建築の造形(外面)/機能(内面)2~日本編 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

●中国思想:体と相/用、名/実

 

 中国には、体(本体、本質)という本然的(一元的)な見方と、外面の相(様相、造形)と内面の用(作用、機能)からなる分節的(二元的)な見方があり、このうち、本体と作用による体用論が有名で(文法の体言・用言に関連)、清王朝が西洋文明を導入する際には、中体西用をスローガンにしました。

 また、中国では、諸子百家の時代から、外面の名(装い)と内面の実(働き)の関係に注目し、名と実のズレなしを前提とした、本然的な名実一体と、名と実のズレありを前提とした、分節的な名実一致か名主実従(儒家、正名)か実主名従(道家、名は実の賓)かが、繰り返し取り上げられてきました。

 相・用と、名・実は、次のように、対比できます。

 

※体の内外面、名実

・外面:相(様相、造形)、名(装い)

・内面:用(作用、機能)、実(働き)

 

 このような中で、漢字を使用する日本は、哲学・芸術関連の外面的なものを、外見(アスペクト)、様式(スタイル)、形式(フォーム)、様相(モダリティ)、形相(古代ギリシア語のエイドス)等と、表記しています。

 

 

◎原広司(1936年~)

 

○「機能から様相へ」:『空間<機能から様相へ>』1986年

 

 原のこの言葉は、近代建築では、機能なる概念を考察し、均質空間にまで行き着くとともに、近代抽象芸術が流行したことで、現代建築では、様相なる概念を誘導するという、将来の予想です。

 彼は、建築の近代(モダン)と現代(後近代/ポストモダン)の特性を図式化しましたが、前近代(プレモダン)も勘案すると、次のようになります。

 なお、現代建築が、機能を取り込んだ様相、身体を取り込んだ意識、機械を取り込んだエレクトロニクス装置になると主張したのは、近代建築を乗り越えるためで、その様相は、前近代末期のネオ系・リバイバル系建築の形骸化(外面が内面から乖離)した様式(外面)へと、回帰するためではありません。

 

※時代:建築

・前近代:様式が優先 ~ 様式美・装飾美

・近代:機能(内面、働き)が優先、フィジカルな身体への関心、機械の時代 ~ 機能美・構造美

・後近代:様相(外面、装い)が優先、意識への関心、エレクトロニクス装置の時代 ~ 造形美

 

 まず、近代は、機械の時代といえ、諸々の事物を相互に関連させることで、合理的に機能させる、道具を前提としているので、関係の時代ともいえます。

 当時は、神を建築者とする、「宇宙という機械」・「自然の機械」の完全さに比べれば、人間の技術で造る実際の機械は、不完全なので、環境の変化にともない、その都度、プラグマティックな(理論は実践の中にあるとする)態度で改善していき、うまく作動させるようにしていきました。

 こうして、関係を可視化した機能美や、関係を梱包(パッキング)する機械を可視化した構造美が、表明されましたが、その際には、平等化・抽象化・標準化された人々を設定し、彼らのフィジカルな身体が生み出す行動の相互関連性に関心が集中したので、それを普遍的な関係性にしてしまいました。

 

 つぎに、近代は、機能的・合理的な要請から、無装飾の建築が普及すると、建築に付属していた絵画・彫刻が、建築から自立せざるをえなくなったうえ、機械の発達で、写真が発明されると、絵画を中心に、写実の意味が大幅に低下したので、隠喩的表現の抽象芸術が流行しました。

 なので、近代抽象絵画の成立基盤は、近代建築とは真逆で、道具的側面はわずか、芸術的側面がほとんどで、内外両側面は、次のように、対比できます。

 

※両側面

・道具的:機能が優先、身体の利便(働き)・快適に関心、日常、機械 ~ 内面

・芸術的:様相が優先、意識の喚起(驚き)・快適に関心、日常の異化、作動しない機械 ~ 外面

 

 近代建築は、機能(内面)により、人間の身体(外面)を行動させ、利便(働き)を追求するので、物理的といえる一方(物の内面から人の外面へ)、近代抽象芸術は、様相(外面)により、人間の意識(内面)を発生させ、喚起(驚き)を追求するので、心理的といえます(物の外面から人の内面へ)。

 

 さらに、近代は、社会的・経済的な要請から、ガラスのカーテンウォールによる高層オフィス建築等、均質空間(ユニバーサル・スペース)が出現しました。

 そこでは、これまでの近代建築のような、諸要素の相互関連による関係の設定を放棄し、あらゆる要素を迎え入れたので、雑多な諸要素の同時存在・混成が、日常的・支配的になり、均質空間は、何でもでき(万能)、空調環境を確保できれば、どこでもつくれます。

 そうして、非日常の近代抽象絵画のような、雑多な諸要素の同時存在・混成の現象が、建築でも日常化すると、それがオフィス・デパート等の屋内空間だけでなく、商業地・住宅地の屋外空間にも蔓延し、現代は、千差万別の商品・看板・外観等が満ち溢れています。

 そうなると、揺れ戻しもおこり、「何でもできる」ではなく、「何であるか」(関係の表層)、「どこでもつくれる」ではなく、「どこにあるか」(関係の場所)が重視され、均質空間の真逆から、関係を取り戻そうとし、建物自体や地域環境の性格を表現しようとする、現代建築も登場しました。

 ここでの、「何でもできる」・「どこでもつくれる」は、道具的な利用価値(内面)の極限で、「何であるか」・「どこにあるか」は、芸術的な存在価値(外面)の反動です。

 

 一方、道具的側面と芸術的側面を、関係について注視すると、次のようになります。

 

※関係

・道具的:相互関係性、全体の部分化、一様・明確な意味の分解、固定的・絶対的 ~ 内面

・芸術的:関係のズレ・切断、部分の全体化、多様・曖昧な記号の集積、流動的・相対的 ~ 外面

 

 近代建築・都市は、道具的側面を優先し、相互関係性に配慮した全体のゾーニングから、部分を一様・明確な意味に分解する際に、機能を限定的にしてしまい、固定的・絶対的になりました(たとえば、食寝分離・職住分離)。

 それが、近代の抽象芸術と均質空間の登場で、雑多な諸要素の同時存在・混成の現象が、日常的・支配的になると、総体による機能の統制から、個体による意識の自由へと、優先順位の転換も誘導され、これは、工業社会から情報社会への移行が想起できます。

 よって、現代建築・都市は、芸術的側面を優先し、関係が切断された部分のイメージの断片から、全体を多様・曖昧な記号に集積する際に、様相を魅力的にすべきで、流動的・相対的になります。

 その様相は、表面の見えがかりの寄せ集めを、組み合わせてコラージュする造形美になりますが、近代建築のような、ズレ・切断のある関係の可視化になるのでしょう。

 そして、彼は、様相の感覚が、「経路」で束ねて重ね合わされる際の、美的理念・論理体系の価値基準を、「夜明け」と「夕暮れ」の過程についての論考で、基礎づけられるのではないかとしています。

 また、近代建築は、機能で人間の身体を、物理的に行動させるので、力学的な、機械を想定していましたが、現代建築は、様相で人間の意識を、心理的に発生させるので、コンピュータ内蔵の、電子工学・情報工学的な、エレクトロニクス装置を想定できるのではないかとしています。

 

 

◎山本理顕(1945年~)

 

○「空間の配列が、そこに帰属する人間関係を規定する」:『住居論』空間配列論-<閾>という概念をめぐって、1992年

○「<閾(しきい)>による住宅という空間ユニットに拘束される人間関係を、家族と呼ぶ」:同上

 

 山本のこの言葉は、人間の帰属意識を規定し、共同幻想を保証するのは、抽象的な理念・情緒ではなく、具体的に現実化・形式化・可視化された場所・建築・空間の配列で、たとえば家族も、外界から閾で切り取られた、住宅という空間ユニット(単位)に拘束されることで、関係を補強するとしています。

 この閾とは、2つの互いに性格の異なる空間の境界にあり、切断・接続で制御しつつ、両者の性格・固有性を保存・変質させないための空間的装置です。

 つまり、彼は、空間の配列が、空間の性格を決定し、人間の行動・意識に作用するとみており、パブリック/プライベート・コミュニティ/プライバシー等、集団/個人の概念や、境界の開放性/閉鎖性も、元々それ自体が、空間の概念なので、空間の配列そのもの・交流の関係とみるべきなのです。

 それに、住宅は、計画者が、一家族に一住戸が対応する、ゆるぎないユニットだとするのを前提とし、実際の生活を反映するのではなく、居間には一家団欒、夫婦の寝室には愛情、子供部屋には学力向上という、期待を詰め込み、居住者には、理想的な家族像・生活像を表現したものと、刷り込まれています。

 特に住宅は、分譲の集合住宅・建売の戸建住宅が主流で、利用者の要求を建物に取り入れることは、ほぼないので、住宅の空間配列(外面)が、生活行為(内面)を規定するといえ(物の外面から人の内面へ)、これは、近代抽象絵画のような、芸術的側面なので、近代建築の道具的側面とは、対照的です。

 ちなみに、コルビュジェは、人々に、量産に適する精神状態を、量産家屋に住む精神状態を、作り出さなければならないとし、これは、近代抽象絵画のような、芸術的対応ですが、従来の固定観念を打破すれば、道具的家屋に到達するといっているので、やがて造形(外面)が機能(内面)するのです。

 

 ところで、住宅の背景は、時代の変遷により、社会や家族も変化するのが影響しており、次のように、その社会に適切な、新しい家族形態へと転換していくのが、自然の法則なので、古い家族形態が形骸化しても、新しい生活様式に、古い住宅が追い付けず、ズレていくのです。

 

※時代=社会:家族

・前近代=農業社会:大家族

・近代=工業社会:核家族

・後近代=情報社会:単家族

 

 したがって、彼は、そこから、今後急増する単家族が、プライバシーとセキュリティの徹底で孤立化せず、集まって住むのに快適な、地域社会圏のモデルを提案し、核家族に特有の「一家族=一住宅」から、脱却しようとしています。

 

(おわり)