「中山道歩き 和田宿から岩村田宿まで①」の続きです。」
望月宿に入りました。
右側に大伴神社があります。
大伴神社拝殿 日本武尊の時代からある神社です。
社伝によると景行天皇40年(317)の鎮座という古社です。
現在の本殿は延宝5年(1677)の建築です。
本殿覆屋
拝殿内部 上から見た参道石段 58段ありました。
明和3年(1766)建築の真山家(旅籠大和屋跡) 国登録有形文化財です
本陣跡 現在は大森小児科医院
大森九左衛門が本陣を勤め、名主問屋を兼ねました。
佐久市立望月歴史民俗資料館 こちらも本陣跡です。
歴史民俗資料館の男女双体道祖神 歴史民俗資料館の馬つなぎ石
馬つなぎ石説明板によれば
「江戸時代末の望月宿は道幅が5間で、その中央を川が流れており、旅人や荷継ぎの馬などに利用されていた。
この石は、馬や牛などを止めるため利用したもの。馬には動かせないが、人が持てる重さになっている。
歴史民俗資料館中庭の釣瓶沢の「水割場石」と「木樋」
説明板によれば
「蓼科山の五斗水水源から引いた用水に設置されていた。
全水量の9分(1尺8寸)を布施村へ流し、1分(2寸)を五郎兵衛新田村へ分けられた。
明治11年から17年にかけて水争いが起こり、その結果9分と
1分の分水が決められた。
木樋は昭和18年に畳石用堰として、布施村によって設置された。天然カラマツを刳り抜いた見事な樋で、これによりはるか村まで水が運ばれた。(教育委員会)」
望月は古くから朝廷の牧場として重要視され、名馬の産地として知られていました。
中世から鎌倉時代まで「官牧」として栄え、江戸時代に宿場となりました。
朝廷に「御馬」を献上する儀式は江戸時代も続けられました。
紀貫之の「逢阪の 関の清水に 影見えて 今や引くらん 望月の駒」(拾遺和歌集)が残っています。
井出野屋旅館 ここは犬神家の一族の映画で那須ホテルとして使用された旅館です。現在も旅館を営業しています。
旅籠山城屋
江戸時代9軒あった旅籠の1軒だった「山城屋喜左衛門」が、今でも「御宿 山城屋」として旅館業を営んでいます.
バスターミナルを過ぎバイク屋さんの角を左折し瓜生坂に向かいます。
鹿曲川に架かる長坂橋を渡ります。 長坂橋を渡ると正面に弁財天があります。
ここから登坂です。 「中山道長坂分岐点」説明板
説明板によれば
瓜生坂から下る中山道は、自動車道を横切ってほぼ直行するように進んでおり、途中大応院跡や長坂の石仏群を通り、ここに至っている。
大応院は、当山派の修験寺で、寺社奉行から出る命令や交渉事を司った触頭も勤めていた(上田市横谷家文書)。ここから2㎞程下った古宮の鹿曲川左岸の断崖にあった佐久補陀山観清寺の別当も兼ねていたが、末裔滋田家の本尊馬頭観音坐像や飯綱権現立像など、また長坂の古碑群を残して明治5年に廃寺になった。
中山道は、ここから望月新町のあった鹿曲川右岸を下流に向って進み、西に折れて中之橋を渡り、大通りの望月本町に至っていたが、寛保2年の大洪水で新町が道ごと流されてしまい、その後、道とともに新町が移転された。そして中山道はこの長坂橋を渡り、枡形を通って新町が移転された東町の上り、北側にやや進行して望月本町を通る旧来の道とつなげられた。
したがって、ここは初期中山道と変更後の中山道の分岐の場所である。
(佐久市教育委員会)
中山道長坂石仏群 水神天、馬頭観音、百万遍供養塔、男女双体道祖神など
石尊大権現、大聖不動、普寛霊神など 少し広い道に出ました。
50m程上り右の山道に入ります。 馬頭観音
坂の上に出ました。百万遍念仏碑(左)と大乗妙典供養塔(右)と中山道瓜生坂碑
後は得意の下り坂です。
ロスした時間を取り戻します。
瓜生坂一里塚跡(南塚) 瓜生坂一里塚跡碑と説明板
説明板によれば
「慶長9年(1604)徳川家康は、大久保長安を総奉行として五街道の大改修をし、江戸日本橋を基点として一里(約4㎞)ごとに道の両側に方五間の一里塚を築き、その上に榎を植えさせた。ここは南方の一里塚跡で、北方の塚は道路で半分削られているが、斜面上方に位置している。瓜生坂の一里塚の手前は、塩名田宿のはずれにあり、先方は芦田宿手前の茂田井間宿に位置している。 (望月町教育委員会)」
広重の望月宿の絵
望月宿石燈籠と望月城跡看板など。 国道142号線を横断し山道を下ります。
ここを左折します。
県道に合流します。 「布施温泉入口」信号交差点を横断しすぐに右へ。
男女双体道祖神(祝言道祖神)
説明板によれば
「長野県安曇野地方で発生した道祖神で、宮廷貴族の装いをした男女が酒を酌み交わす華麗な祝言像である。
安曇系は主尊が日本神話の神々で、着衣も神々の装束で造像されるのが通例であるが、この道祖神は宮廷貴族風の精緻な造像である。
発祥地安曇野地方にも類例のない貴重な遺産である。 (望月町教育委員会)」
百沢集落の端にあった馬頭観音。 百沢集落を通り「百沢東」信号交差点から142号線に合流します。
142号線を進み「八幡西」信号交差点を左折します。すぐに左へ進みます。
大きな馬頭観音と小さな馬頭観音
広い道路に出ました。バス停があるのでここで「民宿みや」さんのおにぎりで昼食。
左側に八幡宿脇本陣の門
記録では八幡宿には脇本陣が4軒あったそうですが、他の3件はどこにあったか気付きませんでした。
脇本陣の斜め前に八幡宿本陣跡
皇女和宮様が泊まった本陣ですが、今は門だけが残っています。
八幡神社
八幡宮の扁額が掛かる両部鳥居
止戈為武の扁額が掛かる随神門
衣冠束帯の武官神像 (左) 衣冠束帯の武官神像 (右)
八幡神社随神門説明板によれば
「構造
三間一戸楼門、組物三手先腰三手先 中備蟇股 間斗束軒繁垂木 屋根入母屋造 妻虹梁大瓶束 本瓦葺
楼門とは楼造りの門のことで、二階建ての門を言う。一階と二階の境は親柱に擬宝珠をつけた高欄の縁側を巡らしている。頭貫木鼻の唐獅子、各所に施されている彫刻など江戸時代末の特色を示す。門の両側の間には衣冠束帯に剣と弓矢を持った武官神像の随神を置く。
建立
天保14年(1843)6月、今から150年前小諸藩主牧野遠江守康哉が大願主となり、数百本の材木を、またケヤキ材は川西地方村々の寄進により造営された。楼門高く懸かっている額は、明治時代奉納されたもので、戈を止めて武を為すと横書きされている」
「止戈為武」 (しかいぶ)説明
「武は撫なり、止戈なり、禍乱を鎮撫するなり、禍乱を平定して、人道の本に復せしめ、敵を愛撫統一することが、武の本義なり。
武の本義は、人と人との争いを止め、平和と文化に貢献する、和協の道を表した道徳的内容を持つものであり、いたずらに敵を殺し、闘争を求め、敵に勝つことのみが目的ではない」
瑞垣門 八幡神社拝殿
旧本殿の高良社
延徳3年(1491)望月城主滋野遠江守光重により建立され、国の重要文化財に指定されている。
諏訪神社 八幡神社由緒
八幡神社由緒によれば
「創建年月未詳なれど、伝承に貞観元年(858)滋野貞秀公によると言われ、望月三郎公は鬼門除けの神として信仰されたという。「吾妻鏡」 に 「佐久八幡宮御前20騎」 とあるを見ても当時の武将の崇敬の厚かった事が偲ばれます。 延徳3年滋野遠江守光重公建立の棟札に 「仰に彼八幡宮之其始雖送数百歳更不知建立始爰」 とあり、又 「建立始望月御牧中悉致本意云々」 とあり、当時御牧七郷の総社として七郷住民総発起の形で建立された事が考えられる。
その後、天正5年、武田信玄の臣武田佐馬助豊公、滋野卯月斉公馬場遠江守信重、息女弥保姫等によって修理。寛文4年酒井日向守公葺替、元禄11年石川美作守公葺替、さらに牧野藩主となっても代々崇敬篤く、元禄16年、享保9年、寛保元年、天明3年には康満公によって寺尾山、諏訪山の用材を頂き、両佐久、上小諏訪、上州方面からも寄進と相まって本殿の両再建立が行われ、旧本殿は高良社として祀られ、後文化14年、天保14年、嘉永7年、明治31年、昭和9年と営繕が行われ、今日に至っています。 御神徳は古くより地方の守護神として殖産興業、武神縁結び、その他深く厚く各方面の人々に重く崇敬されています」
彫刻のすばらしさに時間を忘れて見入ってしまいました。
八幡神社を出て急ぎ足で進みます。
500m程進んだ右側に
生井大神(井戸水の神)と馬頭観音があります。 その先に観音菩薩
自動車学校の向かい側に一里塚跡標柱があります。
標柱のみで塚は残っていません。
奥の信風遠州流家元 信守斎一宇先生碑
一里塚跡から50m程先を左に進み丘に上ると2基の灯籠、芭蕉の句碑、
大日如来像があります。遠くに浅間山がみえます。
芭蕉の句碑 大日如来像
「涼しさや 直ぐに野松の 枝の形」
広重の八幡宿の絵
歩道橋の横に出て左折します。 中津橋手前のミニパークにあるガイドマップ
ミニパークにある「舟つなぎ石」説明板
「塩名田と御馬寄の間を千曲川が流れている。今は頑丈な中津橋が架けられているから、これを渡るのに何の支障もないが、江戸時代には、これを渡るのは大変なことだった。橋を架けても、洪水で直に流されてしまったからである。しかもここは、江戸時代の主要街道の一つである中山道だったため、橋が流されたからといって、いつまでも放置して置くわけにはいかなかった。
このため地元塩名田宿・御馬寄村をはじめとして、この地元の人々は、渡川を確保するために大変な苦労をしなければならなかった。
木内寛先生の 「中山道千曲川往還橋」 という論文によれば、その橋には次のような変遷があった。
~享保5年(1721)御馬寄が投渡した橋・塩名田側が平橋(両岸から中洲へ架橋)
~寛保2年(1743)御馬寄側が刎橋(はねはし)・塩名田側が平橋
~寛延2年(1750)舟渡し
~享和2年(1803)御馬寄側が刎橋・塩名田側が平橋
~明治5年(1873)長さ70間余の平橋
このように江戸時代を通じて、度々架橋方式が変わったのは、千曲川が 「近郷無類の荒川」 であり、2~3年に一回以上の割合で橋が流されたからである。
幕府が崩壊し、明治時代になると、それまで130村による 「中山道塩名田宿・御馬寄村の間千曲川橋組合」 での維持・管理方式を続けることが出来なくなってしまった。
そこで作られたのが船橋会社で、この会社によって明治6年(1873)に船橋(9艘の舟をつないで、その上に板をかけわたして橋としたもの)が架けられ、渡川が確保されたのである。舟つなぎ石は、その船橋の舟をつなぎとめたもので、だから上部に穴が開けられているのである。その後、明治25年に県によって木橋が架けられ、船橋の役割は終わった、 こうした歴史を、今に伝えているのが、舟つなぎ石なのであろう。 (浅科村教育委員会)」
「中山道歩き 和田宿から岩村田宿まで③」に続きます。