※以下は、このブログで2025年3月1日に配信した「落語」のような「国債」!?を学年通信への寄稿文として書き直したものです。
2月8日の衆議院選挙に高校3年生は足を運んだのだろうか。ちなみに,本校では3年生の約85%がすでに選挙権を持っていた。今回の争点の一つは消費税減税であったが,その財源,とりわけ赤字国債の是非について十分な議論がなされたとは言いがたい。
赤字国債の問題を考えるとき,私は落語「花見酒」を思い出す。ストーリーは以下の通りである。
酒を売って一儲けすることを企てた2人組が,売る酒を買い付けた酒屋から花見客のいる場所まで,酒樽を運んでいく道すがらの話である。最初に,酒を飲みたくなった一方が手持ちのお金で相方から一杯だけ酒を買って飲んだ。そうしたら,もう一方も飲みたくなって,今度は逆に,先ほど受け取ったばかりの同じお金を使って最初に酒を飲んだ相方から酒を一杯買って飲んでしまった。その後も,交互に同じお金を使って酒代を払い合っては,酒を一杯ずつ次々に飲んだ。ついに,花見の場所に着いたときには酒樽が空(から)になっていた,というサゲのある噺である。
お金は回っているが,酒という実物は減っていく。これがこの噺の構造である。では,赤字国債も同じ構造を持つのだろうか。
赤字国債については,「心配はいらない」という意見がある。たとえば,1941年に大政翼賛会が配布した読本『戦費と国債』には,「国債が増えても国民が消化する限り心配はない。国債は国家の借金だが,同時に国民が貸し手である」と記されている。また,昔,積極財政を持論とする当時の首相のブレーンであった経済学者は「政府の債務は国民の資産で,金額はほとんど何の意味も無い」と主張した。
これらの議論の核心は「政府の負債は国民の資産である」という点にある。確かに会計上では,政府が発行した国債は,国民にとっては資産となる。日本国内で完結している限り,国全体で見れば貸し借りは相殺されると説明できる。(日本国債を購入する海外投資家が増加傾向であることは,今回は無視する。)
しかし,ここで注意すべきは,国債によって得た資金が,さまざまなモノやサービスの購入に使われることである。たとえば,それが道路や学校のインフラ,研究開発など,将来の役に立つものに使われるなら,未来への投資となる。将来世代にも恩恵をもたらし続ける投資であるなら問題は小さい。しかしながら,国債による資産が主として現在の世代の消費に充てられ,実態のある資産として将来に残らないのであれば事態は異なる。落語「花見酒」では,お金は2人の間を行き来(循環)している。そして酒は確実に減り,最後には無くなる。同様に,国債の形で資金が国内で循環していても,何かしらのモノとサービスが将来に残らない形で消費されるならば,帳簿の上での貸し借りは相殺されていても,実質的な負担は将来世代に及ぶのではないか。つまり,問題は「誰が誰に借りているか」だけではなく,「何が残り,何が消えていくのか」という,資産が将来に渡って残っていくのかという視点である。
かつて,ある地方自治体の市長が「今の世の中は,上の世代が逃げ切りを図っている」と語ったことがある。落語は笑って終わるが,これからの世代にとって現実の国家の財政は笑い話では済まされない。赤字国債は本当に「国民が国民に借りているだけ」なのか。それとも,実物の資産が姿かたちを残さず消費されて,上の世代の負担が先送りされているのか。(以上の私の議論に,もちろん,経済学的反論を求む。)
投票に行こう。将来に関わる財政のあり方について,今こそ若者の意思を示そう。
以上

