ショーエイのアタックまんがーワン -3ページ目

ショーエイのアタックまんがーワン

タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

どうも・・・ショーエイです。

アメリカ大統領選の結果が出ました。

この結果は米国民がトランプを選んだというより、

バイデン政権に米国民がうんざりし、

トランプの方がマシだという判断になると言えます。

そういいう意味では、現状どちらが最悪かで選んだ選挙です。

 

結局のところカマラ・ハリスに変わっても、

変化が望めないことを痛感しての形だったと言えます。

まあ、当ブログではこの辺を以前に話したわけですが、

どうやらその通りになった感じで、

驚きではありません。

 

さて、トランプがホワイトハウスに返り咲いてどうなるか…

殆どの人がトランプの行動を

読めないという形で困惑してますが、

彼が実際に何をしたいのかを察すれば予測はつきます。

 

【トランプの目的とは…】

彼は「アメリカを再び偉大な国にする」と豪語してます。

普通の人が困惑しているのは、

アメリカファーストになるという点ばかりを気にするからです。

ところがトランプの本心は、

「自分を偉大にしたい」

この点は以前に動画で皮肉ったとおり、

自分が偉大な存在になりたいというだけです、

その辺の違いを理解したうえで考慮すれば、

意外とトランプという人物像は見えてきます。

上の写真は銃弾に逃れた時の写真ですが

この様なイメージで、

自分が英雄として名前を刻みたいという感じなのでしょう。

 

では、彼はどういう英雄に成りたいのか…

簡単な話、彼の言動から察するに、

カエサルことシーザーの様な英雄として、

歴史上に名前を残したいという事です。

勿論、カエサルはローマ時代に多数の戦歴を持ち、

多くの軍功を上げています。

カエサルに成りたいという言葉で、

その辺を混ぜて考えるとまた困惑します。

トランプの目指すカエサルの部分は、

共和制ローマから帝政ローマに移行する際の、

永世独裁官になったという点です。

いわば絶対無二の存在として、

ローマを支配したという部分で、

同じ共和制のアメリカで同じような存在として

歴史に名を刻みたいという事なのですが…

難しい話…別段、独裁者になりたいという訳でもありません。

 

ただ、トランプの性格上、

議会の採決で法案が決まるという、

いわば他人が多数決で判断して国を運営するよりも、

自分だけの裁量ですべてを決断できる方が

スムーズかつ物事を進めやすいという事です。

ある意味、国をワンマン経営の会社にしたいという事です。

こういう意味で彼はカエサルを目指したい、

いわば永世独裁官として自分がアメリカをリードして、

世界全体を支配して平和を齎し、

歴史に英雄として名前を刻みたいというのが目的なのです。

 

さて。彼が大統領に成りたかった目的は、

要するにこんな感じなわけです。

ある意味独裁者な訳ですが、

そこだけを警戒して身構えても、

寧ろトランプを暴走させるだけなのです。

逆な視点で物事を言えば、

彼が英雄に成れるように助言できれば、

トランプも耳を貸すということです。

二期目の大統領として彼が最も恐れる点は、

「凡庸な大統領で終わる」

という事です。

凡庸な大統領とは…

トランプにとって歴代大統領の業務は凡庸に過ぎない。

反対に初代大統領ジョージ・ワシントンであり、

トーマス・ジェファーソン、ジェームス・マディソンら、

アメリカ建国の祖として名を刻んだ人物であり、

奴隷解放という歴史的な決断をした、

エイブラハム・リンカーンは医大と認識する意味で、

それ以外の功績は

歴史的に大きな評価を得ていないという点で、

凡庸という事になる。

なのでトランプは何か歴史上に

大きな痕跡を残す事業をしたいと願ってるのです。

そして凡庸以下の最悪のレッテルは避けたいと願う所もあり、

実は寧ろこちらの方が厄介になる点は否めないわけです。

 

いわばアメリカ合衆国の衰退の要因になることで、

それ故に

アメリカ・ファーストを謡っているという感じになるわけです。

いわば…「トランプのせいでアメリカはダメになった」

という歴史的な評価だけは許せないといった心情という話です。

 

【普通の政治家との違い】

普通の政治家、特に民主制の政治家ですが、

彼らは政治で「何をしたい」ではなく、

「何が出来るのか」で物事を考えます。

ある意味、多数決で決める民主制に於いては

理性的な思考です。

ただその中で何か結果を残す話になると、

発想はショボいです。

ショボいというのも何かを初めて行ったで満足するからです。

目的がほぼ無いとも言っておきます。

安倍元首相にしても、

日本初の憲法改正に着手した人を目指していた程度で、

憲法解釈の変更という建前で憲法を無視するようなら、

ある意味、憲法改正の必要性はないという流れに成ります。

何が出来るかで考えるレベル故に、

何かをする時は、合理的な意図はなくとも、

何か出来ただけの結果で満足するのです。

 

故に…「何かをしたい」で動く政治家の考え方とでは、

思考の構造が全く異なって理解できない状態に陥るわけです。

ただし、「何かをしたい」でも、目的遂行のために「何をするか」

そして勿論、「何ができるか」現実的なロードマップが構成できないと、

寧ろ「何が出来るか」で考えているだけの人よりも

質が悪くなるのも事実です。

いわば「何かをしたい」で動く人は

科学者の様なタイプが多いのですが、、

中には「何ができるか」を考えずに行動する人も居るという事です。

トランプの場合は科学者タイプでない「何かをしたい」人ゆえに、

扱いがかなり難しくなるのは事実です。

逆にイーロン・マスクは科学者タイプの

「何かをしたい」人なわけで、

トランプがイーロン・マスクの様な人物が好きなのも、

自分の何かをしたいに答えてくれる頭脳があるからと言えます。

 

【「何かをしたい」と「何が出来るか」の思考の違い】

「何が出来るか」で考える人はインテリが多いわけで、

学歴的には優秀で、かなりの情報に精通した人も居ます。

故に理性的なことは間違いありません。

一般的に頼れる人や優秀と思われる人物です。

寧ろ「何かをしたい」だけの人は、

博打的な行動に出る人が多く、

浅い情報で動いてしまう故に、

一般的には危うい感じで見られます。

所が、ここが馬鹿と天才は紙一重という部分で、

科学者タイプも「何がしたい」で動くのです。

IQという形で思考のレベルで表現すると

以下の様な形に成ります。

 

低IQ⇒「何かをしたい」ほぼ欲求に任せて行動するタイプ

            ↓

忠IQ⇒「何が出来るか」を把握して自分が出来る中で生きていく。

            ↓

高めのIQ⇒「何かをしたい」中で目的達成のための方法を

       学習や経験から学び、あらゆる手段で着手する。

       失敗を恐れず、失敗を経験にして改善していく。

            ↓

高IQ⇒情報を精査してできる範囲を明確に定め

     その中で「何が出来るか」を探り出す。

     ※科学的には定説と仮説の区別なく、有力な説に準じる。

     可能な事を優先し、失敗する事は排除して考える。

            ↓

天才⇒「何がしたい」かを優先し「何が出来るか」の中から

    「何が出来ているか」と「何が出来ていないか」を分別し、

    「何が出来るか」を広げながら「何がしたい」を研究する。

    失敗ではなく不可能を排除しながら、

    可能性を最大限に探求して思考する。

 

上記の構図の中で、中IQと高IQは相性がいいです。

更に高めのIQと天才も相性が良いです。

中IQと高IQの人にとっては、低IQのタイプと、

高めのIQと天才が類似して見えるため、

あまり好感されて見られないのも事実です。

 

トランプがどこに当てはまるかは察するところでしょう。

欧米の政治家を高IQのところに当てはめると、

失敗する可能性を考えて思考するため、

可能性だけの話で失敗するかどうか解らないという

トランプのタイプとでは議論に成りません。

逆に天才からすると…

失敗するという可能性で考えている部分に、

「何が出来ていないか」を把握し、

それが可能性を下げている点まで見出せるのです。

 

ロシアとの関係で考えるなら、

ロシアを信用するのは危険で、

信用して油断すれば

ロシアがヨーロッパへの侵略を推し進める 

という思考で考えます。

欧米の安全を考えるなら、

信用せずに防衛を強化しておく方が安全な訳です。

仮にロシアを信用して経済的に結びつき、

ロシア経済を強化する形に成れば、

ロシアはその影響力で欧米に圧力を掛けてくる。

これが高IQの思考です。

では…

戦争を前提にロシアの関係を考えるのが健全か、

経済的な競争力でロシアとの関係に対抗するのが健全か?

ここが「何ができていないか」の部分で、

いわば「何が考えられていないか」の部分になるのです。

更には文化的な影響力であり、

それから世代的な思考の変化、

これらは明らかに欧米有利な点です。

そういう点まで見据えて、

ロシアを敵国扱いする考え方は

不毛の策と断定するわけです。

 

中国にしても同じで、

いずれは中国が技術的にアメリカを凌駕するかもしれません。

ただし、日本がそうであった時代もあるわけですが、

文化的な流れで日本は寧ろ欧米に流れてしまったわけです。

これによりサッカー人気が高まったり、

MLBやNBAに憧れたりという文化的な共有が浸透したわけです。

中国との関係も、同じように考えることで、

寧ろ文化的な融合の面で将来的な安全保障を考える方が、

効率的に有効性が高くなるのです。

 

まあ・・・トランプの場合、中国に対しては後ろ向きみたいですが…

  

【トランプは意外と合理的な意見が好み】

安倍晋三は合理的な思考ではなかったわけで、

故にトランプに対して子分の様にするしかなかった。

 

前述の通り、トランプの目的は何か偉業を為したいわけで、

こうした点で合理的な話がトランプにできるのなら、

彼は喜んで耳を貸すでしょう。

ただしトランプの偉業として成立するような内容でないと、

彼はj興味を持ちません。

まあ、面倒くさいのですが、

そういう所を上手く使う事なのですが・・・

 

トランプがイーロン・マスクを参謀として

どれ大事にするかでも変わってきます。

勝利演説でかなりイーロンを持ち上げていたので、

現状、良い関係性にあると考えれます。

 

イーロンがトランプの参謀になることを前提に、

上記のIQタイプの構図を出したわけですが、

ザックリと話すと、

世界が対立でなく平和的に纏まる話でないと、

今後しばらくは通らないとも言えます。

 

イーロン・マスクは結構豪快な事をやりますが、

かれの思考は平和的で、

国同士の対立ではなく、国同士の繋がり、

あるいみグローバル経済化を望みます。

強欲な意味でも、

そのほうがイーロンも各国相手にビジネスしやすいから、

という形で考えてもいいでしょう。

 

頭の悪い人は、強欲な面だけを強調して、

その人間性まで疑うわけですが、

強欲な思考と、平和的な思考が合致する方が、

実は人間性として合理的で

説得力があるという風に考えるべきです。

いわば平和的なつながりの方が、

合理的に儲かるというのなら、

その方がより多くの人にとっても、

有難い話だからです。

 

その反対は軍事産業を儲けさせるのと同じなわけで、

緊張感高まる外交状態で、

防衛防衛を意識させて、

軍事産業の営業に乗っかって考えてる方が、

寧ろ間抜けといってもいい話です。

ならばスターリンクを儲けさせる方が良いのでは?

 

人間誰もが自分の利益を優先するのだから、

他人のそれを否定して考えるのは愚かしいことです。

反対に何を売ろうとしているのかで考えて、

平和的な商品のビジネスなのか、

それとも好戦的な商品なのか?

そこで判断することの方が大事なのです。

 

【警戒してもトランプの最初の2年間は・・・】

トランプが仮に本当に終生大統領を目指すなら、

憲法改正が必要になります。

現状、共和党が議席数で両院半数を握ってますが、

結局は議会の2/3が必要で、

そのあと各州議会の3/4の賛同が必要になるという手続きです。

 

これらから賛同を得るためには

相当な実績を最初の2年間で残さなければならない為。

どれだけ良い大統領を演じられるかに掛かってきます。

まあ、トランプではほぼ不可能に近い話なので、

1年ほどで崩れると思います衣が、

2年くらいは頑張ってみてほしいです。

2年後には中間選挙があります。

そこで議会の2/3を共和党が占めれば、

トランプの目的に近づくわけですが…

まあ、米国民はバイデンやハリスよりマシで選んでいるので、

トランプを増長させるような形は

どのみち無いと考えていいと思います。

 

さて我慢して良い大統領を演じて

次の2年間にやりたいようにやれば

トランプの評価は凡庸なポンコツで終わるでしょう。

寧ろ本当に歴史に名を刻みたいのなら、

国連改革に着手するべきで、

国連事務総長の選挙システムと、

国連議会制度構築などを推し進めて、

国連による世界政府を構成すれば、

歴史上に偉大な大統領として名を遺すかもしれません。

その上で初代選挙で選ばれる国連事務総長になることも

ある意味ありうるという事です。

そうすればジョージ・ワシントン並みの名声が得られます。

 

ある意味、他のアメリカ大統領ではここに着手しません。

なぜなら彼らは「何ができるか」でしか考えないから。

ある意味、世界政府を作るより、

国連事務総長の指名権に米国の関与が高い状態の方が、

アメリカにとって望ましいからです。

トランプも所詮はアメリカ・ファーストなので、

その程度と同じと思いますが、

本気で偉大に成りたいと考えて実際にできることは、

実はこうしたことなのです。

 

【中国が台湾進攻に踏み切るか?】

ぢっかの著名人は、

中国が台湾進攻に踏み切るなんて予測を立ててますが、

中国が台湾進攻に踏み切る条件は、

ロシアが共に戦える状態にあるときです。

ウクライナとの戦争が休戦状態になったら、

中国は台湾進攻のタイミングを見失います。

仮に習近平氏がそこに踏み切った場合、

時期を見誤った者として晒し物にされるでしょう。

 

【トランプは既に経験済みで免疫がある】

いわばまたトランプか…

2025年以降の4年間はそんな状態です。

トランプが変わらずあの調子なら、

アメリカをあきらめて以前の通り振舞うしかないです。

 

まあ、いい方向で滅茶苦茶やってくれればいいですが、

あまり多くは期待しません。

ただ、この結果を受けて、

米国民がバイデン政権にNOを突き付けたのは幸いで、

実際に米国民が望んでいるのは、

世界平和だという事なのでしょう。

 

国連事務総長と国連大使または国連議員の

選挙制をもとに

「何がしたい」と「何ができるか」で考える人の

違いを説明します。

「何がしたい」人は、

これらの選挙制を制度化したいわけです。

選挙と言えば聞こえがいいが、必ずしも簡単ではありません。

「何ができる」で考える人は、

中国などの民主制でない国が

まともに選挙で選ばない、または不正で選出することを言います。

普通はここで「何がしたい」の思考は止まります。

でも、まず現状、どの国も政権の意向で

大使を選出しているわけですよね。

では、元々が選挙的に不正がある状態があたりまえという事。

まあ、民主制国家は選挙で政権が選ばれて

その政権が大使を送っているのだからと言いますが、

それとは別に選挙でえらんでも良いのではという事。

まあ、機能面で国連は外交の場で

政府ではないという話に成れば別ですが、

では、世界がまとまりのない状態は

国連で各国が外交上の機能をマヒさせているからで、

国連がどう動くかは関係ないという事で終わりです。

 

議会制にするという事は、

国の政権運営とは別に、

世界平和を議論する場とする意味です。

また例えるなら、米国の場合、

国連議員が民主党で選ばれ、

大統領と議会が共和党だった場合、

外交問題を議論する形が

民主党と共和党の違いで解りやすく反映され、

国民はそれも参考に考えやすくなります。

いわば国家運営と外交議論を別に見れる場としたいのです。

その上で、ウクライナ進行に対して、

民主党の国連議員は支援を続けると唱え、

共和党大統領は打ち切るとした場合、

その国民が今度はどちらの議論で動くかで、

国家運営の議会を変えるか、

それとも国連議員を変えるかで選択するわけです。

任期を2年か3年、現状理想は2年とし、

外交政策であり国際協調に関する

米国民の意見を反映させるには、

解りやすい形に成ります。

TikTokの件なども含めて、

中国と対立する姿勢が望ましいのか、

それとも経済的に協調する方が望ましいのか、

国政とは別な意味で国民の意見が反映されるのです。

そうなると仮に国連議員の外交政策がマジョリティを得ていたなら、

国連の意向に反する国家運営は

自然と国政選挙で現れるわけですし、

その逆に国連議員が排除されることもあるわけです。

何にせよそこは双方の主張が

どれだけ国民に理解されるかなので、

より民主的に外交と国家運営が機能する形に成ります。

勿論、現状どの国の政権も、

政権運営に反する形で国連に大使を送りたくないのは当然です。

ただ、本当に国際社会の改革が必要ならこうしたムーブメントは、

国民意識の中で進めていくべきです。

 

では、不正問題に関して…

現状がその選挙不正の状態と同じなわkで、

どの政府も政権の意向で大使を選んでいるに過ぎないのです。

ある意味、基本的にはその形を維持しつつ、

民主制国家では国民の意思を反映して

国連大使を国連代表または

国連議員として選出するか決める形を取るのです。

 

これを国連で議論しても意味がないのが現実的な話です。

では、どうするのか…

国家単位で実践する形を取り、

徐々に各国にその選出法を推奨していく形で浸透させるのです。

まあ、日本人には無理な行動かもしれません。

ただし、現状、政権が割れた状態なら、

どこかの党がこういう主張をすることで、

制度化できる可能性はあります。

ある意味。立憲民主党を含む少数政党にとっては

チャンスでもあります。

いわば国連に選挙で大使を送り込めれば、

その政党の外交方針は国連内で

少なからずともアピールできるからです。

知事同様に、選挙で選ばれたわけなので、

政権政党に従う必要性もありません。

勿論、国連議員の意向に国が従う必要もないのですが、

その結果をもって次の選挙に大きく影響していくことは明白です。

 

こういう形で日本独自、または各国独自で

民主的な選出方法に変えていけば、

その機能の有効性が国民にとってプラスになるなら、

他の国の民意として浸透していく形に成るわけです。

これが「何をしったい」の現実的なロードマップなのです。

 

国連で議論されるのは世界全体の協調議題です。

国同士の外交交渉は外務省が行うものです。

日米間の貿易交渉は外務省の問題ですが、

ウクライナ問題や、

イスラエルとパレスティナ問題に関しては、

国連の議題です。

国連代表がイスラエル批判に票を投じても、

政権政党の意向ではないと言っても、

米国との関係に傷はつかないわけです。

ただし、国民がその国の姿勢に疑念を抱けば、

選挙で国連大使の政党が政権を握る可能性も高まります。

 

ある意味、日本の野党で連立を組む条件として

こうした交渉が出来るなら、

国民の評価はもっと変わると思うのですが…

政権を握った時の邪な考えが過って、

こういう改革を提案できないのかな…

 

本当に自分の制作に自信があるのなら、

どういう形でも国民を納得させられるという、

そういう自信がないのですかね…結局は…

どうも・・・ショーエイです。

ここのところ目の病気で治療中だったこともあって、

ブログの更新しようにもモニターの文字がみえないこともあって、

暫くお休み状態でした。

 

さて…10月

まあ、大統領選挙は前にも話したように

どうやら拮抗した感じになってますね。

カマラ・ハリスが支持を伸ばしきれないのは、

結局のところバイデン政権が足枷になっているからです。

とは、言え、

副大統領にしてもらった事であり、

大統領候補としてサポートしてもらっている件を考慮すれば、

恩を仇で返すような姿勢は、

さすがにアメリカでも人間性を疑われます。

なので彼女はバイデン陣営の傀儡候補という印象が

最終的に付きまとうわけです。

そういう意味で米国民の有権者は、

トランプが嫌いな人と現状からの変化を期待する層で、

分かれる形となっている状態です。

 

次に日本の総選挙ですが…

先ずはどうでもいい…そういう印象です。

なぜ「どうでもいい」のか・・・

どの政党を見ても

日本が劇的に変化できるような主張が全くないからです。

逆に言えば、とりあえず自民党以外でも同じな訳です。

そういう意味では今回は自民党の議席を

過半数以下にするチャンスという認識で

選挙を考えるべきかと…

今まではどの政党も頼りないから自民党で

という認識が多かったと思います。

ある意味日本人有権者の

政治を知らないところが問題なわけです。

結局のところそれで自民党を選んできた結果、

日本の政治は進化せず、

世界から取り残されてきたわけです。

寧ろ自民党も含めて

どの政党も頼りないなら、

政権交代をガンガンと引き起こさせ、

本当に優秀な政治家が登場しやすいように、

有権者は投票をコントロールするべきなのです。

自民党にしても立憲民主党にしても、

その他政党にしても、

結局は其々の党幹部が仕切っている状態で、

新しい力は下で埋もれてしまうだけが現状です。

政権交代を繰り返すことで、

いわば新しい力を活用した政党が

票を伸ばしやすい状態に

日本国民が導かなければならないというのが

日本の政治に大事なことだと理解するべきです。

 

とは言うものの…

その新しい力もあまり期待できないのが現状で、

まあ、最終的には「どうでもいい」に陥りますけど…

先週、たまたま地元の日本維新の会の候補者と、

直接話す機会があったので、

少し話をしました。

コロナ時に山中教授が大阪の吉村知事に

「政治を科学的に」という要望を伝えました。

そこで今現在日本維新の会が

どう変化したかを探ってみたのですが、

全く科学的な政治は浸透してない様子だったわけです。

 

「政治を科学的に…」

どうやら日本人の教育レベルでは

全く理解できない領域の様です。

どれだけ読解力があっても。

多分、理解できないのだと思います。

科学の基本は実験と検証であることくらいは

だれも知っていると思います。

だから政治も試して失敗したら修正してを

繰り返すなんて発想をするのです。

根本的にこの時点で全く違うわけです。

確かに山中教授も自分の常識の範疇で、

ザックリと伝えたから、

その本質を理解してもらうまでには

至らなかったのも事実ですが、

科学的にとはとても複雑なのです。

 

科学においてアイデアでり発見は

あくまでまだ「仮説」の状態です。

政治で言うなれば「公約」「政策主張」は、

いわば「仮説」と同じなのです。

政治ではこの仮説を、

議会の評決で施行するか否かを決める訳ですが、

所詮は仮説のものでしかないわけです。

今、丁度アニメで「チ。」という

地動説がいかに認められるまで

大変だったかの話を題材にしたものがやっていますが、

いわば仮説状態のものを科学的な検証なしに

民意や評決で決めることは、

天動説が信じられていた話と

同じ社会を引き起こす事になるという事です。

これは日本に限らずどこの国でも同じなわけです。

政治的な検証という部分では

一応は専門家への公聴会を設けます。

なので政治家の間抜けどもは

科学的な要素は十分にあると主張するでしょうが、

所がこの公聴会は異端審問と同じで、

政策=仮説としますが、

政権の仮説に肯定的な主張は取り入れて、

否定的な意見は参考までにきくというレベルなのです。

安倍政権時代に日米安保改正の時、

集団的自衛権の憲法解釈の公聴会を思い出します。

実際には海外派兵を含む

集団的自衛官の憲法解釈だったのですが、

憲法学者のほとんどは「違憲」判断をしたのに、

一部の学者が「合憲」としたから問題なしとしたわけです。

 

いわば政治上に於ける公聴会は

科学的な検証を目的としたものではなく、

仮説を定説と錯覚させるための審問会でしかないわkです。

 

科学的には定説になっていない理論には、

必ず多くの反証も存在します。

現代科学はそうした反証の中から、

仮説を見直す部分を分析して、

見直すべきところを修正しつつ

自身の仮説をそのまま押し通すのではなく、

新たな仮説として再構築していくのです。

 

勿論、政治は外交上の都合など、

時間を掛けられないところで決断を迫られます。

科学は立証できるまで根気よく議論できるが、

政治ではそうは言ってられない。

そういう部分で憂慮しなければならないのも事実ですが、

それゆえに相当優秀な人間でないと

間違いばかりを引き起こすわけです。

バイデン政権には学歴的には優秀な人間がいるが、

知能指数が著しく低いため、

各地で戦争を引き起こす状態になった訳です。

先ず、知能指数が高かったら、

ウクライナの戦争は起きませんでした。

イスラエルのパレスティナへの入植行為を

徹底的に阻止できていれば、

ハマスが起こしたテロも発生しなかった。

いわば今のガザ侵攻も未然に防げたわけです。

 

そういう意味で科学的に政治を分析すると、

民主制に於いての国民感情が

現状冷戦時代に類似した状態になりつつある現状では、

世界が再び西側と東側で

分断される状態が進行する流れになるわけです。

民主制の政治では

政権を維持するには大衆迎合することが得策で、

本来西側政治家の失策に値する行為によって発生した

敵国創出意識を友好的な形に変化させることは困難になる。

いわば大衆がロシアや中国を敵国と認識する状態で、

民主制の政治家が友好的な政策を唱えることは、

大衆から好感されないと「錯覚」することになります。

「錯覚」としているのは、

本当に優秀な政治家なら

この錯覚を上手に転換することができるからです。

これが出来たなら世紀の英雄とも呼べるクラスと言っておきます。

政治家の中でこの超難題に挑めるなら

挑んで貰いたいとだけ伝えておきます。

結果=解答は、中露も含めてグローバル社会が

再び友好的な関係で機能する状態。

まあ、現状超難題ですよね。

 

とは言え、

民主制の政治家には中々大衆の感情に反した行動はとれない。

確かにトランプはそういう意味では何でもやれるわけだが、

本当に信念を持って世界をよくする方向で4年間頑張るか、

それとも世界を支配するつもりで大統領に就くかで、

彼の歴史的評価は変わるでしょう。

まあ、後者なら今度は確実に殺処分になるだろうけど…

米国憲法を軽んじる行動は米国憲法を愛しそれを守る人々を、

本当に敵に回すことになるので、

それがどこに潜むのか理解しておく方がいいと言っておきます。

反対にハリスでは、この大衆感情のプレッシャーと、

バイデン政権の失策の穴埋めに努める度胸は無いと感じています。

逆にそこに反して行動できれば、

史上初の女性大統領という評価以上の伝説を手に入れられる。

 

大統領に成りたいだけなのか、

それとも大統領として何を為したいのか、

どちらの候補にせよ

自分が未来永劫存在し続ける価値は、

歴史に如何に名を刻めるかであることを理解してほしいです。

 

日本の政治家の場合は程度が低すぎて何とも言えないが、

日本がNATOの様な軍事同盟を構築しても、

歴史的な価値は何もないことを知るべき。

これも恐らくは現状の大衆感情に反する話ですが、

日本が国として国際社会をリードできるのは、

戦争ができる国ではなく、まずは戦争をしない国なのです。

むしろ平和ボケしたアホでも演じるように、

「皆、仲良くWINWINで」

とういう姿勢を貫くくらいの度胸があれば、

それこそ伝説級で歴史に痕跡を残せると言っておきます。

 

伝説的に歴史に名を刻むには、

他が考えもつかないことをしなけrば成らないわけで、

これは科学でも同じなのです。

ここを貫き通すには、

多くの反論に屈しないだけの根拠を示せるヴィジョンと、

歴史上に良い形で名を刻むという信念が大事なのです。

 

そういえば日本人の読解力不足という

話の記事を読みましたが…

 

こんな例えがあったけど…

 

Alexは人名である。女性はAlexandaraで、男性はAlexanderの略称で使われている。

 

という文章で、引っかけ無しの問題という事で、

Alexandaraは(   )である。

①Alex

②女性

③男性

④人間

 

と(  )の中を答えろという問題。

まあ、単純に文章の流れから答えは①と成るわけですが、

実は②でも④でも正解なんでよね。

読解力の話では①以外を答えた人が多かったという事で

問題視していたが、

そもそもこの読解力の問題自体が読解力ない話ですよね。

問題が「Alexandraは(  )とも呼ばれる。」ならば、

答えは①限定でも成立しますが、

「(   )である」とした場合、

文章の表現上では答えは複数当てはまります。

それを差し置いて回答が一択しかないのは、

寧ろ問題の出し手の表現力不足という事になる。

 

実は日本人の問題は読解力もそうだが

表現力も不足しているのです。

 

先ず、表現力不足は自分の表現に一択の解釈しか与えていないこと。

日本人でもある程度優秀な人なら、

自分の表現に誤解が生じることがある点は気にします。

ただ、そういう事に気づかない人が多いのも事実で、

間違った捉え方をした人を

読解力不足と言っているだけでもあります。

 

自分の視点と他人の視点では、

言葉の意味が違って見える。

更には本音と建て前など、

表面上の言葉の裏に隠された部分も存在します。

実は知能指数が高ければ高いほど、

様々な要素を考慮してしまい

多重な解釈が頭を過るのです。

 

むしろ正解一択で読解力を求める人は、

頭が悪い人といってもいいです。

SNSの議論では、この頭の悪い人同士が議論すると、

お互いの言葉がお互いで噛み合わなくなり、

意味不明な方向に話が進むだけの問題なのです。

 

まあ、逆に誤解内容に丁寧に説明すると、

文章は自然と長くなりますよね。

それに対して説明長いと反論してくるケースもあるわけで、

読解力の話以前の問題とも言えます。

 

実は世界全体の話として

SNSで気を付けておくことは、

SNSで発言している人の心理は、

自分が発信したい人で、

誰かの話を聞きたい人ではないという事です。

なので反論してもほとんど意見を聞きません。

読解力の話ではなく、

自分の主張以外に興味のない人たちです。

まあ、そういえば

ブログでこうして愚痴ってる当人も同じになるわけですが、

基本的には同じです。

ただ違う所は反論の中に正確な情報を求めているところで、

正確な情報に対しては紳士的に聞き入れます。

まあ、難しい話ですが、

例えば法律上の話で、

「弁護士さんがXXXXと言っていた」

これは無視します。

逆に、

「民法XX条にXXXという内容で文章が書かれてます。」

こういう内容なら検証して改めて解釈を見直せるわけです。

 

うつけの兵法などの歴史の話だと、

「XXXという書物にはXXXという内容で書かれてます」

というものの場合、その資料がいつの時代に書かれたものか、

資料として何次資料扱いなのかで検証はしますが、

二次資料以内の扱いでないなら

ほぼ無視に成ります。

寧ろ、二次資料以内の扱いで、

「信長の手紙にXXXという内容の文章が出てます」

というものなら、有難く参考にします。

勿論、検証したうえで8割がた修正必要な場合は修正、

5割がた修正が必要ない場合、

物語=いわばフィクション的な定義

として仮説の形で残すわけです。

 

勿論、反論に対して科学的に対応するわけですが、

SNSとしては難しい話に成らないので、

相手の話を無視しているのと同じ扱いで取られるのは

仕方のないことです。

 

とはいえ、小説の書き手にしても

SNSにしてもエゴの塊であるわけで、

発信したい人が発信しているので、

むしろそうした人間同士がぶつかって

議論しているだけのところなのです。

なので建設的な議論を求めている方が無意味なのです。

 

ただ大衆がその無意味な議論を楽しむ以上、

政治や社会に対して明確な答えを目にすることは

叶わないと言っておきます。

 

「チ。」というアニメの天動説が信じられた社会。

彼らは神の存在への回答を探し続けた。

今、現代では理想の社会を人々は求め続ける。

結局のところ、地動説を阻んだ教会同様に、

寧ろ当時の教会が

今でいう最大のインフルーエンサーだとするなら、

現代社会では政治家、マスメディア、

そしてその他インフルエンサー全てがそれに値する。

自由な議論の下で様々な意見が交わされているのは、

実は今も昔も変わらないわけだが、

教会に反抗するものを異端者と呼んでいたのと同様に、

民主制以外の社会を異端とする状況は全く変わらない。

 

既に多くの人々は、

民主制以外の国家を信用するなんてと感じるだろうと思います。

その時点で昔の教会と同じ現象が成立しているのです。

では、ロシアとは言わず、

イスラエルは現状民主制の国家として

誇るべき国と言えるのか?

民主制でなく王政であるサウジアラビアは

どう扱うべきなのか?

単に戦略的な意味で曖昧な表現を用いている状態を

読み解けていない事が読解力の無さと言える話で、

一般人のみに限った話ではないのです。

 

キリストが伝えた「隣人を愛せ」

ここには自分と異なる価値観も

尊重せよという哲学も含まれているわけで、

キリスト教徒であるはずの欧米の人々が、

全く理解できていなのは残念な話というしかありません。

 

どうも…ショーエイです。

SNSなどで世論に反した言動を言うのは

かなり勇気のいる行為ですね。

 

例えばフワちゃんの事件。

まあ、フワちゃんを擁護する気は無いけど、

かと言ってやすこを擁護する気も無いです。

ですが、現状でやすこの方を叩くと逆に荒れそうな気配がして、

余り言えないのも事実です。

正直な話、やすこの芸風は知らんけど…

彼女はアイドルなの?

それとも芸人なの?

好感度狙って綺麗な言葉を並べても、

芸人としては面白くないと感じるのですが…

 

SNSの浸透でより強まった、

この見えない言論統制ともいう流れは

日本に限った話ではありません。

寧ろ日本人にとってはロシアや中国の方が、

国家ぐるみでそうした流れが強いのでは感じると思います。

 

ところがウクライナでも同じだという事に、

むしろ我々の誰もが気付いていないのは、

かなり恐ろしい話であるのです。

 

皆さん想像して見てください。

先ず日本人のあなたは

ウクライナから避難してきた人に向かって

仮に冗談でも、

「ロシア人と仲良くしたらどうですか」

なんて絶対に聞けませんよね。

ウクライナから来た相手の心情を察して、

そんな言葉は失礼だと自然に察すると思います。

寧ろそんな失礼な質問をぶつけてSNSに投稿したら、

その時点で人間失格として一気に叩かれます。

流石のオッサン先生でもウクライナの人に、

「現状ロシアをどう思うか?」

という質問すら相手の心情を考えてできない訳です。

ウクライナの人でも、

ゼレンスキーが嫌いだという人も必ず存在する訳ですが、

そういう話もタブーとして察するので、

そんな質問をぶつけることすら誰もしないと思います。

反対にウクライナの人でそういう方面の本音を言って、

SNSで本国のウクライナに流れたら、

非国民として叩かれる可能性もある為、

決してゼレンスキーの悪口を言えないと思います。

 

実はこれが見えない言論統制の実態でも有るのです。

 

いわば言えない方はいつの時代でも同じですが、

聞けない、聞いてはいけない事も有る故に、

自然と情報はワンサイドに流れてしまうという状態なのです。

勿論、日本は戦争の当事者では無いので、

まだロシアを擁護する言動は、

一応は意見として受け付けて貰える部分は有ります。

しかし、ウクライナという戦争当事国で

敵国のロシアを少しでも擁護しようものなら、

仮にロシア擁護では無くとも、

NATO加盟に反対する意見ですら、

ロシアを擁護する意見に捉えられて、

大きく叩かれてしまうのが実情でも有るのです。

下手したら国家への反逆者扱いに成ります。

 

これを聞いて言い過ぎだろうと

考えてしまう人も多いと思いますが、

そういう無知が実に恐ろしいと言っておきます。

 

何が無知なのか…

誰かに無責任な言葉を浴びせて傷つける行為を、

大多数の人が不快に感じるのは理解できると思います。

SNSではそういう言動に対して徹底して多くの人が叩きます。

ウクライナで多くの人が戦争で被害にあった現状を、

誰もが知り、その心情を誰もが察する。

故にウクライナの人に向かって

言っていい事と悪い事が自然と共有されるのです。

無知というのは、

こうしたタブーが

自然と社会で構成される状態になるという現実を

知らない事です。

 

現状でも日本では

中国政府に対する批判的な意見が優勢に成るのですが、

台湾有事などで中国と仮に戦争が始まったら、

その中国政府への批判的な意見はより優勢に成ります。

ただし日本国内に戦争の被害が生じていない場合に限り、

戦争反対の意見はタブーに成りません。

ところが日本国内に被害が生じた場合は、

誰もが被害者の心情を優先して考える流れが生じる為、

戦争反対の意見ですらタブーに成って行きます。

いわば被害が生じた形での停戦は

中国政府に寧ろ降伏するようなイメージで浸透するからと、

中国に対する憎しみが

自然と日本社会全体で共有されるように成るからです。

想像して見てください…

その状況であなたは中国との和解を意味する

戦争反対をどう伝えられるかを・・・

恐らく戦争無意味と考えるオッサン先生でも、

そこまで行ったら「死ぬ気で戦い続けろ」と

言うしか無くなるのは想定できます。

SNSにメディアなど、

日本の国民性を考えたら、

国が亡びるまで戦いを止められない可能性すらあるわけです。

太平洋戦争こと第二次大戦の日本も

似たような雰囲気だったのでは…

信長たまの視点でそれを考えると…

日本の戦争状態はまるで

本願寺の一向一揆と同じだと感じるほどです。

 

ウクライナで起きている現状とは

実はこういう事でも有るのです。

まあ、その大本であるゼレンスキーは降参したいなんて

口が裂けても言えないでしょう。

 

さて…日本の話で伝えた通り、

日本に被害が生じたら反戦は社会的タブーになる流れ…

これをロシアに当てはめた場合、

現状ウクライナ越境攻撃がどういう意味を為すのか、

考えてみてください。

日本人にも解かりやすい言葉でいうと、

この状況でロシア政府が国民をどう洗脳するか考えたなら、

 

「結局NATOがウクライナを欲した理由は、

ロシアへ攻め込みやすくする為だった」

 

と、証明する形で伝えることに成るわけです。

 

ただし!!ロシア国内の雰囲気はというと…

「戦争の事は考えないようにしよう」

という状態で、政治に無関心な状態が現状。

かといって…

「プーチン大統領以外は頼りない」

と、いう雰囲気で支持する人が多いのも事実。

反プーチンの勢力が存在するニュースも流れていますが…

彼らは反プーチンを掲げるだけで、

ロシア経済をどうするかが全くないです。

 

先ずこうした話を日本に於いて考えてみましょう。

北方領土であり、竹島の問題。

一般的な見識でも、

戦争で取り返す以外は無理な領土問題に感じます。

相手も応じる気は無いのですから。

かと言ってそれを理由に戦争するなんてバカバカしいです。

とは言っても、北方領土や竹島問題、

更には北朝鮮に対する拉致問題を

「もう、いい加減に諦めろ」

なんて事は決して誰も言わないし、言えないです。

なので多くの人が知ってはいるが考えない話にしているのです。

また自民党がどうしようも無い政党だと

既に諦めている人も多いのですが、

反自民党を掲げている野党が頼りないという感じもある。

結局、それで自民党が政権を握り続けている訳です。

 

ロシア有権者の心理で考えたら、

最終的には現状の生活維持が理想なわけで、

国が国際的な苦境にありながらも、

上手くロシア経済を維持できている現職大統領の頼もしさは、

寧ろ偉大な存在にも映ると言ってもいいでしょう。

 

へ?日本でそんなニュースは流れていない?

いやいや…ニュースに流れていますよ。

我々サイドのニュースが期待する報道とは

真逆な現実が見えるので。

ロシアからの観光者も見かける現状など、

適切な方法で分析すると、

ロシア人にも現実逃避の思考も見受けられる。

一部のロシア国籍のスポーツ選手が

海外で活動しているのも見受けられる訳です。

かと言ってロシア人でロシアをあえて批難する人も

実はさほど多くは無い。

ロシア人に対して冷戦時代同様に言論統制によって、

本音を言えないように見ているのは、実は我々の勘違いで、

寧ろそういう人はロシア国外に逃げています。

そうした報道状況から計算するに、

ロシア国民の心情は、

戦争でロシア軍がウクライナの人々を傷つけている現状は

理解しているが、

かと言ってロシアの国としての権利は尊重したい。

ロシアが欧米を中心に嫌われる存在である事は、

十分に痛感しているが、

その根幹は

「冷戦時代から続くロシアへの偏見」

であることをロシア人は知っている。

故にウクライナでの戦争は

その偏見が齎した副作用のように感じている。

我々がロシアや中国に対して

信用できない、信用するのが怖い

という感情が有るのは事実な訳で、

そうした言動はSNSにも多く見受けられる。

これは韓国のSNSで日本が批難されれば、

韓国人が日本人を嫌っていると感じるのと同じで、

ロシア批難の多い現状ではロシア人も痛感してるところです。

ところが冷戦時代の名残で

ロシア人が嫌われる傾向に有る事も痛感しているため、

戦争の問題よりも、ロシアに対する偏見を問題視する。

しかしながら、ロシア人に対する偏見問題を伝えようにも、

現状ではウクライナの戦争の話を持ち出されたら、

議論上、ロシア人が悪く成るだけなので

余計なことは何も言わないほうがマシという訳です。

 

旧ソ連国家であるウクライナ、ベラルーシなどでは、

この冷たい偏見から解放されたい深層心理があるため、

ロシアと距離を置き西欧に寄り添いたい意識が働く。

実際には西欧でありアメリカでも日本でも、

戦争が無ければロシア人を含めて

旧ソ連国家の人に対しての偏見は表面上では、

ほぼ無いわけです。

シャラポワだってザキトワだって

スター選手として受け入れてたわけですから。

ただし国家に対する偏見は付きまとっていたのが現実で、

寧ろその国民は偏見を持たれているという意識を

そこで感じているとも言えます。

また、一般レベルでは、

日本人の一部が中国人や韓国人を信用しない気持ちが

どこかに有るように、

自然と態度で冷たさを与えているケースも生じるのは事実です。

反対にその中国人や韓国人で

日本人から偏見の目で見られる、見下されると言った意識が

どこかに残存すると、

それも自然と態度に現れてきます。

お互いに無意識で生じる偏見の壁があると、

絶対に仲良くなれないし、

お互いに信頼関係も築けないでしょう。

実はこれ現代の人種差別などにも言える部分で、

深層心理であり潜在意識ともいう部分の問題なのです。

 

国と国の関係でこうした関係の壁が生じると、

自然と国民同士の潜在意識の中で、

同じ障壁を生じされるわけです。

 

こうした障壁は人生の経験でも生じる訳で、

日本人でも関西と関東の違いだけで、

偏見を抱くケースも有るわけです。

 

SNSに限らず、メディアやニュースでも、

ここまでの研究をして纏めた内容は99%存在しません。

勿論、ニュースなどは読み手の良識に委ねる情報でしか

無いのですが、

偏見や人種差別がどうして生じるのかなどのメカニズムまで

知る人は殆ど居ないと言えます。

ただ、その中で無知な人は疑問を抱かずに鵜呑みにする。

疑問を抱く人は必ず「何故」に辿りつくのです。

その「何故」を自分で解決できない人も多いと思いますが、

「何故」が残る人はそこで結論に至らないから、

他の見解に対して聞く耳も持てるのです。

 

週刊文春の松本人志さんのケースに対しても、

「何故」を感じる人は、

「どこまでが社会的にセーフで、どこまでがアウト」なのかを

疑問に抱くと思います。

記事の内容を見て、

「芸能人ならそういう合コンみたいな事はするだろう」

と考えて、そこで強制的な行為が有ったかどうか、

情報提供者に報復的な意図が有るか無いか、

疑問を抱きながら見つめます。

更には情報提供者が本物かどうか?

本当の事を言っているのかどうか?

読み手側では確認する余地のない事を理解した上で、

その動向を見て何を判断するかに焦点を当てます。

いわば松本人志という人間性を

メディア上に残して良いかという点です。

情報を鵜呑みにしてしまう人は、

既に松本人志を社会悪と結論付けているわけですが、

その中で疑問を抱いている人は記事の見方も、

後輩芸人たちが擁護する様子や、

他にパワハラなどのケースで訴える人が出ないかを確認し、

其々の基準で判断するところとするわけです。

 

さて・・・SNSでもメディアでも本当に恐ろしいのは、

実際に戦争に成って被害が生じた時です。

その時には「言えない」「聞けない」「選べない」が発生し、

戦争を終わろうにも終われなくなる。

「選べない」とは…

戦争を止めることを選べなくなるという事です。

太平洋戦争後のアメリカは

戦争の殆どが国内に於いての被害はありませんでした。

故に反戦デモなども頻繁に起こせた訳ですが、

9.11のケースのような場合のテロとの戦いでは、

今でもその戦争が間違いだなんて事は決して言えないし、

寧ろ我々西側サイドの人間なら当然と考えてしまう訳です。

ただし、アフガニスタンに住むテロと関係の無い人を

多く巻き込んだ事実は残るのですが…

かと言って9.11の犠牲者の事を考えると、

アフガニスタンの戦争での犠牲者の事なんて、

気の毒には思うけど、仕方ないように感じる。

まあ、そういう複雑な感情に発展するゆえに、

戦争になれば誰も止められなくなるという事です。

 

さてそろそろ国連総会も始まる訳ですが、

戦争をする議論よりも、

平和を構築する議論が出来ないものかな…

個人的にはゼレンスキーは招待したくないですね。

あいつはもう戦争する事しか語らないから。

 

本音を言えば、むしろ大きな戦争を呼び起こして、

世界にもう一度戦争のバカバカしさと、

平和の有難さを痛感してもらいたいのですが、

戦争が広がらず、戦争を終わらせるための方法を言っておきます。

簡単な話、米中の対立を緩和させて良好な関係に戻し、

中国が大きな戦争に参加する意識が無い事を示せば、

ウクライナの戦争も終わる方向に転じさせられる。

勿論の事、米国が中国側の見解を素直に聞き入れる形で、

平和を扇動できればの話ですが…

米国の見識だけでは

決してこの問題は解決しないという事は言っておきます。

 

最近の歴史家の多くは、

織田信長が実は保守的だったと言っています。

ハッキリと言います、

織田信長の政策を見て保守的だという人は、

政治に関して無知にも程があるレベルと言っておきます。

 

基本的には戦を無くせば天下は定まる。

天下が定まってから徐々に改革を進める。

軍事力を背景に従わせても良いが、

結局は抵抗する者が後を絶たず、

戦乱が長引くだけ。

成らばある程度保守的な権利を認めつつ、

周りに自分の味方を固めた上で、

緩やかに改革を推し進めると言うよりも、浸透させる。

例えるなら関東の北条は北条のやり方で国を治めればよい。

その分、織田直轄の経済は

その治世を凌駕するほど反映させて、

最終的には北条がそれを真似る事で浸透させれば良い。

そういう考え方なのです。

まあ、それが出来る自信があったという話なのですが…

北条が真似ずに織田直轄との経済格差が広がれば、

自然と北条の影響力は枯れ果てるというのも有るわけです。

 

さて…国連には内政不干渉という条項が有ります。

これは世界全体で考えれば保守的な発想です。

北朝鮮の様に世襲独裁国家に対しても

内政不干渉という事に成るわけです。

信長の話で伝えた様に、

北朝鮮を強引に改革させようとすれば、

ある意味戦争をしなければ成らないという結論に至ります。

または革命を扇動して革命を起こさせるか。

どの道、内政に干渉する行為で戦争に成ります。

改革的な発想では民主制を

押し進んめる方が良いと成るわけですが、

態々戦争を仕掛けるより

自然とその方が良くなると感じさせる方が、

世界全体が纏まりやすくなるという考え方です。

いわば各国の自主性を重んじて徐々に考え方を、

民主的な方向に寄せて行く発想です。

更には誰も永続的生きて行けるわけではない事は

理解しているはずで、

そうした中で権力者が最終的に求めるものは、

歴史に名を残すという願望です。

寧ろその心理を悪く言えば利用して、

その国にとって良い形の歴史で残るように先導するのです。

 

北朝鮮も韓国との経済格差は痛感している訳で、

ある意味中国を規範として立国したいと願う部分は、

トランプの時代に見受けられた訳です。

普通の人間の器量では金正恩みたいな独裁者を

英雄に仕立て上げるなんてトンでもないと考えるでしょう。

反逆者を残酷に処刑したりしてきた訳ですから、

その感情は当然と言えば当然です。

しかし、敵視したまま戦争にも成らない状態で

彼を北朝鮮の権力者として残していたら、

北朝鮮はいつまでも変わりません。

結果、その父親の金正日は死ぬまで変わらず、

大往生した訳です。

ならば金正恩を寧ろいい形で変えて

北朝鮮自体を改革させる方が

北朝鮮の人々にとっても良いという発想に成るわけです。

その上で国際社会と経済的な結びつきを強めたい、

例えばWTOに加入したいなどの条件として、

改革を要請していく事は可能なのです。

勿論、北朝鮮が応じれるレベルで

徐々にという方法を導きながら。

普通の発想では簡単ではないは、信頼関係です。

 

信長たまなら本人にハッキリとこう言い切ります。

「君を利用して北朝鮮を改革することになる」

と・・・

その上で、

「君はその改革を以て、国の英雄に成ればいい。私はその手助けをするだけに成るが目的は果たせる。」

そういう流れで徐々に民主制の利点を教えます。

民主制の利点とは…

世襲でも、指名制でも、後がダメなら国は滅びるが、

民主制なら今がダメでも次に期待が持てる。

自分の理想社会を憲法にしたためて、

民意によってそれを管理する人間を選ばせることで、

君の描いた理想は永続的残せる。

それが民主制の利点だと説く。

君が子供の将来を思うのなら、

政治から身を引いて国の象徴としてのみ残せばいい。

いわば英国や日本の王であり天皇のように残せばいい。

 

ここまで保証すれば

恐らくどんな独裁者も民主制に切り替える利点は理解するだろう。

実際に踏み切るかは、

世界が彼らをどこまで受け入れられるかに掛る話で、

独裁者を悪者にする意識が大きく存在すると、

こうした言葉もたぶらかし程度に感じると言える。

いわばそんな独裁者の子孫を

王族として世界は受け入れられないという話に成ってくれば。

 

悪い言い方をすると、

これはサイコパス的なやり方で、

人の自尊心をくすぐり、最終的には猜疑心を煽って、

自尊心の下で決断させる方法になる訳です。

寧ろ独裁者に嫌悪する人間には、

計略に嵌めて導いた形が成立する方が

気分が良いかも知れません。

 

まあ考えてみれば、日本などの周辺国は

その国の脅威が去るわけで、

その国は繁栄を得ることで国民は豊かに成る。

独裁者に対しての嫌悪だけ残るものの、

誰も痛まずに嘆願成就するなら、それが最良と成るのです。

 

ただ、こうした事を伝えても、SNSでは恐らく、

北朝鮮の経済を活性化させて

軍備をより強固に整えたらより脅威になるだろ

と、反論してくるのは目に見えているわけです。

彼らはならば北朝鮮で革命が起きる方を待つべき

と、いう話に持ってくると思います。

それでは戦争が起こらない事を祈って

ただ待つだけの現状と変わらない訳ですが、

民主制の政治ではこうした考えが自然と主流化するのです。

 

サイコパス的な思考でこの状況を想定すると、

平和的に推し進める議論が出来ないのなら、

中国とロシアを敵視する形にも変化なく、

北朝鮮はそちら側で生き残るだけの話に成ります。

平和的な議論ができるなら、

中国やロシアも協力的になるのは、

2010年前後の状態を思い返せば理解できる訳ですが、

その議論が絶望的な状態に進めば、

民主国家では決断できない戦争も、

政治主権の強い国家では決断できる形で、

大きな戦争に踏み切るだろう事は予測できます。

 

移民問題にしても、

何故移民が発生するのかの根源を考えれば

解決できる話で、

要は国同士の経済格差が原因なのです。

ハッキリ言います。

中米の経済がより豊かに成れば、

米国への不法移民の数はそれだけ減る。

米国の工場を少しでも中米に移して、

彼らに良い給料を支払えば、

その彼らが今度は

消費者として米国の製品を買うように成るわけです。

消費者が増えれば自然と工場も必要に成り、

米国での製造業もより活性化されるわけです。

グローバル化がその機能を証明したわけです。

 

今の時代は自国の製造業をどれだけ守るかと言う古臭い話より、

どれだけ新しい消費者を生み出すかを考える方が、

実はその国の経済は潤う訳です。

ヨーロッパも考えようによってはアフリカの市場を開拓し、

新たな消費者そこに生み出す形で活動する方が、

より経済を活性化させられる流れに成るわけです。

企業ではそうした市場で安く使って利益を出そうとするから、

決して消費者は増えません。

それが2000年以前のグローバリズムです。

2000年以後のグローバリゼーションでは、

発展途上国の経済を潤わせ、

消費者を増やす流れが構築されたわけです。

 

実は原理は単純で、

思考が複雑化しているだけで、

政治的に先進国と途上国が提携を結び、

消費者増強の意味で富を広げて行けば、

もう30年の経済は拡大して行けます。

 

頭の悪い人は、簡素なセキュyリティにも関わらず

物を盗まれないように鍵をします。

頭の良い盗人はその鍵を簡単にこじ開けます。

いわばどれだけ中国に技術を流したくなくても、

中国に製品を売らないようにしても、

米国内に中国の盗人が既にいる訳で、

特に市販されている製品まで禁止にしても

意味が無い事を理解した方が良い。

今の米国の政治家はその程度の事すら解かっていない。

中国に持ち帰れないようにしても、

製品から技術を盗むだけなら、

米国内で分解すれば要は足りるのです。

その程度の話なら、寧ろ中国で製品を売ってしまう方が、

利益に成る。

逆に中国で製品が買えなくなると、

中国では独自ブランドの類似品が流通して、

米国製本来の価値をただ低下させるだけの話に成る。

これはロシアでも同じことが起きている訳で、

本来米国製で圧迫されていた国内の市場が、

型落ちでも独自ブランドの市場が国内に芽生える現象になり、

その企業が研究に費やす資金力を

寧ろ分け与えているだけの話に成るのです。

 

結局の所、色んな議論が世の中で飛び交うが、

複雑に考えすぎて単純な原理を見失っているのです。

 

戦争は良くない、でも相手を信用できない。

それで何をするのか、

相手を威圧すれば黙る?

本当の任侠者相手にそれをやれば、

相手は腹を括って挑むしか無く成る事を、

全く知らないおぼっちゃまの発想なのですよ。

 

おぼっちゃまは勝てない喧嘩はしないだろうけど、

任侠者は勝てるかどうかは関係なく、

引けない話は挑むしかない。

引いて恥を掻くのなら、死んで生き様を見せつける。

漫画やドラマみたいな人たちですが、

修羅場や死線を潜り抜けた人は、

自然とそういう生き様を選ぶのです。

 

実はアメリカ映画では主人公が死に花を咲かせるものが、

殆ど有りません。

ほぼ主人公は99%生き残ります。

なので自爆テロなどの実行犯の真意が、

学術的にも理解され難い。

日本に限らず、アジアでは、

主人公が死に花を咲かせるシーンはよく見かけます。

勿論、現実的に

そんな覚悟に行きつく人を中々見かけませんが、

ほぼ現代社会では「クレイジー」

いわば頭がいかれた人という括りで終わらせます。

 

でも実際に遭遇した場合、怒らせてはいけない。

実はアメリカ人の多くは

こういうタイプを平気で怒らせてしまうのも事実で

一般的にもヨーロッパではアメリカ人は嫌われがちです。

台湾へ強引に訪問したペロシの様な行動、

実は一番嫌われる行為なのです。

一部では勇気ある行動のように言われますが、

もし習近平がクレイイーな部類だった場合、

100%戦争を始めてます。

勿論、米軍の中や、アメリカのギャングにも、

クレイジーの部類は存在します。

クレイジーな人は生き様は頑固でも、

普段はそんなに荒っぽくしない人が多いのも事実です。

むしろ丁寧。

ヤクザでも寧ろそういう人の方が危ないです。

なぜなら切れると引けなくなる自分を知っているから、

寧ろ切れる場面に遭遇しないように気を遣うのです。

なので米軍はそれを察してか

ペロシの行為を一応は止めました。

でも止めれなかったので、恐らく戦争する腹を括ったのでしょう。

いわばペロシの行動は中国を侮辱した行為な訳で、

場合によってはキレどころだったわけです。

日本でも中国を侮辱する感じを面白がって

この事件を見ていた人も多いと思いますが、

それがロシアとウクライナで起きた死線であることを

知っておくべきです。

 

戦争が起って戦争を始めた奴が悪いと罵っても、

その戦争は中々終わりません。

相手が完膚なきまでに叩きのめされるか、

コチラが徹底的に叩きのめされるか、

白黒つくまでやり合います。

クレイジーな人間側から言わせれば、

相手を侮辱せずに丁寧に交渉を続ければ、

相手が普通の人間であっても、

戦争に至る事はまず無いです。

本来は誰も安易にリスクを取る選択はしたくないのですから。

 

これも単純な原理な訳です。

お互いが相手を尊重して交渉するだけの話ですが、

どちらかがそれを守らないから、

結果として崩れるだけなのです。

勿論、交渉上で折り合わないことは多々ありますが、

お互いが相手を尊重していれば

最低でも相手が守りたい部分は理解でき、

こちらが守りたい部分は伝わるはずです。

 

こうして考えると最後にイスラエルとパレスティナの問題は、

イスラエルがパレスティナ人への侮辱を止めない限り、

終わらない話に成るわけです。

イスラエルとして見れば、

イスラエルとしての国境で覆われた

ガザやヨルダン川西域などは全て

イスラエル国家のものだと主張する一方で、

パレスティナの人々は

ガザやヨルダン川西域は

パレスティナ人の土地だと主張する。

イスラエルの内政問題として見ても、

明らかな人種差別に見える話で、

暫定的でも国家として承認された場合、

イスラエルの行為は侵略行為になる。

 

さて、この問題を徹底的に処理するには、

今が丁度いい時期です。

米国の大統領選挙中な訳ですが、

ここでアメリカのバイデン政権であり民主党政権に聞くのです。

イスラエルのパレスティナ人に対する入植行為を発端に、

ガザやラファへの侵攻は

明らかにパレスティナ人への人種差別に見えるが…

ここでアメリカを批難せずに、

米国政府に対して、

この状態をどう弁護するのかを聞くのです。

そしてどれだけ金を積んでも良い。

イスラエルの行為に不快感を持つ国からかき集めて、

この部分を全米で流すのです。

大使のトーマス・グリーンフィールドが

適切に弁護が出来なければ

選挙に影響するほど大問題に発展する内容と成ります。

勿論、メディアはカマラ・ハリスにも、

トランプにも同じ質問で回答を求めるでしょう。

さて米国民に解かりやすく伝わるようにどう弁護するかで、

次期大統領の評価に大きく影響する訳で、

寧ろ討論会よりも大きな話題に成ります。

何せ米国民が敏感に反応する人種差別がキーワードなのですから。

トランプ辺りは弁護せずにイスラエルに入植行為などを

必ず止めさせるなんて言ってくれそうですね。

カマラ・ハリス辺りは、入植行為の事実確認した上で、

その行為に不法性があるのなら

直ぐにイスラエル政府へ抗議します。

と、賢い感じで言うのは目に見えてますが、

ガザやラファへの侵攻は勿論、

イスラエルの強引な(不法な)入植行為の事実は

既に確認済みとして伝えられてます。

と、念を押すところまでやらせて、

それをどう弁護するかをあえて問うのです。

彼女の場合、バイデン政権の対応の事もあって、

この時点で逃げる可能性も想定できます。

さて・・・別に大統領候補者が回答しなくても、

これを大統領選挙中に話題として振りまくことで、

この人種差別のキーワードがどんどん独り歩きします。

いわば米国世論が

イスラエル版アパルトヘイトとも言うべき状態に、

大きくNOを突き付ける運動が起りやすくなる意味を持つわけです。

 

ポイントは米国政府が人種差別問題にどう対処するかでは無く、

この問題をどう弁護出来るかを聞いている話だからです。

対処という話題に成れば議論はイスラエルを見捨てるか、

イスラエルは国家として存続させるべきかなどの議論に流れます。

政府としても同盟国イスラエルは国家として存続するべきで、

米国はその同盟国を守る義務がある。

なんてことを言って人種差別やら

ジェノサイドの話から反らして伝える事も的を得て聞こえます。

しかし、弁護という話に成ると、

どうするかでは無く、どう思うかを伝えなければ成らないのです。

同盟国として守る義務があるというが、

人種差別に対しては何にも感じないのか?

という部分が必ず残存する質問に成るからです。

それで同盟国として守る義務があるは寧ろ的を得ないわけで、

その上でイスラエルの行為が人種差別に該当しない理由を、

適切に伝えなければ成らなくなるのです。

現状では世論を説得するにはかなり難しいです。

ほぼ不可能と言えます。

そこで世論の焦点は人種差別を行っているイスラエルを、

アメリカは許していて良いのかという議論が

正当性を帯びてくるのです。

いわば人種差別を行っている国を

アメリカの同盟国として認めるのはオカシイと、

米国民に意識させるのです。

そうすることで自然とイスラエル国内へもこの議論が伝わり、

寧ろ問題の発端である

ネタニアフ率いるリクードの存在が

淘汰される流れに成って行きます。

同盟国の米国民が怒っている状態は、

イスラエル国民にとっても

いわば存続の危機の様に感じる話に成るはずです。

別段、イスラエルを潰そうという話では無く、

パレスティナ人であり、

パレスティナ国家または自治区との関係改善を

促すだけの話です。

 

これは選挙を意識させる流れで話題をふるから効果が有るわけで、

特にこの話題が大統領選挙にも影響を及ぼすという状態に成れば、

どれだけユダヤの影響力が強くても、

決して防げないものに成るからです。

またトランプの様な人間が候補者に居る場合、

メディアが大きなデモ活動が発生しているにも関わらず、

それを報じない状態は彼の格好のネタに成ります。

トランプが現状の様に劣勢状態なら尚更、

メディアを攻撃して自分の支持に引き込もうとするわけです。

 

まあ、これをやれば

イスラエルの態度は政治的にも

変化するだろうと言う話です。

 

こっちの方が長くなったかな…

まあ、信長たま流に言うと、

改革や変革を進めるには、

古い考え方にもある程度の尊重と敬意を以て残しつつ

大きな変化に備えさせなければ、

世の中は大混乱するという事。

 

信長の改革の本丸は、

身分制度の無い自由経済だったのだから、

それ以外の保守的な制度は、

ゆっくり様子を見ながら変化させれば良いという考え方なのです。

いわば適材適所で個々が才能を活かせる社会を以て、

技術革新と経済を盛り立てるという事です。

【第三十八話 自尊と直感】

桶狭間へのカウントダウン 残り12年
〔ドラフト版〕

 

人間の社会は自尊のぶつかり合いである。

よほど自信を失った人は別として、

誰もが最終的には自分が正しいと思うだろう。

自由と伝統の狭間では、

この衝突は避けられない。

伝統は伝統を重んじたルールによって自由を妨げるが、

その伝統で齎された秩序を重視する。

そして自由はその伝統を破壊する。

いわば伝統によって生じる不公平や理不尽な制度を破壊するのだ。

現代的に言えば保守と革新の衝突とも言えよう。

 

秩序というルールの中で生きる意味では、

伝統は重視される。

その分、伝統は変化を寧ろ嫌う。

自由は変化を齎すが、

伝統が縛り付けるルールを破壊して行く。

伝統と言う厳格なルールで守られてきた秩序も、

自由によって破壊されるというよりも、

実際はその改革によって混乱が生じる。

 

自由が混乱を齎すとは、

人間社会に禁止されていたものが

突如として開放される事で、

そこで生じる副作用に混乱が発生するという事である。

ある意味、多くの人にとっては突然、

未知の世界に放り込まれるような感覚になるため、

それに慣れるまでの抵抗感や不安感が自然と生じるからだ。

 

解かりやすく合法的な意味で伝えるなら

禁酒法のような法が撤廃されたとすると、

誰もが突如としてハメを外して飲酒による問題を発生させる。

酒乱が齎す事件の様なことも発生する。

自由な社会では、こうした問題も対処しつつ、

社会は自然とこうした問題も受け入れて考えるのだ。

欧米のマリファナの合法化などで考えると、

麻薬に抵抗感を持つ日本人には

何気に解かりやすいかもしれない。

 

またLGBTの問題も、

教育上であり生物学上の

問題として考えることもあるだろう。

自由とはこうした権利を

個人の選択の自由として開放するものであるが、

出生率低下の要因になると考えたり、

生物学上異質な恋愛が横行するのではと、

いわば人間社会の伝統を考える事も理解できるだろう。

 

そして何が正しいのか…

結局は試してみた結果でしか解らない事も多いのは事実だ。

そういう意味で誰もが持つ自尊心による決断の殆どが

直感でしかないのだ。

その直感が正解なのか否かは、

最終的には歴史の中で証明されて

初めて知ることも多いのだ。

 

信長の母親である土田御前が、

信長の廃嫡を直感で考えるには十分な材料が揃っていた。

伝統を無視して身分の低い者を

正妻に迎え入れようとした結果、

大きな問題を起こしたわけだ。

しかもその土田御前の実家を巻き込んでの話となれば、

誰もが直感的に信長の廃嫡を考えても可笑しくはない。

寧ろ自由社会に生きる現代人からすれば、

信長の自由恋愛の発想は、

当然の個人の権利として考えられると理解できるだろう。

 

いわば信長と吉乃の恋路を無理に妨害しなければ、

土田御前の実家を巻き込んだ事件すら

発生しなかったとも言えるのだ。

 

とは言うものの、

当の土田御前が実子として信長を溺愛していたのなら

話は別であっただろう。

寧ろ信長を溺愛していたのなら、

信長と吉乃の恋路に割って入らなかったとも考えられる。

しかし信長は土田御前の手元で育てられたわけでは無く、

逆に弟の勘十郎(後の信行とも信勝とも)は

彼女の手元で育てられた子供になる。

故に土田御前としては

信長より勘十郎の方を溺愛したのだ。

 

母性の心理からすれば、

信長は実子でも自分から離れた子供である。

それでも嫡男として成長した訳で、

むしろ嫡男として立派に成ってほしいと願うだろう。

故に伝統的な仕来りにも従って

家中を纏め上げられる人物に

成ってくれれば良いという考えになるのだ。

むしろ自分の手元で育てた勘十郎に対しては、

多少の我がままは聞いてあげたくなるのも母性の心理なのだ。

 

そうした中で信長は嫡男として大きな失態を演じたわけだ。

 

この時に土田御前が思いついた直感は…

信長を廃嫡して、勘十郎を嫡男にすることとなる。

いわば実家の消失で一時的には悲しむも、

最終的には自分が理想とする状況が

舞い込んできたと気づくのだ。

 

表面上では、林秀貞らに、

「信長は私の実家を滅ぼしたのです。決して許せません!!」

という怒りを露わにして見せるのだが、

内心では、

(信長は失態を演じてくれた…これで勘十郎が嫡男になれる)

と考え、

(勘十郎さえ嫡男に成れば、信長は後で許しても良いだろう)

とまで計算しているのだ。

計算という点で言うなれば、

母としての慈悲を示すことで、

家中の人心を取り込むことまで考えていると言っても良い。

いわば土田御前の直感は

自身が家中を掌握する機会を得たと感じたものなのだ。

これを権力欲に対する直感としておこう。

 

そのころ一方の信長は、

自己の失態の責任を意識してか、

祖父と従弟にあたる弥平次の弔い合戦を考えていた。

勿論、吉乃との恋路の邪魔だてになる弥平次は、

上手く始末することも考えていた訳だ。

そういう意味ではこの状況は誰が見ても信長の立場は悪く、

直感的にもその立場を覆すための思考が働く状況と見えるだろう。

ただし信長がその為だけの弔い合戦を演じる程度なら、

後に天下を目指すどころか

尾張一国すら手中に収められなかったと言っても良い。

 

人は見ていない様で見ているとはよく聞く話だが、

誰もが自尊の念を抱いて生きているのなら、

それは当然である。

 

信長という人物は短気で気性が荒いが、

実は情に流されやすいところもある。

それは浅井長政が裏切った時の驚きであり、

足利義昭と縁が切れる時の話であり、

更には家康との関係など、

歴史に残る記録から読み取れる部分である。

 

吉乃との恋路の障害という事で、

弥平次に対して短気を起こした信長であったが、

この野盗討伐に対して

弥平次の姿勢が協力的であった事を知って、

信長はその道中、弥平次側に当初の作戦を変更する旨を伝えたのだ。

当初は弥平次らを先陣で送り込み見殺しにする予定であったが、信長はその作戦を逆利用して上手く共闘する形を伝えた。

いわば弥平次らを先鋒で突っ込ませ直ぐに引き上げさせ、自軍が伏兵と成って敵の追撃を削っていく形で伝えた。

当初の見殺しにする作戦では、先鋒隊が突撃している内に、自軍は敵の手薄な所を探ってそこを攻めるという流れだった。

いわば先鋒隊の犠牲必須の作戦である。

それを信長は覆して弥平次らが生きる作戦に切り替えたのだ。

 

ある意味、弥平次が協力的でなく気に障る人物だったのなら、信長は一益に命じてこの直後に発生したような土田城襲撃を指示したのかも知れない。

魔王的な信長像で見るなら尾張土田氏の痕跡が歴史上に残らなかった事はむしろ信長の教唆であった可能性としても考えられる。

そういう意味で信長が襲わせたとするなら弟・信勝(勘十郎または信行)が反抗した際、母親の土田御前も同罪で殺した可能性も高いのだ。

いわばこの土田氏を意図的に抹消する意味は、反逆者となる母・土田御前に対しても一切の情がない事を意味するのだ。

 

しかし史実として残るのは、

信長は弟と同罪の母親を許していることである。

 

それ故にここでは信長が弥平次に対して情を抱いた心情を採用して話を進めることとした。

 

無論、その場に居なかった者たちは、結果として土田氏が滅亡した事実から、信長に対して様々な憶測の目で見るのだが、最低でもその場に居た信長の側近は、信長の心変わりに感銘を受けたと考えても良いだろう。

 

そして正義感が強く、信長の心境の変化に最も安心感を抱いた河尻秀隆は、

信長に、

「吉乃殿との婚姻の件は、私から弥平次殿から断りを入れてもらうように話してみます。彼の様な御仁ならきっと解かってもらえるとおもいます。」

と、伝えたのだった。

 

勿論、ここは小説として更なる着色という形にも成るのだろうが、当の弥平次もこの作戦に協力的で、信長の要請に対する返答は、

「兵は300人程度は揃えられ、武具も兵糧も用意してお待ち申し上げす。若の縁者として共に武功を立てれる時を楽しみにしております。」

という形であったと創作する。

こうした誠実な返答を受けたのなら、信長でなくとも誰しもが弥平次が好感の持てる人物で有る事を察せられるだろう。

これに対して御しやすい人物と見るかは人それぞれとも言える。

ここでの信長の直感は、弥平次は味方として絶対に死なせては成らない人物だと感じたことで、信長としても吉乃との因縁は関係なしに、一度会って話をしてみたいとも思ったことだ。

実はこの部分は単なる創作の美談という訳では無い。

寧ろ人が人を殺す心情と同じで、謀計に嵌めて誰かを殺すのも初めは躊躇うのが当然だ。勿論伊勢長嶋の戦いで信長は一向宗を謀計に嵌めて虐殺している。しかし、彼ら門徒は何度も約束を反故にしてきたから信長もその手段を決断したと言える。

実際に信長の心情としてはそういう手段は自分を許せない為、頭を過っても中々実行に移せるものでは無いのだ。

 

その矢先に野盗団は弥平次らの土田城を襲撃したのだ。

 

故にこの弔い合戦に対する信長の本気度は全く別物である。

前話で述べている様に、信長の手勢はせいぜい100人程度である。

一方の野盗勢は信長の襲撃に備えて兵隊を予め集めている。

その上で土田城を襲撃したのだ。

それ故に少なくとも倍の200人は予想でき、下手したら300から400人は居るとも考えられる。

予定していた土田方の招集兵が実際どれほど充てに成るかも

現地に到着するまで解らない状況であった。

それでも信長は弔い合戦に挑むのであった。

 

小説として出来すぎた話に見えてしまうだろうが、むしろ大うつけのレッテルを貼られた信長が、天下に名を知らしめるまでに昇り詰める上では、こうした武勇伝のエピソードは桶狭間以前にも存在せねば成らないのだ。

 

読み手の方々には、

この小説における創作部分は史実として残る記録に対して確実に辻褄が合うように推理と検証の下で考えたものであるという事を理解してもらいたい。

いわば創作部分の話無しでは、

史実として残った流れを上手く説明できなくなるという事だ。

 

では、ここまでの流れで史実に残る部分で整理してみよう。

これらを推理小説の事件簿として読み手も色々考えてみて欲しい。

 

①信長が大うつけとして扱われた点。

織田家以外の話と比較して考えた場合、単なる暗愚な嫡男を否定しただけの話ではないという点。

史実として信長に抵抗した勢力は、父・信秀の側近たちが主流。

筆頭家老の林秀貞に柴田勝家などはその代表格になる。

更に大きな違いは、信長と抵抗側の神輿の信勝は土田御前という同じ腹から生まれたことにある。

通常のお家騒動の起因は、家臣団のクーデターか女性の権力闘争が絡むケース、またはそれらが相互作用することで発生するが、実母が同じ兄弟の争いは比較的稀といってもよい。

この稀なケースの主はその母親自身が権力を握る為の画策になり、信長のお家騒動のケースもそれは否定できない。

更に現実的な問題としてここまで家臣団が反対し、その母親まで反対する程なら、父である信秀も信長の廃嫡に動いても可笑しくはないのだ。どれだけ父として長男である信長を愛していても家中分断の危機になる状況ならそれを放置するのは寧ろ不思議としか言いようがない。

しかし、廃嫡には至った経緯は資料に存在せず、結果として織田弾正忠家は信秀の死後、分裂に至った。

ここで史実の資料だけでは、

説明のつかない疑問が生じ点はご理解できたと思う。

この疑問を問題の主犯格となる信秀の立場で考えてみてほしい。

信長が普通に大うつけならと…

素行が悪い、勉強しない。

一般的に歴史家たちが推測した大うつけ信長像はこうなる。

これは信長公記にも記載があるからだが、寧ろこれが理由で家中分断に発展したのなら、家を守る家長として信長の廃嫡をかばい建てする理由がないことになる。

いわば仮にどれだけ武勇に長けていても、その家を纏めるだけの素養がない点を家臣団から糾弾されたら、家長としての素養は明らかに無いと判断するのが当然である。

親バカとして見ても、信秀の史実で残る功績を考慮すると、寧ろ親バカだけで家中分断を招くような決断はしないと言ってもよい。

ましてや信秀の周囲には敵ばかりという状況下であえて家中が纏まらない要因を放置することは自ら存命の指揮下で考えてもあり得ない話になる。

それでも廃嫡に至らなかったという事は、信長の中に家長として絶対に不可欠な素養を信秀が見出していたからという流れになる。

いわば素行が悪かった、勉強しなかったは大うつけの理由でないという事だ。

特に戦国の時代は近代、現代で主流と成っている学歴社会ではない。その分、子供の資質を勉学だけで計る時代ではないと言っても良い。

そういう意味でこの小説における信長幼少期のエピソードは、家臣団であり実母が反対しても廃嫡に至らなかった信秀の心情として絶対不可欠に存在しなければならない出来事で、信秀が親バカとして寧ろ信長の成長を見守った見識の中で揺るぎない素養として確信できるほどのインパクトを持たせなければ成らないのだ。

筆者は以前、筆者の父親とちょっとした昔話をしたことがある。

それは筆者がまだ学生だった時分に湾岸戦争のニュースを見ていたときの事で、米軍と連合軍がイラクを激しく空爆していたものだった。

その時、筆者はそれを見てこの空爆を想定するならイラクは地下シェルターを持っているという事を突き止めたという話だった。

それは恐らく自分がサダム・フセインならそういう準備はするという意味で伝えたのだ。

その後、地下シェルターの存在が明らかになった訳だが、どうやら父親は自分の息子がそれを予め突き止めたことを衝撃的な印象として覚えていたらしい。父親との話では筆者がそれを言ったのか弟の方が言ったのか定かに覚えてはいなかったが、「あれを言ったのはお前の方だったか?」と聞いてきたので、ある意味薄々は覚えていたのだろう。

実は弟の方が自衛官になりたがっていたり、軍事オタク気味の趣味があったため多少記憶が曖昧になるのも無理はないが、歴史小説が好きだった父の中で何か思う所があってそれを聞いてきたのだろう。

故に信秀と信長の親子の間に、何か特別なエピソードが存在しなければならないと推測したのである。

小説のエピソードはそこからの逆算で、後の信長の治世や戦術から、幼少期に体験しているだろう事を割り出し、信長の性格から書物や勉学で学ばないスタイルまでを考慮して、自然と成立しておかなければその才能を開花させるのに辻褄が合わなくなる部分で創作したものになる。

ある意味、身分社会としてその頂点の武家当主の子に生まれた信長が、どうした経緯で底辺に位置する農民を気遣う発想に行きつけたのか…そういう疑問を払拭する話が存在しなければ成らないという事に成る。

書物や教育で信長がその必要性を理解するという話は、寧ろ史実に残る信長像とは異なる。

反対に史実の記録を読み解くと、農民らとの関わりから「情」というものが芽生えたという流れが自然と成るのだ。

そうした中で秀吉の出世話として有名な「清須城普請」などを信長の見識深さとして検証すると、信長自身に秀吉の提案を理解できるだけの度量が無ければ成立しなくなるのだ。

突然の閃きは経験の中での成功や失敗に起因する部分が多く、それなしでは科学的に説明がつかないという事である。

前例のない提案への判断もその閃きと合致しなければ、決断には中々至らない。

いわば信長の奇想天外とされる発想の根源は、必ず基礎となる経験が存在する訳で、この小説のエピソードは全てそれを割り出して解析したものである事を読者には知っておいてもらいたい。

更には信長が吉法師時のこうしたエピソードは偶々結果が伴ったというものでなくては成らず、他の人間の役割が起因するように見せることで傍から見て信長の能力にケチをつけられる形でなければならない。

いわば林秀貞のように直接信長の行動に関わっていない人間が、その話だけを聞いて平手政秀か沢彦の入れ知恵だろうと思う程度のものでなければ、信長が大うつけとして扱われた史実に反してしまう。

吉法師時代の自由奔放な生活で神童であり天才という部分が強調されると、織田弾正忠家を2分する意味での廃嫡という点では現実的な流れとして説得力が掛けてくるのだ。

他の漫画や小説では、こうした天才要素を強調しすぎる物が多く、創作物としては問題無いが、科学的にはお家騒動に発展するまでの根拠としては乏しくなる。

かの大河ドラマのマッチョな信長は、誰が見ても「頼りがいのあるイケイケな当主」に映るのだから。

その為、信長の大うつけのレッテルは読み手も含めて誰が見ても「アウト!!」と感じるもので無くては成らないが、前にも記した様に記録として明確に存在しないため誰も知りえない部分であるのも致し方ない。

 

ただし、科学的な分析・・・

信頼できる一次、二次資料は、どういう視点で記されたかを分析し、逸話として扱われる資料はどういう経緯でその逸話が残ったかを解読するのだ。

更には有るべきはずの資料が存在しない点も考慮しなければ成らない。

 

②信長の母親である土田御前の出自が曖昧な点

 

これは有るべきはずの資料が存在しない点に成るのだが、天下統一目前まで為しえた織田信長の母親の出自が明確に無い所だ。

兄弟争いでありお家騒動の事件は史実としてほぼ明確に伝えられる中で、土田御前の存在も確認されている。

しかし、その母親の出自に関しては、美濃の土田(どた)氏なのか、尾張の土田(つちだ)氏なのか、それとも別なのかかなり曖昧な記録になる。

何度も伝えてきた話だが、美濃土田氏は美濃でも明智氏の下に位置する訳で、尾張でそこそこの地位にある織田弾正忠家の正室に迎えるには不可解すぎる家柄である。

吉乃の話で生駒家と美濃土田氏の話が登場する様に、明らかに商家の身分であった生駒家と美濃土田氏は同等という立場。

故に土田御前の出自が美濃土田氏である事は、科学的に見ると有りえないと言える。

すると尾張の土田氏説に成るが…この尾張の土田氏の記録は土田政久という名以外の記録は皆無である。

母方の出自の家柄で考えるなら、信長の後の配下にその出自の人物が記録として登場する方が自然な訳で、その記録すら無い。

ここで科学的に推理するなら、その土田氏は消滅した可能性が高くなる。

 

③吉乃の出自、生駒家の実態と前野長康の存在

 

生駒家の話に関しては、前野長康親子の記録である前野家文書など「逸話」として考えるべき資料からその逸話を解読しなければ成らない。

前野家文書はほぼ伝聞…いわば聞き伝えが構成の主体である。

そしてその内容は当時のゴシップの要素が見受けられる。

生駒家の家系図の方では、吉乃の前夫とされる人物は何某弥平次と記され姓が省かれる形は家系図としては異例中の異例になる。

その異例中の異例の人物を前野家文書では、土田弥平次と記している。

あえて言っておくが、歴史上に記された話で今と成っては確実な証拠は皆無なため、100%の確証は与えられない。

しかし推理の部分で考えるなら、何故生駒家はその姓を隠し、前野家文書はその姓を「土田」と記したのかだ。

推理上で考慮するべきは、ゴシップとしての前野家文書では、実は「土田」と記した根拠は尾張の土田(つちだ)氏に対してでは無く、美濃の土田(どた)氏でむしろ生駒家に対するゴシップで記している。

ここで読み手の方に少しゴシップ要素に興味を持って頂こう。

織田信長の嫡男織田信忠の母親に前夫が存在した。

これは史実の記録上曖昧になるが、その織田信忠の母親は明確には吉乃とは断定されない状態である。

勿論「吉乃」という名も後世に付けられた名前だが、ここでは生駒家出自の信長の妻別名「生駒の方」を吉乃としておく。

その生駒家が吉乃の前夫の姓を「何某」とあえて記している点を怪しんで欲しい。実際に現存する家系図にも確認できるらしい。

信忠の生母には実は前夫が居たというだけで少し汚点に思ってしまう。

故に信忠の生母が曖昧な形で色々と伝えられている可能性はある。

ただし吉乃がその生母であるなら家系図からその記録を抹消しても問題なかった話でもあるが、家系図にはハッキリと前夫の存在が記されているのだ。

そこで考えられる実態は、織田家家中にその事実を知る者が多かったから隠せなかったという事。

では、何故その姓に関しては「何某」と記したのか。

政治家のゴシップとして、いわば権力者のゴシップとしては興味をそそる話に見えてくるのです。

事が進んでから織田家であり生駒家に出入りするようになった前野長康ら親子が、ほぼ同時期に信忠誕生を聞き知り、その母親である吉乃の話に興味を惹かれたのは十分有りうる話となる。

実際に秀吉との関係も有って出入りしていたとされる生駒家で色々な人物から話を伝え聞いた流れは、当然なものとして成立する。

出世した前野家は今では立派な武家であるが、秀吉と生駒家に出入りしていた時分は、良くて国人衆でほぼ野武士という存在で、ゴロツキというかヤクザな存在であったと言える。

その中で、誰もが口を閉ざす「何某弥平次」という「何某」とされる部分、長康ら親子で無くとも誰もが怪しむ所で、ようやくたどり着いた所で「土田」という名前が解った。

人の弱みに付け込む事に敏感なゴロツキであれば、ある意味突き詰めたい心理が働く内容とも成る。

さて伝聞なので「つちだ」と聞いたのか「どた」と聞いたのかは定かには出来ないが、何れにしても漢字の「土田」に結びつく憶測は探求心の心理として成立する。

さてここからは推理の話で、長康ら親子の憶測と同じ感じにもなるが、生駒家との繋がりから漢字の「土田」は自然、美濃の土田氏に結びつく。一方で信長の母親は前述の通り信秀の正妻である以上、美濃の土田氏はほぼ有りえない。しかし「つちだ」と聞いても漢字の「土田」に結びつく。

憶測を悪と考えるなら、音で聞く「つちだ」と「どた」は結びつかない。

ところが弱みに付け込もうと探る人間は寧ろ「何某」という意味で隠し立てする部分に憶測をぶつけて考えてみる。

ここで前野長康は蜂須賀小六と組んで、当時は野武士というゴロツキであったという点を忘れは成らない。

ゴロツキと断定する部分は、その当時の織田家での纏め役が、まださほど出世していない木下藤吉郎こと秀吉だった事でも言える。

ここは憶測で無く立派な推理として説明しておこう。

この当時、美濃と尾張は1556年に斎藤道三が戦死して、同盟関係が破綻した時期に成る。

故に織田家に使えながらも、織田家の弱みを握る事は、地理的に国栄で活動するゴロツキにとっては格好のネタとも言える。

後に秀吉の下で出世したから見えにくい部分だが、当時の木下藤吉郎の身分でそんな大出世が期待できるほどの信頼関係が有ったとは逆に考えられない。

ならば生き抜く処世術として美濃の斎藤義龍と信長を天秤に掛けておくほうが自然と言える。

そういう冷静な分析で前野長康ら親子の心情を察すると、これほど面白そうなネタは無いという話に繋がるのだ。

実際に前野家文書は存在する訳で、ゴシップを突き詰める動きはあったと言っても良い。

しかし、憶測が間違った方に進んだ可能性は高いのだ。

これは既に記している事だが美濃土田氏から信長の祖父である織田信定に「いぬゐ」という女性が嫁いだという記録も存在する。

おそらく前野長康らの情報網からそこを探り当てた可能性は高い。

生駒家と美濃土田家の関係性から話が聞こえてくる可能性は十分に高い。

この「いぬゐ」は実は信秀の生母「含笑院」とされる人物だが、その出自は織田筑前守良頼とされている。

ただ憶測が先行すると美濃土田氏から嫁いだとされる「いぬゐ」と同一人物と見なすことも出来る。

実際にこの話が本当なら、読み手の方がたも怪しむだろう。

そこで更に「土田御前」である。

信秀の母「いぬゐ」が美濃土田から嫁いだにも関わらず、織田弾正忠けでは誰もが「織田良頼」の娘と言っていると勘ぐると、土田御前の出自も尾張土田(つちだ)氏とされるが、実は美濃土田(どた)氏だったのではと勘繰る。

実際に土田政久の名前以外は尾張土田氏の存在は前野長康らが生駒家に出入りしていた時分には確認できない状態だったとも推測できる。

さて前野長康らこの憶測に進んだという根拠だが、それは歴史上の記録で曖昧に存在する部分が明確に残るからだ。

それは土田政久と「どたまさひさ」として実は生駒親重が政久の子、または同一人物であると記されている事だ。

生駒親重本人はこれを否定したという記録もある。

そこから察するに前野長康らは生駒親重本人にその事を直で追及した可能性が高くなる。

いわば織田家の弱みである前に、生駒家の弱みとして。

勿論、前野長康らの行動をゴロツキの手口として考えれば、生駒吉乃の嫁いだ先が実は「土田(どた)弥平次」という人物で、そこから出戻った吉乃には実は子種をやどしていたのではという流れ。

そこで信長の嫡子となる信忠はいわば美濃土田氏の超近親で生まれた子になる事実だが、長康が突き付けたのは信忠が実は信長の子でないという事だ。

これは前野家文書に吉乃の前夫・土田弥平次は1556年9月に没したという記録があるという点で明確になるが…

恐らく生駒親重は長康の追及が見当違い過ぎてハッキリと否定して見せたと考える。

その為、前野家文書を含む武功夜話では1551年やら1555年やらと信忠出生を巡って曖昧な表現が残ったり、信長と吉乃の関係は濃姫の輿入れ前だったという記述まで登場するのだ。

これらの曖昧な表現が残る部分としては、結局前野長康の生駒親重への追及は失敗したという事。

その上で生駒親重から聞かされた内容を恐らく後で思い返して史書として残す意味で整理したところ、「濃姫(帰蝶)の輿入れ前には吉乃と信長の関係があった」という話の部分で混乱したと見える。

実際に長康が最終的に追い求めたゴシップは、信長が美濃土田氏の近親相姦で誕生した点で、いわば祖父が美濃土田氏の「いぬゐ」と、そして父親は更に美濃土田氏の「土田御前」という関係。

その事実故に織田信長は「大うつけ」とされたという内容にも成るわけだが、そうなると同じ腹から生まれた織田信勝も同じになる事は忘れては成らないと言っておこう。

さて…これだけゴシップネタを求めて探りを入れたであろう前野長康がたどり着けなかった事実は…

そう考えると土田御前の史実的には最有力の出自に成る尾張土田(つちだ)氏の存在だ。

さて…何故この尾張土田氏が最有力なのか…

実は信秀の母親である含笑院の為に含笑寺を建立したという記録があるが、その場所が清州の土田であったという事だ。

歴史を研究する人たちは文書で無いため見逃しがちだが、信長の母親の土田を特定するのに最も有力な手掛かりなのだ。

当時の清洲周辺は大和守家が主体で弾正忠家が入り込める余地はほぼ無い。建立した時期が信長が生まれるより前の1528年であるとすると、信秀の勢力圏は那古野にすら達していない。

そうした中で尾張の首都とも言える清州に程なく近い場所を自由に出来るとは考えにくいのだ。

この土田という場所は清須城から1キロ圏内の場所になる事で、かなり特別な場所と見なしてよい。

この場所に母親の寺を建立したわけだ。

それが当時の織田信秀の力で可能だったという事は、そこの領主と懇意にしていたからという事で考えた方が良い。

そうなると尾張土田氏との関係に自然と結びつくわけで、寺の土地まで許せる関係となると親戚関係で考えるしか無くなる。

いわばその土田氏の娘を正妻として迎え入れたからとう関係性が結びつき、その存在が土田御前とされる事実から明確な辻褄として成立するのだ。

ただし、歴史上で直近の時代の前野長康ですら知りえなかった尾張土田氏の存在故に、歴史家にとっては謎多き部分になるのも事実である。

 

更には歴史上の文書から察するに、実際は生駒家は商家であったにも関わらず、生駒家は元来武家であったと現在でも主張している点。

いわば信忠の出自を今だ気遣う姿勢がそのまま伝統的に継承されている事と、何某弥平次の秘密は伝承としても口外せぬよう伝え聞かせんかった事。仮に当時の事を知る生駒家の者が伝え聞かせていたのなら「何某弥平次」の謎は500年も時を得た現在には公に資料として残るはずなのだから。

そういう姿勢を見ると現存する生駒家は今も昔も立派武士であるのだと理解できる。

それ故に「何某弥平次」という吉乃の前夫に大きな秘密が有る点は疑いもない所として残るのだ。

 

④筆頭家老林秀貞に限らず、母親の土田御前まで見捨てた事実

 

結局、信長に敵対した勢力は弟の織田信勝(信行)、林秀貞(旧道勝)、そして実母の土田御前が主犯格である。

単純に考えて信長が神輿として扱いづらく、信勝の方が扱いやすかったからという理由も考えられる。

恐らくは最終的にはそこも含めた形に成るだろう。

特に林秀貞の様な人物ならその基準は的を得るだろう。

勿論のこと自分の側で過保護に育てた信勝に母親の土田御前が傾くことは十分に考えられる。

しかし…ただ単に彼らが扱いづらいからという理由で、他の者たちがある意味弾正忠家としては不義理になる方へ靡くかという点である。

実直な性格で知られる柴田勝家が単に林秀貞に逆らえないからという理由で、信秀の決めた嫡男を見捨てるのか…

そういう疑問も感じるべき点である。

実際に信秀の死後1552年から直接対決の1556年稲生の戦いまで、4年の歳月があるが1553年に信勝は既に弾正忠を名乗って信秀の後継を自称している。

直接対決に至らなかったのは信長の背後に斎藤道三が居たからと言っても良い。その道三は1556年に戦死しているのだから。

それ故にこの弾正忠家のお家分裂は、4年間様子見があったわけではなく、信秀の死後、その喪に帰する時間を得て発生したものである。

信長が大うつけであると広まった時期は推察するに、濃姫こと帰蝶が信長に嫁ぐ以前と考えても良い。

ある意味、既に美濃守護の地位にあった斎藤道三が、自分の娘を守護代でも無い弾正忠家に嫁がせる決断に寄与した所で考えるべきだ。

いわば寧ろ信勝の様な普通に立派に育った相手なら、道三の性格上、格下との政略結婚に興味すら抱かなかったと考えても良い。

勿論、格下といっても美濃との抗争の主犯格は弾正忠家な訳で、和平の為という体裁は考えられなくも無い。

しかし、自分の娘を人質に出す様な話で信秀を信頼するとは寧ろ考えにくいのだ。

いわば和平の為の政略結婚なら、逆に信長の妹お市の方を義龍にという流れが当然である。

それがダメなら道三ほどの腹なら、松平か今川にでも帰蝶を嫁がせただろう。

これが寧ろ戦略的な見解であり、確かに濃姫こと帰蝶の輿入れは歴史家の思考でも意味不明すぎる話だろう。

ところが道三ほどの人物で、好奇心の高い人間なら、大うつけとまで言われる信長が本当はどういう人物なのか興味を抱くと言える。

単なる噂だけなら勿論興味は抱かない。

それを支えている人物が、道三が目にしても一目置ける平手政秀であり、自分を苦境まで追い込んだ織田信秀が大うつけとされるその信長を未だに廃嫡していない事だ。

こうして思考すると読み手にも道三が「信長とは何ぞや?」と興味をそそる部分は理解できると言えるだろう。

ではその実像をみるには…

まあ、自分の密偵として娘を送るのも有りかと考えるのも一理あるのだ。

無論、確実に成功する訳ではないが、信長が本当に大うつけなら帰蝶には戻ってこさせれば良いと、逆にそれが失敗してもその時は致し方ないと覚悟を決めた上で。

さて…その大うつけの噂話は勿論ある程度の詳細は、道三の耳にも届いてると考える方が普通である。

「素行が悪い、勉強が出来ない」

こんな程度の大うつけの噂なら、信長に限らずどこにでも有りそうな話だ。

では、前野家文書の様に近親相姦で生まれたという話だと…

逆に道三は気味悪がるだろう。

また、美濃土田氏は道三の所領で明智氏に近いため、寧ろその事実確認まで容易な訳だから、道三が一切気にせずに信長を受け入れた史実で流れるなら、寧ろ無いと言っても良い。

 

ならば戦略的な着眼点に絞って思考して見よう。

尾張を上手く攻略すると考えて、その中の一番大きな勢力である織田弾正忠家をどう料理するか、である。

団結した敵と真っ向から戦えばそれだけ被害は甚大なものになる。

しかし敵が自ら分裂すれば、敵は同士討ちを始めその一方に味方することで敵勢力の半分は少ない被害で仕留められる。

いわば信長の大うつけっぷりが寧ろ弾正忠家の分断に寄与するなら、信長に味方する形で介入し、そのもう一方を壊滅に追い込むのも手と考えるのだ。

 

ある種、信長への興味も有るが、場合によっては戦略的に利用できる形も見て取れる状況と成るのだ。

 

しかし、その大うつけの根源は何かが実は大事に成ってくるのだ。

 

家臣一団となって信長の廃嫡がまかり通る様では実は意味がない。

むしろそれを理由に介入出来ても、自軍に生じる被害は同じ程度に成ってしまう。

逆に家臣団の意見が割れるような話であれば、たとえ信秀が廃嫡を決めても分裂する可能性は高い。

 

あの手この手を尽くして尾張の分断を図った道三が興味を持つほどのインパクト。

織田家の大和守家や伊勢守家をそそのかして、信秀を苦しめようと謀ったものの大きな成果を得られなかった中での大きなインパクトで考えなければ成らない。

娘の命を掛けるとはそれだけの勝算は欲しいと考えるのは当然である。

 

そういう意味で考えるなら道三が見て取れる状況は、

 

母親の土田御前も激怒する状況。

筆頭家老の林秀貞を含む家臣団が呆れる状況。

信秀がそれでも信長の廃嫡に動かない状況。

 

この三点が揃うのは、人間としては致し方なくともリーダーとしては愚かな行動に成る。

いわば人間として致し方ないと見える故に、情として許せてしまう訳で信秀が親として許す事が理解できるという内容。

且つ情の薄い家臣団は許せず、情のある家臣団は信秀同様に理解する。それ故に家臣が割れて争う要素が見て取れる。

更に本来、情に流されるべき母親がその情を切り捨てるほどの内容になるのだ。

 

そこに隠された秘密「何某弥平次」の存在と、消えた尾張の土田氏を合わせると「恋に溺れて失態を犯した信長」=大うつけという事が見えてくるのだ。

現代でもこういう失態を犯せば世間からかなり叩かれるのは目に見える。織田家中が大騒ぎするほどの出来事であることも解かる。

吉乃という存在が、公な所であまり登場しない点、

信忠の母親として明確に記録が存在しない点、

そしてこの事件が信長公記を記した太田牛一ですら知りえなかったと考えるなら、当時を知る家臣の誰もが周知するほど、権力者となった信長自身が絶対に触れられたくない汚点になる。

いわば吉乃との恋に溺れて、母方の実家を結果的に滅ぼし、挙句の果ては家中を分断させる要因に成ったのだから。

故に信長自身も稲生の戦いの後、誰も処分出来なかったのだ。

林秀貞の様な人物は信長にとっては既に用済みと言えた訳で、稲生の戦いの後では殆ど活躍の場がない。

反対に秀貞の様な人物は危険な存在でしかなかったわけだが、それでも信長は処罰しなかった。

信長の性格を考えるなら問題の主犯格である人物は処分しても可笑しくは無い。

それをしなかったという事は、これも信長の性格で自分に汚点があったからだろう。

 

しかし推理を駆使して見出したこのエピソードであるが、問題が一点だけ残る。

それはこれだけの事件が500年もの間、公に語られない事だ。

織田家の汚点話として口止めされていたとしても、逸話としてどこかに聞こえていても可笑しくは無い。

いわば母方の出自の土田氏が消滅したニュースに成ってしまうからだ。

勿論、口止めを示唆したのは信長では無く、信秀に成るだろう。

いわばこの問題は信秀にとってその嫡男が犯した最大の汚点になるからだ。

事件の発生時期を丁度濃姫こと帰蝶の輿入れが決まる直前1548年で設定している訳だが、信秀の命によって関係者の口止めが信秀が亡くなる1552年まで徹底されていたとして、約4年間でこの話を一切語らないことが通常化されたかは不明であるが、昨今ではケネディの暗殺の実態であり、リンカーン暗殺など裏に潜む話は隠されたままに閉ざされていると考えると、本当に尾張土田氏の事件は隠蔽されたのかも知れない。

勿論、土田御前が孫にあたる織田信雄に語る可能性もあるが、それは孫に自分が信長の反逆者であった事を語るに等しく、あえて口にしなかったとも言える。ただ、自分の父親は土田政久で有ったという事のみで。

また林秀貞らも反逆の理由を信長が大うつけをしたからと語るに留め、決して土田氏滅亡を口にしなかった。それもある意味同士の側に立った土田御前に気を使ってのものとも考えられる。

ただし、信秀がどの時点で口外せぬように発令を出したかは不明であるが、もう一つの効果として信長が稲生の戦いの後で、踏み絵として反逆の理由に土田の話を用いた者は、父・信秀の言葉に逆らった者として処分した形は考えられる。

これによって家臣全体に自然と事件隠蔽意識が行き届いたとも言える。

何にせよ怪しむは土田弥平次とされるところが「何某弥平次」と記されている事実で、一説の光秀の弟分、明智秀満説の話より、何某と隠す根拠はより強まる。

いわば当時の日がまだ浅い流れで土田弥平次と記したのなら、土田事件とする話に結びつきやすくなり、織田家の禁句に触れることを恐れたと考える方が自然と言えるのだ。

生駒家としても吉乃が後妻になった事実までは隠蔽する必要ないと判断したか織田家の誰かから指導を受けたかでそこは残しつつ、その姓だけは不明としてあえて歴史上に何かを残そうとしたのかもしれない。

結果として前野長康ら親子は、「土田弥平次」の名を探り当てるも、的外れな形で「どたやへいじ」と結びつけてしまう訳だが、寧ろこの事で「土田(つちだ)」氏の痕跡がその当時には消えていた可能性が見えたのも事実である。

仮に「土田(つちだ)」氏の痕跡が有ったのなら、生駒親重が土田政久本人か、土田政久の息子かなどという記述は存在しなかったといえるのだ。

故に、この事件は信秀が早い段階で口外せぬよう家臣団に口止めし、最終的には信長がそれを踏み絵として投降者の意識を図ったため、誰も口にしなくなった。

故に500年間も闇に包まれた話に成るが実は何某弥平次とした事で何か重大な事件を隠した事を残したと考えるのである。

その重大な事件を紐解くと、生駒家と織田家の関係と更には土田氏との関係に自然と結びつき、それは信長、吉乃、土田御前が結びつく出来事なら後のお家騒動に結びつく流れが成立するという事なのだ。

 

更には信長の戦歴には初陣から暫くの空白期間が存在する。

歴史的な事件としても、1547年の初陣から1549年の濃姫の輿入れまではほぼ目立った動きは無い。

確かにこの間ただ遊んでいただけならそれも大うつけに見えるが、むしろこれから暫くして信秀が亡くなった際、信秀の主力を敵に回しても十分にやり合える部隊を自前で手にしていたと考えるなら、この時分から何も準備していない方が不自然に成ってしまうのだ。

ある意味4年間しか無かったとも言えるわけで、オリンピックで活躍する選手がこの4年間をどれだけ大事にするかで考えると、信長が何の行動していない事は歴戦の部隊に太刀打ちすら出来ない状態を意味する。

結果としてその部隊を相手に劣勢にありながら更に8年後の稲生の戦いで勝利するのだから、信長の自前の部隊は相当鍛え上げられていたと考えるべきである。

 

話を物語に戻して…

信長らは土田政久が予め領民を招集した時刻前に土田城到着した。

勿論野盗団の襲撃を受けて既に城は廃墟と化していた。

すると徐々に召集を受けた兵らが

300人程度集まってきた。

 

集まってきた兵らは土田城の惨状を見るや、

 

「土田様はどうされただ…」

 

と口々に困惑した。

そこへ信長らが登場して

河尻秀隆の口で彼らに事態の概要を伝えた。

 

「昨晩、土田殿らは野盗団の襲撃に会い討ち死にされた」

 

そして、

「我々はその土田殿と共同で野盗団を討伐する予定であったが、今と成ってはその弔い合戦となる」

と話した。

一見領主の弔い合戦という話で、招集を受けた領民の士気も上がりそうに見えるが、現実はそうではない。

 

その前に簡単な兵役の計算してみよう。

参考資料で軍役を調べたところ、

豊臣時代の資料では、百石7人制とあり、いわば百石に付軍役を7人出すと規定したようだ。

これは徳川時代には、百石2人制に変化する。

それ以前の戦国時代では大名によってまちまちだが、

おおよそ百石8~10人と考えても良いかと思われる。

では、その百石とはどういう大きさなのか…

一石は基本的には体積の基準で、

1升=約1.8リットルで、100升=1石と規定されているらしいが、

この規定は明治のもので、戦国時代の話だと曖昧になる。

ただし体積ではなく石高という意味で一石を考えると、

その広さが気に成るだろう。

1石の広さ=現代の基準で1000㎡だそうだ。

1000㎡を正方形で換算すると、

31.62mの二乗になる。

10石だと10000㎡なので、解りやすい。

100mの二乗だ。

問題の百石7人制の100石は、

316.2mの二乗だから、

ザックリと考えて

地方の小さな公営競馬場のトラックの広さくらいだろう。

そう逆算して考えると、

70人から100人集められる千石領主の領土は

一辺が1キロの二乗くらい。

地図で見るとこの広さ

大体明治神宮と代々木公園の

緑部分よりちょっと小さい位の広さだ。

700人から1000人の1万石の領主が

3.162㎞の二乗なので、

大体地図で見る羽田空港の大きさ位になる。

勿論石高は米の量の単位で、

1年間に大人一人が消費する量で見積もられるため、

その広さが単純に領土の広さなのか、

それともそこに存在する田んぼや畑全体の面積なのかは、

検地などをして計測することもあった時代で

明確に言える部分では無いが、

信長は特に検地を行っていなかった様なので、

ここは単純に領土の広さとして見積もるものとする。

 

では土田氏の領土の広さを

この話での兵役300人集める意味で計測してる。

300人を戦国時代の兵役基準で見積って、

三千石の領土と計算する。

三千石=3百万㎡なので、

一辺が大体1732mの正方形に成る。

さて一辺が1.73㎞で

名古屋第二号環状線上の清須西IC付近を見渡してみよう。

この辺りに土田という地名が残っていて、

清須西ICを中心に東は名鉄名古屋本線の新清洲駅で、

西には願正寺という寺が入る。

この願正寺との繋がりは定かではないが、

第36話に記した通り

織田信秀はその母親である含笑院を弔うために、

尾張土田の場所に含笑寺を建てたという話で、

「がんしょうじ」という呼び方から

何らかの関係性を考える寺として見積もるものとする。

横一辺は土田として残る地名からその願正寺に掛けての距離で、

凡そ2Kmとなる。

縦は大体、東海道新幹線の線路を見て、北は名鉄名古屋本線大里駅から、清洲西ICが2Km以内となる。

新清洲駅から五条川を挟んでほぼ東は清須城となるため、

新清洲駅付近は含まれないと考える。

元々この土田氏は近江の六角氏と、

尾張の斯波氏の関係を取り持つ意味で、

六角氏から外交官として尾張に来た身分で考えるなら、

この領土の場所と広さは妥当とも考えられる。

逆に土田御前が例え守護代で無いとしても

織田弾正忠家の正室として迎え入れられる意味では、

軍役で300人程度は集められる身分で無ければ

成らないとも言えよう。

何度も伝えるが、反対に美濃土田(どた)氏の場合だと、

美濃の斎藤道三と戦続きの状態で、

その家臣の明智方に近い美濃土田氏では、

常に反目に走る事も想定される点が考えられるため、

政略結婚という意味でも成立しない関係と言える。

いわば道三と信秀が戦う中で、

美濃土田氏出自の土田御前(どたごぜん)では、

何度も美濃土田氏の裏切りで殺される状況になるとも言え、

そういう状況では織田家で肩身の狭い思いをする事が、

最低でも想定されるからだ。

ここまで考慮すると確実に信長の生母の美濃土田出自説は、

先ず無いと断定できる。

ある意味織田家中を分断する兄弟喧嘩を

裏で糸引く存在として君臨する影響力は、

美濃土田氏の出自では

辻褄が全く合わなくなるという事に成るのだ。

 

さて、尾張の土田氏が

300人程度の兵力を集められる家柄であることは、

凡そで見積もる事が出来たわけだ。

余りこの辺の資料がないため、見積もり=仮定で、

あくまで推測と仮定の話に成るのだが、

読者の方がたには

小説としてまたは現実的なシミュレーションの下で

話の辻褄であり、その後の経緯なども含めた流れとして、

参考に考えて貰えればと伝えておくものとする。

 

さて、招集者であり領主を失った兵の心境はというと…

先ず一般的な漫画であり小説なら、

ここで弔い合戦という言葉で盛り上がるように構成するだろう。

 

しかし…徴兵であり軍役など好んで参加したいと思うか?

 

先ず命を投げ出す意味として無償で参加するには、

それ相応の理由が必要になる。

例えるなら今のウクライナの兵の様に、

他国に国を奪われたくないという強い意志が、

彼らに義務感や責任感を与える。

しかし、領主の弔い合戦では些かその点が薄いのだ。

秀隆はこうも加えた。

 

「この周辺に蔓延る野盗どもを駆逐すれば、そなたらも今後平穏に暮らせることにも成る。」

 

と、治安維持の名目を語った。

勿論、土田政久が招集する際にもそう伝えたであろう。

その上で彼らは招集に応じるも、

兵の士気という意味ではさほど効果はない。

ある意味この召集の義務感を与えるくらいである。

大抵の人間はこの義務感を与える所で終わってしまうのだ。

そしてそこで終わってしまう兵は実は弱いのだ。

義務感とは現代で解かりやすく言えば、

学生の勉強と同じだ。

この義務感だけで勉強できるのは、

寧ろ勉強の楽しみ方を知ったものだけで、

戦で言えば戦争が好きな人間となる。

勉強なら知識欲で学ぶことが好きな人間と成るが、

戦争では悪く言えば人をいたぶる事が好きな人間となる。

寧ろ大抵の人はそんな意欲は無いわけで、

義務感だけではやる気を起こせないのだ。

日本と言う国では、大半がここで終わる。

「働かざる者食うべからず」

こんなことわざを当たり前の様に発している国では、

現実が見えていないと言っておこう。

いわば何かあれば義務だからという言葉で、

相手を言いくるめているだけという話なのだ。

 

実は兵の士気を上げるには、

その労力に対する対価か、

その労力への責任感が必要になる。

勉強にしても

「俺が家族を裕福にする」

美談としてよく聞くものだが、

こうした家族に対する責任感は苦行に対するパワーとなる。

ある意味、家族を養うために

仕事を頑張る人たちが感じるパワーがこれだ。

現代日本は

ここだけで踏ん張っていると言っても良いだろう。

ただしそれは企業に対する責任感ではない分、

企業を盛り上げる士気には成らない事も言っておこう。

いわば企業では義務で働いているだけで、

その義務をこなすことが家族に対する責任感として

機能しているに過ぎないのだ。

いわば無難に給与を貰うだけの責任感でしかないのだ。

責任感を与える事は理想的に思えるが、

実はこれが一番難しいのである。

其々がその責任を感じるポイントに差異が生じるからだ。

いわば自分ならこれで責任を感じて頑張ると思っても、

他人には通じないのだ。

その人の責任感は理解できてきも、

他人は寧ろそんな責任感は持ちたくないとかんがえる場合もある。

日本が空回りする部分がここだと言っても良いだろう。

 

そんな事よりももう一つの対価で解決する方が合理的なのだ。

 

秀隆は招集された兵たちに、

 

「自分の家族が安堵して暮らせるようにこの討伐を為しえてもらいたい。」

 

と、伝えた。

いわばこの戦いに少しでも責任感を感じさせたいという意図だ。

一見、この秀隆の口上は素晴らしいようにも感じるだろう。

しかし、信長は「勘が良い」。

「勘が良い」とは筆者が知る限り、

司馬遼太郎先生が良く用いた言葉だ。

彼はこの言葉を「直感」という意味合いで用いていたが、

ここでは「洞察力が齎す空気を読む力」の意味で使う。

信長は招集兵たちの顔を眺めて、

今一士気の高まりに欠けることを察した。

その上で秀隆の口上に何かが足りないと気づいたのだ。

 

信長は何気にまだ吉法師だったころにおこなった

灌漑作業の現場を思い浮かべた。

その時の作業で金森右近の懸案だったが、

米を報奨として競わせたことで

全体の作業士気が大幅に向上したのを思い出したのだ。

また彼ら招集された兵にどことなくやる気の無さを感じて、

石合戦をしていたころの

相手に脅える農民の子らの姿を思い出した。

 

(これではこの兵たちは使い物に成らない)

 

信長は直感的にもそう感じた。

そこで信長は招集兵らに率直に聞いた。

 

「土田殿はお前らに何か約束でもしていたのか?」

 

招集兵らは焼け落ちた土田城を見て、節々にざわつくと、

その中の一人が、

 

「ワシらは今回の恩賞として米を家族分頂けると言われてただ…

それがお城が焼けてしまって・・・その話がどうなったのかと…」

 

戦国時代、農民が米を口にすることは

滅多になかったと言われている。

それだけ米は貴重な食品だったのだ。

軍役という中では義務故に、その領民は基本従わざるを得ない。

しかし今回の討伐は国を守る戦いとは別である。

秀隆が述べるように治安維持という名目で、

家族を守るという責任感で参加させることも

義務としては成立する。

しかしそれだけで命がけで戦うという話とは別物である。

いわば義務だけでは命欲しさに

逃げ出してしまう事も有りうるのだ。

勿論、多くの領主は

敵前逃亡にたいする罰則も用いて彼らを使うのだろう。

ところが信長は石合戦という罰則すらない遊び通じて、

兵の士気で戦況が大きく左右する事も学んでいた。

いわば弱兵では崩れだしたら止まらないのだ。

 

後の信長からすれば他の兵は

その辺を修正していないから弱かったのだと考えるだろう。

逆に本願寺の門徒宗の様に

命がけで向かって来る相手は手強いのだ。

恐らく太平洋戦争時の日本は

本願寺の様な手強さが有ったと言えるが…

結果として両者とも負けてしまったことは忘れてはいけないと、

今は伝えるに留めておこう。

 

さて報奨であり恩賞を求めての

討伐への参加という事を知って、

多くの日本人は間違った思考をしてしまう。

いわば義務や責任感なく

対価だけを求めるだけの連中に見えるだろう。

そういう意味で使えない、弱いと感じるだろう。

ある意味世の中が

寧ろ義務感や責任感のある人間を求める傾向にあり、

自分が使う側の人間視点で考えるから、

上辺だけの義務感や責任感が横行するのだ。

いわば使われる側は使う側の求める姿勢を演じて、

使ってもらってる社会になるのだ。

 

人は言葉で責任感や義務感を語る事は出来る。

しかしその義務感と責任感が本物なら、

それはその仕事に対する情熱に変わり、

素晴らしい結果を生み出すのだ。

ある意味勉強を学業として楽しむように、

仕事も楽しめる状態にあるのだ。

ところが大抵の人間はその領域に達することなく、

義務感や責任感を上辺だけで口にするのだ。

 

さて合理的な思考においては、

責任感を求める代わりに、

対価を支払うことは、

その対価でその人の情熱を買うという意味に成る。

言い換えればその対価を

責任感が変異する情熱そのものに転用するとい事だ。

それは対価を受ける事そのものが、

一番わかりやすい情熱に成りやすいということになるのだ。

むしろ上辺だけの責任感や義務感で仕事を求めてくる相手より、

対価で動く人間の方が解りやすく働いてくれる。

勿論のこと本当に責任感や義務感で

情熱をそそいで働いてくれる人間は重宝するが

それは望んでも手に入る人材では無く、

また知らない内に手に入っているものでも有るのだ。

ある意味、

使う側と使われる側の信頼関係が

構築されるまでの時間を要すると言っておこう。

 

筆者の様に論理的に考えるまでは無くとも、

信長は招集兵らの率直な話が寧ろ解かりやすかった。

逆に死した祖父の土田政久であり弥平次から、

兵の上手い扱い方を学んだ気がした。

 

(なるほど…そういう事で彼らのやる気を煽ったのか…)

 

すると、信長は自らの口で、

 

「敵は野盗団ゆえに、お宝、米などを蓄えている。奴らを倒した後は好きに乱取りしても構わぬとしよう!!」

 

乱取りとは戦利品をあさる行為である。

他国を占領した際は、その領民を苦しめる行為となる為

天下を目指す信長としては本来これらを禁止している。

しかしこの時は敵が盗賊ゆえに許すとしたのだ。

招集兵らは寧ろそれで士気が上がった。

本来領土拡大を目指す大名なら、

兵に乱取りを禁じるのが当たり前と考えても良いだろう。

ただ素行の悪い者たちは隠れてそれでもやっていた時代だ。

しかし、本来なら尾張であり織田信秀も禁じていた事で、

招集兵らも信長がそれを許すことに驚いた事実だ。

現代なら押収した盗品は持ち主に返すのが当たり前だが、

当時としては押収した品物が

誰のものであるか調べる事すらできない。

故にそれらは寧ろ指揮官らの戦利品になるものだろう。

それら戦利品を好きに持ち帰って良いというのだから、

招集兵らからすれば米を恩賞で頂く話より有難い。

また、相手が盗賊である故にその品物には夢が膨らむばかりだ。

 

乱取り許した信長に対して、

実直な秀隆は、

 

「若、乱取りは相手が野盗故に許したわけですか?」

 

と、聞いた。

そして信長は、

 

「相手が盗んだ物ゆえに乱取りを許しただけだ。」

 

と、伝えると、

秀隆は「ならば」と言わん形で口を閉じた。

そして信長は思い返した様に招集兵らに、

 

「ただし、女子供を見つけた場合は決して手を出すな!!それらは無事に故郷へ送り返す!!これを犯した者は死罪とする!!」

 

と、付け加えたのだった。

一方で信長が招集兵に乱取りを許した事で、

信長本隊に所属する者たちは戦利品を放棄することに成る。

いわば信長本隊はこの戦いを義務で挑むだけなのだ。

河尻秀隆という人物は

後に信長の側近である母衣衆の筆頭に成るわけである。

その秀隆は信長が招集兵らに乱取りを許した事で、

寧ろ信長本隊の人間に不満が出ていないかに気をまわした。

秀隆の直感ともいうべき気遣いである。

そしてそれを確認する意味で、

本隊の人間らを集めて出陣前に、

 

「我々の目的は戦の経験を積んで、武士として大功を立てることにある。その為に集った者たちで、戦利品などに目をくれる輩ではない!!」

 

と、伝えた。

 

「もし戦利品を欲するものが居るなら、この隊から離れ彼らと共に行くがいい。この隊に残るのなら戦に勝つ事だけを考えよ!!」

 

とあえて引き締める形で締めくくった。

 

勿論の事、信長本隊は元々が戦利品を押収する目的で、

野盗団と戦っているのではなく、

寧ろ野盗団を相手に軍事演習を行っているのが本来の目的だ。

自然とそうした目的で参加しているため、

彼らの注ぐ情熱は戦う事にあると言っても良い。

そしてこうした実戦を積んで、

本当の戦で大功を立てると言うのが彼らの目指すところになるのだ。

ある意味、信長の近習らは

そういう目的で集まっていることもあって、

反対に乱取りの様な行為に興味すら無かった。

逆に言えば戦略的な判断として雑兵にそれを許して、士気高揚にあてたことをある意味評価する感じもあったと言えよう。

これは現代社会にも通じる話だが、

ただ単に給与という金銭で雇っているだけの社員は、ここでいう雑兵と同じなのだ。

信長の近習の様に意識を高く持たせるには、

リーダーの目的と目標を共有して活動しなければならない。

当たり前の話だが、

それがあるゆえに下の者たちは自然とと学び、

自然と成長していけるのだ。

しかしリーダーが一方的に下の者たちに

目的目標の共有を求めても所詮は雑兵しか生まないのだ。

なぜなら彼らへの対価は

給与という金銭面でしか保証されないからだ。

日本企業の様に役職への出世という形でで煽っても、

それは個々の社員に目的目標を共有する意味とはならず、

寧ろ金銭的な対価で意欲を対上げているにすぎないのだ。

勿論の事、役職を得ることで

個人的な目標と目的が生まれることも、

仕事に対する意識も生じてくるだろうが、

結局はその一部以外の殆どの社員が

雑兵でしかないことを理解しなければならないのだ。

ここでいう雑兵は使えない者を意味するのではない。

言い方を変えて傭兵という意味で伝えてもよい。

個々の能力は千差万別でも結局は雇われ兵という事だ。

先ずリーダーは自分の下に居るものが

近習なのかそれとも雑兵なのかを弁えて

その扱い方を上手く調整しなければ、

組織的な機能として最大限に引き出せないという事を

理解する必要がある。

 

信長は実に巧妙にそれを使い分けたのだ。

「うつけの兵法」という意味で用兵術を伝えるなら、

これは後に秀吉を扱うことでも伝えられる。

資料的な価値の意味で逸話扱いにされるが、

前述にも記した秀吉の「三日普請(清州普請)」の話などがいい例だ。

これは信長が一行に終わらない清州城の修繕を

秀吉に任せたら三日で終わらせたという

秀吉出世話の有名なエピソードだ。

逸話扱いなのは20日掛かるところを

秀吉が3日で終わらせたという事なのだが、

実際に比較してその位の違いがあった程度で

理解してもらうとしよう。

今、ここでは秀吉がどの様な働きを見せたかは

割愛するものとして、

信長が雑兵を扱うに

雑兵を上手く扱える秀吉をリーダーにあてた点である。

ここから後に秀吉はほぼ傭兵とも言える野武士集団蜂須賀小六や前野長康らを率いた部隊で活躍することは、ほぼ周知の話となるだろう。

いわば信長はこうした人間性の違いを把握して、

各々が最大限に機能するように軍団編成を考えたという点で伝えてもいいだろう。

 

秀隆は招集兵らにも最初は崇高な目的で挑む事を期待していたが、信長が察したように彼らにそれは望めなかった。

信長は鼻っから招集兵らの戦う意識の低さを見透かしていたのだ。

それは以前から農民の子らと石合戦に励んでいた経験で理解していたといってもいいだろう。

沢彦の教育にそういう意図があったかは定かではないとしても、その導きによって兵の性質の違いを信長は会得できたと言っても良い。

兵の質の違いを気づいていたとはいえ、

秀隆の素朴な疑問がぶつけられたことによって、

信長は物と人間の分別に気づいた流れとなったことは伝えておこう。

それで女子供の話を付け足したのだ。

ある意味、2人の直接的な会話は些か嚙み合っていないが、秀隆の疑問によって信長は人道的な意味を気づかされ、秀隆は信長が人道的な修正を加えたことで武士と招集兵ら領民兵の違いを

理解したとも言って良いだろう。

勿論小説である故に着色はやりたい放題であるが、

信長の母衣衆の筆頭と成る人物は

寧ろこうした場面で気が回る人間であったと考えるべきで、

単なる武勇のみでなく、

部隊を引き締める才覚が

その地位への評価に値したと考えるなら、

こうしたエピソードは決して不自然では無く、

寧ろ必然となってくるのだ。

逆に佐久間信盛の功績やその後の結末であり、

失態などを考慮すると、

秀隆の様な気づかいは出来ないだろうと考えるのが当然で、

そうした流れから秀隆の様な人物なら

こういう場面で必ずこうしただろうという流れとなる。

 

秀隆がそのあとで本体の者たちに伝えた言葉は、

武士と領民兵の違いを分別した形で、本隊の将兵らは自分たちの目的を再確認できたといってもいいだろう。

特に現代の日本人に伝えたいことだが、道徳的な意識であり人道的な意識を安易に期待しては成らない。

寧ろこの秀隆の気遣いが無ければ、

信長本隊は精神的にどこかで瓦解したかもしれないのだ。

人は時折本来の目的を忘れてしまう事が有る。

一方は戦利品という報酬が約束され、

もう一方の自分たちは結果として無報酬になる。

無論、武士である意味としては

給与の様な形で受けられるのだが、

自分たちが武士で有る事すら忘れてしまう事も有るのだ。

特に戦と言う緊張した状況下に成ると、

こうした不満に近い状態は、

何の為に命がけで戦っているのかという弱音を齎すのだ。

こうした些細な士気の乱れが、

ある意味弱腰な姿勢を生み出して部隊を崩させる要因ともなる。

兵士一人一人で考えると、

そうした鬱憤が戦闘での集中力を欠く状況にも成って、

命を失う場面にもなると言っても良い。

 

こうして信長は招集兵たちの士気を高め、

更には秀隆によって

自らの部隊の目的意識が再確認された事で、

野盗団を倒すという共通の目的で挑む体制が整った。

 

一方そのころ末森城では、

土田御前が信秀に信長の廃嫡を直訴する事態が起こっていた。

 

さて…勇ましく弔い合戦に挑む信長とは裏腹に、土田御前と林秀貞の信長イジメがここから始まるのである。

昨今のSNS同様に悪く言われれば悪く見える。

それは戦国の世でも変わらぬ形なのだ。

そうした逆風の中、信長は果たしてどう生き抜くのか・・・

どうも…ショーエイです。

世の中から戦争が無くならないのは何故?

そういう疑問を持つ人も多いと思います。

 

ぶっちゃけた話…

戦争が何故起こるのかを知っている人間からすると、

 

戦争が無くなると信じれない人が居る事が原因

 

と言っておきます。

彼らは戦争が怖いから戦争に備えるわけで、

当たり前の様にどこかに「敵」を生み出していくのです。

 

では…戦争は何故起こるのか?

かつては支配欲がその要因の一つでした。

今でもそんな程度の低い話で

敵を見ている人は多いでしょう。

ところが支配⇒抵抗⇒独立

結局はこういう流れで

支配してもあまり意味がないという理解が進みつつ有って、

戦争で支配する思考は政治的には既に廃れてます。

 

では・・・支配欲でない戦争は何が原因か?

 

これを解かりやすく言えば、

何故人は喧嘩をするのか

というポイントに成ります。

因みにネット議論でよく使われる手法ですが…

「自分は喧嘩なんてしないから」

と、話を逸らす、

まあ言い方悪いけどバカが要るわけですが・・・

根本的に人間の心理の話で、

「腹を立てる」

という心情そのものを理解して考えましょうという話です。

喧嘩とは口喧嘩も含むので、

人間には避けて通れない話であり、

喧嘩を避けてても誰かから怒鳴られる、

悪口を浴びせられる、

議論に発展するだけで、

既に喧嘩に成っているということを理解しましょう。

 

解かりやすく言えば、

自分が喧嘩をするつもりじゃなくても、

相手を怒らせた時点で喧嘩に成っているという事です。

実は戦争もこうした原因で起こっているのです。

反対に喧嘩に成らない状態にするには…

相手を支配している状態ならという話に成ります。

自分に逆らえない相手なら、

相手は黙って従う訳です。

国同士で言うなれば、

アメリカと日本の関係みたいな状態です。

ただし相手を支配していない場合は、

当然の様に対立が生じます。

ただ現代社会では一般人同士でも

直ぐに殴り合いになる話では無く、

口論状態の喧嘩というレベルで進むのですが…

 

相手を言いなりにさせる為に、力で押し付ける。

力で押し付けようとするから、相手も力で抵抗する。

 

こうしたレベルで対立が進むと、

結局は戦争という手段、

いわば殴り合いの喧嘩が発生する訳です。

一般人がそれでも殴り合いをしないのは、

警察が居るからの話で、

国同士ではその警察を司る権力同士な訳で、

実際には戦争を抑止するには

国際社会の目しかない訳です。

いわば自分の敵を増やさないために、

批判的な行動は躊躇するという仕組みです。

 

ところが国際社会の目が敵に成るようなケースだと、

後は戦力的な判断で思考する話に成ります。

 

ロシアのケースが正にそれです。

制裁などでウクライナの戦争以前に、

既に国際社会の目としては、

ロシアは明らかに孤立していました。

国際的な立ち位置は既に地に落ちていた…

誰もがそう見える状態です。

なので筆者はウクライナ戦争が始まる前に、

ブログで戦争に成る事を予見できたのです。

 

「ロシアを国際社会の言いなりに成る国にする」

にはという視点で多くの人がこの問題を見ています。

なので誰もNATOという

軍事同盟の拡大を疑問視すらしない訳です。

 

誰一人としてそういう意図を口にしないから、

そういう意図は無いと西側諸国は言い切るでしょうが、

寧ろ腹の内は見え見えなわけです。

これ実は中国に対しても同じで、

その腹の内を見透かされた状態で、

間抜けにも誤魔化しきれてると思い込んでいる訳だから、

まあ、そういう態度なら

戦争いわば殴り合いをするしか無くなる訳ですよね。

何故なら本当の意味で「話に成らない」からです。

 

単純にこの議論を腹の内の概要で伝えるなら…

欧米側 「君たちは完全に包囲されている、黙って我々に従いなさい。」

 

中露側 「包囲しているつもりならやってみろ!!」

 

まあ…中露を犯罪者側の言い回しで伝えてますが…

欧米側が正義と言う話でもないわけで、

寧ろ欧米側は自分たちが正義だと勘違いしているだけで、

結局はそれで戦争に成ったという事。

表面上では人権問題やら

なんやらと伝えられている話ですが、

実の所…こんな程度の交渉です。

しかもイスラエルの問題で、欧米の矛盾は明白になる有様…

 

戦争を無くすには先ず、

国連憲章第二条七項の

内政不干渉を再確認し、これを厳守しなければならない。

また、

1970年国連総会2625 友好関係原則宣言に於いては、

以下の様な形で成立しています。

 

「いかなる国又は国の集団も、理由のいかんを問わず、直接又は間接に他国の国内問題又は対外問題に干渉する権利を有しない。したがって、国の人格又はその政治的、経済的及び文化的要素に対する武力干渉その他すべての形態の介入又は威嚇の試みは、国際法に違反する。いかなる国も、他国の主権的権利の行使を自国に従属させ又は他国から何らかの利益を得る目的で他国を強制するために、経済的、政治的その他いかなる形の措置も使用してはならず、またその使用を奨励してはならない。また、いかなる国も、他国の政体の暴力的転覆に向けられる破壊活動、テロ活動又は武力行動を組織し、援助し、助長し、資金を与え、扇動し又は、黙認してはならず、また、他国の内戦に介入してはならない。人民からその民族的同一性を奪うための武力の行使は、人民の不可譲の権利及び不干渉の原則を侵害するものである。いずれの国も、他国によるいかなる形態の介入も受けずに、その政治的、経済的、社会的及び文化的体制を選択する不可譲の権利を有する。前記パラグラフのいかなる部分も、国際の平和及び安全の維持に関する憲章の関係規定に影響を及ぼすものと解釈してはならない。」

 

簡単にこれを説明するなら、

「自分は自分、他人は他人」

お互いに干渉せず、共存共栄で今は平和的に行きましょう。

という話です。

 

社会的な意味では、

例えば、

タバコのポイ捨てを見かけても、

直接的に捨てガラが自分に当たった様な被害がないうちは、

注意したり相手に不快な態度を取らずに、

そういう人が居るとして関わらないという事です。

 

下手な正義感で行動すれば、

善悪関係なく喧嘩に成るという事です。

一見見上げた正義感の様に見える話ですが、

戦争が起こる原因はこうした下手な正義感と一緒で、

相手に自分の価値観を押し付ける話でしかないのです。

タバコをポイ捨てする人とでは

既に価値観を共有できないのですから、

一般の人は喧嘩を避けて、

それに対処する人に任せましょうという話と同じなのです。

 

国の人権問題は

人権団体で対処することは確かに難しいです。

だからと言って香港問題同様に口を挟むことで、

人権問題以上に戦争と言う

極めつけの人権侵害を齎す話になるという事を理解して欲しいです。

ある意味、

タバコのポイ捨てを注意する人は、

その相手と喧嘩するつもりでやっている行為な訳です。

喧嘩には成らないだろうと思っても、

相手が悪ければ殺傷事件にも成ります。

ウクライナでの米国務長官ブリンケンの行為は、

正にそういう事態。

「戦争には成らないだろう…」

その安易な驕りが事態を招いたと言っておきます。

 

面倒くさいけど付け加えて言っておくと、

ここでいうウクライナの内政問題は関係ないわけで、

欧米がロシアや中国の人権問題に口を挟み、

結果としてNATOという軍事同盟拡大で圧迫しようと

試みた結果、ウクライナ情勢が犠牲と成って

戦争に発展したという話です。

 

先ず、人権問題の解決を考えるなら、

国連内で個々の人権問題を定義した枠組みを、

国連内で議論し国際法として制定する活動が必要と成ります。

 

ウイグル問題が本質的に難しいのは…

〈独立問題〉

スコットランドが簡単に独立出来ないように、

北アイルランドが簡単に独立出来ないように、

バルセロナで有名な

カタルーニャ地方が簡単に独立出来ないように、

ウイグルや台湾、香港が簡単に独立できる話は筋が通りません。

 

その上で過激な独立派の運動に対しては、

欧米諸国でも対処するのは当然の話です。

 

中国の手法が過剰なのかは別として、

過激な独立運動を抑止する対応は一概に批難できません。

ただし!!

国際的な基準を明確にし、

人種差別的な政治管理の禁止くらいは制定できます。

ところが…

中国政府は漢民族の政治管理ですら、

街頭の監視カメラで行っている有様なので、

ウイグルの人も同様に監視される状態は、

差別的ではなく国家治安上の公平な政策に成るわけです。

まあ…こんな中国に住みたくないと考えるのは自由ですが、

中国は中国なりの考えでそういう治安維持を行っているので、

タバコのポイ捨ての話同様に、

「自分は中国には住みたくないわ…」

で、終わらせるだけの話です。

それが良いのか悪いのかは、

中国に住む人が考え彼らが抵抗するか従うかを

決める話でしかないのです。

 

そういう意味で差別的な政策禁止が成立していれば、

ウイグルに限らず、チベットの人たちに対する

過剰な抑圧は国際社会の監視対象となり、

人権的な是正を勧告するぐらいは可能に成ります。

しかし、是正を勧告し

中国政府と上手く交渉して解決するステップまで議論が無いと、

欧米の腹の内が警戒され、

欧米が理由を付けて内政干渉のネタにするものと考えられ、

中国の拒否権行使で成立が難しくなるなる場合も有ります。

 

なので国連内の議論は科学的に話し合い、

銃等の殺傷兵器の原則使用禁止なども考慮して

話し合われるべきですが、

面白い話…

こちらはアメリカが拒否権を発動する内容になるという話です。

実は現代では寧ろ中国の方が殺傷兵器を使っていない。

 

また、ウイグル族の社会的扱いに関しては、

チベットでも問題視された中国化政策とも言うべき、

中国語教育の強制です。

強制と書くと悪い感じに見えますが、

実はこの教育は当然です!!

日本人が義務教育で日本語で授業を受けるのと同じです。

アイヌ人はアイヌ語で教育をという話ではありませんよね。

今ではそういう問題は日本ではすっかり薄れましたが、

アイヌ人が日本政府の管轄下で真っ当に生活するには、

共通語である日本語の教育は有益です。

チベットやウイグルの人たちも、

中国語圏の中国政府管轄下で生活するには、

中国は必須です。

なので強制という意味とは違う意味で理解できます。

これを逆に、チベット語の使用を禁止だとか、

ウイグル語の使用を禁止という話なら

別な意味で人権侵害で議論できます。

かと言って…アイヌ語が世代を重ねて薄れた様に、

中国語の有用性で若い世代が

中国語しか話せなくなる様にもなる点は否めませんが…

それは個々の世代が考える話で、

日本も同様に国際社会は

社会的に有意義な意思疎通を優先させる流れで

終始しているという事です。

アメリカのネイティヴ・アメリカンの殆どが

英語だけ話すのと同じなのですから。

反対に英語が通じないと…

可愛そうな話、社会的に不自由な思いをするというのも事実です。

 

本来、国際社会で議論されるべきレベルは

上記の様な内容を含めて対話されなければ成らないのですが、

程度が低すぎて…

お互いが勝手な道徳観で価値観を押し付け合う話に成って、

結局は戦争と言う結末に繋げる愚かな議論でしかない訳です。

 

とは言え、

程度の低い人間に、高尚な議論の話をしたところで、

馬に念仏…

正直、こんな言葉で締めくくっても

程度の低い人間の自尊心を傷つけ、

結局は意固地に成って戦争を拡散させるだけなのですが…

高学歴でも程度の低い議論しか出来ないのなら、

程度の低い結末で、

歴史の中で馬鹿にされて下さいと言うしかないのも事実です。

勿論、我々現代に生きる人間として

生活を犠牲にする結末も覚悟せねば成らないのですが、

結局は程度の低い人間を

大事な政治の舞台送り続けてしまう仕組み故に、

どうしようも成らないのも事実です。

 

かと言って・・・科学的な議論が出来る人間は

人類全体でも少数でしかないので、

本当に優秀な人間が独裁的に支配して正すしか、

是正するのも難しいようにも思えます。

もちろんそんな優秀な人間を

今度は人類全体が未知の知能ゆえに

その存在を恐れてしまう有様でも有るのです。

 

ノストラダムスなんて…今でも時折聞く話ですが・・・

世紀末の恐怖の大魔王の話って結局は何だたのだろう・・・

 

ただ…恐怖の大魔王の出現の前に、

マルスがその前後の世界を平和に統治する…

 

なんて言葉も有った様な。

ある意味。マルスと恐怖の大魔王が

同一という点での議論は無いんですよね。

ただ…人類の心理上、今回のブログの最後で書いたように、

同一という可能性で考えても面白いかも。

 

先ず、嘘を付く人間は人を疑って見る。

 

まあ、詐欺の話とかあるように

人を疑って見るのが悪いという話では無いのだけど…

賢いと勘違いしている人に限って、

嘘を上手く操ろうとするわけで、

人を疑って見るわけです。

 

ただ…本当に賢い人は利害で物を見ます。

なので嘘かどうかよりも、

利が大きいか、損が大きいかで判断します。

いわば投資的に言えば、リスクテイクかリスクオフか…

 

例えるなら学歴詐称など…

多くの人は学歴詐称などを気にする人が多いと思います。

嘘を付くなんて悪い奴だ!!

そういう感じで。

ただ学歴詐称してようがして無かろうが、

その人間の能力が有用であれば役に立つわけです。

なので人間を能力で見ようとする人は、

寧ろ学歴なんて飾りはどうでも良いのです。

 

しかし、人類の大半はその飾りでしかものを見れない。

 

恐怖の大魔王の話に戻すと、

マルスの意味で、

優秀な頭脳で世界に影響力を齎した人物が、

突如として悪物に仕立て上げられて、

魔王の様な存在に見られた。

ある意味、イーロン・マスクなんてそういう感じで、

イメージが良く変わりますよね。

またここ最近の日本だと、豊田章夫会長など。

 

これが世界を支配するほどの人物なら、

その悪いイメージに多くの人が恐れだすのではないでしょうか…

いわば世界を支配してどうするのか?

確かに…サル吉こと秀吉みたいに、

日本を支配して酒池肉林やりたい放題やったなんて例も有るから、

何とも言いようがないですが…

確かに権力が一人に集中すると感情的な要素で、

敵対する者への対処が雑に成る傾向は有ります。

殺せといえば殺せてしまう。

ただし…ここはその権力者の能力によりけりだが、

その抵抗が正当なものかどうかでも違うのは事実です。

 

折角秩序を齎した状態で、

その抵抗者がその秩序を正当な議論も無く乱そうとする。

実は正当な理由とするといくらでもこじつける事が出来ます。

議論とするのは、

その秩序で生じる社会的改善点を意味する部分です。

勿論、その場合は議論の余地が生じて

解決策を講じる流れが持てます。

それに対して議論する余地または解決に至らない話で、

一方的に抵抗を続ける場合も、議論は成立しません。

反対に逆の場合も有ります。

そういう意味で正当な理由はいくらでもこじつけられます。

 

日本人はただ単に敵視しているから、

ロシアの反政府活動家に好感を抱いているでしょうが、

正直な所、ロシア側目線で考えた際に、

彼らにはロシアの国策としての主張は

皆無に等しいのが特徴的です。

ウクライナ戦争反対を唱えるケースも有りますが、

ではそれ以外にロシア経済をどうするのか?

欧米からの支援を受ければ良い的な主張に成りますが…

ハッキリ言って後進国的な主張です。

逆に言えば…Made IN Rossiaに何が有るか?

先ず小麦、天然ガス、石油以外ほぼ何も無いわけで…

欧米からの支援でそれらを安売りするだけの話です。

 

現実的な見識は、期待値を計算して考えるのではなく、

現状を適切に分析して考えます。

 

プーチン大統領ほどロシアで権力を握った人であり、

ロシアに対する愛国心の強い人間の場合、

ロシアを弱体化させる主張を唱える反対派は、

雑に始末するのは目に見えています。

そこに現状敵側に成る欧米の息が掛った場合、

尚更という話です。

こうした姿勢でプーチン大統領が挑むと、

欧米、日本などを含む西側諸国は、

彼を魔王の様に見ます。

実際に魔王でも良いのですが、

それで

魔王を相手に寧ろ何をやろうとしているのか?

ゲームの様に魔王退治のRPG気取りですか?

という程度の話しかしてません。

 

それで魔王を相手に

「核兵器を使うな!!」

と呪文のように唱えているだけの有様な訳です。

 

まあ、魔王の事は、

魔王に聞いてみればいいという事なのですが…

 

燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや

 

本来そのまま言葉を吟味すれば

鴻鵠に志なんて有るわけが有りません。

単なる大きな鳥です。

大きな鳥は燕雀からすれば自分たちを捕食する天敵です。

この言葉をその本質で考えると、

まさに燕雀からして天敵にしか見えない大きな存在を、

常人は、その燕雀同様に

恐怖しか抱いて見ないという意味が

適切という話に成ります。

最近では鴻鵠にまるで志が有るかの様に解釈されますが、

鴻鵠の方に志があるという意味では無く、

常人が燕や雀の小鳥の様に、

大きな鳥を警戒して考えるだけで、

同じ人間として考えようとしない故に、

その本質に恐怖するのみという事です。

なので恐怖した燕と雀では魔王を見定めることなど、

到底無理という事です。

欧米の政治家がまるでこの状態です。

 

では、魔王から見てロシアの魔王はどう見えるのか…

魔王が人類の破滅を考えない限り、

核兵器は使わない!!

寧ろ燕と雀が何時までも恐怖に脅えて騒ぎ続ければ、

その駆除として核兵器を使う決断をするという事。

 

恐怖に脅えて身構える故に、人は武装する。

 

そういう臆病な連中に与える選択肢は…

 

武装せずに撃たれて死ぬ決断に踏み込むか、

武装したまま核の灰に紛れて死ぬか選択しろ!!

 

という事で、まあ後者の方が被害は甚大に成るだけという話。

ある意味、同じ死を覚悟するのなら、

核を安易に使う事を躊躇っている人間として、

公正明大な平和的な話を期待する方がいいのではないか?

と、いう事。

 

で…人を疑う人の愚かさは…

相手が嘘を付いて俺を殺したらどうする?

と、再び恐怖に陥るわけです。

 

そもそも死ぬ覚悟が無いのなら、

我(魔王)と共に核の灰に紛れて死ね!!

 

と、ボタンを押す決意をするだけです。

勿論…自分も死ぬ覚悟で…

まあ、プーチン大統領も年齢が年齢なので、

あえて生にしがみ付く様な姿勢は無いと思うので…

そこを履き違えると何を言っても核戦争になるかもですね。

どうも…ショーエイです。

久々の投稿となります。

色々と他の準備が忙しくて

中々ブログも「うつけの兵法」も

更新できなくて申し訳ありません。

 

さて…バイデンが選挙を断念したわけですが、

日本人の多くの人にとっては、

なぜカマラ・ハリスが

圧倒的なゲームチェンジャーに成らないのか

不思議に感じるところと思います。

 

人間的なイメージとしては、

ドナルド・トランプよりカマラ・ハリスの方が

圧倒的に良いはずなのに…

僕の個人的な印象としては上記同様です。

 

ただ・・・多くの日本人がそうだと思うのですが、

政治をイメージだけで期待しているから、

本質を見ようとしないのも事実です。

 

アメリカの大統領選挙であって

日本人には投票権がありません。

その上で結果を待たなければならないわけです。

結局のところ米国民がどう考えるか次第でもあります。

 

さて…ここで政治的な話で2人の候補者をまず見てみましょう。

 

国際社会の関心ごとは、

まずウクライナの戦争です。

更にはイスラエルの問題。

 

さて、イメージの話で伝えるなら、

ロシアのイメージは最悪です。

それゆえにロシア有利な状態で終わらせることは

許せないと考える人も多いでしょう。

そうしたイメージが先行して、

ウクライナ情勢が西側有利になるまで、

戦争を継続するという話になるわけです。

その間に発生するウクライナの人々に限らず、

ロシア側の犠牲者が山積み成っても知らんふりな訳ですよね。

まあロシア嫌いな人は

ロシア側の犠牲はどうでもいいと感じるでしょうが、

戦争が続く限りウクライナ側の犠牲は続きます。

 

ロシアが戦争を止めれば良いだけという主張も、

ロシアが止める気にならない状態では、

主張しているだけのものでしかないわけです。

 

そんな下らない論争で言うなれば、

元々NATOがウクライナの加盟をそそのかさなければ、

この戦争事態発生しなかっただけの話なのです。

まあ、そそのかしたかどうか…

こんな議論をするつもりも有りませんが、

ロシアを切れさせた根源は

NATOの怠慢にあると言っておきます。

 

では、誰が悪いかという議論にねじ曲がってしまう前に、

このウクライナ情勢に何を望んでいるのか

整理してみてください。

 

平和じゃないの?

それともウクライナで死体が山積みになっていく状況?

 

結局のところウクライナの状況を変えられずに、

死体を山積みにするだけの話を進めるのなら、

結果としてもロシアが矛を収める落としどころにも

成らないわけです。

 

現状、欧米や日本を含む西側諸国のやっていることであり、

その国民の多くの主張は、

ウクライナで死体をもっと山積みにして、

ロシアが降参するまで戦争しましょうという話な訳です。

平和ボケすぎる話なのは、

西側諸国が負けたくないと考えると同様に、

ロシアも負けれないと考えるから、

結果として火に油を注いでいる間抜けな話でしかないわけです。

 

さて…イメージ先行とは別に、

冷静に公正明大な視点で平和を考えると…

明らかに火に油を注ぐことしかできない現状を、

賢いと見れるかどうかなのです。

 

まずロシアに戦争を止めさせるという話は、

選択の主導権は結局はロシア側にあるわけです。

ウクライナに戦争を放棄させる話は、

支援打ち切りという選択肢で、

寧ろ西側に主導権のある話になります。

 

ロシアに選択の主導権を付与し続ける状態では、

ロシアがもう戦えないという状態まで

追い込まなければなりません。

現状ではかなり大変です。

太平洋戦争の終戦間際の話を思い出してください。

降伏するかどうかの最終的な主導権は日本にあったわけです。

同盟国のイタリアもドイツも既に降伏した状態にもかかわらず、

日本はしばらくの間戦い続けました。

日本人の根性が素晴らしいという話の前に、

結果として原爆が広島と長崎に落ちたわけです。

そこまでの経緯の話は別として、

双方が負けられないとした戦争では、

このような結末まで齎すのだと理解してください。

 

戦後勝てば平和になるという論理は、

人類が常に戦争を続けてきた愚かな論理です。

戦いで得た平和は常に戦いによって覆される。

これはロシアにも言える話で、。

戦いで得た領土は、再び戦いの火種となるわけです。

今はロシアが併合した領土でも、

何十年後かにウクライナが再び取り返しに来ると言えます。

 

こうした結末を考える状態で、

西側諸国の政治家の姿勢が賢いと思えるか?

 

話をアメリカ大統領選挙に戻します。

バイデン政権はある意味愚かな戦争を齎した…

そういう風に考える人も多いわけです。

どれだけメディアが擁護した報道をしても、

イスラエルの問題発生で、

アメリカの戦争と平和への主張が

矛盾した状態になったことは

拭いきれないわけです。

この怪しげな政権運営を

民主党のバイデン政権が主導していた事実が残るわけです。

そのバイデン政権の次期候補者がバイデンではなく、

カマラ・ハリスに変わったからと言って、

愚かな政権運営が変化するか?

結局、米国の有権者の人が感じる部分はそこになるわけです。

 

ある意味、トランプならバイデンより

目先の問題であるウクライナ情勢を解決できるのでは・・・

いわばウクライナ情勢を混沌とさせたのは、

民主党バイデン政権の失態とすることで、

その尻拭いをトランプがどう処理しようが、

情勢が解決に向かえば共和党主導の米国政府としては、

何の問題もないわけです。

 

米国民としてもウクライナの問題放置は

中国や北朝鮮、イランなどを巻き込んだ

戦禍の拡大が懸念されるわけで、

単に外国の問題とも考えないひとも多いです。

勿論、多いとしているのは、

アメリカも日本同様に

イメージが先行して好き嫌いで判断する人も居るからです。

 

ただし!!イメージ的な要素は

カマラ・ハリスの方が好印象に映ります。

しかし、見る人が見れば、

結局、カマラ・ハリスはその背後に居るペロシであり、

バイデン政権の中枢の傀儡に映るわけで、

結果として彼女では現状を打開する期待は持てないわけです。

トランプに対しては悪いイメージが付きまとうように、

政治的な公平さに欠けるところが残ります。

故にウクライナ情勢一つにしても、

現状から平和的な方向へ解決を導けるという

信頼が得られなければ

イメージとしてどうせ無理ならハリスの方がマシに成ります。

 

トランプがウクライナ支援を継続させ、

情勢変化を齎す兆しが見えない姿勢で選挙に挑むなら、

その他の傲慢な姿勢が仇となって、

寧ろ傀儡状態にあるカマラ・ハリスが大統領になった途端、

傀儡状態から抜け出して

何らかの変化を齎す可能性に期待をかける方が

マシという考えが先行するだろうというのが

今後の流れとなります。

 

第三の候補に関しては…

彼らの主張は何れも問題の解決に導けるだけの

内容ではないので本来期待すら持てません。

寧ろバイデンが候補から降りた時点で、

候補者に新たな期待を抱く感情のほとんどが、

カマラ・ハリスに持っていかれたと言えます。

ある意味、平和的社会の構築のためNATOを解体する、

または米国が脱退するという

突拍子もないような主張でもしない限り、

このまま第三の候補として埋もれるだけの流れと思えます。

 

【実は日本の民主主義は未だ12歳で止まったまま】

かつてマッカーサーが日本の民主主義は

12歳程度だと揶揄した話があります。

日本人はそれに憤りを感じたらしいが…

日本人全員がそうという訳ではないし、

アメリカであっても同じなわけですが、

前述の通りイメージが先行して、

どうしても好き嫌いで判断する傾向が高いという事です。

物事の本質を考えようとしない人が多いのも事実で、

上辺だけの噂で善悪を考える人が多すぎるのも事実です。

 

簡単にまとめると、

頭の悪い人は善悪で物事を見るわけで、

頭のいい人は利害で物事を見極めます。

大きな違いは、自分を害する行為に対して、

相手を悪として接すれば、対立しか生まないわけで、

害を主張して相手と交渉するならば

そこには対話での解決が開かれます。

勿論、相手が利害を知らず善悪で考える人間なら、

対話での解決は困難になりますが、

利害で話せるならお互いに解決の余地が存在するという事です。

 

政治家を見る際にも、こうした違いを見極めたいのですが、

最近の政治家はどうにも頭が悪く、

善悪で決めつけて

何が害となることで、

何をもって利とするかが判断すらできないのは残念です。

 

サイレント・マジョリティという言葉があります。

人間の種類をまず2つに分類すると、

人に従える人種と、

人に従えない人種がいます。

社会的な活動でも分類されますが、

ここでは精神的な分類です。

精神的な分類では何かを崇拝できる人と、

崇拝できない人という括りです。

いわば誰かを尊敬したり崇めたりすることができる人と、

言い方で言えば自分を持っている人のタイプです。

基本、誰かを崇拝できるタイプの人は、

人の意見を参考に生きていくタイプになります。

自分を持っている人は人の意見を参考にはするが、

あくまで判断は自分の見識でおこなうという意識があります。

 

前者のタイプは有名な偉い人の言葉を用いて、

そういう人が言っていたことを根拠に語るわけですが、

後者のタイプはその言葉の道理を考えて

自分なりの解釈で語ります。

 

前者のタイプは偉人としますが、偉人の言葉が絶対で、

論拠の話はよく理解しようとしません。

逆に後者のタイプは表面上偉人の言葉は尊重しますが、

ほぼほぼ論拠にそぐわないものは無視します。

 

サイレント・マジョリティは実は後者のタイプが多いです。

勿論、前者のタイプでもトラブル回避で語らない人も居ます。

ただ、人間の多くは自尊心を持つのが普通で、

自分を持つタイプが当たり前と考えるほうが良いです。

論理的な理解力は別として、

この自尊心を持つ人間が多いのが当たり前と考えましょう。

そうした中、誰かと議論するのは大変な労力がいります。

自分の主張を明確に言葉にするのも大変です。

僕も頑張って言いたいことを伝えてますが、

こうして伝えるのも常に色々と苦慮する部分が多いです。

なので色々と考える人ほど寧ろ議論せずに

自分の中で留めおく感じになります。

ましてや上辺だけの議論が主流の

SNS上で語るなんてのも面倒です。

 

こうした沈黙を決め込む人が居るため、

サイレント・マジョリティという言葉になります。

 

ただ・・・サイレント・マジョリティは

沈黙者たちが全て同じ方向を向いているかというと

そうでもありません。

政治家は時折、デモ活動に対して

サイレント・マジョリティという言葉を用いて対抗します。

ところが実際の一般大衆は、

寧ろ利害で考えるため、

自分に直接関係のない問題は考えない傾向もあるわけです。

いわば支持や不支持の姿勢ではないのです。

 

例えば日米安保の内容を確認して

公平さに欠ける内容で反対だとか、

日本を戦争に巻き込む内容だからという話も、

実際には直接我々の生活には関係ありません。

寧ろ米軍に守ってもらってるという感じが先行して、

 

「別に深く考えなくても

米国との同盟大事にしたほうが良いのでは」

 

と、考える人も多いと思います。

これを議論すると、色々知識ある方は

反対の話をいろいろ語ってしまうわけですが、

ある意味、興味のない人は興味を持ちません。

故に自分に関係ないから

そこまでむきになって考える必要もないで終わります。

これは当然ですが、サイレント・マジョリティとは

こういう実態でもあります。

 

米国の様に、これが人種問題であった場合…

黒人が警察に射殺されるたびに生じるわけです。

アメリカ人なら表立って興味ないとは先ず言えません。

ところが実際にどこまでが問題なのか

判断しきれないところもあります。

本当に射殺された側が無実なのか…

それとも何らかの理由があったのか・・・

裁判で明確に検証しない状態では

実は何とも言いようがないとも言えます。

勿論、射殺された側が完全に無実なら

許せないと言える人は多いですが、

事実が明らかにできない状態であり、

そこに実際に関わる話でないのなら、

寧ろ何とも言いようがありません。

でも、そういう本心を語っても

デモに参加する気持ちの人たちには伝わりそうにないから、

寧ろそういう人には同調する旨だけ伝えて、

関わらないように過ごすのが普通と言えます。

 

こうしてサイレント・マジョリティの話をすると、

結局人は善悪よりも利害の話をする方がいいという事も

理解できるかと思います。

 

人は生きていくためには人を殺してでも生き抜こうとする。

勿論、殺人や窃盗は悪です。

しかし、飢えに苦しんでそういう事をしてでも、

生きなければならないなら、何が悪いのか…

自分が死んででも善を全うするべきか?

そんな事が究極の状態で出来るのか?

善悪ではそういう考えで止まります。

 

これが利害で考えると、

殺人や窃盗が発生する状態は害です。

では、その害の根源は何か?

自分の利のために害を排除するのか?

ここまでは善悪の思考と同じです。

自分が考える害が、

少数なら排除しても問題ないかもしれないが、

多数なら自分が害と考える側は、自分を害とみなし、

寧ろ自分が淘汰される。

彼らはどのみち飢えて死ぬしかないのだから、

排除を試みる相手には容赦しないわけです。

 

利害で考えるとは相手にとって利のある話で、

害となる相手を害に成らないようにするという事です。

害の根源が飢えの発生する状態。

自分たちの治政がその害を齎すのなら、

そこを改善して害の根源を断つ努力をする。

その上で害とみなした行為が発生しないように、

上手く秩序を整えるのが結局は上策な訳です。

難しいようで実はそんなに難しくない話です。

 

国際社会においても、

ロシアと中国を害悪とみなして排除を試みるから、

相手も抵抗して戦争に至るわけです。

そうではなく双方が利害を語り合い、

お互いに秩序を考えて交渉すれば、

戦争なんて起こさずとも収拾がつく話という事です。

 

我々のサイドに

そういう事が解る政治家が居ないのは本当に残念です。

 

米国が懸念する

中国が技術をもって世界を凌駕する話も、

中国を制裁で食い止めようとしても、

中国の技術革新は食い止められないわけです。

寧ろ中国が少し進んだ分を米国が吸収して追いつけるように、

共存共栄して競争する方が、

相互依存の関係がより強まり、

中国が凌駕できる状態にも歯止めを効かせられると言えます。

かつてアメリカは日本に同じようなことを考えても、

日本の技術に歯止めがかからないどころか、

米国の企業を結果的に凌駕したわけです。

それから30年・・・日本の半導体技術を吸収しつつ、

新たなIT分野で日本企業を出遅らせた流れを考えれば、

制裁等を用いて中国が逆に独自の技術を隠してくるより、

オープンな形で勝負する方が、

後々逆転の糸口が見えやすくなるという話。

 

老害政治家はどうも次世代への信頼を持たないどころか、

寧ろ老害の狭量で次世代の機会を潰しているだけなのです。

勿論これは一部、習近平氏にも言えますが、

中国のゲーム市場に規制を掛けることは、

中国のその分野での拡大の機会を潰している話です。

中国文化を毀損する行為に気に留める話も、

中国国内の市場しか見えていない話で、

結局は世界市場で勝負すると考えた場合、

大きな足かせにしか成らないわけです。

 

自由な競争社会では、

ヨーロッパの会社が

日本文化主流のゲームを作ることもあるわけで、

その作品が良作なら日本人からも称賛されるわけです。

中国政府が中国国内の文化変革を恐れるならば、

所詮はその程度の国で止まるわけで、

最終的には自由な文化融合が叶うアメリカには

及ばないという話です。

寧ろ中国がもと文化の融合に寛容になったなら、

それこそ技術と市場は恐るべき状態になると考えますが、

その時は寧ろ中国社会が世界と切り離せない状態に陥り、

社会が世界市場を無視できない形に変化するだけです。

アメリカが現状そうであるように、

世界との利害を植え付けることこそが、

戦争という害を排除できる上策なのです。

 

 

 

 

どうも…ショーエイです。

まず最初に、

力を持った時の信長たまは滅茶苦茶強いです。

ミッチーの様に謀叛でも起こして、

寝首を掻かない限り倒せません。

では、こうした相手とどう交渉すれば良いのか…

 

大抵の人は相手を弱体化させることで、

少しでも有利な交渉をという考えに陥ります。

ところが信長たまの様な人物だと、

弱体化させようと試みるだけで察してきます。

 

【一般的にクレイジーに該当する人物】

日本人には馴染み深い、織田信長という人物ですが、

本質的にはクレイジーの部類です。

これはアレクサンダー大王もチンギス・ハーンも、

この部類に入ります。

下手したら諸葛孔明もクレイジーの部類です。

クレイジーな部類の人は、

一般的に負けず嫌いとも言いますが、

普通の人の負けず嫌いと違い、

人に屈する事が嫌いというのがその違いです。

これは勝負事の話では無く、

寧ろ理であり利の無い話には屈しないという点で、

普通の人には理解しにくいポイントにも成ります。

逆に勝負事に関しては理を追求するゆえに、

誠実に考えます。

この誠実に考えると言う話だけでも、

一般の人には理解できない部分でもあると思います。

クレイジーな部類が誠実に勝負を挑むという事は、

実はどんんあ相手も一応のリスペクトを以て挑む姿勢で、

決して馬鹿にして挑まないという事です。

その上であまりにも不甲斐ない相手だった場合、

逆にその無謀な挑戦に激怒することもあり、

反対に自分を苦戦させる相手には敬意を持ちます。

その分、クレイジーな人は引き際も早く判断できるわけです。

 

クレイジーな人は理を追求する為、

負けた勝負に対してもなぜ負けたのか冷静に分析し、

むしろそれを素直に受け止めます。

なので大局に於いては絶大な強さを示すのです。

 

更にクレイジーな人は

自分の死に対して冷静に受け止めます。

いわばいつ死んでも可笑しくはないという考え方です。

死が怖いというのは当然ですが、

死の瞬間が迫った時は避けられない事も知り、

それは相手に屈する位なら死を選ぶという事にも繋がります。

 

その反面、人の死に関しても冷酷です。

ある意味敵の死に関してはという感じですが…

 

【クレイジーな人はチョロいです…しかしそう感じた瞬間が・・・】

実はクレイジーな人は意外とチョロいです。

ところがこれはマフィア映画などにもよく見る光景ですが、

チョロいと思った瞬間、その人は敵に成ります。

クレイジーな人が敵と見なした相手には容赦はしません。

いわば…チョロく騙せても騙した後は地獄行きです。

むしろそれだけ報復できる力が有るから、

最初に信用して遊ばせてみるわけです。

 

【現代ビジネスの交渉術は相手の弱みに付け込む方法】

相手の弱みに付け込んで、交渉を有利に進める。

これは交渉術の一つとしては有りですが、

実はこれには条件があって、

自分が力量的に有利な場合にのみ通用する話です。

その為にビジネスでは

いわばパトロンいった存在を後ろ盾にしたり、

国同士の外交では同盟国を募るなどの形で形成します。

 

これをクレイジーな相手に対して行うと、

冒頭で述べた様に、

弱体化を狙う行為を察する為、

逆鱗に触れて一触即発の問題が生じるわけです。

 

さて…ここまで話すとどの問題に該当するかは

読み手の方がたも察するところでしょう。

そうですロシアとウクライナの話です。

 

【理と利の話】

日本人側であり、西側の視点で思考すると、

西側の支配が浸透する方が

世の中が安定するという考えに成ります。

確かに我々の民主社会はかなりの自由が保証されてます。

なのでロシアであり中国の影響力の低下を

望ましく考えます。

 

ところが・・・西側の政治家の質は最悪です。

理が通らないダブルスタンダードを平気で正当化します。

そんなダブルスタンダードを

力のごり押しで正当化する話では、

西側の正義や正当性は理不尽なものでしかないわけです。

 

いわば西側以外の思考では、

理不尽な正義や正当性を強要する為に、

反対派を抑圧する行為でしかないため、

これに徹底的に抗う思考が成立する訳です。

 

世界規模の政治として考えるなら、

現状西側の主張は与党です。

ロシア、中国などの新興国とする方は野党とします。

西側が民主的な主張を正当化して考えるなら、

与野党の意見の対立も民主的に受け入れるべきです。

ただし世界規模の政治、

いわば国連はまだ選挙制を用いていないため、

票決という決着は難しいです。

と、いうか…イスラエルのガザ侵攻問題が発生して、

この部分もダブルスタンダード化してしまいましたよね。

 

ウクライナ問題であれだけ民主的な形で

ロシア批判を展開しておきながら、

イスラエル問題に成るとアメリカは拒否権を行使して、

民主的な評決を反故にする。

こんな程度の低い話で、

国際社会に西側の理が通じるとは成らない訳です。

 

こうした理不尽な作用で与野党の攻防に決着をつけるには、

結局は戦争と言う選択肢しか無くなるわけです。

その上でNATOなどの軍事同盟の強化・・・

更に戦争をチラつかせているだけの行為に成ります。

 

【クレイジーは核兵器の使用も平気】

クレイジーな部類の人は、

通常の人間と思考が違います。

通常の人は道徳だとか人間性だとかを気にするが、

クレイジーな人は

社会に何を植え付けて死ぬかが大事なのです。

キレイごとだけで理を理解しない世界なら、

破滅の危機を植え付けて思考の改善を促すことも、

社会の軌道修正に必要と考える。

 

まず…平和という概念で理を考えるなら、

何故NATOの様な軍事同盟が今だに必要なのか?

またそんなものを拡大してどこを敵視するのか?

敵視する以上、それは戦争を挑発している話で、

全く平和ではない。

西側諸国が自分たちの安全を確保するだけで、

敵視する側に対しては脅威を植え付ける。

その脅威は逆らえば滅ぼすというメッセージな訳です。

 

これを通常の人は

「そんなつもりはない」

と言葉で否定します。

否定したところで、

国連内でも外交上でも、制裁など用いてて敵視側を脅かして

要求を理不尽に正当化して強要している訳です。

この時点で理の話として平和的とは言いません。

 

クレイジーな人からすれば、

こんな理が成立しない程度の世界なら、

核兵器で破壊する方が良いと考えます。

 

いわば馬鹿な屁理屈と理不尽な力で

支配が及ぶ世界にしたから

世界は一度壊滅の危機に瀕したという歴史を作った方が、

人類はもっと反省して

平和を再認識するだろうという発想に成ります。

逆にこのまま馬鹿な屁理屈と

理不尽な力で推し進めれば、

強者と弱者の格差が広がり、

テロと反乱が横行する世界しか望めないとなります。

 

通常の人は核兵器を用いるなんて

非人道的と主張するだけですが、

結局はどれだけ非難を展開しても、

広島や長崎の被爆地が訴えても、

使うと決めたら全く関係ないのも事実です。

 

反対に核兵器を使わせないようにするには、

道徳的な話より、

クレイジーな人が世界に絶望しないように、

本当の平和とは何であるかを訴えるべきなのです。

いわば、核兵器の使用を批難するより、

広島や長崎でNATOなどの軍事同盟拡大を批難する方が、

実は核使用の抑止力の効果として

成立するという話なのです。

 

ローマ法王がウクライナに

「白旗を掲げる勇気」の話をしました。

通常の人は戦争の勝敗に捉われて、

もっと大事な事を見失っているから

その真意が理解できないでしょう。

 

戦争第三者として何を大事に考えるべきか?

 

ウクライナの人々の命で考えるなら、

国としてのプライドか、

それとも人命かという話です。

領土を失った事は国としての損失です。

しかしその損失を補填する為、

戦争を続けて人命を失う状態を継続させる方が、

そこに住む人々にとって良いのか・・・

そういう問いかけです。

勿論、ウクライナの人々にとっても

勇気が必要な選択ということです。

ロシアを許せないという人も居るわけですから・・・

 

【結局はWINWINな関係が一番の交渉術】

理と利を説くという事は、

最終的にはWINWINな関係で纏まるという事です。

これは仏教の哲学ですが、

「欲を捨てる」

という事がポイントで、

「無欲」に成るというのは間違いです。

無駄な欲を捨てて、最低限の利を喜ぶ。

こういう言い方が哲学上適切かもしれません。

 

実はクレイジーな部類の人は、

理と利が合致するポイントを交渉前に定めているため、

それ以上に理と利が合致する話以外は、

妥協は決してないと言っておきます。

なので弱点を突いて譲歩を引き出す交渉術は、

寧ろ逆鱗に触れることに成ります。

 

勿論、通常の人に

クレイジーな人かどうかを見極めるのは難しいですが、

理と利を理解せず、自分の利益だけを求める人は、

ハッキリ言ってクレイジーではなく、

単なる強欲な人間でしかないです。

まあ、クレイジーでない人間なら

命の危険に敏感なので、

クレイジーな人ほど無茶は出来ないと言えますが、

クレイジーな人だった場合は、

平気で無茶な決断もするゆえに、

理を語れずになめて掛るととんでもない行動に出ます。

 

ロシアが核兵器を用いるか否か…

西側がNATOがロシアを敵視している軍事同盟でないと

方便を使うのと一緒で、

使うつもりはないは方便という形で考えておくのも大事です。

現状、「核兵器を使うつもりはない」=

「現状まだ世界に失望する状況にない」

という話で…

どういう流れであってもロシアが「世界に失望した」と成れば、

核兵器が容赦なく使われることは

覚悟して考えた方がいいということです。

 

うつけの兵法の新作は現在書いている最中です。

近々アップします。

 

因みに今回書いた「理」とはどういう事か?

と、いう話ですが・・・

通常の人は人の見解と意見は其々と考えがちです。

実はそれは「理」ではないのです。

「理」とは腑に落ちるポイントなので、

もっと深い議論の所に存在するものです。

科学的には仮説の段階は意見で、

定説となって「理に適う」話に成るわけです。

 

平和の理を語るに、多くの人は自身の安全を語ります。

最終的に平和になれば安全は担保されますが、

安全だけを考えても平和に成りません。

平和とは社会全体の信頼です。

日本でも絶対の平和は難しいですが、

基本的に自分を害する人が居なければ平和なのです。

自分を害する=窃盗や殺人を例に、

そういう存在が有る中で安全を考えると、

セキュリティーの話に成ります。

逆にそこから平和を考えて、

窃盗や殺人に関わる人を排除と考えるのか、

それとも社会生活の質の向上で、

窃盗や殺人に走る環境を改善させるのか、

こうした議論に成るわけです。

これが国内の秩序として考えれば、

暴対法などで法的な解決策もありますが、

国同士の場合、現状では戦争に発展する訳です。

ならば自ずと社会生活の向上こそ望ましいと成るわけで、

世界全体の経済底上げという手段が功を奏しました。

 

イスラエルとガザの問題も、

ガザというよりパレスティナの人々の暮らしが

全く向上しない状態にしていたから、

ハマスに加担する人も多く出るわけで、

彼らの主張の正当性も

パレスティナの人々が感じるところと合致する訳です。

逆にイスラエル政府がパレスティナの人々を迫害せず、

寧ろ彼らの生活向上に力を注ぐ形で支援していたなら、

ハマスに加担する人は減らせるという話でもあります。

 

単純な話、家族と平穏無事に生活できる状態なら、

あえて危険な戦闘状態を望む心理も緩和されてくる訳で、

寧ろ過激な思想でハマスがその生活を脅かせば、

パレスティナの人々は逆にその主張を正当化しなくなります。

 

イスラエル政府が主張する様に

ハマスを危険視するのなら、

先ずはパレスティナの人々を味方に付ける事を考えるべきで、

ヨルダン川西岸への入植行為など止めて、

更にはガザ地区の閉鎖なども緩和し、

彼らの生活を支援する形にするべきなのです。

 

結局はこれと逆行する形で、

パレスティナの人々を迫害し、

追い出す政策をするがゆえに、

パレスティナ人は

イスラエル政府を許せない感情に支配されるわけで、

今回のガザ、ラファ侵攻で

それがより強まっただけの話に成るわけです。

仮にハマスの支配がその地区から縮小したとしても、

イスラエルへの怨恨が強まった以上、

ハマス以外にも

更に反イスラエル組織が構成される流れで、

イスラエルはよりテロに脅かされる、

またはアンダーグラウンド化して

発見しにくい状態に成るだけでもあるわけです。

 

もっとイスラエルの人々はパレスティナの人々と、

WINWINな関係を築く政治に転換するべきという話です。

どうも…ショーエイです。

ゲームが好きだけどゲームが何だか面白くない…

そう感じる人も多く居ると思いまう。

基本的にはゲームの消耗期間は3か月です。

それ以上長く遊ぶのには

マンネリ化した作業を延々とこなして、

自己満足の高みを目指すだけの話なるのです。

 

ゲームを制作する側もそこをターゲットに商品化して行きます。

 

他人よりも優位性のある状況を目指すという、

いわば競争心を煽ってゲームに執着させる訳ですが、

 

そろそろ気付いた方が良いです・・・

こういうゲームの構成に皆飽きてきたという事に。

これは漫画の世界に共通している点で言えます。

漫画も且つては修行編の様なもので、

読者を引っ張る感じで構成してました。

とにかく修業期間が長い。

いつまでも次の展開へ進まずに、

それを期待して待つ人を

無駄に引っ張るだけだったわけです。

 

勿論、ゲームが新しい展開を挿入するには、

漫画以上に時間が掛かります。

最低でも1年位。

しかし、その間にプレイヤーを維持するのに、

マンネリした遊びで延々と繋ぎ止める発想は既に古く、

実は次のコンテンツを待つより、

他のゲームを遊ぶ感じに成るのです。

 

これだけ多くのゲームが存在し

似たようなものばかりが横行すると、

ただ単にそれらが分散するだけの話にしかならず、

結果として1製品の収益も平均的に減るだけなのです。

 

【ゲームでは命が軽すぎる部分を是正して見るべき】

ここではMMORPGを中心に話を進めます。

基本的にゲーム内では命が軽すぎる。

死んでも復活出来るからなのですが…

ところが昔のアクションゲームの様に

ゲームとして死んだらそこで終わりだと、

ゲーム内で積み重ねて育てる楽しみは無く成ります。

まあ、普通はこの相反する作用がネックとなって、

思考が停止してしまう所なのですが・・・

 

先ずその前に、RPGを楽しめている部分を考えてみます。

RPGはレベリングがサクサクと進む、

いわば簡単にレベルが上がっていく状態の時は、

一番楽し部分です。

それは成果が直ぐに反映されるからです。

更には武器や装備が手に入るところも楽しい部分です。

しかし、高レベルになると、

低レベルで手にした物は用済みに成って行きます。

それでもそれらが何らかの収入源として活用できるなら、

敵を倒して手に入る物はそれなりに価値を与えます。

 

ある意味、解り切った部分で

色々なゲーム制作者がこの辺を

試行錯誤して取り入れている訳ですが、

結局は高レベルに達すると、

レベル上げに長いマンネリした時間が必要と成り、

欲しい武器も素材を手に入れるだけで

レア度が上がって中々手に入らなく成ります。

それでも頑張って遊ぶ人も多いわけですが・・・

 

実は殆どの人が気付いていない心理的な部分ですが、

時間を費やして頑張れば何とかなる遊びでしかない訳です。

頑張ったという達成感を求める人も居ますが、

むしろそこまで遊ぶ人は

全体の1割しかいない事も製作者は気づくべきです。

 

Steamなどで、発売当初は10万人居たとしても、

結局1年後には1万人以下のプレイヤー数に減ってしまう。

これで良い方な訳ですが、

この数値を見てもコアに遊ぶ割合が

1割という話は理解できると思います。

 

〈難易度は命の重さが生じて、より緊張感を増す!!〉

頑張れば手に入るという世界は、

時間を掛けて運だめしをしているだけなのです。

また時間を掛ければレベルが上がる。

それこそマンネリ作業をただこなして達成しているだけなのです。

1割の自己満足で頑張る達成感を求める人は別として、

ゲームとしての楽しみが感じられないのは当然と言えます。

 

では、ゲームとして楽しめる形とは…

 

欲しい素材が有る場所に入るには、

強敵を倒さなければ成らないという条件を用意します。

多くのゲームではそういう形を取りこんでいますが、

命が軽いゆえにそこを突破するのが簡単なのです。

また、命が軽いゆえに、

一部の装備を揃えたプレイヤーだと、

それらの条件も簡単に成ってしまします。

 

命を重くするとは…蘇生できない状態な訳です。

勿論、そんな状態は無理ゲーと思いがちですが、

実は構成次第ではゲームとして成立させる事が出来るのです。

 

死んだらレベル1からやり直しという意味ですが、

ゲームとしてプレイヤーにドラマを持たせる構成にするなら、

子孫を作って攻略する形で考えます。

最初のプレイヤーキャラクターが、

弟子でも子供でも構わないが、

後継者を作るシステムにして、

最初のプレイヤーキャラクターが死んだら、

後継者にバトンタッチする仕組みです。

勿論、ここを固定せずに家族または組織として、

キャラクターをいくつか予め用意する形も有りです。

 

とにかくミッションなどで死んだら

そのキャラは死ぬ形で進めます。

 

そこでRPGの要素としてプレイヤーが何を育てていくのか…

それが遺産という意味で、

今まで獲得した装備品は継承されるという仕組みです。

高位装備を手にすればレベリングは楽に成ります。

設定上はLv50まではサクサク上がる感じで、

その時間が高位装備を手にすればより早くなるという形です。

逆にLv50からは命の重さが生じる分、

慎重にレベリングして行く形に成ります。

 

命の軽い状態で相手にする難敵も、

命が重い状態で相手にすると

より難易度が向上するのは当然です。

なぜなら精神的に緊張感が増すわけですし、

死んだらそこで攻略が終わる分、

無茶な攻略も通用しなく成るわけです。

 

これは集団戦で戦う場合も同じで、

味方を蘇生すれば戦力が回復するという事にも成らないのです。

その分、ある程度の犠牲も視野に攻略する形にもなるが、

犠牲を伴ういい加減な戦い方を指揮する人は、

多分他のプレイヤーから嫌われるリアリティも生じます。

いわば自分だけが生き残って

美味しい所を取ろうと考える人間性も、

そういう所でモロに出てくる状態でなるのです。

 

まるでアニメや漫画のようなドラマがゲームに出てくるわけで、

死に対する細やかなエピソードが

プレイヤー其々の中で生じる形にも成ります。

 

〈上手いメンバーを揃えて組むケースに対して〉

ゲーム攻略でよくあるケースとして、

上手いメンバーを揃えて攻略する形です。

その場合、下手なプレイヤーは粗末に扱われてしまいます。

ただし、これはハッキリと言っておきます。

パターン化された状態で、

ギミックといういわば敵の攻撃の特性を理解して攻略できる、

現代主流の場合では通用する話だという事です。

 

何回も攻撃を加えて体力を削っていく形がゲームの主流でもあり、

これがギミックというものを付随させて

攻略パターンを複雑にすることで

難易度を上げているだけなのです。

ただし!!現実的な戦闘とはまた異なります。

たしかにスポーツでも

ボクシングは相手に何発もパンチを当てて、

体力を削っていく感じの戦略が多いのも事実です。

しかし、真剣勝負で真剣で戦う場合、

一撃でほぼ致命傷に成ります。

そういう意味でアクション部分も進化して考えて行く方が、

より違った戦いを演出できるのです。

いわば体力を削るのではなく、防御の隙を上手くつく。

ダメージが体力を減らす意味はリアリティがないので、

体力はあくまでスタミナ。

スタミナを消費すれば攻撃速度も徐々に鈍る。

それはプレイヤーも同じで、

そのスタミナは一定時間休むことでしか回復しない。

いわば、30分から1時間継続で

戦闘できるスタミナを持っているが、

15分分のスタミナを回復するのに、

食事など併用して5分でフルに回復できる様な形にする。

条件は敵のMOB(モンスター)もほぼ同じ。

命の重さが有る分、強力なMOB一匹を相手するのに、

交代制で戦う手法も一つの作戦と成るわけです。

逆の場合、多数のMOB相手だと

逆に休む暇が無くなるケースも設けられます。

ここで体力的な速度低下で生じる隙が敵への致命傷となる。

 

また、強力な攻撃に対して、

防御はノックバックなどの隙が生じたり、

逆にそれを避ける事で相手の隙を付けるなどの効果を設ける。

これは最近のアクションで見られる部分ですが、

決してスキルでノックバックしないなどの効果を設けないのも

新しい形として大事なのです。

 

スキルとして許されるのは強攻撃をはじき返す形で、

いわばカウンターブロックの様なもの、

しかし、そのスキルを通常攻撃に使うと

前のめりによろけてしまうリスクを盛り込む必要が有ります。

それによって敵のMOBのフェイントに引っ掛ると、

前のめりによろけた事で、

次の攻撃が致命傷のダメージを被るようになります。

ある意味、一撃で死ぬまでだとちょっと難しすぎるので、

もう一撃食える余裕はゲーム性としてありですが、

それ以上は逆に必要ない状態の構成が望ましいと言えます。

 

そして通常攻撃の構成は、

通常攻撃の直後、

相手が通常攻撃を出せる隙が生じるパターンで構成し、

お互いが防御、または回避を順番に発動させて戦う形を設けます。

ある意味攻撃は当たらない状態に成りますが、

そこで強攻撃をどう盛り込んで相手の防御を崩していくのかの

駆け引きを設けて行くわけです。

強攻撃に対しては

カウンター防御というのが有効的と述べましたが、

強攻撃もモーションでフェイントが掛けられるようにします。

いわば強攻撃のモーション中に防御や回避をすると、

強攻撃をせずに相手がカウンター防御で前のめりになるという

作用を引き起こします。

このカウンター防御はこのタイミングで押したらダメという形で、

そのスキルはキャンセルできないものとします。

 

さらに防御は正面のみ有効で、

相手が回避で自分の横に回った際は、

防御した体制のままでは防御出来ないものとします。

また防御したまま向きを変えられないものとします。

リアリティとしては向きを変えれますが、

防御したまま横を向いても、

逆に横に回った相手が自分の後ろから回して来る攻撃、

いわばボクシングで自分の右に回った相手が、

左手で背中向けに発するボディブローを防御しようとしても、

そのボディーブローは

寧ろもろに右脇腹を直撃する状態になるのと同じで、

実は防ぎきれないリアリティがあるからです。

 

なのでこういう場合は防御から回避の動きで

相手の攻撃をかわす動作が求められる駆け引きを生じさせます。

 

プレイヤー同士の戦闘いわばPvPと成りますが、

上手い人同士に成ると、

お互いに中々攻撃が当たらない状態が続きます。

因みにこの仕様だと、

ゲーマーより、プロのスポーツ選手が

強くなる感じになるかも知れません。

 

更には防御より回避の方がスタミナを消耗さる量が多い。

強攻撃に対しては強攻撃を繰り出すより、

それを防御する方がスタミナの消費が多いという形で構成します。

 

ただ単調なアクションではゲームとして面白くないので、

通常攻撃のスキルとして連続技を設けて、

2連撃、3連撃といった隙を生じさせないで

発動できるものは用意します。

勿論、1撃目と2撃目の間で

スキルをキャンセルするフェイントも有効にして

相手が正面を防御した体制のまま

フェイントをかける形で横に回れる事を可能にします。

逆に強攻撃では武器をぶん回すなどの動きも設けて、

回避動作に対して足払いや直撃を与えるスキルを盛り込みます。

勿論、回避の際に瞬発的に防御反応出来ることも大事ですが、

バランスを崩しやすい回避運動で防御した場合は

強攻撃の強い衝撃に対してよれてしまうのが現実的です。

ただし、よれた場合でも衝撃波の方向を受け流す、

いわばよれた方向に防御直後に回避する事だけは可能とし、

ある意味物理法則に基づいて操作を瞬発的に繰り出せば、

致命傷は防げる形にします。

 

恐らくこれらは現状でも

UnrealEngine5で構成すれば出来るレベルです。

現状近接アクションの説明ですが、

このアクションで上手い人同士のプレイに成ると、

かなり見ごたえのある状態に成ります。

 

最終的には防御と回避が繰り返される中で、

スタミナ勝負と言う形に成ります。

いわばよりスタミナを温存した方が終盤有利という戦闘で、

スタミナ消費で攻撃速度も徐々に鈍るわけです。

そしてスタミナが全て切れた時点で

動作はほぼ動かなくなる状態で、

そこでスタミナを少しでも残していた方が止めを刺せます。

逆に両者スタミナ切れで倒れるというのもドラマチックです。

 

問題は近接vs遠距離です。

まずはバランスとして遠距離では

何発も当てないと致命傷には成らないという形で調整します。

近接は2撃でも当てれば致命傷に出来る状態で、

遠距離だとその10倍の20回の攻撃が必要となる。

あくまでそれは装備の品質と耐性で調整するものとします。

勿論、そんな状態で近接型に迫られたら、

遠距離のプレイヤーはたまりません。

その分、近接距離に成った場合は、

遠距離の威力は1,2撃で仕留められる威力にします。

いわば相手との距離で威力が変化する形です。

遠距離は距離を取って有利になる分、

防御不能の装備になるのも有りですが、

装備は重装、中装、軽装と分ける仕様にするなら、

軽装以外は遠距離命中率が

極めて下がるようにする感じで調整します。

 

また魔法などの攻撃が当たると

それだけスタミナが消費される形も有りだと言えます。

 

さてこれらはPvPでの話ですが、

これはPvEでもほぼ同じ形で調整する訳です。

最近のゲームではPvEでも1対1なら勝てるが、

集団を相手にすると勝てない形が多く見受けられます。

いわば集団が待ち構える場所を攻略するのに、

極力1対1に成るように上手く侵入して攻略していく形です。

なのでその流れで十分と言えます。

ただしボスキャラの場合、理不尽なほどギミックを使用して、

ある意味ソロでの攻略は困難な状態にしている場合も多いです。

 

〈負けて得るものが多い遊び〉

現状、勝って得るものを求めるゲームが主流です。

それらは戦利品という意味での攻略報酬な訳です。

攻略した際の戦利品は大事ですが、

結局はその戦利品がある程度手に入る事が前提で、

プレイヤーが攻略できる形を構成する訳です。

寧ろ倒せない事は許されない。

勿論、倒せないは無理ゲーに成るので問題ですが、

現状倒すまでの過程が挑戦し続けるだけに成っているのです。

 

倒すまでの何度も挑戦する仮定で、

徐々に何かが得られる形は、

ここで言葉で伝えても誰も想像だにできないことでしょう。

 

実はMOBが使うスキルはプレイヤーも使える。

現状はこれを勝った後の戦利品として得られる形の

ゲームは有りますが、

攻略出来なかったとしても得られる過程はないです。

 

MOBが強すぎて攻略出来なかったとしても、

相手が繰り出した技を習得できれば、

それなりに攻略するまでの過程が楽しめるのです。

いわば自分の知らないスキルを相手が繰り出してくれれば、

習得できるという条件で進めるわけです。

その習得できるのに何度かスキルを食らったらとするか、

一度見れたら習得できるとするかは

調整次第と言っても良いですが、

命の重さを活用して、死んだらダメという形だと、

スキルを見た時点で生きて持ち帰らないと取得できないとすれば、

攻略に対してかなり慎重な挑戦に成ってきます。

先ず最初に

そのスキルが発動されるまで敵を追いやらねば成らないのと、

そのスキルが発動されてそれで死んでは意味がない。

またそのスキルを見たあと、

とりあえず生きて逃げなければ成らない訳です。

スキルの取得=攻略の糸口とする上では、

スキルを取得することでその攻撃に対する耐性が付く話で、

その耐性が無いと防御しても

スタミナがフル状態の半分以上削られるとか、

当たれば一撃で即死するとかいった条件にします。

攻略出来る条件は見えていても、

死ねばレベルは初期状態に戻るわけで、

Lv50までは直ぐ上がるとしても、

攻略するのにLv55でないと厳しいと言った条件だと、

色々と慎重に成るわけです。

 

ここで大事なのは攻略できる目途が有るか無いかです。

現状ではこの攻略できる目途がギミックなどの

攻略方法しかないわけで、

なのである程度の装備を揃えて、

攻略パターンを研究すれば、

攻略できなければ成らなくなるのです。

 

ところがスキルの取得だとか、色々な条件が必要だと、

それを揃えるまでの過程が楽しめるわけです。

 

ある意味、初期のドラクエでロトの剣など揃えないと、

竜王を倒せないとした形に似ている訳で、

それを揃えれば戦えるとなれば

それを揃える過程も攻略に成ります。

ただし、これがクエストの様な形にすると、

逆に面倒くさい過程にしか成らなくなることを

忘れてはいけないのです。

何が違うのか?

クエストではゲームで用意されたパターンを、

誰もと同じ様にこなすだけに成るわけです。

条件を自分で揃えるのは、

その過程までの順序であり、

道筋は自分のストーリーですすめられるわけです。

中二病の話を全壊した訳ですが、

結局はゲームをやる以上、自分の世界観が大事なのです。

 

クエストでは用意されたNPCに指示に沿って、

話の流れに進んでいけば条件は揃うという形ですが、

ボスに挑んでスキルを取得する過程では、

自分の意思でそのボスと戦い、

ボスがスキルを発動してくれるまでを先ず攻略、

そして発動した後、その情報をどう持ち帰るか…

自分で糸口をつかむ楽しみが存在する訳です。

これが攻略情報に従った場合としても、

クエストでは何も考えずに

ただ情報に従って処理するだけで、

いわばゲームの物語をアニメや漫画の様に

見るだけに成るなのに対して、

もう一方では情報通りに体現しても、

自分なりにその情報を元に

そのやり方を考える余地が残されているという違いです。

 

好みは其々ですが、

ゲームをやる以上、自分の思考が反映される方が、

充実するのではと思うのです。

 

【命の重さは死んだらすべてが無くなる仕様ではない】

改めて言えば、ゲームで死んだらそのキャラは死ぬから、

全て最初からと言う訳では無いのです。

祖父や親が残した遺産を相続するように、

ゲーム進行上で残した痕跡は、

次の自分のキャラクターに遺産として引き継がれる。

高位の装備を揃えたり、商売で金を残したりと、

次の世代に引き継がせる要素を盛り込む

MMORPGという事です。

その反面、キャラクターが死ねばレベルは初期化。

ただし覚えたスキルは秘伝書として継承されていく形で、

レベル向上によって

秘伝書のスキルが解放される仕様になる訳です。

なので折角ある程度まで上げたキャラクターを

無駄死にさせるのは勿体ないという部分も残します。

ただ、どれだけ高レベルに達しても、

死ねば無意味な訳で、

楽な狩場でコツコツレベル上げしても、

高難度の敵を倒せなかったらそれも無駄に成るわけです。

 

こうすると構造上、

何時間も費やした人が有利というゲームにも成りません。

勿論、人より頑張ってゲームをやり続けた人は、

資産やそれなりに装備品は良いものが揃うという事ですが、

高難度の敵を倒せないと結局は上位の物に手が届かない。

勿論上位の装備を誰かかから買う事も有りですが、

それを揃えても攻略できるとは限らない訳です。

 

かなりリアルな世界が醸し出されるゲームに成って、

資産を持っててもボンボンのまま生き続けるか、

何度も死を体現して、頂きに挑戦し続けるか、

その人の個性がもろに出るわけです。

PvPというプレイヤー同士の戦いにしても、

命欲しさに逃げ出す者も出る流れが強まるとも言え、

高レベルに達して無謀な暴れ方をするプレイヤーも、

そうとうな勇気を必要とする場面と成るわけです。

 

また命の重さが有る故に、

防御と回避中心で中々攻撃を当てられないのが良いわけで、

その反面、一瞬の油断で致命傷になると言う

駆け引きゆえの緊張感が生み出されるのです。

 

多分、こんなゲーム出たら

世界的に大ヒットすると思うのですが…

さてさて出てくるのだろうか…

 

ちなみに最近ゲームではフィードバックと称して、

プレイヤーからの意見を聞く傾向に有りますが…

フィードバックする姿勢は大事です。

でも、ゲームをやる人たちの意見の殆どが、

実際に何が問題なのかを実はよく解っていないのも事実です。

 

どういう事かというと…

「貴方は今の人生に何が不満ですか?」

と、聞くのと同じだからです。

これが政治的な話に成ると分かりやすく、

社会の不満をフィードバック

なんて話に成ると、色々な不満や意見が出てきます。

 

誰もがあれが欲しい、これが欲しい、

もっとお金が欲しいなんて言います。

まあ、お金が有れば何でもできるのですが…

結局はそれで満足することは有りません。

 

では、家族と充実した暮らしをしている人は?

寧ろあまり不満らしい不満を言わなかったりもします。

 

戦争のない世界を…というフィードバックで

NATOみたいな軍事同盟の強化を

みたいな意見もあって、

そういう方向で調整したら、

結局はウクライナでの戦争が始まったわけです。

ロシアの様な国を排除するべき…

こんな意見も出てくる訳です。

でも…それで平和な社会が出来るのかな?

 

フィードバックはあくまで大雑把な感想を聞く場です。

実際に欲を語りだしたらキリがないわけで、

また自分が満足しない根本的な理由を

全く深く考えないで浅い所で言っているのです。

 

平和を望むと言いながら、

NATOなどの軍事同盟強化を求める話も、

それは平和では無く、自分の安全を求めているだけなのです。

自分を守ってくれる側が強くあって欲しいと願う話で、

結局は反対側の勢力を抑圧すれば安全と言う発想なのです。

現実的に反対側に立つ方も同じ考えに成るわけで、

最終的にはお互いが

武器をチラつかせて睨み合っている状態を

構築しているだけなのです。

逆に安全かつ平和なのは、

そんな緊張感無く、

双方が友好的に交易している状態なのですが…

 

ゲームのフィードバックにしても、

バグが多いとか、コンテンツが薄いとか言う。

そういう議論の中で世界観を壊すだとか、

其々で意見を述べます。

でも、寧ろフィードバックしないでそのまま立ち去る人は

何も言わない訳です。

実は一番怖いのはこの何も言わないで立ち去る人の

失望感の方で、

フィードバックの中からその理由を探らなければ成らないのです。

意外と小さなところにこういう部分が有ったりもするので、

必ずしも大きな議論だけに目を当てててもダメなのが現実です。

大きな議論は寧ろ賛否両論呼ぶ話で、

賛否で意見が分かれるから

大きなフィードバックの様に残るとも言えます。

Steamなどのスレッドの傾向だと、

議論が白熱していれば新規コメントとして最新であり、

上位コメント欄として残ります。

いいねの数も結局はその閲覧数によって変わります。

実際に荒れれば荒れるほど閲覧数が伸びるのは、

以前に他のスレッドでも経験しているので間違いないデータです。

 

白熱する議論は賛否両論を呼ぶ話ですが、

賛否両論故に、運営者にとっても最終的な判断が難しい所です。

 

では何も言わない人たちは何が不満だったのでしょうか?

 

これに関してはむしろ自分で自分のコンテンツを見直して、

足りない所を見出すしかないとも言えます。

それは些細なフィードバックのコメントに

実は残っているとも言えます。

 

アマゾン・ゲームズのNew Worldの場合、

世界観が暗い。

街に没入感が無い。

金策のコンテンツが薄い。

 

ザックリとしたコメントだと、実は他の人も反応しにくいです。

でも、僕からするとこれ的得ている。

かといってそのコメントに態々反応はしないが、

共感してスルーする感じに成るのです。

 

そして逆に以前、意外とよく目にするコメントが…

 

「開発者たちはゲームをちゃんと遊んでいない」

 

と、いうコメントでした。

これに対して開発者たちはゲームをやってますとい反応で、

動画を出すなどして反応しましたが、

結局は没頭してゲームを遊んでいない事は明白です。

上辺だけでゲームをやっているから、

毎日がっつりゲームをしている人の物足りなさが理解できていない。

それ故に飽きられてしまう点に気づけていないのです。

更には他のゲームの良さを

開発者が研究していない部分も見受けられる点も、

この指摘には見られる部分で、

結局はロードマップという、

将来的にどういうコンテンツを入れて行くか、

1年後にはどういうコンテンツが登場するか、

そういう期待感を持たせる宣伝の大事さも

理解していないのが大問題な訳です。

これではどれだけフィードバックを活用したとしても、

クレームばかりで

自分たちの殻に閉じこもってしまうだけの状態なのかなと…

 

フィードバックの問題は

Manor Loadという最近出たゲームにも言えます。

5月初めに開発者が1人で始めたゲームとして話題になった、

中世の都市開発ゲームです。

都市開発ゲームなのに戦争まで出来るという点で、

今までにない新しさを醸し出したものです。

MicrosoftゲームのAge of Empiresにも似た雰囲気ですが、

もっとシンプルで流れもゆったりして、

都市開発を楽しみつつ、戦争もという感じが新鮮だったのですが…

根本的に開発者自体、

現状何がゲームの売りとして興味をそそったのかを、

忘れている状態です。

寧ろプレイヤーもそこに気づかず、

ただ飽きたで去る状態に成っている。

現状、早期アクセスという状態で試験的な状態ですが、

試験的な状態にも関わらず、20万人近くの人が、

同時に遊んでいる状態でした。

それが5月末の時点で1万人までに減ったわけです。

確かに1か月でやりつくすコンテンツしか現状無いです。

開発者は難易度を調整する感じで2度アップデートを行ってます。

勿論、もっと都市開発に於ける

建物のバラエティが欲しいといった感じで、

ユーザーの要望もそこが多いかも知れません。

ただフィードバックに上がるのは

都市開発の難易度の方ばかりなのでしょう。

確かに都市が上手く回らずに破産する難易度もあって、

その試行錯誤が楽しいという部分も有りましたが、

結局は僕自身も飽きちゃった…

では、僕自身は何が不満だったのか…

 

実は都市開発という点でAge Of Empires(AOE)と比較して、

AOEは寧ろ戦争がベースで進行します。

なのでAOEでは

都市開発を楽しむより戦争する展開の方が早く、

都市開発は思うように進行しません。

しかし、Manor Loadは現状

AOEよりも都市開発に対する建物の種類が

貧弱なのも事実です。

それでも都市運営の難しさが興味をそそった部分ですが、

それ以上に大きな違いは、

Manor Loadでは英雄部隊の様な従者という

育成可能な部隊を作れることなのです。

実はもしAoEにこの要素が有ったら

かなり面白いゲームとして嵌ったであろう部分です。

早期アクセスという部分もあって、

現状「従者」という部隊はレベリングの要素は含みで存在するも、

全く機能していない状態です。

 

何かを強化してレベリングして育てるのをRPG要素とも言いますが、

意外とこのRPG要素がゲームを長く遊ぶ上では大事なのです。

というか…多くの人がMMORPGなどを

このRPG要素が元で、

何か月も何年も同じゲームを続けている訳です。

いわばその部隊を育てる為に戦争をするわけで、

意外と戦争をして領土を拡大していく遊びより、

ダラダラと遊べるわけです。

実は領土を拡大していくだけなら、

一つの都市が上手く機能したら、

全てを制圧するのは意外と簡単なゲームでもあるのです。

ゲームに対する満足感で言えば、

RPG要素で従者を育て上げ、

少数精鋭で他国を圧倒する・・・

そういう感じで遊ぶ方が戦闘は簡単だけど、

育てる時間の楽しみが、

他国を制圧せずに楽しむ部分と噛み合って、

都市開発とは別な要素でゲームを長く遊べるのです。

 

都市開発のコンテンツも薄く、

それらの開発には少し時間を要する点も考慮して言うなれば、

今、優先してアップデートに加えるべきは、

このRPG的な要素の部分とハッキリ言っておきます。

既に含みでその要素を加える点を設けているなら、

RPG要素を組み込む事は

コンテンツを作るより簡単だと言える部分で、

ゲームバランスとして従者部隊が

強く成り過ぎる点を気にする必要もないと言っておきます。

寧ろ強く成り過ぎるくらいの設定で、

早期アクセスでは遊ばせておくほうが良い。

その上でそのバランスをフィードバックしながら調整して、

完成時に最終調整で製品化する感じで良いのです。

 

とにかくフィードバック、フィードバックと色々言ってはいるが、

このフィードバックももっと進化させないと、

フィードバックを気にしすぎて間違った方向に進んで、

折角の良さを潰しかねないという事です。

 

フィードバックを進化させるとは、

技術的にはフィードバックに対する議題を、

制作側が提供する事なんだけど…

結局はフィードバックの意見を真に受けて聞くのではなく、

そこから生まれる発想を見つけることが大事なのかな?

 

因みにオッサン先生のYoutubeチャンネル…

まあ、フィードバックみたいな感じで言わせてもらうと、

CGやらゲーム中継やら何やらと色々あって、

何がしたいのか解からんと言うと…

オッサン先生は

 

本来コントを作りたいが、

色々な事情で頓挫しているから、

ついでに実験で遊んでいるだけだ!!

 

という事です。

まあ、こんなコンテンツ作った方が良いのでは

みたいな事を言う人も居るが…

オッサン先生は

 

ありきたりなコンテンツなら俺の作品じゃない!!

 

と、言い切るそうです。

まあ、ゲーム中継とかはありきたりなんだけど…

あれは寧ろTwitchでやってた延長だそうです。

ただ、コントを作るキャストなどが見つかり次第、

Youtubeの方はTamatime Show以外は

全部消してコント向けに戻すそうです。

どうも・・・ショーエイです。

基本的には

人は恥じらいを持つ生き物だというのは理解します。

人前で歌ったり踊ったり。

歌うのもカラオケボックスではなく

大衆を前にしたステージの話ですが・・・

大半の人は恥ずかしがりますよね。

 

ある意味、芸能人というのは

そういう恥じらいを通り越して活動をしているものなのです。

 

海外では人前で踊るのが当たり前な国もあります。

南米なんてそういう風潮ありますよね。

 

逆に日本では

人前で格好よくクールにする人って多いです。

感情を出さないタイプですね。

喜怒哀楽でいうなれば、

喜怒を出さないタイプです。

かつてハリウッドでもそんな感じのが人気があったのですが、

2000年を境に風潮が変化したのです。

 

人前で自分をさらけ出せないタイプは、

寧ろシャイいわば恥ずかしがり屋でダサいという感じです。

でも日本人は未だこの手の人が多いです。

トランプの様に感情をさらけ出すタイプでも、

ある一定の人気を得て大統領に成れてしまう。

まあ…いろいろ問題はありますが…

もう一方のバイデンは寧ろ自分を曝け出せない

恥ずかしいタイプの人間です。

なので歴代大統領としてトランプ同様に支持率が低い。

 

まあ、バイデンvsトランプの構図は、

偽善者vs傲慢なので、

どちらも相応しくないという感じなのに…

どうにもこの両候補以外が表に出られないようです。

 

さて、本題に戻して…

自分を曝け出せないタイプは、

偽善者に見えてしまうのです。

ただし、人へのリスペクトを

ちゃんと持っている人は言葉に限らず、

私生活の態度や姿勢で表現されます。

「中二病」とも「厨二病」とも言うそうですが、

ある意味、ちょっと幼稚な表現をする人を

そういう括りしてます、

最近見かけた記事では、

織田信長は厨二病だったという内容もあるわけですが、

ぶっちゃけた話、そうです。

ところが…一般的に勘違いされているというより、

日本だけなのかな…

思春期特有の幼稚な発想としているのは。

ただし、実はこれ

エンターテインメント的には天才肌なのです。

 

よく考えてみてください…

ファンタジー小説、

「ロード・オブ・ザ・リング」にしても

「指輪物語」にしても、

「スターウォーズ」から「ガンダム」に至っても、

そういう妄想が小説や映画となっているわけです。

そしてこれらが世の中に出回っているわけで、

これらに多くの人が虜にわけです。

アニメや漫画の作家なんて、

こういう妄想をフルに活用して作品を作っているのです、

作品が認知された人は「厨二病」じゃないという話も、

ちょっと精神学としての論理では破綻した意味になります。

逆に作家がファンタジー作品の登場人物として、

「タピオカ大好き」さんや、「N347RFT」さんみたいな

登場人物で作品を書く方がいいのか?

まあ、ある意味そういうあだ名として使うのは、

ちょっと面白いとも言えますが…

 

日本人が馬鹿にしている「厨二病」は、

むしろアニメや漫画の虜になっている

日本人そのものを馬鹿にしている表現でもあるのです。

そして自分が寧ろそういう幼稚な妄想癖が好きな

「厨二病」ではないと割り切るために、

それを否定する行動に出ているだけなのです。

逆に本当に

こういうファンタジーや妄想に興味のない人も居ます。

でもこういう人たちで適正なリスペクトを持っていて、

尚且つ自由社会の構造を理解している人は、

ここに「表現の自由」という形で尊重を与えます。

反対に興味のない人で「幼稚」と本当に馬鹿にする人は、

遊び心のない「馬鹿」と言っておきます。

まあ、「馬鹿」というのは彼らに解りやすいようにいえば、

その故事の通り、「馬と鹿」で、

長いものに巻かれて生きているだけの

人間といっておきます。

下手したら金と性欲にまみれた動物といってもいいかもです。

 

遊び心とは心の余裕です。

例えるならロボットアニメに興味はないけど、

人気のあるロボットアニメに対して、

そういうのが好きな人も居るんだという感じで理解します。

研究が好きな人は、その研究に没頭します。

その没頭する部分や、気晴らしでやる趣味、

そういう事が人それぞれで異なることも理解し、

それに対して尊重します。

 

【恥ずかしいネットゲーム上で】

恥ずかしいネットゲーム上でとは、

趣味で割り切れる人には恥ずかしいことはありません。

しかし、自己顕示欲で

誰かを見下すことで保とうとする人には、

ネットゲームはその人が見下す恥ずかしい遊びです。

なぜならその世界に入り込んでいる時点で、

その人は妄想の世界に浸りたい人間なのだから。

その中で同じように

妄想の世界で自分を曝け出して遊ぶ人を見て、

恥ずかしい人と考えてしまう人の方が

寧ろ恥ずかしい人なのです。

 

ネットゲームのネーミングで、

「タピオカ大好き」だとか、

アカウントのメールアドレスみたいな、

「N3569fD」などという感じでプレイする人が居ます。

まあ、名前を決めるのが面倒な人も居るし、

人に覚えられやすいようにと考えている人も多いですが、

「ルーカス・スレイダー」とか

何だか雰囲気のある名前にすると

恥ずかしいという人も居ます。

これは日本に限った話ではないです。

でも、世界観の雰囲気的には、

みんなが「厨二病」っぽい感じで

名前を付けてもいいのにとも思うのです。

まあ、あまり気にはしないですが。

 

ある意味、オッサン先生は、

「織田信長」と付けるより、

「De Arca」=デアルカと付ける感じで妄想してますが。

そう大河ドラマでの信長のセリフ、

「で、あるか」

から文字って、

魔王De Arcaって格好良くない的なノリで使ってます。

ただ…ネット上では、

没入感的に女の子のキャラの方が雰囲気出るので、

メインは自由の女神から文字って「Liba」にしてたりもするのです。

 

女の子のキャラを使っているから

ネカマ=ネットオカマではないのです。

また、単に没入感という意味で、

女の子のキャラを使って

小説の主人公の様に遊ぶ意味でないのです。

男女両方で遊んでいた感じで、

一切ネット上で恋愛的な思考を排除した場合、

女性キャラで女子トークできる方が楽なのです。

ネカマではないので

男性キャラに甘えるような仕草もしません。

男性キャラではないので、

女性キャラ相手に格好つけるような感じにも成らないです。

 

小説的な思考が先行してキャラを演じると、

男性キャラをメインにすると、

ある程度威厳的な部分を持たせたくなってしまいます。

逆に女性キャラなら

猫の様に自由気ままな感じで演じられる。

別に男性キャラでもそういう感じにもと思うのですが、

大事にしていた猫が気丈なメス猫だったこともあってか、

自己の深層心理の中に、

自由気ままな猫の様な姿に、

その猫を投影しているのかもと思うのです。

 

まあ、いろいろな事情があるのだろうが、

あまり深く考えず、女性キャラで遊んでいる方が、

何だか気楽という感じです。

そういう事情もあって配信中はネコキャラに徹する意味で、

ヴォイス・チェンジャーを使ってやっているのです。

 

実は配信中などは

もっと厨二病っぽいキャラを演じたいのですが、

中々いい感じで演じるのは難しいのです。

どこかにまだ恥じらいを感じている部分があるせいか、

まだまだ未熟といった感じで、

現在修行中です。

 

こうして厨二病を演出で考える側からすると、

厨二病に限らずそういう個性的なキャラクターを

台本無しに演じきれる人がうらやましいです。

逆に特にネットゲーマーに多いのですが、

こういうキャラを見かけて

人を楽しませるまたは興味を惹かせる演出と知らず、

本気で馬鹿にしている人を見ると、

寧ろその人が哀れに見えてきます。

実際に厨二病を演じている人の精神年齢が

中二レベルなのではなく

それを見て馬鹿にしている人の精神年齢が、

中二で止まっているという事に、

そろそろ社会も気づいた方がいいのではないでしょうか。

 

まあ、ゲームにハマること事態が幼稚なことなので、

そこで遊んでいる時点で大人や子供は関係なく、

寧ろ割り切って

子供になったつもりで遊ぶ方がいいとも言えます。

と、は言え、何にせよゲームの遊び方次第なんです。

 

ネトゲやビデオゲームの話に限らず、

現実的にはビジネスもゲームであり、

政治もゲームとも言います。

ただ単に仮想現実を動かしているのか、

現実を動かしているのかの違いなだけです。

スポーツも試合をゲームと言いますよね。

 

まあビジネスの世界はともかく、

もう戦国時代の様な群雄割拠の時代ではないだから、

政治ゲームだけは止めてほしいですね。

ウクライナの問題なんてその煽りで発生したようなもの。

NATOという軍事同盟の拡大なんて不要なものなのに。

いわば結果としてNATO関係なく日本なども含めて、

ウクライナに支援しているわけです。

寧ろNATOという軍事同盟の拡大を問題視して、

ロシア側が戦争仕掛ける大義にできているわけで、

その大義が無ければ戦争の意義はないというのが現実です。

 

一部の戦略ゲーム感覚の幼稚な政治家が、

ゲームの支配者になるのを目指して

遊んでいるような状態なわけで、

それで上辺だけで民主制を唱えている。

 

民主制=対話であるべきで、

賛成票を稼ぐためのゲームではないのです。

ちゃんと社会的な問題を議論して、

平和的かつ安定的な解決策を決定するのではなく、

研究していくものなのです。

科学の世界では、定説を導き出すまでに、

仮説を用意して何度も反論と検証を繰り返し、

新たな仮説へすすんだり実証を経ることで、

やっと結論に至るのです。

政治で語られる法案のほとんどが、

科学的には仮説レベルでしかないのに、

その仮説レベルの案件を評決で決めているだけなのです。

幼稚なゲームに没頭する政治家は、

この評決を稼ぐゲームをしているだけなのです。

 

オランダのハーグ国際裁判所は何をしたのか?

ロシアは敵国だから簡単に戦争犯罪で処理したにも関わらず、

イスラエルに対しては何もしていない。

明らかにゲーム上の都合で、

公平性は全くないわけです。

 

こんな理不尽なゲームに憤りを感じる人も多いわけで、

ではこの理不尽なゲームに終止符を打つには?

平和的に抗う事が許されないのだから、

ここで破壊的なゲームで挑むしかなくなるのです。

いわばゲームの連鎖がゲームを呼び起こすだけなのです。

 

戦略ゲームと言うフィールドを断ち切るために、

経済ゲームと言うフィールドが台頭し始めたのに、

そのフィールドで不利になりかけると、

再び戦略ゲームを用いて相手を脅かす。

正直な話、神様目線で言うつもりはないけど、

傍から地球を見ると、

人類ってアホなのかと思う感じです。

いや寧ろ科学的な思考で考えられない幼稚なゲーマーを

権力の中枢に居座らせていることが問題なのかもしれない。

ただ…科学的な思考を持つ人たちは、

権力にしがみつくゲーマーとでは話が合わないので、

彼らと仕事をする気にもならない為、

そういう世界には入らないのも事実なのでしょう。

 

こんな腐敗した理不尽な政治が続く中では、

この腐敗をすべて消し去る

独裁的な英雄が求められる時代が来るのかもしれないです。

 

どうも…ショーエイです。

最近はすべての事をさぼってる感じで、

ブログの更新も久しぶりです。

Youtubeの配信用にゲームを探しているのですが、

どれも今一パッとしないです。

 

まあ、本来は人気のあるゲームに乗っかるのが

一番無難なのですが、

どれも新鮮味を感じないので、

気分が乗らないといったところです。

 

まずゲーム制作は

大変な作業だということは伝えておきます。

当ブログでもCG制作したりしてるので、

その面倒くささは十分にわかります。

ある意味、「もうこれで勘弁して」という部分で

疲れ果ててしまうようなものです。

 

とは言え企業で何十人、

何百人が作業に従事する作品は

そこを乗り越えられる

英知の集まりだという事は言っておきます

むしろそれで個人作業で抱える弱音を吐くなら、

脆弱すぎる会社でしかないと言えます。

 

さて今回の発想の転換の話は、

寧ろ日々苦労しているプログラマーさんたちの話ではなく、

ゲームプランナーでありプロデゥーサーの話です。

彼らの葛藤は「売れるもの」を作ることです。

逆にどれだけ有能なプログラマーを擁していても、

その上のここの人間がダメだと、

いい作品は生まれないです。

 

【発想の転換の難しさ】

発想の転換は誰もが望むが、

実はアイデアを出すより、

それを実行に移す際が一番難しいのです。

なぜならオーソドックスから外れるから…

さらには人は優先順位を

中々整理して考えられないのも難しくしているところです。

 

ここ最近、僕は

アマゾンが作ったNew Worldというゲームに

再びハマっているわけですが、

皮肉な話、実は過疎っているから面白いのです。

いわば人が遊ばなくなった状態だから楽しいという事です。

 

MMORPGというオンライン接続で

ほかのプレイヤーと

同じフィールドでRPGゲームをする作品としては、

過疎る=人が居なくなる事は致命的な状態です。

しかしアニメの作品でも題材になるRPGの世界では、

高価な武具を作るのには

素材となる物を収集しなければなりません。

特にNew Worldの世界では

この素材集めが一番楽しい部分で、

もう一つ武具制作に必要な制作系のレベリングには、

素材を大量に使って無駄に武具を作ることで

上昇させていく必要があるのです。

MMORPGという他のプレイヤーも存在する世界では、

通常この素材は誰かが取れば消えてしまい、

復旧するのに暫くの時間を待たされます。

そういう中でプレイヤー同士は

素材の取り合い合戦が生じるのです。

 

オーソドックスな思考では、

この素材の奪い合いがMMOの醍醐味と考えます。

またゲームを運営する思考としても、

その素材が簡単に手に入らないから、

それに費やすプレーヤーの時間も伸びて、

長期的な運営に寄与するという形で考えます。

 

こうした中、素材集めに必死なプレイヤーは、

取った素材が復旧する場所に張り込んで、

ずっと同じ場所で

目的の素材をとり続けるという行動にでます。

正直、僕も以前はよくやりました。

脇でテレビや動画を見ながら、

素材が復活するのを待つわけですが…

 

傍から見て…そんな遊び方のなにが楽しいのか?

 

という事も必死なので考えずに没頭します。

いわばここではMMO特有の競争心理を煽って、

ゲームに没頭させる状態に嵌め込まれているのです。

 

一見これで

上手くゲームが成り立つようにみえる論理ですが、

実は大きな見落としがあるのです。

それは摩耗心理です。

必死になって競争心理の中でやってきた

いわばゲームとして楽しくもない作業、

ある程度の目標に達すると

一気に疲労感に変わるという現象です。

これ勉強と一緒ですね。

 

受験勉強で必死になって頑張って、

有名大学に入って就職したら、

勉強なんてやる気なくすのと同じです。

 

しかも楽しいはずのゲームの中で、

こんな世界観を与えていたら

プレイヤーは嫌気が差すのも当然です。

 

とは言うものの・・・

オーソドックスな思考の

「競争心を煽る」

部分を排除するという事になると…

果たしてそれが正しいのかどうか…

何気に問題点は理解できても

そういう心理が働くわけです。

 

これをごく一般的に、

有能無能に限らずのはなしですが、

ネガティブな情報に対して、

 

「そういう矛盾は分かっているが、

そんなに簡単な話ではない。」

 

として実は何も思考せずに

オーソドックな流れにしがみつくのです。

そして摩耗心理は無視して、

さらなる競争心理を与える発想で、

より達成が難しくなる

更に上位の目標を設定するという流れに向かうわけです。

 

これが一般的なのは・・・

どのゲームも同じ方向で処理しているわけで、

結局は全てが似たり寄ったりになるわけです。

いわばプレイヤーの大半が飽きてしまう要素を

排除できない状態となるのです。

 

まあ、「何も考えていない」

とまで言い切りますが、

結局はこういう程度で思考が止まるため、

こうしたオーソドックスな流れは排除できないものと、

割り切ってしまうのがオチでもあるわけです。

 

もちろんそうした中でも、

世界観を広げること、

いわば新しい地域など

コンテンツを増やしていくことで、

プレイヤーの興味を維持する努力も

惜しまないで頑張ってますが、

その成功例はごく一部でしかないのも事実です。

 

ある意味、韓国の会社Pearl Abysseが生み出した、

「黒い砂漠」というMMORPGがありますが、

馬に乗って騎馬戦もdきるし、船にも乗れる、

海にも潜れる。

貿易もできるし、農業生産もできる。

それだけ充実したコンテンツなら、

飽きても偶に戻って遊んでみたくもなりますが、

そこには他のゲームにはない特別感があるからなのです。

もし他にこの「黒い砂漠」と

同レベルのコンテンツで遊べるものが存在するなら、

恐らくは「黒い砂漠」には二度と戻らなくなくなることも言えます。

 

【オーソドックスは安易で凡夫の思考】

ここではスポーツゲーム、サッカーを題材に話します。

サッカーゲームでよくある葛藤、

メッシ選手やネイマール選手の様に、

機敏に動ける攻撃型選手を作ると、

ゲーム的にその動きを

ディフェンスが止められない現象が発生します。

ゲーム会社はこれをバランス調整という

オーソドックスな方法で対処するわけです。

いわばその選手の動きをんすこし鈍くしたり、

ドリブルのスピードを落としたりして、

ディフェンス側が守れるようにバランスで調整するわけです。

ところがプレイヤー側からすると動きが鈍くなったり、

スピードが落ちると操作性が変化してしまい、

ゲームとしての面白みが薄れるのです。

 

では実際のスポーツではと考えてみましょう。

実際のスポーツでは

選手の体調によって変化することはありますが、

基本、メッシ選手のドリブルは切れ切れです。

ディフェンス陣はその切れ切れに対して、

ゲームのような調整で鈍らせることはできません。

無論マラドーナの時代の様に

相手選手に下剤入りの飲み物を親切な感じで手渡したり、

昔のブラジルサッカーの様に晴れているのに、

フィールドをあえて水浸しにしてプレーしたりといった

今でこそ反則扱いされそうな状態を用いれば別です。

しかし、基本的にはゲームの様にバランス調整できません。

そうした中でディフェンス側は

試行錯誤してメッシ選手のドリブルに対応するのです。

 

まずAI的な要素に近い部分では、

一人で守るのではなく、チームで守る形を作る。

いわばメッシ選手のフェイントに引っかかるのではなく、

予め見方がカバーできる方へルートを開けるなど。

 

そして個人技術的な要素では、

身体バランスの練習でフェイントに引っかかっても、

すぐにカバーに動けるようにディフェンス動作を鍛えるとか、

自分からフェイントを仕掛けて

意図的に相手が切り返す方向へ誘導するなど、

いわば駆引きの中で対処するのです。

 

バランス調整という手法では、駆引きに関係なく、

ただ単にプレイしにくい状態となり、

基本的はドリブルが使えないゲームになります。

しかし駆け引きが成立するレベルなら、

実際のサッカー同様に

ドリブルもまだ活きるゲームに留まるのです。

 

メッシ選手の実際の動きをみると、

ボールを取られないように体を反転させたり、

後ろに動いたりといった感じの動きをします。

しかし、相手ディフェンスとの駆け引きで

ゴールに向かって切り込むドリブルは

中々させてもらえない。

 

これをゲームではバランス調整で行うため、

ボールキープという駆引きすら

ドリブル側の動きを鈍らせるため、

簡単にとられてしまうような現象も発生するのです。

こうなると切れ切れのドリブルが有効な攻撃的ゲームか、

ディフェンスが強い守備的なゲームかだけになるのです。

まあ、一般的な人は

メッシ選手クラスの駆け引きができるわけでもないので

ドリブルがしやすいか、

やりにくいかしか感じないかもしれませんが、

動きが鈍くなったという感覚は共有できます。

 

コナミ社のサッカーゲームは

動きを鈍くすることでゲーム難易度を守備的に調整して、

むしろゲームの機敏性がもたらす爽快感を

喪失させてしまったわけです。

 

オーソドックスな思考のだと、

それで難易度上げて何か問題でも?

と言うでしょう。

寧ろプレイヤーは難易度の高さを求めるのでは?

とも言って、その調整の仕方を肯定するでしょうが…

 

どのゲームプレイヤーも

機敏性の爽快感を優先する思考は無視してはならないのです。

FPS(フレーム/セカンド)…

シューティングゲームのFPSではないほうですが、

このFPSを気にする人は多いわけで、

この数値=1秒間に発生するフレーム数が多ければ多いほど、

ゲーム上の機敏性は向上するわけです。

誰もが快適な機敏性の元で遊びたいという感じです。

その機敏性を落として難易度を上げているのなら、

それは寧ろ制作側の理不尽な調整とも言えます。

 

これがどういう理不尽かというと、

本来20代の身体能力で動けた状態が、

調整によって突然老化して

スポーツ選手としては引退前の40代

下手したら突然70代の反応に

変化した感じになると説明すればいいかと思います。

 

こういう例えで言えば、

この機敏性を鈍らせる調整が

いかに腹立たしいと感じるかがわかると思います。

 

いままでこうした調整は「難易度調整」という形で、

一般的には気にされなかったところですが、

「老化調整」という形で伝えたなら、

いかに下らない調整かご理解いただけるかと思います。

 

【発想の転換は優先順位の整理】

ここまで発想の転換の支障である

オーソドックス思考を打開するには、

実は優先順位を適切に整理する事なのです。

 

まずゲーム運営の中で危惧する点は、

プレイヤー数の減少です。

 

オーソドックス思考では

プレイヤー数の減少は「ゲームへの飽き」を

優先順位のトップとして片づけてしまいます。

なので簡単に「飽きさせない」ために、

新しいコンテンツを用いるという思考で進みます。

オーソドックスの優先順位は

飽きさせないために新しいコンテンツを作っていくなのです。

 

勿論、新しいコンテンツを作っていくことは大事なことです。

しかし新しいコンテンツを作っても

飽きられてしまう要素を排除できなければ、

そのコンテンツの消化は早まります。

MMORPGでは1年単位で

新しいコンテンツを出す感じが主流です。

確かに充実したコンテンツを作るのに

時間を要するのは仕方ないことです。

しかし、この1年かけて作ったコンテンツは

早くて1っか月、長くて3か月程度で消化されてしまいます。

飽きられる要素が排除できていないと、

この時点で残りの9か月以上は戦えないのです。

また延命のために達成に時間を要するコンテンツにしても、

結果、飽きられる状態では

逆に消化というより摩耗が早まります。

現状の「黒い砂漠」は充実したコンテンツにも限らず、

寧ろプレイヤーが疲れて摩耗する要素が

多すぎるのが実情です。

 

なので優先順位の最上位は、

飽きる要素の排除です。

 

逆にこの飽きる要素を上手く考慮して構成しているのが、

ESOことベセスダ社のエルダーズ・スクロール・オンラインです。

まあ、最近は全くやっていないですが…

ゲームを離れても

戻って遊びやすい形で構成されている点です。

そしてそういうプレイヤーがお金を上手く落とすように、

ビジネス的にも上手い手法です。

ただしゲーム性としては古く限界に達して、

新コンテンツの魅力が薄れる状態にあります。

 

ここからは過疎ったNew Worldを題材に説明します。

 

ゲームに飽きる要素の一つは没入感の欠落です。

この没入感は今後のメタヴァース構築の中でも

重大なポイントになってきます。

ただ単にゲームに没頭できる要素とは異なります。

今までの没入感はここを考えられてきたわけですが、

没入する心理を発想転換して、

現実社会で生きる要素を参考に考えるのです。

人間が何かに没頭する要素は、衣食住に関わるところで、

良い服を着て、良いもの食べて、素敵な家に住む。

そしてその総括がそれを満たすためのお金です。

まあ、娯楽だとか愛だとかそれ以外にもありますが、

先ずは衣食住です。

娯楽は寧ろ暇を潰す要素で、

ゲームを遊んでいる状態で満たされます。

愛は人間関係なので、

寧ろMMOならば基本チャットなどで構築していくものです。

勿論ゲームのコンテンツとしてストーリーラインであり、

ゲーム構成で愛を感じさせる内容にすることはできますが、

意外と人によっては孤独に生きたい人も居るので、

さほど重要視するところではないと言えます。

 

そういう意味で没入感の要素は衣食住が基本です。

ただ衣食住が存在しても、

生きる意味での機能を伴わないと

没入感を齎さないのも事実です。

食事をする必要性がないのに食べる作業をするのは

むしろ無意味で邪魔でしかないものです。

MMORPGなどのゲームでは

基本「バフ」という一定時間のパワーアップ要素を用いて

食事の意義を与えてます。

サバイバル要素が加わると空腹が発生する感じになります。

モンスターハンターというゲームなどには

空腹状態が存在する感じだと思います。

ただし、基本同じ食べ物に同じバフがあるため、

食事は偏る感じになるわけですが…

まあ、その辺まで拘ってプログラミングすると、

メタヴァースのベース世界になれそうなレベルです。

またポーションを作るなども食の分野に該当します。

それでもこうした「食」としての消耗品を必要とする中では、

それを作る工程も生まれ、

それを販売するというビジネスも生まれるわけです。

この作業で食を満たす、

または商売するというゲーム性が、

生活的な没入感を生むわけです。

 

衣服に関してはMMORPGなどだと、きほん装備品。

武具やアクセサリーの生産となります。

更にはスタイルやファッションに寄与する意味として、

ゲームのデザインであり、アクションの動作まで、

実はここに該当するのです。

 

住に関しての家の部分は飾りが多いのですが、

町全体の機能であり構成も含まれます。

New Worldでは家の機能として

町の倉庫の重量が増えたり、

生産の際にバフがつくなどの効果で意義を持たせています。

しかし、町の機能としては工場としての機能しかなく、

そこで生活を営む充実感や活気は全くないため、

その世界で生活している没入感は全くありません。

 

実はこうした衣食住の環境で最上位の物を目指して、

技術を上げ、材料を揃えて生産していく過程が、

ゲームに没入していける醍醐味なのです。

マインクラフトが人気なのは

こういう要素が濃いからかも知れません。

New Worldではサバイバル要素は薄いものの、

まだ衣と食に関する没入感はあるわけですが、

「黒い砂漠」では「衣」の根幹であるコンテンツに

装備品を生産する要素が全くないため

その部分で没入感が薄れるゲームといってもいいです。

逆に住の部分の欠落が

New Worldの没入感がそがれる部分です。

没入感という部分で

この住の項目は不要な感じで扱われがちです。

確かにモンスターを狩りに行くことが

ゲームの趣旨として考えると、

町の機能は物を作れて売れればいいだけに感じます。

ただ、それだとモンスターハンターと一緒で、

別に町は要らないとも言えます。

ただし、モンスターハンターにはそういう部分がないので、

僕の様にプレイしないという人も居ます。

ただ単にモンスターを狩って武器を生産するだけでも、

楽しめるといえば楽しめますが、

もっと充実した世界観の中で

そういう楽しみを享受したいというのが、

願望の果てにあるわけです。

 

没入感とはその世界に住んでいるという錯覚です。

町に対する没入感は、旅行をする感覚であり、

生活する場としての充実感です。

田舎風の町が好きな人、海に面した港町が好きな人、

活気ある大都市が好きな人。

機能とは別に自分の好きな場所で生活しているという没入感が、

最終的にそのゲームの思い出に残るのです。

その思い出の地に戻るという感覚が、

意外とゲームに戻る要素にもつながる部分で、

こうした切っ掛けがコンテンツに多く存在するか否かで、

最終的にはプレイ人口に反映されるわけです。

 

まずこうして衣食住の充実性に欠落がないかを見直さなければ、

より充実感であり没入感のある他のゲームに

人は流れていくのです。

これらは寧ろメタヴァースを構築する上では欠かせない要素で、

メタヴァースの世界観で言うと

全てが完全に補えて初めて成功するものなのです。

 

作品に没入感があるかで見ようとするのではなく、

発想の転換では没入感がそがれる部分を見出して、

そこを補填していく発想になるのです。

そしてこの没入感の部分だけでも改善されると、

人はいつでも戻りたくなる世界になると言えます。

 

ゲームのデザイン性も含めた「衣」の部分が満たされると、

人はまた遊んでみたくなる。

※コンテンツとしては装備品の獲得性、

ゲーム性としてキャラクターデザインでありアクションの構成

を「衣」の部分とします。

 

コンテンツの量ともいうべき「食」の部分が満たされると、

いつでも遊べる要素を感じられる。

※コンテンツとしては食べ物やポーションの必要性。

ゲーム性としてはコンテンツの充実度。

 

風情の「住」が満たされた世界なら、

人はまた訪れたくなる。

※コンテンツとしては町や家、宿屋などの機能性。

ゲーム性としてはゲーム風景の美観や活気など。

 

コンテンツ部分とゲーム性で分類した6項目の衣食住が、

全て満たされる状態が理想であることは

誰もが解ることだと思います。

この誰もが解る理想を制作側は最優先で考えないから、

どこか欠落させてプレイヤーを飽きさせるのです。

 

 

次の優先順位は快適感です。

ゲームは娯楽です。

MMOという他のプレイヤーと競合する世界では、

素材などのアイテムは取り合いになります。

寧ろそれが嫌ならMMOではない、

いわばソロゲーム(一人で遊ぶゲーム)の

RPGをやれという発想になります。

正直なところゲームとしては

MMOではない方が没頭して遊べます。

しかし、ほかのプレイヤーと共同で遊ぶコンテンツであり、

またはPvPコンテンツがないから物足りなく感じるのも事実です。

現状、NewWorldはMMOですが過疎っている状態で、

むしろ素材は取り放題状態です。

自分のペースで遊べて、

ほぼほしい素材は確実に手に入ります。

偶にマップ上をいろいろと歩き回って、

新しい素材の場所を偶然発見したりという楽しみもあります。

ソロゲームの要素として充実している感じです。

実はこれが一番快適に遊べる状態なのだから、

素材取得を競合しないほうが良いのではと感じるわけです。

競合状態にあっては、

逆にプレイ人口が増えるとこの快適さはなくなります。

単純に考えると、

素材取り放題な状態だとすぐに満足してしまうのでは、

と考えてしまいがちです。

ところが人数の多い時期で素材が取りにくい状態だと、

寧ろレベル上げるの面倒くさいとなるだけだったのです。

 

それでゲームを離れてしまう。

反対に人数が増えても快適な状態で遊べるようにしたほうが、

プレイヤーが離れが少ない状態になると言えます。

 

現状のMMOの環境は原始時代と同じで、

限られた自然を奪い合う形。

人間はそこから農業という栽培を取得して、

共存社会へと発展した。

MMOの発想も栽培の発展同様に、

奪い合う形から安定して収穫できる状態に

転換して考える方がいいと言えます。

 

人間の心理としていつでも集められると思うと、

安心感が生まれて他のコンテンツもストレスなく遊べます。

しかし、中々集められないストレスで、

仕方なしに他のコンテンツに手を付けると、

一方のストレスから快適感は半減します。

没入感という意味と同様に、

人間は集中して作業できる方が快適なのです。

邪魔が入る状態より、

その存在がj間にならない状態の方がいいという点を

考えて構成するべきなのです。

黒い砂漠でも狩りの際に

他のプレイヤーと競合しない空間までコンテンツとして

作ったわけです。

こうした快適性を考えることはプレイヤーを維持する意味では

大事といってもいいのです。

 

3番目に来るのがゲームの特徴と目的の把握です。

本来一番大事なところの様ですが、

実はこれを一番目に持ってくるから、

飽きる要素の排除であり、快適性の構築に支障を来すのです。

いわばエンドコンテンツを定めるという話ですが…

MMORPGのエンドコンテンツとしては

最上位武具の獲得がほぼ主流になります。

そしてその優位性からPvPでブイブイ言わせたい。

まあ、こんなところがプレイヤーが望むエンドなのです。

 

ところが最上位武器を素材集めで作る場合、

制作側はどうしても素材が集めにくい状態が望ましいと

考えてしまうのです。

そうなると自然快適性の部分は相反する要素となります。

いわば最上位武器を簡単に作らせないようにした方が、

プレイヤーは長くプレイするだろうと…

では、これを3番目、いわば快適性の下に持ってきた場合、

考え方は少し変わってきます。

快適性で必要な基本素材は集めやすい状態で、

最上位武器への道のりをどう構築するか?

ここで発想の転換です。

色々な素材が集めにくい状態の心理と、

あと2つか3つ手に入ればという状態の心理。

いわば色々な素材を苦労して集めなければいけに状態は、

かなり疲れます。

でも、あと2つか3つだと何とか頑張る気になるものです。

意外とこれ一般的に共通した感覚だと思うのです。

 

そしてその素材を手に入れるにはという難易度で、

ゲームの構成を考えていくと、

ランダムな確率の運任せだと快適性が削がれる事にも気づきます。

なので難易度の高いグループダンジョンの

達成報酬にしたらという形に考えるか、

なにか達成感のある形がいいという発想に切り替えられる。

 

プレイヤーの快適性を優先順位上位に持ってくると、

例えばレアな素材を採取するのに

その素材が競合しない状態なら

何人かのグループで取りに行く発想も考え付くわけで、

ただ単にレアな武器を求めてダンジョンを攻略しに行くより、

より意義のある形の攻略にも結び付けられるのです。

 

オーソドックスな形で固執して考えるから、

よりプレイヤーが楽しめる新しい環境が生まれないわけで、

結果としてマンネリした同じ類似品が

市場に横行するだけなのです。

 

さてこの発想の転換の話。

ゲーム制作と運営の話で解説しましたが、

実は兵法でも同じなのです。

 

オーソドックス思考では

作戦としての目的と目標を優先して考えます。

ところが没入感という部分を最優先に持っていくと、

兵士が集中して作戦に従事するための環境が

まず第一にとなります。

十分な装備であり、十分な弾薬の補充です。

 

そしてその次が快適性という部分で、

補給路であり兵士たちの安全退路の確保、

そして安全退路への援護の整備。

 

そしてここから作戦を考えるのです。

こういう順序で考えると、

場合によっては安全退路の援軍を伏兵にして、

偽装退却と誘因などという配置も見えてきます。

 

しかも作戦を優先してないから、

むしろ状況に応じた臨機応変な配置に成ってくるのです。

「兵は詭道なり」

という言葉を最大限に考慮した形にもできるのです。

また兵の損失を少々減にする点から、

次にも繋げる形が自然と生じるのです。

 

企業経営としても

Googleの経営スタイルは

こうした優先順位の順序に近いかもしれません。

社員が集中して働ける環境の整備、

そして快適性の整備。

そしてそうした中で生まれてくるアイデアの活用。

 

優先順位を適切に整理することで

発想を臨機応変に転換できる環境になるという事です。

 

馬鹿と天才は紙一重

という言葉がありますが、

実はその通りなのです。

殆ど計算も計画も立てていない。

勝負の世界で普通の人は

作戦を立てて挑むことこそ大事と考えますが、

兵は詭道なり

勝負に於いて騙しあいが当たり前の中で、

臨機応変こそ大事と知るならば、

相手の動きを見極めてから

動くのが最良の策なのです。

ところが天才は

常にあらゆる状況に対応する形を研究し続けている。

スポーツの世界でも同じで、

相手の動きを見極めて

自分の動きを瞬発的に反応できるように鍛錬する。

サッカーでいうなれば相手がボールを奪いに足を出したら、

どこにボールを逃がせば取られないかを知っている。

それらが体で反応できるように鍛錬するのです。

メッシ選手のドリブルなんてそういう領域の話ですよね。

だから考えて動く人は、その思考が読めないのです。

 

考えながらフェイントを掛けて相手を騙そうとしても、

相手がフェイントに騙されなかったら何の効果もない。

ならば相手の動きに反応して

そこで生じる隙をつく方が確実だと悟のです。

ある意味チートっぽい思考なんですが、

これも発想の転換の賜物なのです。

 

ゲーム制作の話で理想といいましたが、

その理想とは究極の世界で

メッシ選手のドリブルの様に、

絶対の領域なのです。

その絶対の領域は発想を転換することで見えてくるもので

その領域への鍛錬であり挑戦こそ、

到達可能なところなのです。

理想で終わってしまうのは、

先ずはその世界が見えていないこと、

そしてそこへの道筋が見えないで終わること。

寧ろそこへの道筋を探っても見えないわけで、

その道筋へ向かうには

何が必要かを探るべきなのかもしれません。

大航海時代の新大陸発見同様に、

地球は円いという理論を信じて

必要なものを揃えて確実に到達できるように出航すれば、

新大陸に知らないうちに到達してしまうのと同じなのかも。

 

とりあえず現状過疎っているゲームの

さらに過疎っているサーバーで遊んでいますが、

何とも実に楽しい。

本来ならばもっと人気が出て、

多くのプレイヤーが参加してほしいと願うのですが、

ゲームの内容がないようなだけに、

皮肉にも人がいない方がいいのです。

 

これだけ人が居ないで素材取り放題なんですが、

何とも全く満足いくほど素材は溜まってこない。

ある意味、クラフトなどのレベル上げに

必要量が多すぎると思うのです。

これで人が多くいる状態だと、

逆に気が遠くなって萎えるはなしでもあります。

 

多分、制作しているアマゾン・ゲームズのスタッフ

誰一人気づいていないことだけど、

実はこのゲームの構成上

素材の貯蓄心理を煽る内容になっているのです。

いわば上位素材と上位素材を掛け合わせることで、

更に上の最上位素材に転換できるわけで、

それが一日に限定数しか作れないようにしている点。

ゲーム制作者としてはその最上位素材で作る

武器防具の制作難易度を上げる目的で考えたのだろうけど

寧ろプレイヤーとしては、

安定的に毎日

最上位素材を作れるストックが欲しいという心理が働くわけです。

別段、そこまで

その最上位素材が必要というわけではないかも知れませんが、

お金と一緒であればあるだけ確保しておきたい。

 

ゲーム制作者の思考では、

エンドコンテンツとしてダンジョンやらPvPを考えているようですが、

実はそんなものより素材を集めて貯蓄するのが

エンドコンテンツに感じているのです。

また、上位の素材集めの効率を求めて

高難度のエリアにも行きますが、

ソロで行くような場所でないので、

コソコソしながら素材を採るのがまた楽しい。

よく敵に見つかって戦闘にもなりますが、

殆ど死にます。または上手く走って逃げるか。

ただ、過疎ってて誰かが先に素材を採ってしまうことはないから、

無駄足にならないので、

死にながらも何度も挑む楽しみが成立するのです。

場所によっては敵を何とか倒せる場所もありますが、

下手に3人以上を相手に戦うと厳しくなります。

まあほとんど死にます。

ただ、そういう一対一でも戦闘がスポーツ的で楽しいので、

その駆引きや、

他のMOBを巻き込まないように立ち回るところなど

かなり戦闘要素は面白いと言えます。

 

素材集めが安全な場所であることもありますが、

危険な場所にあえて取りに行く醍醐味がある分、

その素材集めだけで十分に遊べるのです。

そして過疎っているから

その危険の先にも確実に素材が手に入るわけで

寧ろ誰かに取られている状態だと、

逆に達成感がなくなって面白みは薄れると言えます。

 

こうした楽しみを本来ならもっと多くの人と共有したいのですが

ゲーム制作者がゲームプレイとして

こうした素材が誰もが確実に手に入るという

環境の重要性に気づかなければ、

皮肉な話のまま過疎っているから

楽しめるゲームでしかなくなります。

 

New Worldというゲームの特徴的な部分に気づき、

そこを上手く強調してゲームを構成していけば、

より良いゲームとして再度売り出せるのですが、

あくまでMMOという部分に拘り続けるなら、

それまでという所だと思います。

 

過疎った状態が楽しいという事を活かすか殺すかの、

発想の転換になる話です。