚との距離は約4kmです。

 

倉賀野の一里塚(江戸より25里目)

上町西交差点の右角の緑地帯の中に倉賀野の一里塚の説明板があります。

説明板によれば ここにあった塚は日本橋から26番目のもので、規模は径が15m、高さ約4.5m程の小山で、頂上に榎が植えられていました。その為「一里山」と呼ばれていました。明治になり道路改修が進むにつれて塚は次第に崩され消滅してしまいました。

 

中島の一里塚(江戸より24里目)

サイクリングロードを進むと左に新立石樋管の建物があります。

そこから県道側にある三菱鉛筆の工場の辺りではないかと云われています。

 

勝場(かっぱ)の一里塚(江戸より23里目)

    

「勅使河原(北)」信号交差点を斜め左へ進み、すぐ先の左側の社の脇にあります。

 

万年寺の一里塚(江戸より22番目)

浅間古墳から600m程先の右側の万年寺公会堂の辺りにあったのではと云われています。

 

傍示堂の一里塚(江戸から21番目)

新泉橋の手前のこの辺りにあったのではと云われています。

 

岡の一里塚江戸より20里目)

島護産泰神社(しまもりさんたいじんじゃ) から

100m程先の三差路の辺りにあったのではと云われています。

 

深谷の一里塚(江戸より19里目)

糸屋製菓店から200m程先の交差点辺りにあったのではと云われています。

 

東方の一里塚(江戸より18里目)

鬼林稲荷大明神から四辻を過ぎた横断歩道の辺り                                  にあったのではと云われています。

 

新島一里塚(江戸より17里目)

江戸より17里目の一里塚で、植木の一里塚とも云われる。樹齢300年の欅の大木がありましたが、平成22年9月の豪雨で倒れその後伐採されました。

向かい側には「摩多利神改修の碑」の石碑もある。

 

八丁の一里塚跡(江戸おり16里目)

新幹線高架下を通り5分程で公園に着きます。

公園内に「八丁の一里塚跡」

説明板があります。

「久下新田の一里塚から、ここまで1里ある。いま英泉描くところの「八丁堀の景」という浮世絵があって、当時の風景や風俗を偲ぶ事ができる。  昭和60年11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土分化会」

 

久下の一里塚(江戸より15里目)

江戸の日本橋を起点する中山道は、板橋・志村を経て戸田の渡しから埼玉県へ入る。慶長9年(1604)幕府は、大久長安に命じて、この街道に一里塚を築かせた。一里塚は道の両側に方五間(9m四方)の塚を築き、その上に榎や欅を植えたもので、街道に風情を添え、旅人には里程の目印になったり憩いの場所にもなった。 柳樽には、“くたびれた奴が見つける一里塚” という句もある。 昭和60年11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会

 

前砂一里塚(江戸より14里目)

説明板によれば 「江戸時代初期、参勤を契機として街道が整備され、主な街道には距離の目安として一里塚が築かれた。慶長見聞集によると、中山道の一里塚は慶長9(1604)年に築かれた。

 一里塚は、江戸日本橋を起点として一里(約4km)ごとに、街道両側に5間(約9m)4方、高さ約10尺(約3m)の盛土をし、上部に榎や松を植樹したもので、馬・籠の駄賃や、道程の目安になるとともに、旅人の憩いの場でもあった。 日本橋から13里目の、ここ前砂の一里塚は、文化年間(1804~1818)完成の中山道分間延絵図によれば、街道の両側(現前砂681番地に西塚、71番地に東塚)に、榎の茂った塚が描かれているが、現在は両塚とも残っていない。  ちなみに、鴻巣市域では、11里目の馬室原の一里塚(西塚が現存、県指定文化財)、12里目の箕田の一里塚が確認されている。

 なお、次の一里塚は、間の宿吹上の街並みを過ぎ、荊原(ばらはら)の権八地蔵尊の先、久下の長土手にある。

 

江戸より13里目の一里塚は不明です。

 

箕田の一里塚(江戸より12里目)

セブンイレブンから150m程先に立派なお屋敷があります。

このお屋敷の左隣辺りに箕田の一里塚があったのではと云われています。

    

原馬室の一里塚(江戸より11里目)

中山道は線路反対側にある県道164号ですが、その昔は線路のこちら側を通っていました。残っているのは西塚のみで、東塚は明治16年(1883年)の鉄道敷設時に消滅。1750年頃までには中山道の道筋が現県道164号側に付け替えられて、この原馬室の一里塚は放棄されました。

 

桶川の一里塚(江戸より10里目

桶川市北一丁目歩道橋の柱の辺りにあったと云われています。

 

上尾の一里塚(江戸より9番目)

氷川鍬神社から5分程先の「はら内科クリニック」の辺りに一里塚があったと云われています。

歩道側に中山道の標柱とバス停(上尾原市 新道バス停)があります。

 

江戸より8番目の一里塚は不明です。

 

大宮の一里塚(江戸より7里目)

 

一の鳥居参道を出て県道を右折し200m程先の吉敷町2丁目バス亭付近にあったと云われています。江戸から7里目です。

 

浦和の一里塚(江戸より6里目)

浦和橋の右側歩道を渡り右折した辺りに

あったと云われています。

 

辻の一里塚(江戸より5里目)

高架の下を通るとすぐ左にあります。

一里塚碑の隣に弁財天が祀られています。

辻周辺は湿地帯が多く、通行が困難であったので、水難除けに弁財天(べんざいてん)も祀られたそうです。

 

戸田一里塚(江戸より4里目)

この辺りにあったと云われています。

 

志村一里塚(江戸より3里目)

 

説明板によれば、「江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(1604)2月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、5間(約9m)四方、高さ一丈(約3m)の塚が江戸日本橋を基点として一里(4km弱)ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれました。
 志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第3番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830)の 「新編武蔵風土記稿」 では 「中山道往還の左右にあり」 と紹介されています。
 幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治9年(1876)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和8年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出を防ぐ工事が施されて保全され、現在に至っています。
 今日、現存する一里塚は全国的にも非常に稀なもので、都内では北区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。そのため交通史上の貴重な遺跡として、大正11年(1922)に国の史跡に指定され、昭和59年に板橋区の史跡に登録されました。  (板橋区教育委員会)」

 

平尾一里塚(江戸より2番目)

埼京線の踏切を渡り、1つ目の信号の辺りにあったと云われています。

この信号を右折し30m程進むと左に「近藤勇」の墓があります。

 

追分一里塚跡(江戸から1里目) 

 

説明板によれば、「一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として、街道筋に1里(約4km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中頃まで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒屋で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁昌した。

-郷土愛をはぐくむ文化財-文京区教育委員会」

 

 

日本橋の中央に昭和47年、時の総理大臣佐藤栄作の書による「日本国道路元標」が埋め込まれ日本の道路の中心地のシンボルとなっています。