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古代文明は、呪術的感情・思考により、物の名称に敏感で、たとえば人名において、エジプト・インドでは、本名と通名を使い分け、中国では、誕生時には「名」が(死亡時には「諱/いみな」になります)、成年時には「字(あざな)」が、つけられ、これは、前近代の日本の特権階級も、採用しています。
「名(諱)」を呼べるのは、父母・君主・師匠等の目上の者に限られ、それ以外の者は、無礼になり、『孟子』には、「名を諱(い、忌)んで、姓を諱まないのは、姓は(一家・一族で)同じものだが、名は独りだけのものだからだ」(14-259)とあり、政治では、「字」よりも、官職名が使用されました。
特に前近代の中国帝王(天子)の「名(諱)」は、タブー化され(避諱/ひき)、地名・文書等で使用できなくなったので、改名・異字での代用等で対応することになり、相当厄介だったようです。
そのうえ、中国では、物の名称とともに、文字にも敏感で、象形文字の漢字には、神秘的・宗教的な力があると信仰・崇拝され、殷王朝では、占いでも使われ(甲骨文字)、文字は、特権階級から庶民へと普及し、都市に看板・ビラ等が氾濫しました。
中国の宗教は、儒教・仏教・道教等がみられましたが、それらに共通し、名を尊ぶ教え(名教)が重視され(儒教等の諸子百家の正名・名実・名分、仏教の読経・写経、道教の呪詛/じゅそ・護符)、名教は、六朝時代(三国の呉・東晋+南朝の宋・斉・梁・陳)以降、儒教の別名になるほどでした。
日本でも、中国から漢字を摂取した古代に、大和言葉も重視され、言霊(ことだま、言魂)信仰が登場しており(神道の祝詞/のりと、修験道の御札等)、律令制下の大和政権は、漢詩(『懐風藻』751年成立)と和歌(『万葉集』8世紀後半成立)を並置させています。
ここでは、中国由来の、名称に関連した正名論・名実論・名分論を、取り上げることにします。
■正名論・名実論・名分論の根元の「論語」
孔子(紀元前6~5世紀、春秋時代)の言行を死後に弟子がまとめた『論語』では、正名論・名実論・名分論が、3者ともみられますが、その語句がそのまま、文面に登場するのは、正名のみで、他は内容が、名実・名分です。
一方、物・事・人等は、内外両面で二分され、その相互関係を検討する傾向にあり、たとえば中国では、統一した見方の「体」(本体)を、外面的な「相」(様相、装い)と、内面的な「用」(作用、働き)に、二分した見方もあり、正名・名実・名分の両面をみると、次のようになります。
※物・事・人等の両面
・外形=外面の形式・様相(装い):名(名目)
・内容=内面の思想・作用(働き):実(実質)、分(分限)
なお、中国語は、品詞が単語によって固定されず、あらゆる漢字が名詞になりえますが、特に抽象的な名称(名)は、従来の意味(実)から離れやすいので、その都度、正そうとすれば、…→名実一体→有名無実→正名→名実一体→…を繰り返すことになります。
●「論語」の正名論
正名は、内面的な実から離れた外面的な名を正すことで、名実一致させるのを目的とし、言語的な正名と、政治的な正名に、大別できます。
このうち、『論語』には、政治的な正名が取り上げられ、「孔子が政治するならば、まず(実から離れた)名を正す」(13-305)とあります。
○儒家:孔子『論語』子路第13(305):「政治は、まず(実から離れた)名を正す」
・子路曰、衛君待子而為政、子将奚先。
子曰、必也正名乎。
子路曰、有是哉。子之迂也。奚其正。
子曰、野哉、由也。君子於其所不知、蓋闕如也。名不正、則言不順。言不順、則事不成。事不成、則礼楽不興。礼楽不興、則刑罰不中。刑罰不中、則民無所措手足。故君子名之必可言也、言之必可行也。君子於其言、無所苟而已矣。
[子路(しろ)いわく、「衛君、子を待ちて政(まつりごと)をなさば、子まさにいずれをか先にせんとす。」
子いわく、「必ずや名を正さんか。」
子路いわく、「これあるかな。子の迂(う)なるや。いずくんぞそれ正さん。」
子いわく、「野(や)なるかな、由(ゆう)や。君子はその知らさざる所において、けだし闕如(けつじょ)たり。名正しからざれば、すなわち言うこと順ならず。言うこと順ならざれば、すなわち事成(な)らず。事成らざれば、すなわち礼楽興(おこ)らず。礼楽興らざれば、すなわち刑罰中(あた)らず。刑罰中らざれば、すなわち民、手足(しゅそく)を措(お)く所なし。ゆえに君子これを名づくれば、必ず言うべきなり。これを言えば必ず行うべきなり。君子はその言(げん)において、苟(いやし)くもする所なきのみ。」]
《子路(孔子の弟子)がいう、「衛の国の君主が、孔子(先生)を招待して、政治をするならば、孔子(先生)は何を先にしようとしますか。」
孔子がいう、「必ず(実から離れた)名を正すだろう。」
子路がいう、「これがありますな。孔子(先生)のくどい(言い回し)ですな。どのようにしてそれ(名)を正すのですか。」
孔子がいう、「粗野だな、子路は。君子はその(自分の)知らないことにおいて、思うに、抜け落ちている。(実から離れて)名が正しくなければ、つまり発言が順当でない。発言が順当でなければ、つまり仕事が成就しない。仕事が成就しなければ、つまり礼・楽が振興しない。礼・楽が振興しなければ、つまり刑罰が適合しない。刑罰が適合しなければ、つまり民が手足を振る舞う場所がない。よって君子はこれ(実に合ったもの)を名づければ、必ず発言すべきだ。これ(実に合った名)を発言すれば、必ず実行すべきだ。君子はその(実に合った名の)発言において、間に合わせにすることはないのだ。」》
●「論語」の名実論
名実は、年月が経過すれば、やがて有名無実化(形骸化)するのが、自然の摂理なので(無常)、それを許容するか、正名の作為で、名実一体化しようとするかの、選択になります。
『論語』には、言語的な有名無実が取り上げられ、「角のあるサカズキに角がなければ、(なぜまだ)角のあるサカズキなのか(名が実から離れたのに怒っている)」(6-142)とあります。
○儒家:孔子『論語』雍也第6(142)「觚は有名無実」
・子曰、觚不觚、觚哉、觚哉。
[子いわく、「觚(こ)にして觚ならずんば、觚ならんや、觚ならんや。」]
《孔子がいう、「角のあるサカズキに角がなければ、角のあるサカズキなのか、(なぜまだ)角のあるサカズキなのか(名と実が離れた現状に怒っている)。」》
また、名実は、名実一致(名実調和=文質彬彬)だけでなく、有名無実に寛容の実主名従や、名実一体に固執の名主実従もみられ、『論語』には、この3者が取り上げられ、「質(実質)が文(名目)に勝れば野性人、文が質に勝れば書記官で、文と質が調和すれば、それで君子となる」(6-135)とあります。
○儒家:孔子『論語』雍也第6(135)「実主名従は野性人、名主実従は書記官、名実調和は君子」
・子曰、質勝文則野。文勝質則史。文質彬彬、然後君子。
[子いわく、「質(しつ)、文(ぶん)に勝(まさ)れば、すなわち野(や)なり。文、質に勝れば、すなわち史(し)なり。文・質に彬彬(ひんぴん)として、しかる後に君子なり。」]
《孔子がいう、「実質(内面)が文飾(名目、外面)に勝れば、つまり野性人だ。文飾(名目)が実質に勝れば、つまり書記官だ。文飾(名目)と実質の(内外が)調和すれば、そののちに君子となるのだ。」》
おおむね、儒家は、名実一致が理想ですが、やがて名実でズレるのが現実なので、名主実従(有名)を作為する一方、道教は、名への執着を、自己満足の正当化にすぎないと批判し、実主名従(無名)が自然なので、両者は対照的です。
●「論語」の名分論
名分は、外面的な名(名目、装い)に応じて、内面的な分(分限、働き)を守ることで、儒教では、君臣間と父子間が道徳の基本とされ、『論語』には、この2者が取り上げられ、「君・臣・父・子は、君・臣・父・子としてある」(12-289)とあります。
○儒家:孔子『論語』顔淵第12(289)「主君・臣下・父・子は、主君・臣下・父・子としてあるべき」
・斉景公問政於孔子。
孔子対曰、君君、臣臣、父父、子子。
公曰、善哉。信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾得而食諸。
[斉(せい)の景公(けいこう)、政(まつりごと)を孔子に問う。
孔子対(こた)えていわく、「君は君たり、臣(しん)は臣たり、父は父たり、子は子たり。」
公いわく、「善きかな。信(まこと)にもし、君、君たらず、臣、臣たらず、父、父たらず、子、子たらずんば、粟(ぞく)ありといえども、吾得てこれを食わんや。」]
《斉の国の景公(26代)が政治について孔子に尋ねる。
孔子が答えていう、「君主(名)は君主として(分)、臣下は臣下として、父は父として、子は子としてあるのです。」
景公がいう、「よいことだな。本当にもし、君主が君主でなく、臣下が臣下でなく、父が父でなく、子が子でなければ、アワ(食糧)があっても、私はどのように得て、これ(アワ)を食べるのか。」》
(つづく)