建築の造形(外面)/機能(内面)1~世界編 | ejiratsu-blog

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機械的/有機的1・2

建築と時間・空間

構造主義・記号学(論)と外面/内面

ロラン・バルトの「表徴の帝国」

生住異滅と自然の摂理

正名論・名実論・名分論1~14

~・~・~

 

●建築:道具(施設)的(内面)/芸術的(外面)

 

 建築には、道具(施設)的な側面と、芸術的な側面の、両面があります。

 道具的な側面は、使用・機能を目的とし、知性(合理性)により、「何をするか」の利用価値が優先され、内面(古代ローマの建築家・ウィトルウィウスの「用」)を追求します。

 他方、芸術的な側面は、鑑賞・体感を目的とし、感性(非合理性)により、「何であるか」の存在価値が優先され、外面(ウィトルウィウスの「美」)を追求します。

 ただし、道具は、物体を造形し、それ自体を使用しますが、建築は、物体(外部)を造形しても、その環境(内部)を使用するので、道具というより施設というべきで、絵画・彫刻は、その外側からのみ、物体を鑑賞・体感する一方、建築は、それとともに、その内側からも、環境を鑑賞・体感します。

 それらをまとめると、次のようになります。

 

※建築

・道具(施設)的:使用・機能が目的、知性(合理性)で「何をするか」の利用価値が優先 ~ 内面

・芸術的:鑑賞・体感が目的、感性(非合理性)で「何であるか」の存在価値が優先 ~ 外面

 

※内外部

・道具、絵画・彫刻:物体(外部)の使用、鑑賞

・建築(施設):物体(外部)+環境(内部)の使用・鑑賞

 

 

●社会:階級社会(外面)→市民社会(内面)

 

 ところで、欧米等の社会は、前近代(プレモダン)から近代(モダン)へ、時代の経過とともに、階級社会から市民社会へと移行しました。

 前近代の階級社会は、不平等で、身分・地位・家柄等の「何/誰であるか」の存在価値を優先し、品格・道徳が要求されましたが、近代の市民社会は、皆平等になったので、「何をするか」の利用価値を優先し、能力・智恵が要求されるようになり、それらは、次のようです。

 

※時代と社会

・前近代=階級社会:「何/誰であるか」の存在価値が優先、品格・道徳が要求 ~ 外面

・近現代=市民社会:「何をするか」の利用価値が優先、能力・智恵が要求 ~ 内面

 

 

●美:様式美(外面)→機能美(内面)

 

 建築も、時代や社会に呼応し、前近代のクラシック(古代ギリシア・ローマの古典)・ゴシック建築等は、様式美・装飾美でしたが、モダニズム(近代)建築は、国際様式(インターナショナル・スタイル)といわれ、装飾のない、機能美・構造美(ウィトルウィウスの「強」)になりました。

 それらは、次のようです。

 

※時代と建築

・前近代=クラシック・ゴシック建築:様式美・装飾美 ~ 外面

・近代=モダニズム建築:機能美・構造美 ~ 内面

 

 なお、近代の市民社会には、階級社会にはなかった、公共建築がはじめて必要になったので、その新型施設は、おおむね機能を優先することになり、まず、用途・機能を各要素に分化し、つぎに、各要素間の相互関係性をもとに、部分を集積して全体となるので、秩序・体系が硬直化しがちになりました。

 この手法は、当時乱雑だった都市にも使用され、そこでは、芸術的な側面(鑑賞・体感)より、施設的な側面(使用・機能)の優先が当然なので、インフラの整備(道路・上下水道・ガス・電気・通信等)・用途別のゾーニング(住宅での寝食分離と都市での職住分離は相関)等で、合理化されました。

 

 

●建築:機能性(内面)/造形性(外面)

 

 前述のように、建築が特有なのは、その物体(形態)を見るだけでなく、その環境(空間)を使うことで、そうなると、物体の耐久性(外面)だけでなく、環境の機能性(内面)も、寿命に影響しますが、時代(時間)が経過すれば、建築の機能が、やがて変化することも、多々あります。

 ですが、様式主義のクラシック・ゴシック等の建築は、特権階級・神等が対象のため、時間が永遠なので、空間も不変が追求され、機能主義のモダニズム建築も、当初は、時間の概念を、空間に想定していませんでした(静的)。

 しかし、モダニズム建築は、庶民が対象のため、用途が不変というのはありえず、その寿命に差し掛かると、時間の概念を、空間に想定すべきとなり(動的)、これらを前述の建築の両側面からみると、次のように、まとめられます。

 

※建築

・施設(道具)的=機能性:利用価値「何をするか」 ~ 内面:「用」

・芸術的=造形性(形態・空間):存在価値「何であるか」 ~ 外面:「美」

 

 時間の概念を、空間・形態(造形)に想定すると、機能は、栄枯盛衰のように、動的にみることが必要で、近現代の建築家の言説をまとめると、機能優先か(用から形へ)、造形優先か(形から用へ)に大別できます。

 

 

●機能優先:用から形へ

 

◎ゴットフリート・ゼンパー(1803~1879年、ドイツ)

 

○「主人だけが唯一、必要という芸術を知っている(Nur einen Herrn kennt die Kunst, das Bedürfnis.独語)」:『Vorläufige Bemerkungen über bemalte Architektur und Plastik bei den Alten(古代人における彩色建築・彫刻についての予備的考察)』1834年

○「美の表現は、芸術作品の目的であってはいけない。美は、身体の延長と同様に、芸術作品の必要な性質だ」:同上、脚注

 

 ゼンパーのこの言葉は、ワーグナーの『近代建築』の訳者によると、『様式論』(1863年)が出典とされていますが、誤りで、正しいのは、上記の出典です。

 この言葉は、ゲーテの『芸術と文学における短文(Kurze Schriften zu Kunst und Literatur)1792-97』の中の『美術・工芸品(Kunst und Handwerk)』の、「すべての芸術は、必要から始まる(Alle Künste fangen von dem Notwendigen an;)」が起源のようです。

 ゼンパーの功績は、古典芸術の造形成立の始源・変遷を、不徹底ながらも、外面である様式・装飾から、素材・加工手段・構造等、内面である力学・工学的技術へと、経験的に探究しようとした、最初の人物とされています。

 

 

◎オットー・ワーグナー(1841~1918年、オーストリア)

 

○「芸術を支配するものは必要だけだ(Artis sola domina necessitas.ラテン語)」:『近代建築』1895年、構造

○「実際的でないものは美しいとすることはできない」:同上、構成

 

 ワーグナーのこの言葉は、上記のゼンパーの言葉を踏襲したにすぎませんが、彼は、次のように、主張しています。

 絵画・彫刻は当初、建築に付随することで、美を自立させた一方、建築は、現実の効用・必要に、理想の美・芸術が、加味されてきた歴史があるので、必要と芸術は対立せず、まず必要が優先で、つぎに芸術といえます。

 そうして、その土地の民族が、新しい時代・社会・生活で、建築に新しい目的が必要になれば、その構造は、新しい材料も登場し、その効用や自然に適合するよう、新しい形を生み出すことになり、新しい芸術の形が、新しい様式を漸進的に発展させてきたとみています。

 よって、建築家は、構造の知識・経験と、構成・技術で、芸術の形を創造し、その芸術の形は、近代の構造を見せ、使用材料・機械導入・工事期間を正しく表現すべきだとしています。

 当時は、人々の芸術の言葉への理解不足と、投機により、既成の様式・装飾の外見だけの寄せ集め・模写・真似が流行しており、彼は、近代に不調和だと非難しましたが、これは、芸術家だけの責任だとも指摘しました。

 

 

◎ルイス・サリヴァン(1856~1924年、アメリカ)

 

○「形態は常に機能にしたがう(Form ever follows function.)」:『Tne tall office building artistically considered(高層オフィスビルの芸術的考察)』1896年

○「機能が変化しないところでは、形態は変化しない(Where function does not change form does not change.)」

 

 サリヴァンのこの言葉は、高層のオフィスビルが、接地部では、アクセスのためのエントランスと店舗、中間部では、階数が不定のオフィス、最上部では、構造・光を比較的自由にできる屋根裏と、標準化できるので、それをもとに、3部構成で美的な外観を形成すべきだとしています。

 自然界のすべてのものは、内的な生命・本来の性質を、外的な形体に表現され、認識しやすく、内外が完全にひとつで、切り離せないのが、自然の法則なので、建築も、形態は常に機能にしたがおうとしました。

 なので、彼は、自然の法則のもと、生命の本質を、誕生→成長→退廃→死滅と、動的にみているので、機能が変化しないところでは、形態は変化しないと、静的に条件づけをしています。

 だから、この3部構成は、柱脚・柱身・柱頭、三位一体(朝・昼・夜や手足・胸部・頭部等)、始まり・中間・終わり、植物の根・茎・葉、ひとつの単位を本意とした不本意な3分割といった、形式主義ではなく、機能主義といわれる理由です。

 

[※ルイス・サリヴァンの「形態は機能にしたがう」1~3]

 

 

◎アドルフ・ロース(1870~1933年、オーストリア)

 

○「装飾は犯罪(罪悪)だ(Ornament ist ein Verbrechen.独語)」:『装飾と罪悪』、装飾と罪悪1908年

 

 ロースのこの言葉は、近代になって新しく作り出された様式・装飾を指し、それらの様式・装飾は、もはや我々の文化と有機的なつながりがなく、我々の文化を表現するものでもなく、国民経済・健康・文化の進展を損なうだけなので、罪を犯しているといっています。

 自分の身体を飾り立てたい、自分の回りのものすべてに装飾を施したい、その衝動は、造形芸術の起源ですが、近代人は、文化的に洗練され、芸術が生活の隅々まで浸透していた、過去の時代の様式・装飾を、高く評価する一方、新しい装飾は、稚拙な表現に映り、生活の喜びを高めることはできません。

 つまり、我々の時代は、装飾がなくても生きていけるほど、精神的に強くなり、装飾を克服し、新しい形の装飾が生み出されないことが、むしろ偉大で、日常使用するものから装飾を除くことが、文化の進化といえます。

 そうなると、装飾は、労働力・資材・金銭の無駄なので、その損害は、生産者も消費者も被り、国民経済に対する犯罪で、装飾がなければ、形の美・高級材質・単純明快さ・長寿命等、創意・工夫を他のものに集中できたり、労働時間の短縮・賃金の上昇に転化できたり、健康にもつながるとしています。

 

 

◎ル・コルビュジェ(1887~1965年、フランス)

 

○「住宅は住むための機械である(La maison est une machine a' habiter.仏語)」:『建築をめざして』1923年、もの見ない目Ⅰ・Ⅱ

○「建築は効用性の彼方(かなた)にある。建築は造形性にある」:同上、建築Ⅰ

 

 コルビュジェの「住宅は住むための機械である」という言葉は、機能主義を象徴するまでに、独り歩きしました。

 でも、彼は本書で、道具(施設)的な機能性だけでなく、芸術的な造形性も取り上げており、それらが両立すべきことを、美学の共時的な分析と、建築の通時的な分析で、説明しています。

 まず、美学の共時的な分析として、彼は、工学技師が、悪い道具を捨てて取り換える、道徳的な健全さと、経済的・実用的与件と数学的計算・幾何学的形による、純粋な精神で、自然・宇宙の法則と調和させ、素晴らしく美しい建築をつくっていると指摘しました。

 したがって、彼は、飛行機・自動車に注目し、両者は、けっして鳥・獣を模倣せず、飛ぶ機械・走る機械という論理から発明され、問題を提起し、もっとよいものが要求され、合理化・標準化による淘汰で要求に応え、その数学的秩序・構造が美しいとみています。

 ところが、建築・住宅(家屋)は、悪い道具でも捨てられずに使い続けられ、問題も提起されていないので、彼は、飛行機・自動車の論理と同様、住宅を住むための機械と定義し、機能・実利の要求に応えるとともに、その秩序の美しさで人々を感動させられるとしています。

 その際には、人々に、量産に適する精神状態を、量産家屋を構想・建設する精神状態を、量産家屋に住む精神状態を、作り出さなければならず、道徳的に健全で、芸術的に美しく、家庭で安楽できる、道具的家屋にすべきだと、問題提起しました。

 つぎに、建築の通時的な分析として、彼は、家屋(建築)には、一方に経済的・実用的与件、他方に造形的想像があり、これまでの建築家は、「実用的な要求を整理して、彼の追及する造形的な目的に沿わした」とみています。

 そして、これからの建築家は、様式主義を除外し、人間的尺度・典型的機能等を、プラン(構想)からヴォリューム(立体)・サーフェス(表面)へと秩序化すべきで、その芸術作品の意図の高貴さ・偉大さや、動機の統一・性格で感動させ、それが新しい様式を生むとしています。

 こうして、彼は、「建築、それは仕えるもの」(効用性、文法の構築)と同時に、「建築、それは感動させること」(造形性、詩作)を並存させており、前者のみに特化すれば、工学技師の美学ですが、後者も加味することで、建築家(造形家)の近代的な美学を、創出すべきとしました。

 

 

●造形優先:形から用へ

 

◎フランク・ロイド・ライト(1867~1959年、アメリカ)

 

○「形態と機能はひとつである(Form and function are one.)」:『有機的建築』、有機的建築のキーワード1953年

○「形態は機能を超越する」:同上

 

 ライトのこの言葉は、師匠のルイス・サリヴァンがいうように、本当に形態が機能にしたがうならば、その本質は、形態と機能が一体のはずで、文学にたとえれば、機能は、あくまでも文法にすぎず、形態は、詩に相当し、造形で詩的な創造性を自在に発揮すれば、形態が機能を超越します。

 彼のいう有機的とは、一体性・全体性・統合性・連続性の感覚で、有機的建築は、自然の法則に寄り添い、敷地の環境と調和するとともに、形態と機能や、その構造・素材・装飾等が調和し、外部にある主義・様式等に影響されず、内部から自然発生的に生成され、変化も受け入れるべきとしています。

 

 

◎丹下健三(1913~2005年)

 

○「機能的なものは美しい」:『現在日本において近代建築をいかに理解するか』1955年、Ⅳ機能-空間-表現

○「美しきもののみ機能的である」:同上

 

 丹下のこの言葉は、「生活機能と対応する建築空間が美しいものでなければならず、その美しさを通じてのみ、建築空間が、機能を人間に伝えることができる」という意味で、建築自体に、人間の精神・肉体を感動させる、美しさを持っていることが要求されます。

 現実の生活は、進歩的な(新しい)もの(機械、頭脳・知性)と、伝統的な(古い)もの(芸術、手・感性)が、交錯・葛藤する中で、抵抗・発展すると、動的にみています。

 建築空間は、技術(水準は、新しい前進も古い後退もあり)を手段とした、生活機能の表現で、生活機能-建築空間-生活感情(感動)-生活機能という環の結び付きにより、美しさが伝えられるとしています。

 また、現実の生活は、私的=経済的立場での内部機能と、公的=社会的立場での外部機能が、交錯する中で抵抗・連帯し、内部機能と外部機能の接触する場面に、建築空間の表現があります。

 たとえば、ファサードは、内部機能と外部機能の境界で、ピロッティは、社会的接触の空間・社会的連帯の表現にすべきとされています。

 建築創造は本来、ひとつのものですが、「はじめに機能がある」とする立場と、「はじめに空間がある」とする立場の、相反する両側面が想定されています。

 「はじめに機能がある」とする立場は、認識として本質的で、素朴な機能主義は、機能と空間の対応が一義的なので、内部機能そのものの、ありのままの表現が建築となり、機能の抽出・分化により、空間を限定化しがちになります。

 一方、「はじめに空間がある」とする立場は、直観として根源的で、機能の分化から空間の限定化へと進行させずに、機能と空間の結合の仕方の普遍性を追求し、その究極として、空間を無限定化すれば、空間の限定性-無限定性の輪が成立するとしています。

 結局、空間は本来、限定性と無限定性の統一だと、結論づけており、無限定空間に近代的生活を内包することができる、日本の伝統的民家をイメージすると、わかりやすいです。

 さらに、建築創造は、空間と機能が相互で、本質的(機能側)・根源的(空間側)に対応すべきとし、その責任は建築家にあり、建築家は、認識段階では、環(前述)の中で客観的に体験者となり、実践段階では、環の外で主体的に創造者とならなければならず、これを建築の伝統の創造とみています。

 

 

◎ルイス・カーン(1901~1974年、アメリカ)

 

○「空間はその用途を喚起する(A space evokes its use.)」:『Conversations with Architects(建築家達との会話)、6.Louis Kahn』1973年

○「空間は必要を超越する(It(=a space) transcends need.)」:同上

 

 カーンの言葉といえば、「形態は機能を呼び起こす(喚起する・啓示する)(Form evokes function.)」が有名になっているようですが、彼のいうフォーム(形態)は、心の中の存在と定義され、実際の外形をシェイプとし、両者を使い分けているので、誰かの誤読とみられます。

 彼は、認識段階のオーダー(秩序)→リアライゼイション(現実化)・フォーム(内的・心的形態)→実践段階のデザイン→シェイプ(外的・物的形状)と、想定しており、デザインは、触れ得る存在感と定義されているので、内的・心的な段階がほとんど、外的・物的な段階はわずかなのです。

 そのうえ、彼のいうファンクション(機能)は、用途・必要等の具体的な、物的機能だけでなく、感覚・情緒等の抽象的な、心的機能も重要だとし、機能の内容把握は、簡単でないといい、そもそも機能という言葉を多く使っていません。

 外面と内面の関係について言及したのは、上記のこの言葉が適当とみられ、そこでは、内面(機能)優先から外面(空間)優先へと反転しています。

 

[※ルイス・カーンの「空間は用途を喚起する」「空間は必要を超越する」]

[※ルイス・カーンの言葉1~16]

 

 

◎菊竹清訓(1928~2011年)

 

○「空間は機能をすてる」:『代謝建築論』1969年、Ⅰデザインの方法論

○「形態は機能の推理を刺激する」:同上

 

 菊竹のこの言葉は、サリヴァンの「形態は機能にしたがう」で、様式建築を打破し、丹下の「美しきもののみ機能的である」で、機能主義を成立させ、カーンの「空間は機能を啓示する」で、機能主義の限界を露呈し、その最終段階として、機能不全にも対処できる魅力ある空間が要求されました。

 機能主義の限界の第1は、機能純化・分化による、部分での目的・内容の明確化・自立化と、全体での体系化・階層化(ハイアラーキー)で、いずれも不連続な関係・排他的な独立性で、固定化・硬直化になりがちです。

 第2は、機能の流動的な変化による対処で、すべての建築は、ある時間を経過すると、機能と造形の結合・対応関係がゆるくなり、やがて機能を失い、当時の生活も忘れ去られます。

 だが、そうなっても、造形が素晴らしく美しければ、その空間・形態の主張で、人々が感動・刺激・啓発されるので、新しい機能を発見し、生き残りやすくなり、しかも、機能を捨て去ったことで、その存在自体の造形美の迫力が、強烈になります。

 以上より、彼は、時間の経過による、流動的な変化に対処するには、機能的にアプローチせず(機能は媒介なので間接的)、空間的にアプローチし(空間は直接的)、空間そのものを実体的・構造的に理解したうえで、それを構成・組織化すべきとしています。

 そのため、特定の機能で限定・強制・拘束する空間を、自由に振る舞える空間と、明確に分離し、前者は、動く空間、後者は、動かない空間と設定すべきで、動く空間には、ムーブネット(可動生活装置の単位)の概念を導入しました。

 これは、カーンのサーバントスペースとマスタースペースの対立と類似し、ここから代謝更新(メタボリズム)・進化の概念に発展させています。

 

[※か・かた・かたち]

 

 

 ここまでみると、道具(施設)的な機能優先に大別した、ワーグナーやコルビュジェも、芸術的な造形との両立を、意図していたことがわかります。

 

(つづく)