サイレント映画から最新映画まで、分け隔てなくつらつら批評しています。
〇ブック・オブ・ライフ/THE BOOK OF LIFE(1998)監督 ハル・ハートリー☆☆☆出/マーティン・ドノヴァン、二階堂美穂、トーマス・ジェイ・ライアン 登場人物は複数いますが、組むことの多いマーティン・ドノヴァンだけでなしに皆がハル・ハートリー監督の代弁者になっています。 だから登場人物がカメラを意識するし、悪魔はマイクに向かい思いを語りもする。 これはハートリー監督のほとんどの作品についてで言える事かと思いますが、演技にはリアリティがありません。これは俳優さんの演技の特徴とかではなくて、ハル・ハートリー監督の演技のつけ方の特徴です。マーティン・ドノヴァンなんかは、クリストファー・ノーランの『インソムニア』とかで簡単に他の監督下での演技が観られますので比べるとわかり良いかと思います。 ハル・ハートリー映画では俳優陣の演技は大仰だったり、ありえない程そっけなかったりします。そして登場人物たちはだいたいが、こう思う、こうしたい、という考えを延々と喋り続ける。内面描写はほぼ見当たらない。 でもそれでつまんないなーとならないのが不思議なところ。内面描写のない登場人物たちがリアリティの無い演技でとつとつと語り合う。こういった要素が絶妙に合わさって何とも言えない面白さが醸し出されています。 映像面でもそう。今作はデジタル撮りのリッチとは言えない映像の作品です。あの頃デジカメを手にした映画小僧の誰もが撮影したであろう、光量不足(照明機材借りる金などない程貧乏)だとなんかちゃんと撮れないからシャッタースピード下げまくったり明るさの設定いじりまくったりした挙句、本作で観られるような残像引きまくりざらざらしまくりカメラを振るとなんか映像が一瞬遅れてついてくるような気がしまくりな、ま、僕にはノスタルジー誘発装置な映像を見るにつけ、それ自体に面白さがあるわけじゃないんだよなと。 でも時折あるMTV的斜めアングルの色付きフィルター映像であったり(ようするにトニー・スコット的)、意外にも豊富なロケーションであったり、前述のリアリティのない演技であったりと混ぜ合わされるとこれが大変面白いのです。 常に話の進行が複数用意されていて興味をつなぐ脚本、並行する編集、音のある場面としぼる場面や音楽の使いどころなんかは、流石にプロの仕事。 プロによるプロの仕事ではあるのですが、完全に芸術映画というか実験映画を目指しているわけでもないし、ハル・ハートリー監督の主張をひたすら語り続けるだけという映画でもありません。 悪魔がマイクで語る場面もそうですし、突如キッチンで始まるメイキング映像風のテンションの場面(ここを観ると、役者さんたちが演技を使い分けているのがとてもはっきりわかります。達者な証拠)があるし、映画のラストの方で続く祝祭感を観るにつけ、聖書を題材にとったこの映画が真に主張したいこととはつまり……「映画って最高だよね。大好きなんだ」というものかなと感じました。 監督の初期短編なんか観ていると、ハル・ハートリーの哲学をただ登場人物が語り続けるというものが結構あります。まあ躓いたり転んだりスローモーションになってみたりと映画的な作品に仕上げてはいます。なによりも一人が語り続けるのではなく、人物と人物の掛け合いとして表現している点は本当の初期のころから徹底されていてとても好もしい部分です。 で、今回はデジタル撮りというのをうまく作品内に盛り込んで、メイキング風になったりオフショット風になったり。そもそも高精細の美しい画なんてものは物理的にはなっから存在しない。 ハル・ハートリーは映画を作ったのであり、映画について語っているのであり、映画を通して語っている。そしてそれは一種の信仰なのか? という部分で本作と「映画」というものが対比されます。 そうです、映画はみんなで作るものであり、みんなで観るものであり――あれ? でもデジタル全盛のミニマル体制で製作が可能になった現在では? ・・・・・・現在でも、みんなでわかちあうものですよね。ひとりでつくっても、誰かが観る。誰かが撮影して誰かが出演して、それをひとりでみる。ひとりで観ましたが、この映画についてこう思ったよって、今あなたに読んでもらっています。 宗教が排してきた多くの事、多くの人たち。わりとあったかい気持ちになれる映画ですので、宗教批判を口汚く行うのは控えましょうかね(笑)。 ついでに映画は時間を超える。百年前の映画を現在の人々が観る。失われたと思われていた映画が復活する。今日公開された映画を、また百年後の人たちが観る。きっと観る。 フィクションを作りだせる人間という存在が、フィクションである神だの悪魔だの宗教だの戦争だのに負けるわけない。↑なんか予告編が見つけられませんでしたので、場面の切り取りのようですが。ハートリー監督の会社であるPossible Filmsのオフィシャルのとかないのかなー。
〇ぼくと魔法の言葉たち/LIFE, ANIMATED(2016)監督 ロジャー・ロス・ウィリアムズ☆☆出/オーウェン・サスカインド、ロス・サスカインド↑手に違和感がありすぎるポスター。もう少し頑張ってデザインして欲しい。 原作である<ディズニー・セラピー 自閉症のわが子が教えてくれたこと>ではサスカインドではなくサスキンド表記になっていますので、ご興味を持たれて原作を検索する際にはご注意を。 んでよぅ、その原作者ってのが本作主人公のオーウェンのお父さんロス・サスカインド。ピュリッツァー賞受賞の記者とのことで、今回の映画の原作以外にも著作がありますね。っていうかエグゼクティブプロデューサーにはそのお父さんの名前がクレジットされているんですが、どういうことだ……? さて、自閉スペクトラム症、自閉症スペクトラム、自閉症スペクトラム障害……いや、まじで表記統一してくださいよいい加減。まあいいや。 オーウェンは元気な男の子! でも3歳のころに自閉症の症状があらわれ、それまでできていた会話も全くできなくなってしまった。でもある日、意味なくもごもご言っているだけだと思っていた言葉のひとつが、ディズニーアニメの台詞だと気が付いた両親。父親がディズニーキャラの真似をして話しかけてみたところ、台詞のやり取りを通してオーウェンと再び会話のやり取りができた! みたいな感じなのです。とっても感動すると思うでしょ? もしくは心がつぶされるかと思うほどつらい思いを感じるとか。 でもなんというかこのドキュメンタリー映画は……YouTubeでたくさん見ることができる、自主製作の短編映画とかアニメーションのうちの一本、ってぐらいのクオリティだったかなぁ。 なぜ自主製作作品を引き合いに出すかといいますと、やたら監督の作品にしてしまっているという印象が強いからです。作家個人の個性を作品に反映させるのは好もしいことだと僕は思っているし、そうでなければ個性的な映画なんて生まれて来やしない。ですが、物語や登場人物とまっすぐ向かい合って表現方法を考える、映画でしたらどういったアングルで撮影するのかや編集の仕方やどんな効果音をつけるか、そういった事に向き合うことと自分がやりたい表現をただたまたま今回の作品に盛り込む、ということには違いがあるはずです。 もちろん、そこには人によって合う合わないの趣味の問題が絡んできますが。僕は今作を観ていて、アニメーションの場面では表現方法については最近よく見るやつーって感じしか受けませんでしたし、編集に関してはカジモドが市民からリンチに合う場面の真似を楽しんでしているオーウェンに怖い暗い意味を持たせて怖い音楽をつけたり……いったい何がしたいんだよ? と思います。何を表現したいのか、観客にどういうふうな思いを抱いてほしいのか、作品としてそこが重要かと思うのですが、本作は何をではなくてどうやって表現するかにばかり重きが置かれている。だから同じような演出が繰り返されてもいる。 オーウェンがディズニーアニメを通して多くを学び、コミュニケーションに利用してきた。だから本作にもアニメーションを多用する、これはわかる。でも脇役の守護者というオーウェンの創作物をアニメ化したものをぶつ切りで流すのですが、なんというかアニメの手法は面白くないし、声優をちゃんとつけて真剣につくっているものでなくオーウェンが最初のナレーションしちゃったりするし、なん、という、か……意味ないよねこのアニメーションがこの映画に挿入されていることに。 なんか変だなあ、と思ったので監督の別の作品のことを調べてみました。ロジャー・ロス・ウィリアムズ監督はドキュメンタリー監督としてキャリアを積んでいて賞レースなんかにも絡んだりしているみたい。作品数もあり、評価もされている。 でもだったらなんで、脇役が好きなんだという主張のあとにカジモドの絵をかいてる場面を持ってきちゃうの? 背むし男は主役じゃありませんって? なんだか不自然に感じられる場面がとにかく多い。そもそもオーウェンの自閉症とアニメーションの関りについてまったくわからない。好きという事がわかるぐらい。 自閉症の症状が出て、しばらくしたらピーターパンの台詞をしゃべって両親びっくり。数年後、リトルマーメイドの台詞をしゃべってたから、パパがキャラクターの真似をして話しかけたら会話のキャッチボールができたよと。 ……これべつにディズニーアニメーションは関係なくないっすか。まあ言葉の練習や状況の理解を助ける教材として使った、というのはわかった。 でも映画のタイトルにする程かね。これはちょっと原作も読んでみたいなと思いますが絶版ぽいな……中古でなんとかしてみるか。 この映画の原題はlife,animatedですから、人生、アニメ。う、うん。アニメーションって活性化みたいな意味ですよね。アニメで活性化された人生とかそういう意味のタイトルなのか? で、アニメはただの趣味っていうことで別にいいんです。より重要なのは、オーウェンがアニメを見るクラブを作って活動していることだったり、一人暮らしを始めるところだったり、恋人との行く末やいかに……だったり。あとお兄ちゃんが急に猥談始める場面は最高。 このお兄ちゃんめちゃくちゃ声が良いんだけど、それはまあどうでもいいんだけど、両親が年取ったらとか亡くなったらとか、自分が将来背負うことになる負担の大きさにビビッていて、「考え出すと夜も寝られないよ」と正直におっしゃる姿に胸を打たれます。 ほかにもオーウェンと恋人の破局があったり、こんなこといっちゃうと失礼かもしれませんが、映画としては見せ場も数々あったと思うんですよ。思うんですが、どうもどの場面も見せ場として機能していない。さらっと流れ過ぎ。 僕はこの映画を見終えた今も、オーウェンが一番好きなディズニーアニメがなんなのかも知らない。ディズニーアニメによって救われた家族、みたいな非常にふんわりしたイメージだけが映画を製作する動機だったんだろうか? ディズニーアニメの映像を細切れに流してる暇があるんだったら、その時間を使ってもっとオーウェンやその家族のこと、友達のことなんかを知りたいと僕は思いました。↑とにかくこの予告編のサムネやポスターデザインとしても使われている図柄が気に食わない。なんかオーウェンがこんなこと考えてるっていうのを勝手に他人が決めつけてる感じがどうしてもする。
〇フリー・ガイ/FREE GUY(2021)監督 ショーン・レヴィ☆☆☆出/ライアン・レイノルズ、ジョディ・カマー、タイカ・ワイティティ 本当に、そろそろゲームの世界を舞台にする映画において、ゲーム内視点から映画を始めるのはやめにしたほうがいい。実は……ゲームの世界でした!ってやつね。 まず、予告編でネタわっちゃってんのにその演出意味ある? と思うし。そして同時に、ゲームのキャラクターを主人公にするのももう限界でしょう。 今作『フリー・ガイ』では、ゲーム内世界においてキャラクターの日常生活風景が描かれるんです。しかもルーチンだけではない、会話の(ある程度の)バリエーションもあるし、(ある程度)予定にない場所での行動を取ったり、反応したりしている場面もある。 この映画における世界的大人気ゲームであるフリーシティって、グランドセフトオート5のオンライン版であるGTAオンラインがもとになっていますが、それにしては描かれる世界が狭い。ひとつの街の、そのまた一角だけでお話が進んでいきますからね。別にワールドワイドに展開せよって話ではなくて、ガイの周辺以外にも世界は存在するんだなって感じが無いのです。これの何が問題かと言いますと、「えっ、このゲームが世界的に大熱狂を生み出している超人気ゲームだって!?」と物語の基礎となる部分の信ぴょう性が薄まっているんですね。 リアリティねーなーってやつです。 話がゲームではなくてA.I.に早々にシフトしますんで、「ゲーム内で起きていることとして描写される数々の出来事に一寸のリアリティも無い」というゲームを扱った映画あるあるは微妙に回避されています(されてないけどさ)。 でよ! NPCの話と、A.I.の話って実は関係ないじゃないですか。ふたつは別の事柄だし。まあ今後のゲームでは、NPCにA.I.が採用されていって豊富な会話が楽しめるってなるのかもしれませんが(っていうかまさにGTA6がそうなるなんて話もありますな)。 しかしながら、本作『フリー・ガイ』はそのふたつを同一視してお話が進んでいく。字幕だとモブキャラってなってますが、人間が操作していないノン・プレイアブル・キャラクターたちはいままでただの背景と一緒で遊び半分に殺したりしてたけど、彼らだって生きているんだ!! みたいな。役割を演じるだけじゃないんだ! みたいな。『トイ・ストーリー』好きなんだね? わかるよ気持ちは。毎日繰り返しの世界に閉じ込められたわ・た・し・た・ち……なんてみんなが好きそうな話だしさ。 えっ? いやいやちょっとまてまて、映画のラストでガイの愛の告白や気持ちなんてものは書き込まれたプログラムであり「僕は君へのラブレター」って言ってたな? 全部わかったうえで彼女のためにガイがそう言ったんだと思って感動して観てたんですけど、その後特にフォローする場面はなかったし、何より現実の開発者二人のラブストーリーとして映画が終わっちまいやがるから、前述のモブキャラだって立ち上がれる! 勇気は最初からあなたの心の中にあったのじゃよ……みたいなテーマはどっか消えっちまいやがんの。 なんかネット評とかみていると、「モブキャラが感動的な名セリフを言うんですよ!」みたいに盛り上がっているようです。自身がゲームキャラだって知ったガイを、親友の警備員が慰める場面の事ですかね。 いや、言っていること自体はすごく好きだったし感動したよ。でもさ、NPCのルーチンから外れたガイの行動を普通に受けて応えて、好き勝手喋ってんのよ最初から。ガイへの友情がプログラムの枠をはみ出したとかういう場面に見えないんですよ。前述したNPCキャラクターとA.I.の混同だよね。 脚本上はね、ここであの警備員の彼も自我に目覚めたってことだったのかもしれない。でもたとえそうだとしたら、言っているセリフとの整合性が取れない。 与えられたプログラムが言ってんのかもしれないけど、お前のことが好きだし心配だから何とかしてやりたいって思いは本物だぜ! ってことなんでしょ。でも現状ですと、最初っから好きに動ける人たちがお互いにお話ししているだけ。つまり普通の人たちが演じる普通の場面になってしまっている。 もし、もしこういう場面をいれるのであれば、例えば『ターミネーター3』だったら自分ができる「破壊」という行動を最大限実行して自分が壊れるぐらい実行して人を殺してしまうのを防いでいた。こういう工夫が必要なはずです。『フリー・ガイ』のようなゲーム世界を舞台にして、NPCを主題の一つにもってくるのであれば。NPCに感動のセリフを言わせたいのであれば。例えば、いつも言っている同じセリフだけれど意味合いが変わる、というようにするとか。今作はA.I.の進化も含めているから、同じ単語を使用しているけど順番が入れ替わって別のセリフになるとかね。 細かいことつついてると『シュガー・ラッシュ』とかも楽しめないよ! と私の心の狭さを指摘されそうですが、でもやっぱり製作者の都合でNPCが好き勝手に感動のセリフを吐くよりも、制限のある中でキャラクターが単純な形であれ心情を吐露する場面の方が心を揺り動かされると思うんですよね。 面白いよ? 文句ばっかつけてますが、映画はまずまずの面白さだった。アクション場面とかショーン・レヴィだし面白くないけど。あ、でも『インセプション』みたいなカースタント場面で両側から迫りくるビルに挟まって火花散らしながら駆け抜けるとこは最高だった! 超格好いい!ほら格好いい!
○ファーザー/THE FATHER(2020)監督 フロリアン・ゼレール☆☆☆☆出/アンソニー・ホプキンス、オリヴィア・コールマン、オリヴィア・ウィリアムズ 今作は認知症という病をモチーフとして、その症状である記憶の混濁を我々観客にも追体験させるつくりとなっています。似たような映画ですと、クリストファー・ノーランの『メメント』がすぐに思い浮かびますね。シュワルツェネッガーの『トータル・リコール』や古いところでは『ガス燈』なんかもそうですね。 過去が私たちを形作っている的なキャッチコピーはいたるところで耳にしますが、だいたいそういうぼんやりとしたフレーズを使うのは「良いもの」についてだと思います。年老いた両親に感謝のギフトを送ろう――みたいなやつ。 映画でいえば感動系です。記憶消えちゃう! 若年性健忘症になっちゃった! 残された日々! 愛しい過去の思い出! みたいなやつです。 でも記憶をめぐる物語というのは、SF小説の題材として数多の作品群を生み出してきました。そして昨今ではそこからSFを排した『メメント』のような映画が現れたり、映画だと『脳内ニューヨーク』小説でも『リメインダー』など思い出を実際に現実世界で再現していくという新しい切り口で記憶というものを取り扱う作品も増えてきています。 あとどうでもいいけど『メメント』について文句言うときに「時系列順に直したらいっこも面白くない」とか非難するやつなんなんだよ! お前ら映画って面白くなるように編集してることしんねーのかい!って突っ込みたくなる。そもそも脚本段階で時系列がもどるだけでなくまっすぐに進む白黒パートを挟んでいたんだし。ガイ・ピアースの演技最高だしな。 閑話休題。 さて、物凄く映画の力を思い知らされる作品でしたね。原作は監督のフロリアン・ゼレールが書いた戯曲とのことですが、本人が映画も監督しているためか意識的に映画的アプローチの数々で攻めてきててそれが面白いんだわ。 まず音ですよね。ひとつひとつの生活音がていねいに作りこまれ重ねられ通常のエンターテインメント映画よりも大きく聞こえてくる。そして一番印象に残るのが、色使いです。最後の施設で壁の色が青いってだけで「こええええええ!」ってなりましたもん。あと皆が着ている服の色とかも観客へのヒントというだけでなしに、アンソニーは色の微妙な違いを覚えていないからはっきりとした色合いの服しか映画に登場してきませんでした。 で、映画的な演出をもりもり盛り込んで何が良かったかといいますと、物凄くエンターテインメント性が高まっているんですよね。 認知症をテーマとした映画がエンターテインメントでいいのか! と思われる向きもあるかもしれませんが、良いと思います。特に今作はスリラーっていうかホラーっていうか結構怖い映画になっていますよね。エンターテインメント性を排した映画で病気を知ってもらうっていうのも大事だと思いますが、今作を観た観客が、認知症って怖い、認知症の人はそんな怖い思いをずっとしていなくちゃならなくてマジで大変なんだなと思ってもらえたらそれも大事ですよね。 そして今作の演技のすばらしさといったら! アンソニー・ホプキンスの何も見てない目とか、ぼけたふりして介護士の女性に一泡吹かせてやった時の切り替わりようとか。あと照明の力も大きいとは思いますが、とはいえ感じさせるアンソニー・ホプキンスの演技による表情の違い。わりとはっきり症状が進行していく様を感じさせます。 オリヴィア・コールマンはもう文句ねーっしょ。オリヴィア・ウィリアムズとかもそうだったんだけど、介護のしぐさとかが物凄い自然なんだよね。コールマンがホプキンスにセーター着させてあげる場面とか、そでまくって迎え手してって流れがごくごく自然(腕を通しやすいように父親の手を取っている)。ウィリアムズはやっぱりラストシーンの演技。ホプキンスがなんだかんだ言うのを、いっかいいっかい顔のパーツのどこかを動かしながら話しを聞いているんですよ。高齢の方に対し、聞いてるよというのをハッキリわかりやすくするための動作ですね。でも、ある時点で彼女はホプキンスの手をとってベッドに腰かけ抱きしめる。 介護において、どれぐらい認知症の人に合わせるかというのは未だに論議がありますよね。まあ個々人別々なのでその人、その日、その時に合わせた対応ができれば一番いいのですが、そんな人員はいないわけですよ。介護業界なんて、なるべく急いで、というのが合言葉みたいなもんで。だからウィリアムズが顔のパーツをちょっとづつ動かしているあたりでは、マニュアルに沿っている感じ。手を取って抱きしめるところでは、心から相手を心配した自分の行動という感じ。そしてママの要素がどんどん強くなっていくラストもラストの方になると、葬式みたいな音楽が聞こえているのもあいまって、ウィリアムズは天使になっているという感じなのかな。 表情といえば、コールマンの「とにかくいつでも言葉を飲み込んでいる」演技がほんと素晴らしかったですね。相手にばれないぐらいの感じでいつも口にぐっと力を入れているんですよね。 コールマンといえばマイク・リー監督の『家族の庭』という映画に出演していました。あの映画も今作のように「感動作っぽい売り方しているホラー」でした。あの映画はこわかった。こえー。 さて、映画的な演出も数々ありました。 コールマンがコーヒーカップを割ってしまい、破片を拾う場面。大きいかけらに小さい破片を乗せるんですが、大きな破片は上も下も空いてるから破片がこぼれてしまう。なんか今作の象徴みたい。 象徴みたいと言えば、最後の施設からコールマンが帰るとき中庭が映るんですけれども、そこに芸術作品が置いてあります。大きな人間の頭の彫像です。そしてその頭は額から上が無い。脳みその部分がないんです。「お前ら最低かよ!」と思わず施設に向けて突っ込みました。デリカシーないね。しかも施設外部に向いてんだよ。 それにホプキンスが聞いているオペラのCDが「壊れて」「同じとこ繰り返す」っていうわかりやすい比喩表現。それを一生懸命どうにかしようとするホプキンスの姿が辛い。 そしてこういったオペラとか絵とか彫刻といった芸術作品の数々が映画内に登場しますが、それはもしかして……芸術は素晴らしい、でも現実ではない。そんな意味なのかしら。
〇エスコバル 楽園の掟/ESCOBAR: PARADISE LOST(2014)監督 アンドレア・ディ・ステファノ☆☆出/ジョシュ・ハッチャーソン、ベニチオ・デル・トロ、ブラディ・コーベット とにかくしっかり出来ている。撮影では、例えば追われて隠れるような場面で、板の隙間から覗くといったような構成にし、画の情報を絞ることで観客に与える周囲の情報を限定的にしてよりハラハラできるようにしたり。 マックス・リヒター担当の音楽もとてもよくて、弦楽の分厚い音で場面がとても盛り上がっていたと思う。 ちょいちょいブラックアウトしたり、冒頭から話さかのぼってまた冒頭につながったりする編集は……あんま功を奏していなかったかな。特に話が冒頭に戻った時に「……えっ、この構成になんか意味あった?」って思っちゃった。でもまあ、ブラックアウトに関しては時間の流れを観客にも見失わせる機能をはたしていたから、やらないよりはやってよかったのかな。 で、映画のつくりとして凄くしっかりしているのですが。脚本、というか上映時間の都合上どこを切るか、どれぐらい切るかですごい損してる映画だなーと。 ひとえに、主人公ニックとエスコバルの関係が構築されていくって場面が無いので、なんとなく流されただけって感じで主人公だけでなしにその周囲の人たちをも地獄に突き落とされていくってのがちょっとどうかなと引っかかった次第。 ニックがエスコバルに惹かれる場面、そしてエスコバルがニックを認める場面なんかは無いと駄目だったんじゃないかな~。恐怖でニックを絡めとるってやっているのはわかるんだけれど、いかんせんエピソードの羅列で映画が作られているためか、登場人物たちの感情の流れが見えるような肝心な場面が少ないのです。 いや良いんですよ、もう主人公にとっては不条理劇かよ! ってぐらい突然巻き込まれていつの間にか人を殺すかどうするかの選択をせまられているっていう映画にするなら。でもこの映画はそこまでソリッドには作られていない。ある程度のレベルまで、観客が予想できるようなAの事態が起きたからBの事態が起きる、というわかりやすい流れになっている。 エスコバルが「殺す人間の事は知らない方がいい」というセリフを言うと、主人公が殺そうとしている相手が家族の事とかを話す場面が出てくる。これはもう、場面配置の問題なんでしょうね。で、こういうちょっとした「ん~どうかなあ」って場面がちょいちょいあるので、とてもしっかり出来ている映画なんですが総合的にはいまひとつだなと感じた次第。 もっと長い映画にしちゃえばよかったのに。ジョシュ・ハッチャーソンの演技も良かったしさ、あと照明によっていろいろ変化する表情なんかも良かったね。だからまあ、エピソード刈込みすぎないでもっと上映時間長くしてももったと思うんだけどなあ。 やっぱ編集が問題なのかなあ。最後の方とか、あの道案内の少年が殺される場面で、いつまでも電話で話しているニック――もうとっくに撃ち殺されたと思っていた少年がまだ苦悩している! っていうカットに戻った時には時間の流れどうなっとんねん、と思いましたし。っていうかこの少年が階段のぼるのもなんか妙に遅い。 ……さて、文句ばっか並べてきましたが、この映画がどれぐらいしっかり作られているかを感じさせる描写として、赤ん坊が殺されるというね。逃げずに描写しているのは立派。 僕も子供ができてからというもの、映画でもなんでも子供が辛い目にあったり死んでしまったりする描写を見るとすぐ泣いちゃうようになってしまいました。だからこの映画のように、直接殺される場面がなくても、赤ん坊の死体を映されたりするともうダメ、ほんと駄目。でも、だからこそ映画の出来自体には感心しなかった僕でも、麻薬カルテルの非人道的にもほどがあるやり口、ドラッグの問題、そしてカルテルのボスが僕ら民衆の人気を集めているという事実なんかにまじめに向き合って考えるように促らしてもらえました。 主人公ニックが人を殺すことを決意した場面とかも、急に遠雷の画を挟み込んだりして死ぬ程わかりやすいから、もしかすると笑っちゃうかもしれないぐらいなんだけど、きっちり人を殺すこと殺されることを描いてきた映画だからこちらも真剣に受け取ることができるというね。 ニックがこれからどうすりゃいいんだよって五里霧中な状態のときには、目の前に霧が広がっていたりする映画ですからね。きちんとやることはいいことだなあ。↑こちらの予告編だと2015年の作品となってますが、IMDBだとやはり2014年の作品と表記されてます。海外公開が2015年ってことなのかしら。
〇ロゼッタ/ROSETTA(1999)監督 ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ☆☆☆出/エミリー・ドゥケンヌ、ファブリツィオ・ロンジョーネ 開巻、工場でのシーンはちょっとカメラでごまかしている気がしました。ロゼッタが少しの遅刻で契約更新を無しにされてしまうのですが、同僚に「ちくったな!」と突っかかる部分です。 確かに激しい動きもあるし、感情的にも激昂しているわけですが、カメラの振り回し方がいくらなんでも作為的に大きくし過ぎで。もしかすると役者の安全面を考えて、演技での動きは少し抑えてカメラで補っているということなのかもしれませんが。 この『ロゼッタ』は合間をちょいちょいつまんでいます。初めて出会った青年とあいさつしたと思ったら、次のシーンではその青年が突如ロゼッタの家を訪ねて来たりします。そしてキャンプ場でのトレーラー暮らしがばれたのが嫌で、ロゼッタは青年と取っ組み合う。場面のつながりに対して「な、なんだこれは……」と観ているこちらは困惑し、また楽しくもなりました。 たまにこういう映画あるんですよね。場面が飛んでいるというか、ひとつひとつの事柄や時間の流れ的なものをそんなに懇切丁寧には説明しない映画が。しばらくしてから「あ、そういうことか」と理解する感じ。『勝手にしやがれ』のジャンプカット的なものとか、男女が出会って暗転したらもう結婚してて子供産まれるとこみたいな映画的演出というのとはちょっと違って、『ロゼッタ』の場合のこういった特殊な手法のもたらす効果としては、よりドキュメンタリックな映画になったというものです。 ドキュメンタリーというのは劇映画と違い、毎回準備を整えてから撮影、というわけではないですよね。重要な要素ではあるけれど撮影できなかった、という事も多いでしょう。『ロゼッタ』における、シーンが変わったら知らない間に話が進んでいる、という手法はドキュメンタリーにおけるそういう欠落を感じさせて、より映画に現実味を足してくれています。まあ、だからこそカメラワークとかにちょっとね、と僕なんかはより思ってしまったわけですが。 さて。ダルデンヌ兄弟の映画は、たしか見たことなかったような気がしないでもない……初めて観ましたが、とても良かったです。厳しい映画を作る人たちだな、という印象もありますが、人物への視線は徹底して寄り添う形であり、今作では優しさもありました。イ・チャンドン監督の『シークレット・サンシャイン』なんかを思い出しました。 ロゼッタの行動にはものすごく納得いくものが多いといいますか、僕にも思い当たる節があるといいますか……彼女の気持ちや行動にうんうんと首肯してしまう方も多いのではないでしょうか。 ままならねえなあ……。 極貧の生活の中、アルコール中毒の母親とのトレーラー暮らし。たぶん栄養失調からの生理不順ってことなのかな? たびたび腹痛に襲われもする。なけなしの金を母親がすぐ酒にしてしまう。だからきったねえ川だか沼だかで魚を捕えて食費を浮かす。トレーラーパークに入るところを人に見られたくないから金網の切れ目から侵入していると、管理人のくそじじいがあーだこーだけちをつけてくる。このじじいは母親とヤっている。 仕事、首になる。 別の人に仕事取られる。 母親がアルコール中毒治療のための入院の日、ロゼッタをきったねえ沼に突き落として逃走。泥に足をとられて溺れそうなロゼッタ。「ママ! ママー!」助けて――ものすごい回数助けをもとめて母親を呼ぶも、ママはそのまま逃亡。 いきつけっぽいワッフル屋で、新人の青年と出会う。彼が口利きしてくれたってことなのか、ワッフル屋での職をゲットするロゼッタ。その事を知らせに来る青年、後をつけてきたのか? トレーラーパークに住んでいることがばれる。取っ組み合う。家に呼ばれてごはんをごちそうになる。下手糞なドラム演奏を聴いたり、嫌だって言ってるのに無理やり一緒に踊ったり……そんなに嫌ではないかも。 仕事、首になる。 店長のバカ息子に仕事取られる。 どうしようどうしようどうしようどうしよう。 青年が金を貸してくれると言う。断る。 青年が事故で沼に落ちてしまう。一瞬悩んだけど、ロゼッタは青年を助ける。 私はママとは違うし。 そういえば、青年は自分で焼いたワッフルを持ち込んでこっそり売りさばいている。持ち込んだ分の売り上げは全部自分の物にしている。その手伝いをしないかとロゼッタを誘う。いや、上りは全部くれるとまで言う。断る。 ロゼッタ、ワッフル屋の店長に青年のやっていることをチクる。 青年、首になる。以降ロゼッタにつきまとっている。青年の姿を見るたび嫌な気持ちに襲われる。青年の仕事を盗る。 母親、べろんべろんの状態でトレーラーに戻る。 ロゼッタ仕事辞める。 ロゼッタゆで卵食べる。 ロゼッタ、ガス自殺を図る…… もうつれえよ、なんとなく粗筋まとめてるだけできついよ。上記以外にももっといろいろこまごまと嫌なことがありましたが、この映画が優れているな、真に個性的だなと思ったのがやはり最後のガス自殺の場面。 シュー……ってガスの音がして、ロゼッタカーテンしめてベッドで横になって。ガスの音も周囲の音も何もなくなる演出――ちっげえ、ガスが無くなったんだわ! の展開に唖然呆然。 自分が選択した死ですら貧乏に邪魔されてしまった。そして新しいガスボンベを管理人から受け取って、くっそ重いそれを運んでいると青年のバイクの音が。耳障りな。 この映画では甘えというか人に対する依存っていえばいいのかな? が描かれています。あまり強い人とか弱い人という分け方の言葉はこの映画には使いたくないのですが、例えばお母さんは現在弱い状態にありますよね。助けを求める娘を放って逃げ出してしまうほどです。逆にロゼッタが結局は青年を沼から助ける場面があります。ですが、ママが弱くロゼッタが強いという場面では無いと思います。 ロゼッタはたびたび青年に冷たくしますが、これはようするに甘えているわけです。ロゼッタとしても相手の事を好もしく思うようになってきており、それ故の行動なのです。お母さんがお酒や行きずりのセックスをやめられないのもロゼッタに甘えて依存しているからですし、ロゼッタとしてもママへの依存心があり完全に離れたりは考える事すらない。 単純に家族愛、とかいう一言で片づけられない関係はロゼッタに大きく影響を与えてしまっており、青年に対してママを真似たような態度をとってしまうことがある。ロゼッタは青年に甘えているということですね。そして、それがロゼッタは母親と同じような人間になってしまった、という意味は持たないという点も大事。なぜならロゼッタは、まだ子供だからです。あの人は強い弱いで片づけていい話ではなく、これは社会的な問題でもあり、またあの年頃に強くある羞恥や虚栄心の話なのです。 最後の最後、自殺をやり直すためのガスボンベを運んでいるうちに転んでしまい、そのまま泣きじゃくるロゼッタの事を青年は文字通り引き上げてくれますが……立ち上がった後、人前で泣きに泣いた後、それまでと何一つ変わらない生活と。 子供みたいに顔を真っ赤にして泣くことのできたロゼッタは。隣の人がくれた魚を「施しは受けねえ!」って捨てていたロゼッタが、青年に助け起こしてもらった。青年は沼に落ちた自分を引き上げたロゼッタに「君が助けたんだろ」と言った。 ひとりで立ち上がるのは辛い。誰だって辛い。
◯すばらしき世界監督 西川美和☆☆☆出/役所広司、仲野太賀、六角精児、他 人は変わる事ができる。素晴らしい考え方だし、僕自身がよく映画に対して使っている言葉なのですが……変わらないと駄目なのか?そのまま愛してはくれないのか? 同テーマの『X-MEN ダークフェニックス』も是非ご覧いただきたいところです。 変わりたい、変わろう――そう努力するのはとても素晴らしいんですが、その変化は本人が望んでいるものなのか?愛してもらうために条件があるのか? また、人が他人とよく知り合うことで、「この人たちと自分は違うなあ……」という思いも生まれてしまう。 変わったあとの自分は、この人たちとうまく、楽しく生きていける。そこには希望も喜びも確かにある。 自分を親父のように慕う若者。風呂で背中なんか洗ってくれながら、心からの言葉を聞かしてくれる。「もう戻っちゃだめですよ」とても心を動かされた。 でも、今オレは背中を流されてるけど、こいつは未来のオレの背中を流してる。過去を洗い流して。……刑務所を出るときにも同じ事は散々言われた。戻るな。 誰かが帰っておいで、と言ってくれないものか。 その役割を、母親に求める。母親という存在は、何も条件を必要としない。社会が、母親って存在の意味を作っているから。 変わろうが変わるまいが、親子である。また過去の話であるから、新しい何かが加わる心配もない。ただ母親だと慕っていればいい。 紫陽花は彼らの性(さが)ですよね。それを、つむことでしか仕事が得られない。嵐が来る前に……自らの手で… …。 最後の三上の死は、まさに自分の言葉通りにしたんだと思います。人が困ってるのを知らん顔するんだったら、死んだほうが……と。 でも、猫被ってた、頑張ってた、そん時に周りにいた人たち。皆の影響で、死んだほうが「マシ」と思いつめて死んだんじゃなくなった。 どうしても生きられないから、逃げた。逃げる事を選んだ。薬を服用しないという、自殺。 イジメを見たあと這いつくばって薬にムシャぶりついていた三上は、たぶん、たぶん、死ぬことにした時は自分を褒めたんじゃないか。 このまま生きることも出来る基盤を、その手で作り上げたから。そのことは誇りを持っていたと思う。でも、このまま生きていきたいと思わされてしまう世界は、余りにも範囲が小さい。 世界は狭く、そしてたくさんあり過ぎる。 仕事とか、人間関係とか、家とか、世界には色んな名前がついていて、その間を行ったり来たりしないといけない。みんながそれぞれ、すばらしき世界だと思っているから、すばらしいですねと応えなきゃいけない。そうしないと成り立たないから。すばらしいんじゃなくて、すばらしき世界だから。すばらしいと感じなきゃいけない世界だから。 映画を観ている僕たちの写し鏡である、あの若い介護職員。暴力振るって、裏で悪口言って、真似して馬鹿にして。彼が筆者そのものであるうちは、三上に「とにかく生きてみれば」とは気楽に言えない。でも生きて欲しかった。 ひろい空はある。曇ってるかも。ビルが沢山生えてるかも。結局見えない。見えないんだから。先に何があるか、誰にも見えないんだからさ。
○THE BATMAN-ザ・バットマン-/THE BATMAN(2022)監督 マット・リーヴス☆☆☆出/ロバート・パティンソン、ジェフリー・ライト、コリン・ファレル音楽 マイケル・ジアッキノ(ジアッキノはいつだって最高!) はい、というわけで……『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』に対して絶賛大激怒中のおっさんが『THE BATMAN-ザ・バットマン-』の感想を書いていきます。 まずですね……いや、とっても良い存在の映画だと思います。今までのバットマン映画とは違う風にしようとしたうえで一定のクオリティーに達していて、ちゃんと面白く観られる。 もうこのハードルを越えている時点で一本の映画として大成功なわけですけれども、監督のマット・リーヴスを全然評価できない筆者としては、「『ザ・バットマン』もマット・リーヴス映画の一本に過ぎないっちゃ過ぎない」という感じです(好きか嫌いかで言えば好きですが)。 良い存在と書いたのは、この『ザ・バットマン』のおかげで将来のバットマン映画に結構道が開けたなと思ったからです。新しい監督が挑戦的な作風にしてもきちんと大ヒットするという実績を作ってくれたからですね(でも大ヒットし過ぎてしばらくはこの路線が続くんでしょうが)。 思ったのは、どんどん新しい監督や役者でバットマン映画を色々作ってみても良い時期になったのではないだろうか、という事です。本作も満足感を与えてくれる重要なバットマン映画である事は間違いないですが、そういう下地作りも同時にしてくれたなあ、と。 だから尚更あのオチはいらねえ! そういうとこだぞリーヴス! リーヴス監督に軽く触れておきますが、まず長編デビューの『クローバーフィールド/DASAIKARAYAMERO』は、そんな面白くないけど部分的に面白い(というか自由の女神の首が吹っ飛んでくる場面嫌いな人いんの?)。次いでのリメイク映画『モールス』はオリジナルである『ぼくのエリ モザイクで台無し』が結構好きな映画だったのでどうなるかと期待しましたが、まあ同じ物をコピーで観てもなあって思わされただけ。 そしてついに、ルパート・ワイアット監督の大大傑作『猿の惑星:創世記』の続編である『猿の惑星:新世紀』を撮りあげました! ワイアット監督帰ってきてえええええええええ!(泣) 創世記に惚れ込んでいたのもあって新世紀の出来が結構ショックで、完結編の聖戦記を未だに観ていないという状態にまで追い込まれてしまいました。 新世記も部分ぶぶんは良いんですよ。ゲイリー・オールドマンとか。でも、力業過ぎんだろ! という脚本作法が目に余る部分が結構あって……。 そして今回の『ザ・バットマン』に到達します。脚本はマット・リーヴス監督とピーター・クレイグ。ピーター・クレイグは力業のお話進行が過ぎてそういう作風な気がしてくる『バッドボーイズ フォー・ライフ』の脚本を書いている人みたいですね。(なるほど納得!) 今回の『ザ・バットマン』は、徹底的に「不殺」を描写します。オープニング付近のジョーカーメイクの不良たちに暴力振るう場面においても、直後にやられた不良たちが立ち上がって「さーせんっした、失礼しまっす」って感じでカメラの外にはけていくという面白映像をわざわざ挟んでいました。バットマンは恐怖の象徴! みたいな場面が連続している中でですよ? だからこの描写は、「ダサくなってしまっても入れておく必要がある」絵面なわけです。 観客が一瞬たりとも「バットマンだって人殺してんじゃん!!」と思わないように。 何故かと言いますと、『ザ・バットマン』が描くものが「人ひとりが死ぬこと」の影響であり、人の死を通して「生きていく事」をも描き出すからです。だからバットマンはセリーナに何度も「自分を大事にしろ」って言うんですよね。今後も人生は続くんだから、と。 愛、なんだけどLOVEとはまた違った愛情。 で、この愛を描くにあたってマット・リーヴス監督は聖書を参照しています(ねー、洪水も起きてましたねー)。希望の灯りを掲げて民を率いるバットマンの絵面を観た時は、「なんか説教臭え映画だな」と思っていた筆者も膝を打ちました。「臭いんじゃなくてマジで説教してたんだ!」と。 お説教したい青年の物語、という事で『タクシードライバー』並みに自分の日記を音読してましたしね! さて、『ザ・バットマン』の劇中で2回流れてテーマソングになっているニルヴァーナの『サムシング・イン・ザ・ウェイ』です。この歌の歌詞は、 ♪動物はペットにして~、 ♪草は育てて~ ♪でも魚は食べる~……だってあいつらには精神なんてねえかんな! ♪う~んもやもや~。 みたいな感じです。『ザ・バットマン』における「視点を変えると正義の形も変わる」というのに合わせた選曲ですね。 そのテーマを如実に表した場面が、筆者が『ザ・バットマン』で一番好きな「リドラーとのやり取りで一言も言い返す事ができずに黙ってるしかないバットマン」です。 俺と同じで孤児だって言うけど、あんた腐るほど金あったんだから俺よりよっぽど耐えやすかったでしょ? 苦しみの量は違くない? っていう、ちょっと聞いただけだと、なる程正論って思っちゃいそうな事をリドラーが言うわけですよ。その人がどういう性格の人間なのかどういう境遇なのか、今の精神状態はどうなのか、といった点をきれいさっぱり無視した物理的な面だけをみた意味のない台詞ですが、遺産なんてどうでもいい! とか言いつつ遺産を使いまくってリドラーを追跡していたブルースには響いてしまう。金だって大事なんだよ。(さらにセリーナにも似たような事を言われてしまう) で、こういった素晴らしい場面だっていくつもあるのですが、ちょっとテーマと相反してしまっているなと思ったのは、殺されてしまったセリーナの恋人に関する描写です。 情報として登場して、主人公とヒロインを引き合わせた直後に死んで、彼女の人となりはまったく描かれない。完全にお話を進めるためだけの役なんですよ。お話を進めるための「死」なんですよね。探偵映画っぽさを出したいから車のトランクに死体とか、やりたい事はわかるものの、ちょっとテーマに反してるんじゃないかな。 別に時間かけろって言ってるんじゃなくて、例えばセリーナが「あいつは風呂が長すぎてさ……」とか語る部分がちょろっとあるだけでも印象は違ったと思う。 他にも話を進めるだけの場面と言えば、セリーナがピーター・サースガードから情報を聞き出す場面。いや聞き出すって言うか、べらべら勝手にサースガードが喋るんだけど(笑)。こういう場面昔からあるし、昔からあるからリーヴス監督はこういう場面にしたんでしょうけど……逃げんな! って言いたい。 映画の雰囲気づくりのために古い映画の数々を参照にするのは良いんですけれど(映画ファンとしては凄く楽しいし)、人の命のやり取り、あまつさえサースガードにしてみれば自分と家族の命がかかった与太話を、3秒前に会った女性にペラペラ大声で喋りますかね? 喋るとしたら、殺される前にせめて若い女とセックスしたい! というのが理由でしょ? そこもほんのりとしか描かないし。なんか現状だと、ピーター・サースガードがただの馬鹿にしかみえない。どれぐらい馬鹿にみえるかというと、「どう考えてもこれは、マフィア側の罠に違いない」と早や合点した筆者が、そのまま映画が進んじゃうから話の筋を見失いそうになるぐらい。 確かに、映画という文化の中では、「よくぞここまで辿り着いた」から教えてくれたり、「死ぬ前に真実を言え」とにっくき主人公に言われたら何故か教えてくれたり、「死んでも言うもんか!」って言ってたのに平手打ちくらわしたら教えてくれたりする人が沢山います。 いますけど、それは映画という「ファンタジー世界」でのお約束なわけですよ。少なくとも「リアル」に「僕たちが住む現実世界」に寄せて作った映画であれば、そういったファンタジーな場面が登場する余地なんかないはず。 ていうか、主人公に対しての壁なわけですよ、情報をいかにして得るのか? っていうのが。今回の『ザ・バットマン』は探偵映画なんだから。その壁が薄くて低くて軽々飛び越せるぐらいのものにしか見えないから、バットマンやセリーナがたいして努力せず情報に辿り着いて見えるんですね。「真実を言うぐらいならこのまま死ぬー!」っていうサースガードの姿をみて、僕たち観客は「じゃあ酒かっくらってペラペラ大声で秘密を話さなければよかったのに」と思っちゃうんですよ!(あと『SAW』かよ! ジグソウかよ! とも思った。リーヴス監督のオリジナリティの無さは今後の課題よなあ) そしてやはり語っておきたい、ロバート・パティンソンどうだった? の話です。 なんというか……良くわかんない、というのが正直なところです。 場面としても繰り返しが多い映画で、特徴的な演技みたいなものも(もちろん監督の演出で)封印されているようです。だからポール・ダノの演技も別に面白くなかったし、コリン・ファレルのペンギンも……いや、コリン・ファレルのペンギンはめっちゃよかったな! 完全にロバート・デ・ニーロだったのには笑ったし、喋り方もすげえ面白かった。オシッコ漏らしてるのにも感動した。 でも、特にロバート・パティンソンはバットマンでいる時間がかなり長かったし、バットマンでの演技に何かしら特徴があるわけでもない。かといって良くないな~って思う演技が出てくるわけでもない。 なんか、演技に関しては不思議な映画だったなあ、と今でも思っています。 そうそう、ダサくてもちゃんと描写するシリーズが本作にはいくつか見受けられます。 最初に書いた、ぼっこぼこにされた不良たちがすごすご退散する場面もそうですし、バットマンがカウル(マスク)を脱ぐと目の周りに黒い縁取りがバッチリ残ってるとかね。リアルリアル言ってたクリストファー・ノーラン版でさえ黒い縁取りはうやむやにしてカウルを脱いだらメイク落とし済みだったのに、リーヴス偉い! そして白眉のダサ映像といえば、バットマンがビルから飛び降りる場面ですよ! ムササビみたいなスーツでビューって滑空するんですが、その時の映像がどうみても「背景だけの映像を先に撮った物にバットマンを合成している」って感じなんですよ。で、大事なのはリーヴス監督がこのダサさをわかってやってて、ちゃんとコメディ場面になってるって事です! パラシュート開いたら歩道橋に突っ込んでバスにぶつかって道路に落ちて、マントない状態でひいこらひいこら歩き去るバットマン――の直後のカットが、バットシグナルの横で超絶カッコいいポーズ取ってるバットマンなんですよね(笑)。しかもちゃんとマントしてんのよ(笑)。 で、このバットマンがビルから飛び降りるジャンプのくだりは凄い楽しんだんですけども、ラストのバイクに乗っているバットマンの顔アップも何故か同じノリの合成映像みたいになってるんですよ……ラストカットだぜ? 大丈夫? 触れずに終われない音楽担当マイケル・ジアッキノの話。 えーとまずはそうね……久しぶりに、ヒーロー映画にわかりやすいテーマ曲をつけてくれましたね!! これは嬉しかった。最近テーマ曲ない感じの映画多かったから。 監督がいち要素にとどまらない探偵映画を目指して、『セブン』を参考にし(バットマンとゴードンが懐中電灯持って2人で捜査する場面とかモロですね)、恐怖を感じる怖い映画に仕上げた――に付けた音楽が(『大アマゾンの半漁人』とかの)ユニバーサルホラーかと思うめっちゃ大仰な音楽(ジャンルは違うけど、ティム・バートン監督作品でハワード・ショアが音楽を担当した『エド・ウッド』とかを連想してもらうと判り良いと思います)。 そしてテーマ曲は、ぶっきらぼうに親指を鍵盤に叩きつけるようにして弾いたかのごときピアノ音が中心に据えられています。これが、ただ暴力で力任せにしか出来ないバットマンをあらわしてもいるし、怪奇映画っぽさや探偵映画っぽさの底上げに物凄い貢献している。 そしてまあ多分後でそういうエフェクトを加えているんだろうけれど、ピアノの音を安っぽい録音機材で録音したような音になっているんですよ。音の広がりがなくて、ひずんでいて、ピアノの前にテープレコーダーを直接置いて録音しましたみたいな。これももちろん、完成されていないバットマンの表現ですね。 あとどうでも良い事なんですけれど…… コリン・ファレルはマーベル『デアデビル』のブルズ・アイだし、アンディ・サーキスもマーベル映画の2作品でユリシーズ・クロウを演じていました&『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』の監督さんでもある。 マルチバース!! マルチバース!! さらにどうでも良い事なんですけれど…… 本作の劇場用パンフレットから草団子みたいな匂いがするんですよね。何故だ(´・ω・`)。誰か『ザ・バットマン』のパンフ買った人で同じように草団子のにおいする人いないかな? 最後に…… なんか恐怖だ恐怖だ、暴力的だって散々公開前は煽られましたけど、やっぱり暴力に恐ろしさを抱く程の描写にはなっていなかった。何でもR指定むけの生々しさが良いわけではないけれど、本作に関しては少し残念に感じました。 それよりもコロナ禍において、「UNMASK」っていう言葉をキャッチコピーに入れてるのが一番過激に感じましたとさ。 おしまい。
いや~、映画って本当に良いものですね。ではまた(政治利用させてもらおうかな)。https://www.psr.ph/index.php/award-winning-asian-indie-films-showcase-cinemalaya-2015/上記HPより画像をお借りしています。○シアター・プノンペン/(ごめんなさい、カンボジア語(クメール語)での原題表記の仕方がわからず……英題は『THE LAST REEL』で、もともとの原題も『フィルムの最終巻』という意味だそうです)監督 ソト・クォーリーカー☆☆☆出/マー・リネット(主人公ソポン)、ルオ・モニー(ソポンの極悪彼氏)、ソク・ソトゥン(映画館館主のおっちゃん) 毎回記事を楽しみに待たせてもらっているタイレンジャーさんがお勧めしている作品、『シアター・プノンペン』を観ました!! 字幕なしでよければオンラインで無料で観られるよ、との事でしたが、冒頭の遊園地の場面までちょい見してみてすでに面白そうだなと思ったので、やはり日本語字幕必須! と思いレンタルして視聴しました。 まず、撮影のレベルが高い! 比べるこっちゃないとは思いますが、私エド木の嫁さんの出身地である台湾映画の多くが……言っちゃうと「地上派放送」的な撮影をしている(もちろん作ってる人によりますよ!)事を思うと、繊細な色彩使いとか(暖色系多し)それを潰さない照明技術とか、何かを変に強調しない雑多な美術(衣装含めて)が合わさって観ていて心地良いです。 でも脚本は割と大雑把!! 主人公であるソポンの彼氏とか、脈絡なく銃をぶっ放す凶悪男GUYして登場するのに、何をライジングしたのかどんどんどんどん愛に目覚めて、いつのまにか凶暴さの欠片も無くなっています(というか映画の中で一番感動する台詞を言うのが彼である)。 あと話運びの順番? っていえば良いんですかね? ちょっとおかしくないですか? お父さんが「娘ぇ、かわええのう」って写真見てニヤニヤする場面の後で「娘ぇ! 俺が決めた相手と結婚しないとぶっ殺すぞう!」みたいなテンションになるので……複雑な心境を表している演出だとは判るのですが……とにかく違和感があるう(笑)。 それと大学の映画学科の先生ですね。都合良すぎて逆に違和感無かったわよ。 ……でもね、そういう弱点の数々も全部OKになっちゃう。 失われてしまった最後の1巻を再現しよう! ってなって、実際に撮影が始まった辺りの面白さがとてつもないんですもの。 若い2人が演技の練習をする。関係ない近所の人たちがそれをみてる。もうこれだけで映画を観ている方はホッコリしちゃうんですね。 何かを演じる事の楽しさ。別の人生へ思いを馳せる事の素晴らしさ。そして、それを分け合える「映画」という媒体。 タイトルが最後のリールってのも気が利いていて。 結末は自分が付ければ良い。 やり直しても良い。 そしてこの映画が描くのは、やり直せるのはあなただけでは無いんだよ、という物凄く重要なメッセージ。 最愛の人を殺された。許せない、ぶち殺してやりたい――そんな風に憎まれている側の人間であっても変われるんだという事。そしてそんな最低人間が変われるんだ、変わったんだという事で、許せないという思いもまた、いつかは、もしかすると、変わっていくのかもしれないという。 変わらない/変えられない 事なんて何も無いんだと。 とても豊かなメッセージを頂けました。 ……でもお母さんは何も知らないまんま! ってのはどうかと思った次第! というか娘と息子が、父親こそが母の最愛の人に直接手を下したその人であるという事実をどう咀嚼するのかがちっとも描かれないので、ここはモヤっとが残りました。 ポルポト政権の俗称であるクメール・ルージュについては凄惨なエピソードが数々ありますが、ちょっとかじっただけの僕でも非常にショックを受けたのが、「眼鏡をかけている人は殺す対象となる(メガネはインテリっぽいから)」というエピソードです。 どこの政府も同じ。狂っている。 なんか『シアター・プノンペン』から離れちゃうんですけど…… 映画って物の責任とかについても考えさせられてしまいました。ナチスドイツは映画を宣伝にバンバン利用していた。日本だって、映画やテレビ番組なんかを日本政府にとっていいように利用してきたし、いまもしている。 映画の黄金時代。映画こそが娯楽の王様だった時代。そんな時代に映画館を沸かしていたのは……男尊女卑であったり、戦意高揚であったり……。 もちろん、芸術の担い手として戦争反対を見事に謳いあげた名匠たちもいました。いました、けど……その名匠たちの映画「だけ」を僕たち観客は消費するわけじゃない。素晴らしいメッセージを込めた映画を観て「映画という媒体」が好きになった人が、戦意高揚映画も次々に観て「映画を観たから形成された蒙昧さ」って少なからずあると思うんですよね。 僕は映画を心底必要としているし、好きだ。芸術を利用してるやつらが一番悪いって事も理解できてるつもり。でも、映画ファンが一生懸命に「映画は素晴らしい!」と訴えることは、ほんのかすかにでも芸術を利用する事しか考えてない連中の後押しになっているんじゃないかなとも思える。 文化や純粋な娯楽こそが、人間として生きるうえで最も楽しみたい部分だし、作り出したりしたいものなのですが……別にそういった物をまったく大事に思ってない連中にcool japanとか言われちゃうと、やっぱり無邪気に好き好きだけ言ってていいのかなあなんて、考えちゃうよなあ。https://ciras.cseas.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2017/10/CIRAS_DP67.pdf上記は、アジア映画に関する研究<CIRAS Discussion Paper No.67 不在の父 混成アジア映画研究2016 京都大学東南アジア地域研究研究所 山本 博之・篠崎 香織 編著>のPDFファイルへのリンクです。めちゃんこ知識が深まりますので是非(80ページ以上ありますが、『シアター・プノンペン』に関する記述は最初の方の10ページぐらいです。一応後半にもカンボジア映画の情勢についての文章があるけどタイトルが出てくるぐらい)。映画レビューランキングにほんブログ村
For example…<a href="https://en.wikipedia.org/wiki/X%2BY" target="_blank">https://en.wikipedia.org/wiki/X%2BY上記HPより画像お借りしています。↑皆の事が頭に浮かんでいる様子を表現しているようで、大好きな構図のポスター。○僕と世界の方程式/X+Y(2014)監督 モーガン・マシューズ☆☆☆☆出/エイサ・バターフィールド、ジョー・ヤン、サリー・ホーキンス モーガン・マシューズ監督自身によるドキュメンタリー『beautiful young minds』(2007)を元にした劇映画デビュー作。本作は2014年製作。 そして劇映画デビュー作にしてライアン・レイノルズが出演してるのかと思ってみていると、その人はレイノルズじゃなくてレイフ・スポールだという事が徐々に判明していきます。『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』で記者を演じていた人です。 あたいってば眼が悪くなったのかしら? てへへ(このふたり似てますよね?)。 えー、まずこの『僕と世界の方程式』を観まして、とても好きになったので本作の元となるドキュメンタリー映画を観たいなと。それで、知識がゼロだった自閉症スペクトラムについても調べつつ、『beautiful young minds』を観ました(youtubeに本編上がってます。中国か台湾の方が付けてくれたらしき字幕が大助かりです)。 さて。 ……映画はドキュメンタリーまんまやな!! マジそのままだったから逆に驚いたわよ。 いまのところ日本版という事では『beautiful young minds』を観られないので、こちらのドキュメンタリーのネタバレも挟んでいきます。あしからずです。 まずですね、自閉症は聞いたことあるけどスペクトラムって何ですかと。 何ですかと独り言をつぶやいても誰も教えてくれなかったので、ネットで読める紀要などを印刷して読んでみました(パソコン画面で読むのが苦手というね。目が疲れるんだもん)。 まず1本目は、<<アメリカ精神医学会の改訂診断基準DSM―5: 神経発達障害と知的障害,自閉症スペクトラム障害>>(2014)と題された宮川充司が書かれたものです。 こちらを読むとまず自閉症とかアスペルガー症候群とか周辺症状含めて多岐にわたっていたのを、DSM-5という診断基準の最新版(だから以前はDSM-Ⅳだった)を出す時にまとめたのが自閉症スペクトラム障害という呼称であると。スペクトラムとは連続体という意味。 その他の病気では、多くの病状でより効果的な治療を施せるように細分化が進められる中で、自閉症に関してはまとめられたというのは何故か、という話をされています。 もう一本は<<自閉症スペクトラム児と親の支援に関する調査研究 -親のアンケート調査から->>(2009)と題された前田明日香、荒井庸子、井上洋平、張鋭、荒木美知子、荒木穂積、竹内謙彰たちが書かれたものです。 こちらの論文で驚くのは、小さい頃に受けていた補助が、学校に通う年齢に達すると得られなくなる事が多いという話。アンケートや統計なんかでも、学習年齢に達してからの障害児の両親の負担は増しているのに、です。 何故かって、そもそもお年頃の方が大変なのは自明だし(難しい年頃って言葉があるでしょうよ)、学校という集団の中で立ち回る事が本人に要求され、子供が大丈夫である+上手くやれるかという心配が増える事になる両親も大変になるに決まってんじゃん。行政は馬鹿なの? この『beautiful young minds』で印象深い場面が、ジョスという映画版でのルーカスのモデルとなる青年が、症状は様々あるのに同じ病名で呼ばれるから、「だから皆が、レインマン的な!って考えるんだろ」という発言を悲しそうにするところ。 同じ障害があるっていうだけで、十把一絡げにされてしまう。個性だ個性だと騒ぎたてる世界が、自分の事を見る前にまず障害を見てくる。俺はジョスであって、アスペルガー症候群って名前じゃねーから! そこんとこ夜露死苦! ちなみにこの人が中心となってドキュメンタリーは進んでいくんだけど、途中で輪に加われない+性格が傲慢な事からオリンピック選抜キャンプの仲間たちから、ハッキリ言って虐められるというところまで関係が悪化していく(映画でもいじめの描写がありましたね)。そしてルーカスと同じように選抜には選ばれず、途中で消えてしまう。 話の中心はダニエルという青年へ移っていく。ダニエルは中国で出会った恋人がいたりと、エイサ・バターフィールド扮するネイサンのモデルとなっている人物。彼は一旦選抜から落とされるものの、敗者復活的にキャンプに呼び戻され、さらに数学オリンピック選抜6名に入り最終的には銀メダルに輝く。 ちなみに数学オリンピック=International Mathematic Olympiadという事でIMOと呼ばれます。 で、このダニエルの恋愛事情なんかもドキュメンタリーで大きく取り上げられます。というかほぼプロポーズみたいな「同居してくれる?」という問いかけに彼女が「…………(結構長考する)yes」って答える、身悶えのあまり観ているこちらがどうにかなってしまいそうな場面まであるんですよ!! ラブコメか!! リア充か!! 映画の方を観ていて、割と数学オリンピック自体はどうでもいい感じに話が展開するのですが(エディ・マーサンの感じ悪い先生含めてね)、それも納得の甘酸っぱさ。ちなみにドキュメンタリーのエンディングでは……(ダニエルとシュー・ヤンが結婚します! ッキャー♪)。 でもドキュメンタリーだと、ジョスが後半でも映されるんですよ。もうIMOの連中と絡んだりはないんですけれど、監督が彼の家を訪ねて「そういや今日IMOの結果発表じゃないのー」とか水を向けるとジョスが「え!? あ、ほんとだ。すっかり忘れてたわw」みたいな言い訳かましつつ速攻でネットの結果発表ページを開く。 ……映画は、それしかない事の苦悩を描いていたけれど、ドキュメンタリーではそれしかない事のどうしようもないまでの情熱をも捉えていたと思います。 オリンピック出場の夢は断たれたけれど、ジョスも大学へ進学して数学の研究を続ける(本人曰く「本物の数学の」)。 で、ちなみに映画版の方も「たいがい『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』ですなと思いましたが、ドキュメンタリーの時点でそうとうガス・ヴァン・サントしてますので、確実に意識はしていると思います(テロップが出る時の背景とか……数学を扱う映像作品はみんな似てるぞう)。 映画の話に映りますが。 同じように自閉症の彼の気持ちや、彼が両親から言われた言葉(同じ言葉)、それがわかる。だから父親以外の人の言葉にも大きな意味はあって、「愛する人を失うと悲しい」という言葉の集合には感情を説明する意味が込められていて、自分が愛する人を失った事故へと記憶が戻ったとき、他にも愛する人を失った人がいることがわかる。自分と同じ思いをした人。お母さん。この思いをさせたくない人。チャン・メイ。どうすればいいかわからない人。僕。どうしたらいいか聞ける相手。お母さん。移動手段。車。運転できる人。お母さん。隣にいてくれる人。お母さん。隣にいたい人。チャン・メイ。 言葉に表せない気持ち。という言葉がありますし、その場合に言いたいことは多くの人には「言い表せない」と言えば伝わる。でも当てはまる言葉を探し続けても良いはずです。説明できる言葉を探し続ける人を、他人は「心で感じる事の出来ない人」と断ずる。事がある。 心で感じる事の出来ない人=変人。これが世界の公式になっている。だからあまりこの映画の邦題は好きじゃない。方程式で解を求めるのではなくて、言葉を尽くして説明しろと訴えている映画だと思うから。 答えはある。だからその問題を解く過程を楽しみましょうよっていう。だって証明できる場合もあれば、証明できない事が証明される事もあるから。 他者が自分を理解してくれないのは外国語を喋っているみたいな感じ、という冒頭で示される素晴らしい哲学が映画全編を支えています。言葉ですんで学べます。知らない言葉だったら教えてもらったり教えてあげたり。独りでも学べるし。本でも、映画でも、その辺にあるお店の看板でも。 言葉が増えると何が良いか? 人に説明する時のツールが増える。自分を理解する手段が増える。 答えはシンプルだと美しい、という考えもありますが、人の気持ちは形がないから多くの言葉で説明を試みた方がより伝わるはずです。相手は自分ではないし、心は不可視かつ無限大だから人それぞれ違う。それぞれ違う物を単純化して伝えても、それは元の形、伝えたかった形とは違うものかもしれない。一部で満足する必要はなくて、全部伝えようとし続けて良い。 この映画では主人公に何かを伝える時に、感情までも言葉によって説明する必要があります。夫が死んで悲しい時にも、悲しさの形を言葉で伝える必要がある。これが上手くできる人もいるし、下手な人もいる。 でも下手な人は言葉の数を増やせば良いだけだし、主人公だってどんどん感情の形や色を蓄積して理解が深くなっている。 人が時間をかけて成長する事、そのものを肯定しているんだと思います。 映画の原題はX+Yです。代数学ですね。何を代入しても良い。そしてこのタイトルは、「=」がついていない。解を求めているのではないんです。 お店の人に無理言ってエビを7つにしてもらってもいいし、8個入ってたから1個食べちゃってもいい。 XとYだから染色体の意味もあるのかな? だとすると、子供が生まれる仕組みって事かな。愛って意味だったら、X+XでもY+YでもY+X+Yでも良い筈ですからね。 自閉症スペクトラムは相手の気持ちがなかなかわかりづらいという症状がある場合もあって、友達が出来づらいと気に病んでいる方も多いそうです。 誰だって友達欲しいし、だからユーモアを勉強しようとして『モンティ・パイソンの空飛ぶサーカス』も暗記する。でもいくらイギリス人相手でも流石に古かった……という意味では無く、コミュニケーション手段に「不条理」ギャグを選んじゃったのでいずれにしろ理解できないという高度なギャグになってますね。もうそれこそモンティ・パイソン級の。 ちなみにこちらのスケッチは「The Parrot Sketch」という事で、「オウムのコント」ですね。実際にパイソンのスケッチをDVDにて再見しましたが、観ていると「不条理」で理解できない事を訴えるのではなくて「話がまったく噛み合わない」のがおかしいっていうコントでした。買った人はオウムが死んでいると言う。売った人はオウムは休んでいるだけだと言う。 あのー、芸術だと理解不能な事が賞賛されるのに、人間関係だとちょっとでも理解不能な部分があるってだけで排除されてしまう。映画を1本も観た事ない人がシュールレアリズム映画を観たら「ふーん、映画ってこんな感じなんだねー」と思うところを、映画を観た事がある人だと「なにこれサイテー、意味わかんねー!」となる。 その人にとって面白いかどうかは別として、何かの価値を判断する時に人は通常、社会が作ったイメージを利用します。 例えば僕で言えば、「脚本が上手」というのを「伏線の張り方がよいので」みたいな説明でいつも書いています。ただしこれだと言葉を省いちゃってるんですよね。丁寧に直すと「この映画では後で重要な人物となるキャラクターがつねに明るい服を着ているなど伏線の張り方が目立たないながらも印象には残るため、脚本が上手に働いていると僕は感じる」ってところでしょうか。 これで言いたいのは、伏線の張り方がいいと上手な脚本、という社会的(映画業界的?)なイメージを無意識に僕が利用しているということ(映像を特に注視する人からすれば些細な事かもしれない)。こんな些細な文章であっても、人と社会とは切れない。 だから、その社会的なイメージが中々わかりづらい人へ何かを説明するというのは、いい訓練になるんだって事です。 1人の人間にとって大事な人の数なんてたかが知れてます。社会との関わりはその人たちとより良く生きる為の訓練です。 でも誰が自分の大事な人かは、その人を探しださない事には理解できない。だから社会に対してだって気持ちを砕く。あなたは僕の大事な人かもしれない。だから社会も僕に気持ちを砕いて欲しい。僕はあなたの大事な人かもしれないから。僕が死んでるエビを起こそうとする意味が判らなかったら、「何それ」と聞いて欲しい。「どういう意味なの?」と聞いて欲しい。「モンティ・パイソンだよ」と僕が答えたら、スマホで検索して欲しい。Youtubeで動画を見て欲しい。僕だって死んだ鳥を起こそうとする意味なんて判らないって知って欲しい。友達になろうって言ってるんだよ。 一緒に勉強しようって、誘ってるんだよ。 でまあ、自閉症スペクトラムの症状ってまちまちだし、重度の人も軽度の人もいる。だから映画の中で、比較的重度の男の子(ルーカス)に対する「自閉症の症状だよ、やだねー」みたいな罵詈雑言を比較的軽度の主人公に対して仲間たちが発言する場面があります。 病気の症状である、という知識があっても対処できないのはまあ、高校生だしなとも思いますが、しょうがなくはない。 山登りだったらペースゆっくりな人を先頭に立てて歩くのが基本であり、それについて文句言う人なんてそう居ないでしょ? なんだろ、色々な人の色々な立場を想像してみる。尊重できないならしなくたっていい、それはその人の勝手だし。でも「そういう場合どうしたらいいのか」という勉強はしてたっていい。もしかすると後年考えが変わった時にまたそういう場面や人に巡り会うかも知れないし。小説でも書くなら役にも立つじゃない。人前でかっこつけたい? なら知っておくといいんじゃないかな? 利用したっていいから関わり合いを断つのはやめてくれ。存在を無視しないで欲しい。 理解できなくていい。理解しようとして欲しい。 僕は辞書じゃなくて小説なんだよ。つまらないなら批評をして欲しい。面白い部分を見つけて欲しい。マーカーを引いて、しおりを挟んでおいて欲しい。読み終えたら題名だけでも覚えていて欲しい。 気がついて欲しい。この本はあなたが知っている言葉で書かれている事を。読める。誰だって、読めるんだよ。大佐:(画面に入って来る)まったくだ、まったくだ。バカバカしいったらありゃしない。よし、次だ、さっさと次をやれ!www.starkafterdarkonline.com/?paged=3上記HPより画像お借りしています。にほんブログ村映画レビューランキング
Not pray"come back"Let say"DO NOT GO"<a href="https://www.forbes.com/sites/scottmendelson/2019/11/25/review-1917-might-be-the-best-movie-of-2019/#61fa518447c3" target="_blank">https://www.forbes.com/sites/scottmendelson/2019/11/25/review-1917-might-be-the-best-movie-of-2019/#61fa518447c3上記HPより画像お借りしています。○1917 命をかけた伝令/1917(2019)監督 サム・メンデス☆☆☆出/ジョージ・マッケイ、ディーン=チャールズ・チャップマン 今の時代にどエンタメで戦争映画を作ってくるなんて……嬉しくなっちゃうじゃんかよ、サム監督! そうそう、色々な映画が観たいんであって、戦争映画だからって真面目な顔して「ボーイソプラノ流して神々しい感じ」にしてばっかじゃつまらない。 今作でのメンデス監督演出は、サスペンスは音楽でモリモリ盛り上げる、なるべく長回しを多用して「リアル」よりも「臨場感」を生み出す。 長回しの多用によって、我々観客が実際に戦場に居る様な感覚に陥るか? というと「全然そんな事はない」と思うんですけれど(普通にカット割ってた『プライベート・ライアン』は実際戦場に居る様に感じた)、これはもうサウンドデザインの話で。 四方八方からピュンピュン銃撃音が鳴り響きまくった『プライベート・ライアン』に比べると、本作『1917 命をかけた伝令』は主人公たちの心情に寄り添った音響設計がなされていると思うので、むしろメンデス監督といえばのトーマス・ニューマンによる劇伴が大きな影響力をもって「戦争追体験」ではない「普通に盛り上がるライド映画」となっているかと思います。プラスして、カメラの存在が嫌が応にも物凄い意識されるから映画に没入できない。 っていうかこだわり過ぎで有名な映画監督デヴィッド・フィンチャーが「あのじいさんはこだわり強すぎ」とさじを投げる程のこだわり撮影監督であるコンラッド・L・ホールに怒られながら仕上げた『アメリカン・ビューティー』(詳しくはDVDの未公開場面の解説音声をお聞き下さい。ホール御大が毒舌過ぎてメンデス監督が困り果てるという異常事態が発生してますよ(笑))の頃より、舞台出身だからって撮影にもこだわります! という姿勢が強かったサム・メンデス。 ホールが鬼籍に入っちゃったという事で、『ジャーヘッド』からコーエン兄弟作品で有名なロジャー・ディーキンスが撮影監督に就任。ちなみにどうでもいいけどジョージ・オーウェル原作の『1984』もディーキンスが撮影監督だ!(ちなみにメンデス監督作の『お家を探そう』はまた別の撮影監督だったりする)。 市街地の場面とか芸術度がヤバかったですね。照明弾が作る影が伸びたり縮んだり。『007/スカイフォール』そのままなのもある意味ヤバかった!(色とか) そういえばその夜の市街地で登場するフランス人女性と赤ん坊の場面は、「戦争映画で星の数ほど観てきた場面」であります。言葉が通じない異国の女性、赤子、しかも赤子がどこから来た子なのかも彼女は知らない……戦争映画あるある過ぎて一瞬ポカンとしてしまったのですが、メンデス監督としてはミルクをやりたかったのね。 たまたま逃げ込んだ建物に、たまたま女性と赤ん坊がいて、たまたまミルクという単語が理解できて、たまたま水筒に牛乳が入ってた。 冒頭の方で、手に裂傷があるから死体から遠ざけたけど、後から穴に飛び込んできた相棒が別の死体にビックリしてぶつかってきた拍子に裂傷がある方の手が死体の体内にズブリと入っちゃった。みたいな凶悪ギャグをかましていたメンデス監督ですから、「赤ちゃんは缶詰とか食べられない……ああ、ミルクがあれば」「ところが……あるんです」というギャグでもありますね。 というか川を流されたり(ちなみに川に飛び込む場面で、人物もしくは背景が途中からオールCGに切り替わる瞬間があるっぽいんですが、観てて違和感あったなー)、歩ける訳がない前線を歩いたり、相棒から「死から救い出す」とか言われたりジョージ・マッケイ演じるスコは、やっぱりキリストと重ねられてるんですかね。 それはそうと、この映画を観ていて1番凄いなあと思ったのは「人物の位置を入れ替える際の自然さ」ですよ。 前半は長回しスタイルなので、同じ画にならないように施されている工夫の数が半端ないんですよね。例えば主人公2人のどちらが前を歩いているか、というのを「ある程度マッケイ演じるスコフィールドが前を歩いたからここらでチャップマン演じるトムを前にもってこよう」という際の入れ替えの手際良さ。 基本的には「人を避ける為」にどちらかが遅れる事で入れ替えているのですが、2人の前を荷物を運搬する兵が通過するから並んで待っていて歩き始めると前後が入れ替わってる、とかいう小技も効かせてますね。 ほいでまあ、トーマス・ニューマンの音楽がとても良かったですね。この人は似ている事を恐れない。「この映画はエンタメだからジマー感出してね」とでもメンデス監督に言われたのでしょうか、半端ないジマー節が全編を覆っています。 そういえば、『アメリカン・ビューティー』の印象的なテーマ曲が少し形を変えただけで『ロード・トゥ・パーディション』や『ジャーヘッド』に使われたりもしていました(単に同じ楽器を使ってるって事なんでしょうかね)。 で、音楽が何故そんなに重要かっていうと、ドイツ軍が撤退した後の塹壕に主人公2人が侵入する時。ほんとに……いない……かなあ! と銃を構えて飛び出すその時、物凄いサスペンスフルな音楽が鳴り響いてるんですよ。 ハッキリ言ってこの映画は『アメリカン・ビューティー』や『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』などのドラマ的作劇ではなくて、007的に作ってます。だから『007/スペクター』と同じように飛行機が墜落して滑る場面があるじゃないですか。 それで、エンターテインメントを戦争映画で追求する事の意味ですが。 まあ、『1917 命をかけた伝令』を観て「大変な反戦映画だ」と感じる人はあまり多くないように思えます。何故かと言うと、スコがヒーローになるからです。 ここで言うヒーローとは、相手に銃を撃ちまくられても走ってれば当たらない人、という程度の意味ですが。要するに映画的なヒーロー。 ヒーローの条件として、スコはなるべく敵を殺したがらない人物として描写されます。 悲惨さが兵士の間で広まっている戦場から生還したという点と、「どうしても故郷に帰りたくなかった」と漏らした事から察するに、彼は人を殺した事を物凄く悔いている(あるいは故郷で人を殺したから戦地へ来たのか)。 兵士だから人の死に慣れてる、なんて事は無いわけで。どうしたって死にたくないし、同じように相手が死にたくないってのも判ってるし。 スコがトムより経験が豊富だというのも、この描写の為なんだと思います。トムはドイツ兵たちを「あいつら家に帰りたくないのかな」と不思議がります。 戦場から帰りたくないやつなんていない。 だから死体をいくつ見ても慣れる事が出来ない。みんな喜んで死んだわけじゃないから。死にたくないのに、殺されたから。殺したのは、俺もだから。 でもトムは口汚くドイツ人を罵っても、墜落した飛行機で生きたまま焼かれようとしているドイツ人をスコと一緒に必死になって助け出す。「楽にしてやろう」と言うスコ。「何言ってんだ! 水もってこいよ!」と返すトム。 ……戦争をしている状態が人間という生き物の普通の姿なのだと、割とよく見聞きします。縄張り争いとか、原始時代からしてたんでしょうから。 でも僕としては、徳弘正也の『新・ジャングルの王者ターちゃん』を読んだ時に答えが出てて。っていうか書いてあって。 遊びで人が死んでいくような格闘トーナメント戦において、主人公である野生児ターちゃんが言うんです。「動物だって自分と家族が食べる為に他の動物を殺すけど、食べる分以上に殺したりしない」 一部分ですが、このような内容です。そしてターちゃんは、自分が馬鹿だからこれ以上ちゃんとした説明が出来ないと言って泣きじゃくる。 この説明を聞いて、何故争う事が悪いか判らない人は、本当の馬鹿だと思う。 トムはその助け出したドイツ人に刺し殺されます。そしてスコはドイツ人を撃ち殺す。 その後の市街地の場面で、2人のドイツ兵をみつけたスコがどうしたか? トムのかたきだああああ! と鉛玉をたんまり食わせたか? 殺さなくて済むように手で口を塞いだんですよね。結局は殺す事になってしまうけれど、殺さない為にまず何かをせずにいられなかった。 直前に、狙撃兵を殺しているからというのもあります。市街地の美しい地獄巡りは、このドイツ兵の死体から始まりますから、この死がスコにとって物凄く重要な意味を持っているというのがわかる。 それと、最初と最後で草むらで大木に寄りかかる姿が映されます。 最初は眠っていて、最後は妻の写真を見て。 この眠りから始まる描写があることで、「戦争というフィクショナルな物」を物語る映画ですよという意味合いが強くなっていると思います。 大義名分とかないから――そういう事なんでしょうね。もう夢の世界、まったくもって現実離れした世界であると。 あのう、撮影も音楽も本当に素晴らしいし、エンターテインメント性を最重要課題としている点もとても良いと思います。でもなんとなく絶賛する程ではないかなあ、と思っちゃう。 まず、僕は戦争の中の美点を取り上げる物語が嫌いです。 戦地での友情とか(「俺はお前の為にこそ死にに行く」とかいう言葉を聞くと吐き気がします)、何十人救った勇気とか(「戦争という狂気に飲み込まれなかった男」とかいう言葉を聞くと吐き気がします)、多くの兵士を救う事となった奇跡の作戦とか(名将とか言う言葉を聞くと吐き気がします)、遠く離れた故郷で心をすり減らしながら大事な人の帰りを待ち続けるあなたやわたしとか(戦争なんてやんなきゃ待つ必要ないのにね!)。 99999999の惨たらしい出来事をどこかへおいやり、1の美談を取り上げる。 だからこの映画のラストもラスト。写真の裏に「帰ってきて」と書かれている場面で終わるのが本当に嫌だった。 戦争によって傷つけられたスコが、戦争の中で得た友情と、戦時中に殺すだけではなく女性と赤ちゃんの命を救った事で、故郷に帰る決心をしたという帰結ですよね? なんだそれ!? 戦争をどんなに格好良く描いても別に文句ないけど、「戦争から産まれた美談」は本当に胸がムカムカして仕方ない。戦争によって戦争から救われたんですか? これは、主人公スウォフォードがただの1発も撃てずに終戦を迎えるというサム・メンデス自身の『ジャーヘッド』よりテーマが後退してしまった感じがどうしてもするのです。 戦争は良くない……「とはいえ」。的な臭いがしてしまうんですよ。 と、文句ばっかり言って●付けてお終い! にしなかったのは、ジョージ・マッケイが大作に主演してるからよね。『はじまりへの旅』でヴィゴ・モーテンセンの長男を演じてた彼にハートずっきゅん。あの映画で1番格好良かったわ。 これからも頑張ってね。でもヴィゴ・モーテンセンの息子ってよりもマッツ・ミケルセンの息子って言った方がリアルよ。にほんブログ村映画レビューランキング
ごめんなさい、傑作です。スコットかっこいい。<a href="https://www.traileraddict.com/dark-phoenix/poster/8" target="_blank">https://www.traileraddict.com/dark-phoenix/poster/8上記HPより格好良いスコットの画像をお借りしています。○X-MEN:ダーク・フェニックス/DARK PHOENIX(2019)監督 サイモン・キンバーグ☆☆☆☆出/タイ・シェリダン、コディ・スミット=マクフィー、ソフィー・ターナー まず一番の問題ですが、ジーン・グレイ役のソフィー・ターナーですね。スコットかっこいい。どこが問題かと言いますと、メイクです。何が起きようと、どんなにボロボロになろうとバッチリメイク。すっぴんにしか見えないジェシカ・チャスティンとの絡みが多いので余計悪目立ちしてます。「あなたがしているのは銀河で最強のメイクよ」 あと気になるのがチャールズの行動ですね。スコットかっこいい。細かい点です。 例えば、ミュータント隔離法の是非が問われています、というテレビ放送を見ていてブツッとTVを消してしまうチャールズという場面があります。 これ監督的には「見たくない情報をシャットアウトするチャールズ」を描いているんだと思うんですが、観客としては「ただのエゴ野郎」にしか見えなくなってしまうんですよ。スコットかっこいい。 チャールズ・エグゼビアが自分の意見を曲げられない姿を描く、ようするに「シリーズをひっくり返す」展開が見物な訳ですよね。世間から受け入れられたのが嬉しくて、その事を第一義に考えてしまうようになった。 つまりは、お追従しているだけになったチャールズ。 人命を救うという名の下、自分にとっての大切な人たち=自分を大切に思ってくれている人たちの人命を軽んじてしまう。 スコットかっこいい。これ、凄いアイディアですよ(原作にあるのかも知れませんが)。何故なら、チャールズの中では矛盾せず同居しているからです。ミュータントが世間から受け入れられる=大切な人たちの安全=おれすげー=X-MENの私兵化=他者の為=弱い人々の為 チャールズの中では矛盾しないのですが、端から見れば「自分たちの立場を守る為により上の立場の人間に尻尾を振っている」状態ですよね。 そんなに必死になって得ているものが、「平等」に姿形だけが似ている「分断」なんですよね。 ミュータントと人間という分け方。スコットかっこいい。 いやいや、全員人間じゃんかよ。できる事が違うだけで。 そういう考えではなく、ミュータントと人間、この分け方にこだわってしまう。 ……いやあ、傑作でしたね! スコットかっこいい。 僕としては、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』こそ超えられなかったものの、それは相手が最高過ぎるからであり、本作はX-MEN映画として相当面白い作品だったと思います。多分シリーズ全部の中で2番目に好き(ちなみに3番目は『ウルヴァリン:SAMURAI』です。邦題がダサ過ぎて書く度に映画への好感度が下がるのが難点)。 デビュー作が2億ドル超の予算作品という恵まれた子らの監督サイモン・キンバーグが施す細かい演出とかすげー良いです。特に大気圏外でジーンと宇宙人が爆発した際に、他の人はまぶしくて顔を逸らすんですけれど…… スコットはその能力故にズッとしてなくちゃいけないサングラスのおかげで、自分が愛する人の最後を見届ける事が出来たというね……。悲しい場面なんだけど、ブライアン・シンガーが監督だった頃の映画版におけるスコットの扱いを思い出すだに、今回のキンバーグ監督のこういった演出は、なんか凄く救われる。 そうなんです。 スコット・サマーズが激烈格好いのですよ! もういちど言いますね。スコット・サマーズが激烈格好いのですよ! チャールズがオロロの心に精一杯傷を残そうとした(いや、お前来なくていいし)その時!「来てくれ。君が必要だ」 カッコイイ! かっこいいんですけどー! ビームを沢山撃つと、レイティングが上がる。そんな謎すぎるMPAA(アメリカの映倫)の仕打ちに対し、キンバーグ監督は「いえ、これが彼の個性ですので全力でビーム発射します。なんならピント合ってない背景でもビーム撃たせます」というX-MENが好きなんだものというミュータントパワーで対抗。実に格好良い。 それでまあ、価値観ってつねに更新し続けないといけないものだという難しい哲学を単純なストーリーに落とし込んでいるわけですけれども、その為かエリックとハンクの扱いが非常に中途半端になってしまいましたね(ハッキリ言ってハンクだけで良かった)。 エリックは軟禁状態(閉じ込めておけないから、政府が土地を与えて「そこ出ないならOK」としているっぽい。何故わかるかと言うと、軍隊が彼の元にすぐ来られるから)。 冒頭でチャールズがジーンの能力をペンに例えて「楽しいお絵かきも出来る。美しい芸術作品も生める。目玉に突き刺してパッと消す手品も出来る(失礼。このネタはライバル会社のネタだったね)。タラー♪ 使い方は君次第だ」 子供にとり非常にわかり良い比喩であるし、チャールズらしさ満点なんですが問題はこの次の台詞。「善い事に力を使うなら助けてあげよう」 ……お前が人を選んでるじゃないか。 自分で「授かり物(ギフト)」って呼んでるのに。ジーンが自分で欲しくて身につけた能力じゃないのに。それなのに。「私の言うとおりの人間になるなら、助けてあげよう」 そりゃね、人を笑いながら虐殺する人間になるよりも、笑顔で人助けする人になって欲しいよ。そりゃそうだよ。でも人の未来を束縛してはいけないはずだよ。どんな理由があっても。 例えばですけど、このチャールズの台詞って黒人に向かって「肌の色を変える手術が出来た。安全性は十分。だから白人になった君なら、私は全力で守る」って言ってるのと変わらないわけでさ。 そうじゃなくて、「良く知り合って、お互いがお互いの最高の人になろう」ってだけで十分のはずなんだよ。ついこの間ビルとテッドの映画シリーズを観たのでその影響下でこの感想を書いてるんですけども、でも、ジーンに必要なのはただ信じてくれる事とか愛してるって言ってくれる相手ですよね? だからレイヴンが死ぬ時ハンクに向かって「愛してる」って言うんですよね? 愛してるって言える相手が私には居るんだ、そう思って彼女が亡くなったから、悲劇であっても映画全体が暗くなり過ぎない。 だから、チャールズが自分が間違っている事を認める場面の問題は、自制の中で全ての発言をしている事。 ハンクはチャールズに「ごめん」って謝ってくれて、自分と一緒に今後どうやって問題を改善していくか考えようぜって言ってるだけなんですよ。チャールズが凄い好きなんですよ。 ニコラス・ホルトの名演もあって、彼がレイヴンの死に際しチャールズを責め立てる場面で明らかに「そんな事言うな俺。チャールズだって辛いの判るだろ俺。言葉を選べ俺」って心の中で煩悶しながら、むしろチャールズを責める自分をも責めながら言葉を吐き出してるのが伝わって来ます。でも言わなきゃいけなかった。本当の友人でしょうよ。 だからハンクがホテル前のアクションでなんだか全然画面に出てこない事に逆に戸惑いました。エリックが活躍するのでハンクはお休み、みたいな計算が鼻についちゃう。 で、この計算高さが本映画内ではチャールズから抜けなかった。「私が間違っていた」と大変高貴な感じで言うんですよ。 ……もう鼻水じゅるじゅるで「ごべんハンクゥ、ごべんなざいいいい、どじでいいがわがんないいいいい」ってやってたら映画の出来がもう一段あがったと思います(いやマジで)。 レイヴンが冒頭でキャプテン・アメリカになる場面がありますね。大変良い場面でしたが、これっきり感が凄いです。 最後はハンクが学園の新校長に就任して終わりますので、その前のどこかでハンクにもキャプテン・アメリカやって欲しかったところ。 結局このシリーズはハンクの能力を活かすことが出来なかった。彼の能力は「強い」であり、別に獣のように移動する事では無いと思うのですが、繰り返し繰り返し獣の様に移動する姿が描かれるだけで、アクション自体ではやられ役。 ハンク自身の「高い知能(X-ジェット作ってんのこの人だからね!)」と「高い身体能力」を組み合わせた技が観たいわけですよねこちらとしては。それってどうしたらいいと思いますか――?「子供たちの教育」という見せ場がもっとも適してるんじゃないでしょうかね? 子供だから、体育の時間にハンクの超絶体捌きとか見たら大興奮だし、超絶頭脳でわかりやすく数学を説明してくれる(チャールズもわかりやすいけど話が長い)。 学園だがくえんだ、子供たちのためだためだというこのシリーズですが、学園の活動がしっかり描写された事は一度もないわけで。 例えば、バスケットボールの時に瞬間移動出来る子が強すぎて試合にならないと。でも能力の使用を禁止するルールは遊びとはいえ、授業の中に設けたくない。どう解決をつけるか。こういった問題に立ち向かうハンクの姿っていうのがあれば、随分彼の印象も違ったんじゃないでしょうか(漫画の<鈴木先生>みたいな感じ)。 ちなみに僕が提唱する瞬間移動バスケへの対抗策は、相手の動きのパターンを統計として取って分析し次の動きを予測してくれる――そんなアイアンマンスーツを両チームに1台ずつ配しておくことです(使い方は生徒たち次第)! ハンク先生が著作権と技術的な問題を解決してくれるはずです! で、学園をしっかり描く事で「チャールズの事」もしっかり描けるわけですよ。彼の夢はこういう形をしていたのかって僕たち観客に見える形で提示する事が可能なわけですから。 子供たちの笑顔、先生たちの笑顔、給食のおばちゃんたちの笑顔(住み込み型だから必ず居るよね?)。 そういう描写をしておくと、チャールズが慢心を抱いてしまうのも仕方ない事かな、と僕たちも飲み込みやすくなるし。 もしくは逆に、生徒たちから大事な相談をされている時に「Ⓧ-MEN出動!」ってしちゃうとか、先生たちから「この給料じゃキツいっす」と詰め寄られている時に「Ⓧ-MEN出動!」ってしちゃうとか。「いや俺らがX-MENなんすけど……この会社超絶ブラックだわ……」 それでジーンの力の描写ですね。良かった点は、ヴィジュアルで説明するダーク・フェニックスのパワー(第2版)38ページに記載がある(笑)、惑星に生命を次々芽吹かせていく映像です。 破壊力スゲー! って確かに凄いのですが、破壊力スゲーはすでにエリックがいるので「うーん見た目が同じ」となってしまいます。 だから壊すではなく創る能力として描いたのは本当に良かった。 ただそれを実戦でも見せてくれー。 例えばだけど、足下の草がスゲー伸びまくって敵との間を塞ぐとか、これが一番やって欲しかったけど「誰彼の見境無くバリアーで守られる」とかね。誰彼の中には敵も含まれていて、列車がぶっ飛ぶ場面で全ての人がバリアに包まれる。全ての物も。木も土も鉄も。 ミュータントも人類も分け隔て無く? 分けたり隔てたりする物なんか端っからねえんだよ!!にほんブログ村映画レビューランキング
戦争という名のかいだん話<a href="https://www.firstshowing.net/2019/genius-second-trailer-for-taika-waititis-anti-hate-satire-jojo-rabbit/" target="_blank">https://www.firstshowing.net/2019/genius-second-trailer-for-taika-waititis-anti-hate-satire-jojo-rabbit/上記HPより画像お借りしています。○ジョジョ・ラビット/JOJO RABBIT監督 タイカ・ワイティティ☆☆☆☆☆出/ローマン・グリフィス・デイヴィス、トーマシン・マッケンジー「え、嘘でしょ? 戦争とかまだやってんの? え? ダサっ!」 という映画でしたね~。 人が死ぬ瞬間の多くは映されず(ラストでの現実の戦場とはという場面が始まる時に兵士が撃たれる描写ぐらいだったかと)、死んだとわかる描写はダサダサか間接的に描いています。しかし誰かを助ける場面は、本気で格好良く撮っている映画ですよ。 戦争とか、ただの人殺しなわけで。WAR HEROって大量虐殺者って意味がほとんどなわけでしょ? たまには『ハクソー・リッジ』みたいな人もいたかもしらんけど、だったら最初から戦争なんてしなきゃ良いだけの話で。「火器描写がスゲー格好良い」反戦映画や「内蔵グチョグチョでホラーファン大喜び」の反戦映画や「強制労働をマジカルに楽しく描写する」反戦映画とか。 どこかエンターテインメント。映画だからしょうがない? いや、知恵を絞ってないだけでは……。でも、でもね…… そんな戦争映画界に現れた『ジョジョ・ラビット』。 エルサが隠れ場所から出てくる場面でおもいっきりシャマラン監督の『サイン』を模したホラー演出で大爆笑させてくれたり(特に音楽に注目! マイケル・ジアッキノによるジェームズ・ニュートン・ハワード節が炸裂してます)。 未知の存在であるユダヤ人=子供にとっては宇宙人的な者として描く。 この未知の人々という描写は、ジョジョが戦場の真実を知る場面でも炸裂してます。 羊飼いの人たち、女の子、大人の女性、スーツ姿の男性、太った男の人、無邪気な子供たち……染み一つない格好良い制服に身を包み、軍靴鳴らして一糸乱れぬ行進をするナチスの勇ましき姿なんてどこにもない。 ユダヤ人について学んだ事と一緒で、全ては幻想に過ぎなかった。いや、嘘に過ぎなかった。 そしてその場にキャプテン・Kが何故どこからどうみてもエルトン・ジョンな感じの軍服に身を包んで現れたか。同性愛者が抑圧されまくっている時代へのカウンターとして「俺は現在同性のパートナーとラブラブ!」という訴えを声高にという意味もあるでしょうが(彼が左遷された理由は子供を怪我させたとか目を負傷したとかではないと思われます)、それ以上に「戦争の為にデザインされた服なんか馬鹿みたい!」という思いを込めているんですよ! だから最後に彼がジョジョが着ているナチスの制服という「皮」を剥ぐんです。キャプテン・Kは初登場時から子供たちの事を本当に懸命に考えていますよね(ロージーが首を吊られた後で、それを知った彼がジョジョを守る為に自転車かついで大汗かいて息を切らしながらジョジョの家に駆け込んでくる姿は本当に格好良い)。「ドイツは敗色濃厚!」と宣言して政府がつく嘘から意識を(ほんの少しにせよ)逸らさせたり、子供たちの憧れである銃を格好悪くおふざけまじりで撃って憧れを減じさせたり(ラストの方で機関銃乱射もしてますが、フィンケルと2人して明後日の方向に撃っている)、そして「戦争に行くとただでは帰れない」という現実を自身の視力を失った目によって真っ先に教え込んだ。僕は目力って本当にこういうことだと思ったんですよ。冗談じゃなくて。無い物を在ると言い張るのではなく、在ったけどもう無いんだと訴えている。視力を無くした目は、子供たちの未来を見据えている。 キャプテン・Kと彼のパートナーであるフィンケルの行動を観ていると、本当に優しさが溢れまくっていて嬉しい(ついでにケーキをあーんしてて微笑ましい)。フィンケルはジョジョに椅子を出してくれるし(またさりげないんだこれが)。キャプテン・Kは口さがなく「想像力豊かだな!」とジョジョの本を笑い飛ばしますが、口にされている言葉が心の内側を伝えているとは限らない。「お前は豊かな想像力を持っているぞ」と太鼓判を押されたジョジョがどれ程人生を変える事となったか(やる気を出し、調査をし、何が嘘かを理解する)。 小さな親切が誰かの命を救うことだってある。 プールではママのロージーが、ジョジョの額にべったり口紅を遺すキスをした。 ジョジョの顔に出来た傷がからかわれないように、「マザコンかよ!」と口紅に目が行くように。 人の美しさは外見だけじゃないけれど、外見って「見えてる」から大きな要素である事は否定できない。傷があればからかわれる、勉強して知識があればやり返したり耐えたりも出来るかもしれない、でも10才の時に馬鹿にされ傷ついた心が癒えるのにかかる時間はわかりようがない。だから予防線を張る。綺麗事だけじゃない。それでも中盤にあるジョジョが金属集めの仕事でロボットの格好をしている場面で、ヨーキーが「ジョジョー!」って声をかけてきますね。ヨーキーは一言も「ロボットの格好してどうしたの?」とか聞きません。彼が見ているのはロボットの格好をしたナチス党員ではなくて、ジョジョという友達だからに他なりません。ジョジョという存在を見ているんです。人種とか肌の色とかどうでもいい事は気にしないんですよ。 ジョジョはお母さんの靴紐を結べず、エルサの靴紐は結べました。 もちろん靴紐を結ぶ事は成長を表しています。 つまりこの映画は、お母さんの死でジョジョは成長しなかったと訴えている訳です。 人の死は、人を成長させない。当たり前ですよね? 生きて、あれこれ教えてくれた方が、一緒に居てくれた方が成長出来るに決まってる。死なない方が良いに決まってるんですよ。最後の方に流れる歌の通りで、「皆生きなきゃ。で、皆死ぬ。皆生きる。理由なんか知らないけどさ」 これって映画にありがちな、「誰かの死によって成長する物語」を否定してますよね。死から立ち直る物語とはまた違って、登場人物の死を利用する感じの物語を。 戦争を正当化するような思想は全てクソ! という主張の本作ですから、ナチスドイツ=ドイツ人クソ! みたいな主張は真っ向否定します。 救助に来た「アメリカ兵」がナチスの制服を着ているジョジョを見咎めて「ドイツ語」で怒鳴って来た際に、ジョジョは「言葉がわかりません!」と答える。 そして超ホットな、暖かくてあたたかくてやけどしてしまいそうなキャプテン・クレンツェンドルフはドイツ人で兵隊なので射殺されました。 言語や出生地なんて、設定でしかないんですよ。 ハリウッド映画だったらパリが舞台のフランス人たちの物語であっても英語で喋りまくり。『ジョジョ・ラビット』はドイツが舞台ですがアメリカ映画なので主な登場人物たちは英語で話していて、逆にアメリカ兵が「外国語」としてドイツ語を喋っている。 国の違いなんて、そんなもんなんですよね。 ↑という演出だと劇場で観た際には思い込んでいたのですが、ソフトで観直してみたらば……普通にソ連軍のヘルメット被った兵隊がロシア語喋ってたという赤っ恥。 階段が背景に使われる場面が多いです。 エルサの初登場時は「最高の人種である金髪碧眼のアーリア人であるジョジョが階段を転げ落ちる」という転落の始まり描写にもなってました(笑)。そしてその階段の背後の壁紙は赤い。 さらにママと恋愛談義する場面では、背景に巨大な階段が登場します。ここでは階段の背後は緑色の自然です。 なぜ階段なのかと言えば、見方ひとつでのぼる物にもおりる物にもなるからです。見方によって、その人の捉え方によって変わる物。 最後の場面で、外へ出たエルサと向かいあうジョジョ。自ら階段を1段降ります。相手より高い位置にいる為の段、自らの意思によりそこから降りることで成長をあらわす。のぼる事では成長をあらわさない。ただ相手と話しやすい位置に移動しただけ。ここでの背景は、玄関のドアです。人を招き入れる事も、人をはじき出すこともできるドア。世界と自分を繋げる事も、断絶する事もできるドア。 続くラストダンスは撮影の仕方がお見事! ザ・ビートルズの<抱きしめたい>ドイツ語バージョンから始まったこの映画は(あのザ・ビートルズのライブ映画みたいなオープニングでは、手をつなぎたいという歌詞のハンドの部分でヒトラーの手が映っている=徴兵の意味も持たせていた)、音楽の拍子を取る自由な手の動きで終わります。だから、最初に身体を揺らし始めた時には2人の手は画面の外にある。 ジョジョの手がフレームに入ってきてスナップ。 音楽が始まった! エルサの手もフレームインして動きまくる。 ヒトラーを戦争を死を不幸を賛美する為に動き方すら強制されていた、その手と手が自由に踊る様の格好良さ! なんて素敵にワーイティティー!!僕らの両手は、何に使うかなんて決められてない。※ちなみになんでオープニングでの楽曲がザ・ビートルズのドイツ語版なのかは公式伝記である<増補完全版 ビートルズ>などを読むとわかりますが、あの髪型あの服装になるデビュー前に仕事として滞在していたので縁が深いからだと思われます。そして、君の手を握りたい! と繰り返すこの<抱きしめたい>という歌は、とても素敵なラブソングです。2/9 追記 ロージーたちの首つり死体が晒されている場面において、家の屋根が数件分インサートされます。それぞれの家で、窓の出っ張りが2つ並んで人の目に見える……つまりロージーは近所の誰かに密告されたんだという演出ですね。 だからジョジョたちの家に連中が捜索しに来たんですよ。で、2人の子供たちは馬鹿が付く盲目的なナチス信望者だというのを確認して、思わず笑いやがるんですよ。「っちょ、オマw ママが薄汚い裏切り者でぶち殺されましたけど信じてまちゅねー。良い子でちゅねー。馬鹿でちゅねーw ママの事殺してゴメンネゴメンネー!」って。 キャプテン・Kはロージーが吊されたのを知ったから、ジョジョも殺される筈だと思って全力で駆けつけてきたんです。 そして、後にママの死を知ったジョジョはエルサにナイフを突き立てる。 ユダヤ人が諸悪の根源だと教わったから。 諸悪の根源を守ったせいでママが死んだから。 ナチスは善い者で……ユダヤは悪い者で…… 殺してやりたい程の憎しみをまとった刃は、服の一枚すら突き通せなかったじゃないか。 彼が彼女を愛してるから。 憎しみは愛より弱いから。 愛してる人の身体に、ナイフが届く訳がない。 ジョジョは周りの大人たちに守られ、大きく行動してはいないかもしれない(子供だから、とも言えるけれど、10歳や11歳でも武器を持って人を殺すのが戦争の当たり前。子供だからという理由だけでは行動しない説明にならない)。 でも彼は1番難しい事を能動的に行ったはずでしょ? 過去の自分が間違っていた事を知って、認めた。国という大きな存在が出来ないでいる事ですよ。国を動かしている大人たちがしないでいる事ですよ。 自分を変えるという、目には見えないけど物凄く大きなアクションをジョジョは起こしたんです。 で、僕は彼を守り続けた大人たちが本当に彼に託して望んでいた事ってまさにそれだと思うんですね。 自分たちの死を無駄にしないでくれとか、自分たちにも良くしてくれとか、この国の未来は君の肩に掛かっているとかじゃなくて、「なるべく善い人になりなさい。困っている人を助けなさい」って。 そもそも最初の方でジョジョは、年上連中の命令をはねつけてウサギを逃がそうとしたじゃないですか。怖くて出来ませんじゃなくて、「逃げろにげろ」って。 同調圧力への抵抗は物凄く勇気が必要です。だって人質にとられているのはその後の自分の生活だから。ウサギを殺さなければ虐められるのは確実ですからね。それをわかった上で彼はウサギを逃がそうとした。 そんな子だからママは諦めなかったし、いつか変わると信じ続けた。 ママを殺されるという物凄い罰を受けた子供が振り下ろすナイフを、エルサはそのまま受け止めた。 ウサギは殺された。ママは殺された。 最後に彼と彼女が得た「自由」には、どうしたって責任が伴う。もう守ってくれるだけの大人は誰も居なくなった。 これから。自由に生きて、いつか死ぬ。殺されないし、殺さない。 外はとっても危険だ。怪我もするだろう。 唾でもかけときゃ、いつか治る。にほんブログ村映画レビューランキング
映画狂たちの沈黙<a href="https://www.cinematerial.com/movies/parasite-i6751668/p/7g6inniz" target="_blank">https://www.cinematerial.com/movies/parasite-i6751668/p/7g6inniz上記HPより画像お借りしています。○パラサイト 半地下の家族/기생충監督 ポン・ジュノこんなこと言いたくないけど、これは観ないと後悔しますよ。出/パラサイトな金持ち、優秀な貧乏持ち、他。持ちつ持たれつでお送りします。※こんかいは無計画に書き並べています。読みづらいと思います(^_^;)。だってジュノ監督がパンフレットでネタバレしないでねってお願いしてるんだもの。でもそう言って自分は他の映画のネタバレかましてるという冗談でもありますが。なのでなるべく内容はボカシて書きましたが、ネタバレはネタバレですので観てない方はどうか読まないようにして下さい。お願い致しますm(__)m 数行間を空けて書き出してます……↓ お父さんが社長に聞きますね。「奥さんを愛してますか?」 これはお父さんが社長に出来る唯一の命令なんですね。何故なら社長は「ああ、愛している。もちろんだ」と答えるしかない……。「愛してますか?」という疑問形ではあるけれど質問ではなく、「愛してると言え!」と命令してる訳です。 どうしてかと言えば、お父さんも従業員である前に人だから「他人の目が気になる」社長は常識的な答え、そして何より自分の価値を高める答えしかしない筈なんですよ。 でも二度目に問われた時、社長は命令を突っぱねる。「お前は従業員だ」「お前は私より価値が低い人間だ」「お前は人か?」「お前は人間じゃないな。運転手という職業だ」(今日は就業日と同じだとお考えください) この社長は嘘つきなんですよね。「今日はテストドライビングとかではありません。気楽な外出です」とか言ってるくせに、手に持ったコーヒーの揺れ具合をチェックしまくっている。 靴下干してあります。洗濯物をなるべく日に当てる為に天井近くに干す、という文字にすると全然説明にならない状況の説明と、足に履く物より下に生活があるという二つの意味を象徴してます。 あと当然靴下だから、われわれ観客に臭いを連想させておく為ですね。 今作を観ていてボロボロ泣いてしまったのが、お金持ちの社長と奥さんがペッティングし合う場面です。「時計回りに!」 カメラが上からの視点で家族三人が隠れているテーブルを映していくのですが……テーブルのデザインが、上から見ると下に向かっていく階段みたいに見える模様であるという……その「下」に隠れている家族。「臭いが耐え難い!」 しかもその後の場面が、ひたすら下水と同じように下へしたへ下へしたへ駆け下りていく家族の姿……辿り着いた家は便所の水で溢れかえっている。 立ち小便野郎の小便が、家の中に侵入している。 奥さんは良い人、みたいな台詞が何度か登場人物たちの口にのぼりますが……お父さんを付き従えての買い物の際に、お父さんの存在が無いみたいな振る舞いをずっと続けてて感じ悪いと思って観ていると……歌うんですよ。電話している相手に聞こえるように、大きな声で歌う。周りに人が誰ひとりとして居ない時と同じように。買い物客は他にも沢山いるのに。人として認識してない。そして人として認識してない人が買い物に行く場所で買った食べ物を振る舞う「友人」一同の事も、もちろん大事に思っていない。パーティーへの参加という「仕事」を依頼する電話なのです。 清貧って言葉がありますけれど。日本では特にありがたがられている言葉ですけど。 貧乏って汚えんだよ! 仕事キツすぎて掃除とかしてらんねーの! でも仕事は他人の家を掃除する事なんだよ! ふざけんな! 社長たちとお父さんたちの共通項として登場するスマホですが……映画冒頭はお父さん一家が電波を探していますね。見えない物を探している。在ると約束されただけのモノ。契約。 そして携帯電話という物が発明された時、一般の仕事に従事している僕たちは会社に首輪で繋がれた。いつでも連絡がとれる。休みの日でも。 コンドームの個別包装が釘に刺してある場面ですが。開けたやつが刺さってましたね。妊娠しないようにコンドーム。しかも想像するに、移ってからの数年間で、一瞬画面に映っただけで数が数えられちゃうぐらいしか使っていない(捨てたとも考えられますが、ゴミ捨てなどある程度の掃除はしていたように見受けられるので、ワザワザ取っておいた記念品と解釈します)。ほとんどセックス出来なかった。体力、音、時間……全てを気にしないといけないから。 時を忘れて楽しむ、なんていうキャッチコピーは100万回見聞きしましたが、すでにそれは贅沢な事になってしまった。 そもそも時間なんて人間が勝手に作った概念なのにね。 パーティの場面ですが。 自分の子供だけを病院へ運ぼうとする人。 刺されてより重体な子がいるのに。 何故ふたりとも運ぼうとしないのか。 ……ふたり? 3人だ。 病院へ行く必要がある人はさんにんいるよ。 刺されたからもうひとり増えたよ。よにんだよ。 切られた人もいなかったかな。 必要な人は病院へ連れて行かなきゃいけないよ。 にんずう数えてる場合じゃないよ。 ポン・ジュノ監督の、ひたすらにエンターテインメントであるという点は譲らない姿勢は本当にスゲーな。 お父さんが下水で溢れた我が家から持ち出すのが、お母さんのメダルなんですよねえ。他に大切な物が無かったとかじゃなくて(それもあるかもしれないけど)、他人に誇れる物だからですよね。 お母さん、お父さんと結婚する為にハンマー投げやめたのかな。選手として一流だったのならコーチの仕事とかもあった筈だから……。子育て頑張ろうって事だったのかな。一生懸命幸せになろうって。 お母さんが夢を諦めても別に良いってぐらいお父さんの事を愛している証だから、お父さんはあのメダルを真っ先に持ち出すんですよね。多分。 自分、この映画に出てくる人たちが「基本」良い人、っていう風にはまったく思えないのですが、だからこそそれぞれの人たちが愛しいっていうか。金持ち側も含めて。 人の幸せや苦しみは本人でなければ計れないんですよね。だから息子を大事にしているという表現が家の中からセックスしつつ見守る、であってもそれがイコールで社長一家の家族愛の方が弱いとは言えないと思うんですよ。 テリトリーの中で、その領域の常識に照らし合わせた愛し方をそれぞれがしている感じで。 そしてこのテリトリーは縦構造で、上からは下が見えない。下から見上げる場合は見える。 リスペークト!!(をあなたはモールス信号で送れる? 僕は出来ません)blog.asianwiki.com/korean-movies/main-trailer-character-posters-for-movie-parasite上記HPより画像お借りしています。↑申し訳ないんですが、ソン・ガンホ氏はそろそろアカデミー賞とか取っておいて貰わないと、いつまでもいつまでも名作ばっかりに出続ける呪い(製作者へのプレッシャーみたいなもの)が解けないと思います。驚異的過ぎる。 でも名優という言葉の乱用は好きじゃない。スクリーンに焼き付けられた演技は様々な人の努力の集積だと思うから。 なのでソン・ガンホは名優。名優だなあ(*´Д`)ジカイサクハヤクチョウダイにほんブログ村映画レビューランキング
言葉に色は着いてない。https://twitter.com/greenbookmovie/media上記HPより画像お借りしています。監督 ピーター・ファレリー☆☆出/ヴィゴ・モーテンセン(太)とマハーシャラ・アリ(細)の天国二人道中 あの、スパイク・リーが噛みつきましたね。『グリーンブック』のアカデミー作品賞受賞に対して。曰く「俺は呪われてる!」(彼がアカデミーにノミネートされる度に白人運転手物に賞をさらわれる事に対して) で、これに対して噛みつき返す人が結構いましたね。スパイク、またかよって。 彼は白人が黒人に関する映画を撮ろうとするととにかく噛みつく(映画内にひとり居ればサベツシテマセーンの証となると白人が言ってる黒人キャラクターことマジカル・ニグロなんて言葉も生み出しつつ)。 で、お前だって『サマー・オブ・サム』とか非黒人主演の映画撮ってんじゃん! みたいな返しをされる訳ですよね……。 これね、最終的には(人類の終わりとかのスケールでですが)どの人種が誰をどう撮ったって構やしない、現代はそういう日が来ることを待ってるところって感じです。 例えばスティーヴ・マックィーンとマイケル・ファスベンダーのコンビは最高じゃんすか。黒人監督白人主演でこれからもぼかすか傑作撮って下さいよと思いますよね。この2人だけを観ていれば「ほら、噛みつく前に手を取り合うことも出来るよ」的な思いも去来します。 でもスパイク・リーがとにかく噛みついている事に意味はあると思うんですよね。 今までがそうだったし、今もまだそうである事柄に対して声を上げ続ける。人種っていう言葉がこの世にある限りは、スパイク・リーがとにかく噛みついている事に救われてるぜって人も大勢いる筈です。 僕はスパイク・リーでも何でもないですし、黒人でもないですけれど、彼が続けている事がどれぐらい大変な事かはなんとなく想像できる。「映画ファンからまたかよスパイクと呆れられる」「企画が気に入っても自分の立場を優先して断ることがある」「マスコミからはなんかイタい人扱い(新作が面白い場合は除く)」 自尊心すげえ傷ついてると思いますよ。 でも、隠すのが上手になった社会を変える為にはとにかく言い続けなきゃならない。被害妄想だなんだと言われても、映画という拡声器を持っている以上彼は責任を引き受ける。 頭じゃわかっているけど実行し続ける。いやー、格好良いわ。 冒頭。黒人の配管工が使ったコップを捨てるトニー。それを見つけて拾う、「賢明な」妻。 さて、これってトニーは凄い差別野郎って事なんでしょうか。 僕が観て感じた限りでは、彼は「黒人が使ったコップが何となく嫌」「周りの差別発言に同調して合わせる」な感じです。何が言いたいかっていうと、当時は多くの人がそんな感じなんじゃないかって事です。 それが自然な事だった。 差別というのが、全て土壌で醸成されるとは思っていませんが(言い換えればすべてを土地柄のせいにするなって事ですが)、時代やその空気(つまり政治)、歴史、友人関係や家族と言った要素が大きく絡んできますよね。だから……難しいんですけど……考えが偏ってしまう環境で生まれたならば、頭の中に差別が根付くのは避けられない。 でもそれは、変える事ができますよね。映画の中でも示されましたけど、学ぶことで変えられる。 言葉によっても。 差別って、まずは周りにいる人間の声から自分の中に入ってくると思うんですね(現代ならインターネット含めて)。近しい人の言葉は自分の中に沁み込んでしまう。染みって中々取れないもんですよ。 たかが言葉ではあるんですけれど、言葉って人の心を傷つける武器にもなりますのでね。それだけ強力。 だからこそ、この『グリーンブック』の中に力が唯一の解決策、という場面が含まれてしまった。トニーが銃を撃つ場面がそうですね。犯罪から身を守ったという理由付けと共に、「やっぱ持ってんじゃん!」というギャグとして描いて笑いも含まれていますが(マハーシャラ・アリのビックリしてる顔が達者過ぎる。この人完全なコメディもいけますね)、「銃を持っていて良かった」という暴力の肯定につながりかねない描写であると思います。 じゃあ暴力を振るわれて金を奪われれば良いんですか? という意見が聞こえてきそうですが、その前に警察呼んどけば良いんじゃないっすかね(警察沙汰避けたいのはわかるけども)。もしくは強盗の存在に気づいていたんだから、もっと時間を空けて車に戻るとか。暴力的に暴力をいさめるのではなくて、頭を使った解決がもっと出来たのでわ。 ――これ本当に難しいんだよ。被害を受けそうな方が努力しなきゃいけないのかって問題でもあってさ。そりゃそうなんだけど。う~ん、でもそこから距離を置く事ってできるでしょう。あえて立ち向かうのだってもちろん必要なんだけど、時と場所を選ぶっていうか、自分から死にに行くなよっていうか。僕がよく使ってる、話し合えば分かり合える、っていう考え方と矛盾しちゃうんだけどさ。でも死ぬより矛盾してる方が良いよ。 スタンウェイ用意してなかった差別的オッサンにトニーがビンタかます場面で、とっても陽気な音楽が鳴り始めたって、構いません。スッキリして、でもオッサンはデブで皆に笑われ、多分給料も低くて家では妻にけなされしてるんだろうな、と後で想像してみる。しっかり相手を見ていれば、それぐらいできるはずです。 相手を敬えって話ですが。知らない相手の事は敬えないわけで。尊敬の念を持って誰にでも相対するというのは、僕には難しく思えます。でも、気をつかう事ぐらいはできる。 例えば、普段差別丸出し発言を友達としてる奴ならば、公共の場ではそういう態度を取らないとか。エレベーターで誰かおならしたら、知らんぷりするとか。誰かの失敗を、笑わないとかさ。それぐらいならできるよ。誰だってできるよ。なんでできるかっていうと、それをすると相手が傷つくって事ぐらい判るからです。誰だって判るからですよ。自分だって傷ついてきたんだから。 だからそれを関係ない人への攻撃に向けてしまうんじゃなくて、たまたま自分と同じ場所に居合わせた人への気遣いに向けたいですね。 ジャンル分けされた他人ではなくて、個人として知り合えばきっと変わるはずなので。 さて、肝心の映画の出来ですが……。 始まって少し経った辺りから面白くなります。具体的に言うと、マハーシャラ・アリ扮するドナルドが登場する場面からです。それまではヴィゴ・モーテンセン扮する主人公トニー・ヴァレロンガの紹介場面な訳ですが、これが結構退屈。 酒場の用心棒、という文字で書くと恐ろしく格好良い仕事をしているトニーですが、自身が出世する為にマフィアのボスへ渡りをつけようと「クラーク(コートとか受け取る係)の人が本当に殺されるかもわからない」世渡りテクニックを披露します。 ……たかが帽子であんなに激昂しやがって、やっぱマフィアは頭おかしいわ。こんな感じの主張でトニーの行動を正当化しつつ(もともと残忍なマフィアだから何してもいい的な感じにしつつ)、世の中のルールについて描写していきます。 ルールの描写でもうひとつ大事なのは、トニーが自宅アパートの真ん前に駐車する場面です。彼はゴミ缶をひっくり返して散水栓に被せる。消防車のホースをつなぐ散水栓の前に駐車してしまうと消火活動の邪魔になる為、本来はもちろん駐車禁止です。 駐車禁止ってのはかなり明快で分かり易い社会のルールですよね。ルールに被せ物をして隠してしまう=世間的常識を無視する。 しかしトニーは世間的常識である、黒人を下に見る事に対して、思うところはあるものの(コップを捨てるまでに躊躇する時間がある)そのルールを破ったりはしない。 なんかこう書いていると非常に巧みにトニーという人物を紹介している感じがするんですけれど、全然作りが上手くないんですよ。 作りが上手くいってない事を象徴するように、「いつもと違うドッシリした構図」で映画全体をキメてる筈なのに、会話の際の切り返し編集が過ぎて(喋ってる人の顔が常に見えるようにしているので)結局チャカチャカ忙しなくなってしまっています。 ファレリー監督の良い点って、やっぱり脚本構成の巧みさ。特に伏線の張り方とか、いつもスゲー! って驚かされるんですけれども。 ところがどっこいで、今回はその伏線張りも微妙だし(後で出てくるってわかっちゃう感じ)、伏線を回収しているその瞬間も微妙です。ティッツバーグのネタとか何の意味があったんだよって。馬鹿話して仲良くなった表現だとは判るのですがね(他にも、知識が身についても振る舞いを変えないトニーって描写にもなってますな)。いつもならもっと上手だろ! って思っちゃった。やとわれ監督感漂う……。 まあでも、ドナルド登場の場面が最高だったからいいかな!? チャップリンの『独裁者』とかにあったギャグが登場しますね。余の椅子は貴殿より高い所にあるぞよっていうね。もう爆笑。トニーが面接に挑む直前にアジア系の人とすれ違うのは、チャップリンの運転手や個人秘書を務めた高野虎市をイメージしてるのかな(ちなみに質屋の親父がチャーリーって名前なんですよね。チャップリンの短編映画に『質屋』っていうのがあって、ユダヤ人をステレオタイプ的に描いています……っていう紹介のされ方多いので僕の頭の中でも組み替えられちゃってたけど、実際にチャップリンの『質屋』を再見したら別に言う程ステレオタイプみたいな映画じゃないよなあ。脚立を使ったハラハラドキドキの凄いギャグがあって面白いですよ)。部屋の中も象牙とかあって、金持ちの悪趣味な感じを強調してますね。ドナルドはドナルドで、首からぶら下げてるでっかい歯のアクセサリーが何の動物の歯なのか自分も知らねーという!ようするに、後半に説明されるわけですが、彼にとって居心地の良くない部屋なわけですよね。孤独を象徴する。っていうか無茶苦茶神経質な人っていう描写があるからわかりますけど、あんなに物が溢れてる部屋は嫌だよな! いますぐこの部屋片づけてえ、というドナルドの叫びが聞こえてくる! でも「人に馬鹿にされる謂われは無いぐらい金持ってる」という、考えれば考えるほど辛いアピールの為だけにゴテゴテと部屋は飾られ続ける。 でまあ、フライドチキンの骨を道路に捨てるのは土に還るからいいけど、ジュースの紙コップ捨てるのは許しません! という場面なんかで、ドナルドはルールを守る人という描写がなされてルールに目を瞑るトニーと対比されます。 この映画が非常にスノッブで鼻持ちならない感じで気にくわない僕ですが(頭良いのの何が悪いのか? 僕も答えられないですが)、この対比が非常に上手くいっているのはわかります。 ドナルドは男娼を買うわけで、結局人は誰であれ自分がルールに目を瞑る事には甘いんだという。 ルールを破る時に、真面目な人はルールを破る理由を持っていると思います。ドナルドだったら「孤独」だから男娼を買ってセックスしても「仕方ない」。 で、本作が糾弾するのは「差別」ではなくてこの「仕方ない」の方ですよね。 伝統だからとか、みんなやってるからとか、法律だからとか。 トニーとドロレス夫妻のベッドの上には十字架が飾られています。信心深い。イタリア系だしね。 でもこの映画内で神について言及しない。 神に助けを求めるのはみんなやってる伝統ですが、法律(ジム・クロウ法)や慣習を打ち破る為にはそんな事したって仕方ない。 一緒に車に乗っている人間を、人は傷つけられる。車から降りる自由? あるよ。でも目的地は何十マイルも先だよ! さて、ピーター・ファレリー監督と言えば「底抜けに明るい空模様」とかドギツイ下ネタとかが良く出来た脚本にのせられて物語られる作風ですが……『グリーンブック』では意識的に「真面目」な映画を作り過ぎて「メッセージ」を間違いなく観客に叩き付ける「ほぼ無味無臭」な映画を完成させてしまいました。 好きな方はごめんなさいよ。社会派とか、真面目とか、重厚な傑作とか……そんなんそれこそ皆が作ってる映画だよね? 途中でトニーがドナルドに言うじゃ無いですか。「お前さんだけのプレイを演んなよ」って。で、それを受けてドナルドが「私のショパンは私だけが可能なプレイだ」って答える。 早い話が「今回は王道ですいません」というファレリー監督の言い訳ですよね。 王道は悪くない。むしろ奇をてらい過ぎた映画の方が辛い場合が多い。それは僕もそう感じています。 でも車のトラブルで立ち往生している時に、農場で働く黒人労働者たちと目が合うドナルド……の姿に郷愁漂う音楽が被さって「ここポイントです。真面目に考えて欲しい場面ですよ」と強調してくるのはちょっとどうかと思った次第。 だってマハーシャラ・アリと労働者役の人たちの演技観てれば全部伝わってくるんだもの。「はいここポイント。テストに出すよー」って先生に言われなくてもちゃんとファレリー先生の授業聞いてましたから! 黒人酒場で弾くのがショパンの木枯らし。エチュードって練習曲って意味だそうで……。 練習曲ねえ。ショパン君、ちょっと校舎裏まで顔貸してくれる?(エド木はピアノ習ってました) 僕も実家にあったアップライトピアノであれこれ弾きましたっけ……猫踏んじゃった♪ ところでドナルドの演奏場面ですが、差別レベルの高い会場では「怒りを込めて弾く」といったような演じ分けがされていて非常に巧みですね。感情の乗った演奏場面を観ていると、マハーシャラ・アリはやっぱスゲーなと再認識。 単なる願望なんですけど、マハーシャラ・アリの吹き替えはトム・クルーズの声でおなじみの今は亡き鈴置洋孝が良かったなー。いまも洋孝VOICEで脳内再生されまくってます。 正しい綴り。 美しい文章。 ロマンティックな比喩。 ……どれもうっとりする様な手紙には欠かせない要素です。でも手紙を完璧にするのは、「子供らにブッチューしといてくれな」の語りかけなんですよね。 で、最後に「手紙ありがとう」とお互いに是非お会いしたいと思っていた2人が出会う訳ですが(どちらも大変嬉しそう)、ここへ至るまでの道のりがちょっと駆け足。 ドナルドがトニーに文章の指示を出す楽しい場面がいくつもあるわけですが、その前段階であるトニーの手紙を盗み見して彼の家族に好感を抱くドナルド、という場面がほぼ無いんですね。ちらちら気にしてるっていう描写はありますが、トニーの人柄がにじみ出る手紙をじっくり読み込むドナルドという場面が、文章を指示する場面と同じぐらい欲しかった。 ゲイは男と見れば手当たり次第、というクソくだらない思い込みと同じで、孤独な人だから家庭的な雰囲気なら何でもオッケーとはならない。当たり前の話ですが。 性格の合う合わない。友人関係でもありますよね。 で、ドナルドがトニーの友達になったのは、差別しなくなったからとか差別野郎から守ってくれたからってわけじゃないはずです。 ファミコン時代のクソゲーを「ここが直れば名作なのになあ」なんてブツブツつぶやきながらいつまでもプレイしている時と一緒なんですよ。「気に入ったから直して欲しい」であり「直してくれたから気に入った」では絶対ないんです。 だのにこの映画は、「あくまでトニーが主人公」という姿勢で最後に車の運転を交代する場面までトニー視点で描いてしまう。それでもトニー視点が徹底されていればそれで良いんですけれど、そのちょっと後でドナルドが自宅で孤独っていうトニーの視点を離れた場面があるんだもの! 結局スクリーンに映っているのは「変わる黒人」という事象であり、ドナルド・シャーリーという人じゃないんだよな。 この運転交代の場面ってさ、仕事での主導権が変わったとか、結局運転席に座る事になる黒人とかじゃなくて、友達のために夜を徹して車を走らせてるってだけの場面ですよ。 だから大事なんじゃないかよ。 この場面の前にある、警察に車を停められて云々が物凄い見せ場だとか小さな奇跡みたいに演出されてるけど、孤独な男が生涯の友を得たっていう場面になるはずの部分をどうしてすっ飛ばしちゃうんだよ。「トニーはもう運転できない筈なのに車が動いている、何故!!?」みたいなちょっとした謎のオチに使ってる訳ですけど、真面目に作ってます映画だったら変にサプライズ風に演出しないで真面目に作ってよ! あと字幕だけ追っているとわかりづらいのですが、どの蔑称を使っているかというキャラ分けもされています。ヴァレロンガ夫妻であればカラード。トニーにビンタされるおじさんとかはクーンを使っています。 クーンという言葉がどれぐらい侮辱かというのはテリー・ツワイゴフ監督の『ゴーストワールド』を観て頂ければわかるかと思います。 トニーの方もグリースボールとか呼ばれてましたね。 最後の場面は、トニーのファミリーがドナルド来訪に固まってしまう。でも間を空けて歓迎ムードになるというものです。 これって親戚たちから差別心が無くなった訳じゃなくて、トニーに気を使ったわけですよね。お前の友達なんだからって。 これ凄い大事だと思うんですよ。言葉を知る事と同じで、相手の事を知る第一歩になるから。 何となく嫌、を突き破る、かけがえのない一歩だから。 で、ドロレス事トニーの女房は「馬鹿」ではなかったという免罪符で爽やかに締めくくるんですが、映画のタイトルがグリーンブックってお前……「差別!」って書いてあるみたいなもんやぞ。 なんかパンフレットによれば、元々のタイトルは『Love Letters to Dolores』だったという事ですが、このトニーとドナルドが共作した手紙を題名としているのと『グリーンブック』では印象が丸で違いますよねー(ドナルド側遺族への配慮かもしれないけどさ)。 あとこれは技術的過ぎて正しく指摘できるわけではないのですが、Blu-rayで本作を再見していた際に「全然フィルム感ないぞ?」と感じたんですよ。ツルッとした画面でまったくざらざらしていない印象。 劇場で観た際にはそんな事思わなかった筈なので、Blu-rayソフトの作りの問題なのかも知れませんが……より人工度が高まっている気がしました。P.S.ファレリー映画と言えばの障害者たちが出演している場面はどこへ消えたの? 60年代には彼らはいなかったの?(意地悪な発言でスミマセン。でも気になっちゃうんだもの! 差別心は心の畸形って事なのか?)にほんブログ村https://blog.with2.net/link/?2015489映画レビューランキング
全てはCMであった。<a href="https://www.newdvdreleasedates.com/m3774/lion-dvd-release-date" target="_blank">https://www.newdvdreleasedates.com/m3774/lion-dvd-release-date上記HPより画像お借りしています。○LION/ライオン ~25年目のただいま~/LION(2016)監督 ガース・デイヴィス前半2/3は☆☆☆☆マジ凄い! 後半1/3は☆舐めてんのか!出/サニー・パワール(少年時代)、デヴ・パテル(青年時代)、プリヤンカ・ボース(実母時代) シリアスに描いていますけれども、やっている事はパソコンの前に座ってカチカチクリックしているだけです。それも数年間に渡ってですよ(というかなんとなくでも地名を覚えているんだから、Gから始まる土地を探すとかしなかったのか。というかインドに行かないまでもそういった事情の人の実親探しをしてくれるNGOにコンタクトとるとか……せめてメールするとかなかったんか)。ホテル経営を学びに(行くぐらいには頭脳明晰なんだよね?)大学へ行っていたけれど全て投げ捨てて、実の家族を探し求める。というお題目の下、気ままにのほほんぐらし(検索してる以外なにやってるかがまったく描かれない。というか義理の両親の金で食っているのは明らかでしょ)。 ――なんていう風に怒るのもバカバカしくなってしまう程に本作はCMなんですよ。 僕は話がパッと何年も先に進んでから、後でフラッシュバック的に過去を回想する映画があまり得意では無いんです。絶対にフラッシュバックし始めの現在に話が追いついてからの展開が面白くならないから(勢いも殺いじゃってるし)。 だから本作が、子供時代から丁寧にていねいに時間を積み重ねていく構成になっているのが凄く嬉しかったんですね。電車の中で叫んでる場面で突如「25年後」となってもおかしくないわけですから(人身売買は後でフラッシュバックさせる)。 そうではなくて、現在進行形の問題として描く、つまりは「物語の背景」としてインドの問題を使わない。サルー個人の体験として描く。この構成によって、サルーの苦労が物凄い身に沁みるんです。 それと、編集など映画ならではの要素が物凄かったですね。 冒頭の兄貴とサルーが石炭列車を追う場面とか、画面をよく見ると列車は物凄いゆっくり走っている訳ですよ、子供が飛び乗りますからね。でも列車の音は結構速く走っている音をあてているので、総合的な体感として「それなりの速度で走っている列車に飛び乗る子供たち」というものになります。 他にも迷った後のサルーが子供ながらに路上生活を送っている集団と出会いますが、その直後に子供らが人身売買組織によって拐かされます。その場面での地下道の撮り方とか素晴らしいですね。完全に迷路として表現しています(絶対に画面に奥行きを与えない。地下道だから先の方を映せば遠くに明かりがぼんやり見えたりして奥行き割と簡単に出せるかと思うんですけど、そういう画を徹底的に排している)。これはそもそも警察官が人身売買組織を招き入れていた、というオチと共にかなり怖い場面になっています。 その後一見親切そうなおばさんに、小児性愛者クラブへ売り飛ばされそうになったり……不幸版『スラムドッグ・ミリオネア』展開が続きます(いや、あっちも不幸な展開でしたけど)。 ちょっとピント合わせであれこれし過ぎな撮影には文句ありますけれど、先も言ったように編集も素晴らしいし演出も素晴らしい。電車の中でサルーが「助けてー」する場面のしつこさとか本当に最高です(状況設定の嘘くささが気にならなくなるほど。列車の運転手も2~3日の間飲み食いも眠る事も交代もせず走らせ続けたんでしょうかね?)。あと小児性愛者クラブから走って逃げる場面が直接実母の夢の場面に繋がった時も本当に素晴らしすぎてため息しか出てきませんでしたよ。 中でもとくに最高だったのは、グーグルアースで実家を探し始めてからの場面で、走る列車の車窓とパソコン画面が渾然一体となって、座ってパソコン弄ってるだけのサルーがまるで列車に乗って移動しているかのように感じられる編集! この編集は本当に凄い、凄い、こんなの観たこと無いもの。編集担当はアレクサンドル・デ・フランチェスキ。この方が編集を担当した映画はこれしか観ていないのですが、ぜっってー他の映画も観ようっと。ガース・デイヴィス監督も本当に才能溢れる…………なしてこの才能の塊のような映画が、最終的に宗教の宣伝になってしまうのか。いや、宗教の宣伝でも最後までしっかり傑作なら。そんな映画だっていっぱいあるし。しかし本作でニコール・キッドマンの正体が割れて以降の完成度急直下はただ事では無いのです。 そりゃね、どうして言葉が通じない子ばかり2人養子に迎えるんだろう? という疑問には、宗教ですねとしか考えられないので「まあ、熱心な夫妻なのだろう」ぐらいの見当はついてた訳ですよ(ちなみにガース・デイヴィス監督が本作の次に撮り上げた映画は『マグダラのマリア』)。 でも、映画はきちんとニコール・キッドマン演ずる義母は(ということはデヴィッド・ウェンハム演ずる義父も)宗教に狂っているという描写だけでなく、理由まで描く。キッドマンは10代の頃に父親から虐待を受け続けておかしくなり、幻視を得たと(ヴィジョンってやつですね)。「私には自分の未来が見えたの」という完全にどうかしてしまった発言をする事で、観客は深く納得いったと思います。 レイプされ続けて精神に異常を抱えてしまった義弟、彼を見ると自身の過去を強く思い出してしまって辛いサルーという為の描写かと思っていたら、ニコール・キッドマンも自身と重ねて辛かったという描写になっていた訳ですから。 この子供への性的虐待からの影響というのを、自身を傷つける行動という1つの記号を使って結びつけているのも、まあ反対意見もあろうかと思いますが、映画内の描写としては飲み込みやすくなってて良かったかと思います。 そして虐待された子供が大人になって、「自分が幸せな姿を他人から隠したい」とか「自分には幸せになる権利はないと思い込む」などの虐待あるあるがサルー青年期においての大きなトピックスになっています(パーティでルーニー・マーラがサルーといちゃつこうとすると「やめろ。家に帰ってから」ってとことかですね)。 で、ここで感じて欲しくないのが「とはいえサルーは義理の弟とは違ってレイプされてないから良かったね。マシだね」という。んなことはないわけで。人が抱える問題がどれぐらい深刻なのか、というのはその人にしか判らないわけですよね。だからなになに恐怖症とかいう言葉もあるんだし。何がどれぐらいその人を傷つけるのか、というのは計れない。 家族を失う事と、新しい幸せを見つける事がぶつかって生み出される罪悪感の大きさなんて、本人にすら判らないかもしれない。 だから怒りは弱者を食い物にする人間に向ける。弱者と弱者をどちらがより不幸かで比べない。 ……なんて真面目に映画を考察しているとですね、「義母の宗教観に触れたサルーが円の中という世間的常識のメタファーを外れた場所を探索し始めて速攻で実家を見つける。という奇跡」が映画の中で怒ります。間違えた、起こります。 これ、脚本が観客を馬鹿にしてるのと(今までのは何だったんすか?という憤りと)、ガース・デイヴィス監督の濃密な演出が同居していて「いったいこの場面をどう感じれば良いのか?」と心の底から混乱します。 そしてパッパとインドへ、ッスッスと実家へ辿り着くサルー。 ここで実母と感動の再会を果たしますが、その瞬間周りに沢山の村人たちが集っていて拍手するんですよ。『ラブ・アクチュアリー』のYESへの行進と同じ場面ですね(ルシア・モニスとコリン・ファースのエピソード)。でも違うのは、色々声かけていくうちに人々が自然に集まる、という場面がいっさい存在しない点です。本当に何の理由も無く集まってて、何故か拍手が巻き起こるんですよ。「えっ、あなたたち事情判ってる?」としか思えません! もしくは奇跡の再会という事でマスコミ入れてたのかな? かなかな? トドメに映画のラストはお約束! 実際の映像で攻め立てられるからもう~映画半ばまでの超弩級の興奮とか感動とか全てに『シラケタ~25分後のさよなら~』。https://www.ign.com/articles/2017/01/10/lion-review上記HPより画像お借りしています。↑この映画に熱狂した時間は何だったんだよと嘆いている筆者。 なんか悔しいから小ネタ書いときます。 パテルとマーラが道路の反対を歩きながら、お互いの動きを真似っこする場面ありますでしょ。あれはスパイク・ジョーンズ監督の短編をコピーしてますね(youtubeで見られます。タイトルのHow They Get ThereかSPIKE JONZEで検索してみて下さい)。ジョーンズ監督作品にマーラ出てますし、短編映画のオチもこの『LION』と繋がってきます。 そして相手を真似ると親切が得られるという反復描写でもあります。スープスタンドの兄ちゃんいい人だったなー。にほんブログ村映画レビューランキング
サーガはつらいよ お帰り Jさん<a href="https://www.comingsoon.net/movies/news/1110882-star-wars-the-rise-of-skywalker-dolby-poster-has-arrived?slideshow=133405#/slide/17" target="_blank">https://www.comingsoon.net/movies/news/1110882-star-wars-the-rise-of-skywalker-dolby-poster-has-arrived?slideshow=133405#/slide/17上記HPより画像お借りしています。スター・ウォーズ作品については、本作以外にもネタバレありますのでご了承ください。○スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け/STAR WARS: THE RISE OF SKYWALKER監督 J・J・エイブラムス☆☆出/「お兄様のライトセーバーです」 レイがレイアにルークの形見を渡そうとする。 レイアは「あなたがお持ちなさい」と諭す。 結局レイは「まだ準備が出来ていません」とレイアに渡す。 3分ぐらい後の場面でレイアがレイにライトセーバーを返す。 普通に受け取るレイ。 ……えっ。 C-3POの記憶が消える手順を踏まなければ問題は解決しない。「……最後にわたくしの友人たちの顔を目に焼き付けています」「R2-D2が何とかしてくれるんじゃないの?」「彼じゃ頼りになりませんよ」 すこし後で、何の問題もなく復活する記憶。 そして記憶が無くなったことも、復活した事も、物語には影響を与えない。 記憶が戻った事を喜び合う場面も無い。 ……ええっ。 ……脚本は、駄目なんだろうと思っていました。そして駄目だった。 徹底的に『フォースの覚醒』を否定したライアン・ジョンソン監督の『最後のジェダイ』。そこからJ・Jが復帰して後を引き継いだ段階で、TV畑出身だけあって商売っ気の強い作風だし、ファンから叩かれた『最後のジェダイ』路線からの「軌道修正」をする事は目に見えていました(僕はJ・J・エイブラムス監督は凄い才人だと思っています。『ミッション:インポッシブル3』を撮りあげた人だし。同じぐらい商才もあるというだけの話です)。 でもなるべく辻褄を合わせて、なるべくすり合わせもしています。フォースチャットとか、むしろ進化させて描く事で「『最後のジェダイ』の評価も底上げしよう」としているんでしょうね。ご苦労様です。僕はライアン・ジョンソン監督の映画が大好きだし、『最後のジェダイ』には凄く期待していました。でも、そこで提示されたのは「シリーズの否定」という割と暴力的な展開でした。 確かに血筋がどうのこうのな話ばかりだと「人間は所詮生まれですか」となりますし『フォースの覚醒』の、後半は特に焼き直し感が強かった(またデス・スターかよ感)から「えっ、スター・ウォーズなのに?」という展開も大歓迎したいところ。製作側にだって色々と新機軸を打ち出したいという気持ちはあって当然というか、それこそライアン・ジョンソン監督起用の理由でしょうし。 でも彼が『フォースの覚醒』をキチンと踏まえていたとしたならば、一般人どころか元ストームトルーパーだったフィンが将来的にジェダイになる可能性の部分とかまで何故黙殺したのか。エイブラムス監督がただただ「血統が大事」な物語りを作る気が無いのは『フォースの覚醒』の時点でハッキリと描かれていました。新たなる登場人物を通してです。『最後のジェダイ』を革新的スター・ウォーズとして絶賛される向きには拒絶される考え方かもしれませんが、続編映画を撮っているのにその映画シリーズを否定するって……それってジャンル映画の否定みたいなもんでしょ。ある程度のお約束の中から新しい面白さを見いだす事がそんなに悪いですかね。 そんな事情もあり、今作冒頭周りは非常に混乱しています。 突如登場する新アイテム(J・J印のマクガフィンだよ!)、レイの修行(2作目でやっとく筈だったのに……)、特に理由無く行動を共にしないローズ(ケリー・マリー・トランについては後述)、などなどなどなど。 でも1番思ったのは「J・Jちゃんと演出してなくない?」という事です。 例えば命を落としたレイに、ベンが自らの生命力を与える場面。レイが腹筋を利用して起き上がる→ベンが反対に倒れるっていう実にバカバカしい見た目なんですよ。 直前にあるパルパティーンのスペシウム光線を押し返している時のデイジー・リドリーの演技も、観ていて辛くなるほど気が抜けていた。ライトセーバーを構える腕に全然力が入っていないのです。一応あとで「うおお」みたいな叫びもあげますけれど、まったく真に迫ってこない(腹からじゃなくて喉から声でてる感じ)。この映画でデイジー・リドリーの演技が良かったのは、宇宙船爆発させちゃって「チューイ!」と叫ぶ場面ぐらいかなー。『フォースの覚醒』の何が好きって、演技ですよ! 出演者みんなの演技が素晴らしくてすばらしくて、観ていて本当に楽しいんです。特にデイジー・リドリーのくるくる変わる表情はいつまで観ていても飽きない。 それが……『最後のジェダイ』では全然表情が無くなってしまって、今回の『スカイウォーカーの夜明け』では多少戻りつつも、なんだかアクション場面とかでは特に精彩を欠いていました。『最後のジェダイ』に対してマーク・ハミルがぶちまけまくっていた「監督はルークの事を丸で判っちゃいない」という怒りの批判(後にディズニーに封殺された)。この怒りがデイジー・リドリーに飛び火しちゃった感じですかね……。 良いとこも書きましょうかね。 ハン・ソロ(ベンの記憶が作り上げた妄想)の再登場には泣いたぜ~。『フォースの覚醒』で一番好きな、ハン・ソロとレイアのやりとりの場面。「ジェダイ騎士のルークでも駄目だったんだぜ」「あなたはお父さんでしょ」 のやり取りが脳裏にフラッシュバックしましてねえ。うんうん。 いやね、この台詞聞いただけだってJ・Jの「ジェダイが絶対ではない。ひとりの父親の愛情がそれを凌駕する事だってある」ってメッセージがちゃんと詰まってるのに。『スカイウォーカーの夜明け』におけるハン・ソロの台詞が凄く感動的に響くのは、多分ベン・ソロが小さい頃に母親のレイアから聞いた両親の馴れ初め話の再現になっているって点。「その時お母さんは叫んだわ。愛してる! って。だってカーボン冷凍されたらもう二度とお父さんに会えないかも知れなかったから。そしたらお父さんはなんて言ったと思う?」「I KNOW……母さん何回その話すんだよ、知ってるよー(ニヤニヤ)」 みたいなやり取りが幼い頃にあったに違えねえ!! 他にも、霊体になったルークの笑顔ね。レイをあの島から送り出す時に、ニコって笑う。僕らの、多分マーク・ハミルの、待っていたルークの楽しい表情ですよね。 ハッキリいって『フォースの覚醒』冒頭字幕だけで何年ものあいだルークは人前から姿を消してしまう程に苦しみ続けています、という事実を掲示されて「登場人物にはなるべく幸せになって欲しい」派の僕としてはその時点でテンションがやや下がったのもあって、『最後のジェダイ』で二つの太陽見てるルークとか「どうでもいいわ」としか思えなかったんですね。だから今回彼の笑顔が大きく映される、というのは非常に嬉しかったです。 んでまあ、クリス・テリオ脚本ですが。 ライトセーバー1本ではパルパティーンには勝てない。では、2本あったらどうですかな……? ちょちょちょちょちょちょ、全然意味わかんないっす! ライトセーバーはあくまで道具です。武器です。脚本的にはジェダイを象徴するアイテムを合わせる=過去のジェダイたちの力が合わさる、みたいな表現のつもりなのでしょうけれど(幽霊たちがめっちゃレイを応援している)だったら今の演出じゃ駄目でしょ。 というか尾田先生の漫画(空島編)を読んでいるような「先祖! 先達! 亡くなった人!」をひたすら連呼する展開ほんとうに嫌だ。 ポーとフィンによる出撃前の演説とかマジでクソ。「先祖の為に! 死んだ人のために! そして何よりレイアの為に! 」 いやいやいやいやいや、未来の為じゃねーのかよ!????? 子供たちの為じゃないの??????? 自分たちの為じゃないの????? 誰かの名前を出して、その人の為に死にに行け!っていうのはレジスタンスじゃなくて政府がやることじゃないの?「レイ・スカイウォーカー」って名乗るのも本当に嫌だった。 あのぅ、ライアン・ジョンソン監督のシリーズ作品の取り扱い方は凄く嫌だったんですけれど、やろうとした事には納得しているんですよ。ただやり方が不味かっただけで。 だからジョンソン監督が離れた映画で、最後のさいごに「ただのレイです」って孤独も不安も感じずに誇らしく思いながら言うってはずのところが「レイ・スカイウォーカーです」ってなっちゃいましたけど、これなんなん? 家族って言葉が意味するのは名前じゃねえから! っていう台詞が途中にあるのに!(ファン離れ著しいフランチャイズ映画のタイトルに、どうしてもスカイウォーカーって入れたいからという理由しか思い浮かびません) どう~しても名字名乗りたいなら「ども、レイ・ダメロンです」「ちわっ、フィン・ダメロンだぜ」「っよ、ポー・ダメロンだ」ってなところに落ち着かないと「新」シリーズとしては駄目なんじゃないかな~。 もうこの捻りの無さは『ローグ・ワン』のラストカット以来です。あの映画は、全世界の映画ファンが「締めはレイアの顔で、希望ですって台詞で終わるんだろう」と思っていたら、本当にそのままのカットが来て終わりましたが……ライズ・オブ・スカイウォーカーと来た瞬間に「J・Jの事だからレイをスカイウォーカーの家系に含める感じにはしないだろう(っよ、LOST屋!)。よって最後の台詞はスカイウォーカーですだ!」と予想していましたら、本編冒頭で「レイはパルパティーンの血筋です」というネタバレがあって(スカイウォーカーの逆って事なのでね)、一気にしぼむ期待感。うおっ、スカイウォーカーですって言うのレイかよ……。 J・Jは日本のあのゾンビ映画とか観てないのかよ!(観てないよね)。 クリストファー・ノーランのあの戦争映画は観てるんだろうな(あっ、だから原題にRISEいれてんのか。映画の出来までRISESにならってしまったやんけ!)。みんかんせーん。 クリス・テリオはまあ製作過程が悲惨というのもあるんだけれど、『ジャスティス・リーグ』に引き続きだからなあ……せっかく『アルゴ』という輝かしい経歴が出来たのに『スカイウォーカーの夜明け』を観た後では「っよ、ラストミニッツレスキューしか能の無い脚本家さん」みたいな酷い言葉が浮かんできてしまいます。 あとランドなんだったんだよ!! 物語り上はまったく意味ないのに最後の決め台詞超格好良いから満点じゃん!! 何だよあれ「これから探そうや」みたいなやつ。こちとら凄いしらけきって観てたのに突如涙目になる程感動しちゃったじゃん! ちょいちょい酷い物語進行の中で特に酷かったのが、宇宙船爆破でチューイが死んだ→実は違う船だった(笑)っていう。チューイが乗ってるかどうかはフォースでわかんねーのかよ!! あとさ、デス・スターの残骸に凄い急いで行かないといけないけれど「波が強過ぎるから明日」な訳ですよね? 直後に普通に全員集合してんじゃねーか! 頑張ればいけるレベルなのかどうかぐらい確認して!! フィンがフォースの覚醒しそうってネタなんすけど……現状だと、都合良い感じにしか使われてなくて非常にがっかり。「なんでわかるの?」「感じるんだ」 のやり取りとかさ、もうパルパティーンにトドメさすの絶対フィンでしょ。フィンだよね? え、フィンじゃないの? ってフィン結局目覚めないんかい! いやまあ、文句が出るのはしょうがない。全方位的に満足させようとすれば、『最後のジェダイ』との矛盾も仕方ない(レイがルークと色々やり取りしてましたっていう事になっている点とか)。 問題はさっきも書きましたがラストバトルの演出です。映画内で「インディー風味も加味」しているのが、短剣が宝のありかを指し示したりする場面でも顕著ですが(刻まれている文字がシスの古代語で書かれてるっていうから古代の遺物なのかと思っていたら、第2デス・スター破壊後だから数十年? ぐらいしか経ってない短剣というね)、ベンが『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』よろしく地割れに落ちるんですよ。いったいいつハリソンがまた出てきて「聖杯は諦めなさい。カイロ」って言うかと思っちゃった。 で、J・Jはそんな事に気を回している暇があったのならば、突如として観念的になる世界観の描写をどうにかして欲しかった。 これってあれでしょ? キャスリーン・ケネディがライアン・ジョンソン気に入ってるから、こういう『最後のジェダイ』っぽい描写推しなんでしょ? 新・新・3部作をこれから作りますよってんで。 あの、これは『最後のジェダイ』の時も思ったんですけど、合わせ鏡みたいにずらっと並んでいるレイを映すことで己に迷っている事を表現する……というのは良いんですけれど「くどい、くどい、くどい」んですよ。場面として長すぎるんです。だってレイが己を見つけるのは最終章だって事がハッキリしてるんですから。 じゃあその最終章である『スカイウォーカーの夜明け』で観念的な事やったって良いじゃん、って訳でもなくてですね。 そもそも冒頭の字幕で急に出てきたパルパティーン。『007/スペクター』かよ! 「君の苦しみの原作者」ことオーベルハウザーかよ! 今までの敵の背後には常に私が居た系の、どう考えても筋が通らない理屈。 ジェダイ騎士みたいに霊体だけでずっと過ごしてれば何の問題もないのに、レイとベンから生命力吸い取ったら「あれ? なんか自分……受肉しそうじゃね?」っていう。そもそも肉体があるんだかないんだかすら判らないのは、ファースト・オーダー将校と機械で通信してるから。この曖昧さはエメリッヒゴジラが放射能吐いてるのか吐いてないのか曖昧過ぎて判らない感じを思い出しました。 それに、ころころコロコロしたいこと(A.K.A我が深遠なる計画)が変わるから、パルパティーンおじいちゃんは銀河支配の前に認知症予防!! って心の底から思ったかもだ。眼球も白濁してるから白内障の検査もせにゃ。 で、なんでパルパティーン再登板かというと、シスとジェダイの延々続いてきた争いを象徴させる闘いをさせたかったからですよね(スノークもライアン・ジョンソンに殺されちゃったし)。 だから歴代のシス(の亡霊なのかな)がずらっと並んでたわけだし、レイの背後には「ジェダイのみんな、オラのライトセーバーに元気をわけてくれ!」って事なんですよね。 銀河の人たちは? なんか民間船が助けに来たっていう事で、はいはい『レディ・プレイヤー1』ですね、スピルバーグ好きですねっていうか……えっ、駆けつけてきた人たちの顔を映さないの? 何で? っていうかいい加減「大事な部分はジェダイ」「他の問題はその他大勢」っていう姿勢こそを改めないと。 つまり、絶対的に必要だったのはパルパティーンが銀河の一般人に怯える描写なんですよ。一般人が駆けつけてくる事が象徴する、希望に。 自分たちは火花だって『最後のジェダイ』で何回も言ってたじゃない。『最後のジェダイ』好きじゃないけど、名も無い、力も無い、金も無ければ運命的な背景も無い人たちの心に灯る明かりこそが銀河に平和をもたらすものなんだっていう主張は凄く好きだった。 だからレイが勝利するのはジェダイの歴史故ではなく、人々が希望を取り戻したからであって欲しかったんです。 何ならお約束の花火で敵艦隊を攻撃する場面とかあっても受け入れられる。 もしくはもっともっとレイ個人の話に集約させてもいい。 歴史VS個人という図式ですね。「これはお前の闘い」だってルーク言ってんのにも関わらず、ジェダイ応援団にいつまでもいつまでも頼るJ・J演出。 ジョン・ウィリアムズの音楽もなー。どうにかならんかったかなー。まったく緩急が無いのが辛いところ。 思えば『スター・ウォーズ』1作目が終局で描いたデス・スターの破壊場面。機械に頼り切らず、己を信じて行動を起こす事。フォースがなんなのかは判らないし、武器が武器を破壊したという結果だけを見れば同じことです。でも、戦争の決着に若者の目覚めや成長が被さっていた。 比べると『スカイウォーカーの夜明け』では、武力と武力の押しくらまんじゅうのみがクライマックスになっています。 ライトセイバー(武器)の刃を消すという選択ではなく、刃を増やすという選択が戦争に決着をもたらす。『最後のジェダイ』で描かれていた「武器商人はファーストオーダーにも、反乱軍にも分け隔て無く武器を卸しているよ」という事実。『スター・ウォーズ』はEP1あたりの冒頭字幕とかで相当顕著ですが、かなり政治的な映画です。だからライアン・ジョンソンはファンタジー面の強化ではなく、現実のあれこれをスター・ウォーズ世界に持ち込むことに尽力した。 良い戦争なんてないですよ、と。 さて。本作の迷走振りが一番現れているのは、ローズ役のケリー・マリー・トランをどう扱っていいか判らないままに作品を完成させてしまった事。 いるは居るんですが、何故そこに居るのかまったく判らないんですよ。 彼女は整備士だったわけで、出番減らそうって事であれば整備の腕前がどうこうでレイとかフィンとかに信頼されて工房にこもってますみたいな場面を用意しとけばいい(トークに花を咲かせても良いし)。がっつりメインキャラクターとして活躍したってもちろんOK。 でも実際は、役割を与えられずにただ画面に映っている。まったく出さない、もしくはカメオ出演扱いにする、というのは出来なかったのでしょう。叩かれますからね。 こんなにフィクションの人物を愚弄する映画作りは無いだろうよ。 というかさ、1本の映画の公開に際してさ、現実に1人の女性が徹底的に傷つけられたわけじゃん。 守れよ! 映画の出来がどうとかこうとか、そんなレベルの話じゃねーだろこれは。 彼女を中傷しまくった連中がいかに間違っているか、それを作品や登場人物という形で示し返さなきゃ嘘だろ。『スター・ウォーズ』で傷ついた人をなんで『スター・ウォーズ』が守ってやらないんだよ! 昨今では、作品によって傷つく事がある、という面ばかりが取り沙汰されますが、作品によって救われたりする事だって沢山あるでしょう? 映画が誰か特定の人の為に何かやったって良いじゃんか。それでまたその事について文句言われたらディズニーが言えばいいんだよ。「うるせえ!」って。 ケリー・マリー・トランは美人じゃないよ。よく美人女優が不美人の女優についてコメントする時に「世間は彼女が美人じゃないなんていうけど、彼女は本当に美しい」とかなんとか言いますね。『スカイウォーカーの夜明け』がやってるのはこれと同じ事ですよ。馬鹿にする方に合わせて無理な言い訳して、馬鹿にされてる方の気持ちなんか知ったこっちゃないんだ。美人じゃないと映画で主演したり大きい役をやってはいけない理由はなんでしょうか? そんなもんねえだろ? ザ・ロックとかジェイソン・ステイサムは美人女優じゃ無いけど主演映画いっぱい作ってるじゃん。 ため息が出る美しさとか、そういうのにも価値はあると思うし、「俺ってなんでこんなにハンサムなんだよ……いやだなあいやだなあ」なんていう風に毎回美男子がパロディでなく真剣に悩むドラマがあってもそれはそれで嫌かもしれない。 美しい、美しくないという事実は確かにある。そこを否定してかかると擁護ではなくて論争の武器にしてるだけになっちゃう。 でも色々な人が観たいんだ。 人間も、宇宙人も。 せっかく宇宙が舞台なんだから、色々な価値観が見たいです。にほんブログ村映画レビューランキング
Merry MatriX-mens!!!<a href="https://bbfc.co.uk/releases/arthur-christmas-2011" target="_blank">https://bbfc.co.uk/releases/arthur-christmas-2011上記HPより画像お借りしています。○アーサー・クリスマスの大冒険/ARTHUR CHRISTMAS(2011)監督 サラ・スミス☆☆☆☆☆出/ジェームズ・マカヴォイ(サンタ役)、ヒュー・ローリー(サンタ役)、イメルダ・スタウントン(サンタ役)、ジム・ブロードベント(サンタ役)、ビル・ナイ(サンタ役)、アシュレー・ジェンセン(サンタ役)『インデペンデンス・デイ』の宇宙船は実はXジェットでプロフェッサーXの中の人が手紙書いてるんだけどそのお母さんがマーガレット・サッチャーで夫の声が『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』でサッチャー元首相の夫の中の人をやってた人でサンタがキューバ危機を引き起こしたって話してたら本当にキューバに墜落したというかそれも『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』ネタでエンドクレジットが『マトリックス』で…… いや書き切れねえよ!! アードマンスタジオは『ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!』(2005)を観たときも仰天してひっくり返る程に濃密な映画パロディを盛り込んでいましたけれど、今作も超濃厚。 とまあパロディネタを語りたい所ではあるのですが、本日はクリスマスイブですので、本作のクリスマススピリッツを話していきます。 一番良いのは「サンタ一家」が幸せになるまでの物語になっている点です。ちなみに一家にはエルフたちも含まれますよ(って事はウィル・フェレルも含むのか)。 エピローグには家族たちがそれぞれ描かれ、幸せですと一言添えられます。 そして本当にどこまでも緻密だなあと思うのは、サンタになったアーサーの姿が描かれない事。何故かというと、別にサンタという存在が幸せ運んでる訳ではないという映画だったから。他人の幸せを願う誰かがいるって事が幸せを運んでるんだよっていう。だからアーサーはタイトルにもなっている程に主人公ではありますが、彼がサンタになった事はまったく重要ではないんですね。 結構過激な描写が頻出します。サッチャー元首相は北極グマに襲われますが、これは北極という場所が本来到底人が住める場所じゃないという表現になっています。つまり、実際は無人だよと。 他にも長時間労働を強いられているエルフたちは、どうみても外国人労働者のメタファーになっています。エルフたちの多くが有色人種であり、LGBTQなどのマイノリティとして描写されているからです(Xジェットが帰ってきた場面をよく見てみてください。あとサンタ家長男の秘書エルフが暗闇で長男の手を握るというのも彼の恋愛対象に男性が含まれる事を示唆してますね)。 皮肉なのは、エルフたちは商品の質やクライアントの満足度などを心底気にかけているのに、経営者側の男2人はそんなの「構わない」のです。 サンタとは、この映画において権力側だという「レッテル」です。言っちゃいますとサンタ夫人がマーガレット・サッチャーなんだから必然的に政治家となります。 政治家が自己顕示欲に取り憑かれている。ベルトコンベアーで扱われる工業製品としてのプレゼント……。 ただ、プレゼントその物、つまり技術的な進化についてこの映画は受け入れるよう促しています。GPSしかり。 だからこそ、サンタのソリが「もういらなくなった遺物」と言われて爆破される。ここはハッキリと『カールじいさんの空飛ぶ家』でしたね。 でも直前に、古いもんだって活躍出来るぜ! という引退したトナカイと引退したサンタが大立ち回りを演じる。 自分の幸せは何より一番大事。それはそう。でも幸せになったら、他人の幸せも考えようよ。考えるだけじゃなくて、他人を幸せにしてみようよ。 クリスマスですねー!!!! あとエンドクレジットが『マトリックス』のマトリックスコードをパロディにしていますが、これはもう『マトリックス』ってのは「自分を信じる事」をテーマとした映画だからですよ! アンダーソン君が自分を信じてみるというアクション(行動)を起こすさまを描いた映画だからですよ。そして『インデペンデンス・デイ』を非常に大事に扱った映画でもあります。宇宙人ネタがやたらと出てきたり、ラストの大ネタも『インデペンデンス・デイ』パロディです。ウィル・スミスは地球を救いましたが、『インデペンデンス・デイ』という映画はひとりの女の子を幸せにしました。 ……そして本作は、カメラワークが素晴らしすぎる。 一人称視点までは行かないんですけれど、アクション場面をかなりの接写で映すんですよ。トナカイとトナカイの間にカメラがあったり、凄い迫力です。迫力と、スピードですね。空飛ぶソリとか出てきますが、引きまくった画でゆったりシルエットが月を横切ったりしません。 それよりも大気圏から飛出してイギリスの場所を確認する(というかこれも『インデペンデンス・デイ』ですね。ヒラー大尉が「こいつが夢だった」って言う場面)。もうね、時計とか映さないで直接太陽が昇るのを見せちゃうっていうね。もうね、どんだけ頭使ったんだすかね、この映画を製作した人たちは。凄すぎる。 テーマから言うと少女へのプレゼントが間に合う間に合わないは重要ではないので、間に合わないという結末も十分予想されるという緊張感! た、たまりません! クリスマス映画といえば『素晴らしき哉、人生!』を毎年観ていたのですが、今後は『アーサー・クリスマスの大冒険』で、レッツ・マゼルトフ!!! 今年のハヌカーは西暦だと2019年12月22日晩から30日晩ですよ!!!thefineartdiner.blogspot.com/2011/12/arthur-christmas-author-of-christmas.html上記HPより画像お借りしています。↑とりあえず最初の数行さえ判れば、サンタへ送られてきた手紙は全てソラで思い出せるという驚異の記憶力の持ち主。まさに『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』におけるイーサンタ・ハントそのものである。 オマケネタ。 おじいサンタがソリにイヴと名前を付けていますね。もちろんクリスマスイヴのイヴでもあるんですけれど、それよりも「男が車に女の名前を付ける」ネタですね。ジェンダー!!https://www.imdb.com/title/tt1430607/mediaviewer/rm1586398208上記HPより画像お借りしています。↑この冬、未知との遭遇を果たしましょう。にほんブログ村映画レビューランキング
不可能を超えろ。 名前って何? パディントンという名前をクマに付けても、その臭いは変わらない。 ――ウィリアム・シェイクスピア<ロミオとジュリエット>より誤用。○パディントン/MISSION: IMPOSSIBLE - PADDINGTON監督 ポール・キング☆☆☆☆出/ベン・ウィショー、ヒュー・ボネヴィル、サリー・ホーキンス 時間は逆向きには進まない。ギャスパー・ノエも『アレックス』の原題で不可逆みたいな意味を使用していましたね。 マット・ルーカスがタクシー運転手役でこの『パディントン』に出演していますが……彼は後年『ポーラー 狙われた暗殺者』において本作の役どころを観ていると「え、色々な映画をパロっていた『パディントン』だが未来の映画までパロディしてたの!?」と思えます。そんなこと思うのはヤバい証拠です。 凄く印象に残っているのが、バッキンガム宮殿の衛兵がパディントンを助けてくれる場面です。よく映画でも、何をしても微動だにしないというのをおちょくる場面が出てくる衛兵さんたちですが……基本ルールを壊す事なく、視線だけで「雨だから屋根のあるここにおいで」と伝えてくれたり、パディントンと同じように帽子の中にしまっているおやつを「明確にルールを破って(動いた上に脱帽して)」わけてくれたりですね……愛想とかではない親切心って言えばいいでしょうか、本当に素晴らしくて。このあとで別の衛兵さんがパディントンを追い出しちゃうのも上手なところで、人によって行動が違うのは当たり前という事のあらわれですね。 この場面を筆頭に、映画全体がこの間観た『500ページの夢の束』を思い出させます。 ミリセントは悪役ですし、初登場の場面なんかではドアがひとりでにギィーっと開いたり完全にホラー演出。……でも、この映画においては観客が完全に彼女を「許せない!」とならないように細心の注意が払われています。何故なら、いまの彼女を作り出した「不寛容」こそが本作の本当の悪役だからです(ちなみにミリセントは映画オリジナルの登場人物)。 ではどうやって注意しているかというと、はく製コレクションに血道をあげる彼女ですが、はく製を作る場面は直接的に映されません。最後にお猿さんに肥やしをぶっかけられるのも、「彼女がその命を奪おうとしていた、けど生きている動物」を映す事で、今まではく製にしてきた数々の動物たちの命よりも、今後はく製にされない動物たちへと意識を向けさせてくれます。 そして過去に囚われた女性という、ともすると現代的ではないと揶揄されてしまいそうな人物を描くにあたっての最大のアイディアが、キャスティング。ニコール・キッドマンがミリセントを演じていますが、彼女が演じる事によってミリセントが過去に囚われたキャラクターであればある程「現代的な強い人物像」が浮き彫りになってくるという仕掛けです。 説明しますが、ミッション:インポッシブルシリーズのパロディがたびたび出てくる映画です。そしてミリセント自体も、ブラウン家への侵入に際してミッション:インポッシブルシリーズのパロディを演じていますね。しかも最も有名なイメージである、宙づりを再現する形でです(見た目は『アトミック・ブロンド』ですが――)。 言葉を換えると、ニコール・キッドマンがトム・クルーズ役を演じている、という事になります。2人は元夫婦であり、どちらも有名な俳優です。しかし元旦那がメガヒットシリーズを抱えるドル箱のハリウッドトップスター(ちょっと過去形)であるのに対し、オーストラリアからやって来た「女優」であるニコール・キッドマンは当初クルーズの添え物的に扱われてましたね。 もちろん実力はあるので離婚後も役者として十二分な活躍をされてますが、どこかクルーズと結婚していたというイメージを引きずってきた。「だから何?」という。トム・クルーズのパロディを演じてみせる事で、過去に囚われていない現在のニコール・キッドマンという印象が強く残ります。 個人的にミッション:インポッシブルシリーズ(『フォールアウト』除く)が大好きな事もあり、なんというか……感動しましたねえ。 パディントンが掃除機を使って煙突の中を登っていく場面も大爆笑しました。『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』への細かすぎるオマージュが胸を打ちます。ちゃんと片方の掃除機が使えなくなって下に落ちてから、もう一方も使えなくなるという。パロディ的笑いにも満ちていますが(ちゃんと青と赤のバッテリー残量ランプが付いてる! ブルーイズグルー(青はくっつく)、レッドイズデッド(赤は死ぬ)。ついでに言うと1作目のグリーンライト! レッドライト! のオマージュにもなっていますね)、ロンドンに来てから知った物で窮地を切り抜けているという事実も感動的で。故郷や自然は確かに良いもんですが、遠く離れた街の文明だって良いもんだと。っていうか『スパイ大作戦』はアメリカのTVシリーズだしね! そして、亡きパストゥーゾ叔父さんの遺したパンにより絶体絶命のピンチを逃れる――のかと思いきやですね、あと一歩でミリセントは踏みとどまる。何故なら、亡くなった人に縛られている人に対して、亡くなった人が遺した物で対抗したからですね。 そしてそうやってハトたちの助けを得て時間を稼いだ直後、バードさんがキメます。鳥つながりですねー。そして『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』の監督もまた、ブラッド・バード(Brad Bird)という名前なんですよ。恐ろしい程の符合。っていうかトム・クルーズはミッション:インポッシブルの最新作はポール・キング監督に頼んだら良かったんじゃないか? 冗談はさておき、鳩と言いますと「ロンドンでは鳩をかき分けながら移動しないといけない」みたいな記事が存在する程に「数が多くて迷惑な存在」であるわけです。 そしてミリセントという過去に生きる亡霊とパディントンという移民にまとわりつく事から、戦禍の表現なのかなあ。うーん、むしろ移民の人たちそのものっていう表現かもしれないですね……(食べ物を求める、迷惑がられる、などなど)。 移民の問題ですと、やはり各国メディアで大きく扱われる事は少ないんですかね。あまり僕もイメージができないので、チャップリンが監督した短篇作品『チャップリンの移民』や最近だとマイケル・ウィンターボトム監督の『イン・ディス・ワールド』など映画の画面を通して連想しました。 それとCGの超絶クオリティには言及しておきたいです。実在感? って言うんでしょうか、パディントンがそこに居る感じが半端なさすぎて、鑑賞中にはCGの出来が凄いとかまったく意識しないんですよね。これには美術も凄く関わってきてて、ティム・バートンがもうちょっと実用的なデザインを求めたらこうなったみたいな感じなんですが(笑)。とにかく現実そのままではない面白い背景の数々で、なんと言いましょうか、地球丸ごと作り物の世界で出来ているみたいな。だからその中にCGで出来た生物が居ても違和感を抱けない。加えて、冒頭にクマばかりの時間がたっぷり用意されているのも勝因かな。ここで見慣れさせちゃうという。関係ないですけれど、冒頭からしばらくのモノクロ映像部分とか(しかも冒険家出てくる)、万引き犯追跡の際にパディントンが空飛んじゃうあたりが『カールじいさんの空飛ぶ家』を思い出させます。 さて。マイケル・ボンド原作という点は、Blu-ray版特典映像にて製作陣がしっかりと解説してくれます。 ベン・ウィショーも熱く語っていましたが、パディントン誕生の背景には戦争があり、英国として移民を受け入れるかいなかの問題があったと。受け入れるとしてもどう接するのか。戦争してても3時の紅茶を欠かさなかった、みたいな逸話も有する英国ならそんなん楽勝でしょ? ……などという甘い夢は、駅のホームで瞬く間に潰えてしまう。人が移動する為の場所であると同時に、誰かを迎えに行く為の場所だのに。 通り過ぎていく足、足、足……。 ところでハイヒールって、接地面積が少ないからクルッと向きを変えるのにはもってこいですね(バランス取るのは大変でしょうが)。 そしてもちろん、その靴の色は……赤い。 おうちがいちばん、おうちがいちばん、おうちがいちばん。 しかし、そのブラウン一家が住まうウィンザー・ガーデン(Windsor Gardens)ですが、ネット地図でロンドン市内を探した物の見つけられず。パディントンに関する土屋(2019)の論文に依れば、これは架空の地名という事です(ウィンザー家を連想させる事から、そのまんまの意味で王家の庭=イギリスそのものとも取れる)。 それと同論文からですが、映画内でカリプソを奏でるバンドがいますが、これはロード・キッチナー(Lord Kitchner)作曲の<London is the place for me>という曲を弾いているとのこと。ロンドンに期待する移民の歌になっているそうです。参照文献土屋結城「「べとべと」のこぐま――移民表象としてのパディントン」実践女子大学文学部紀要、第61集※以下のURLで公開されているhttps://jissen.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=30&item_id=2065&item_no=1にほんブログ村映画レビューランキング
自伝的映画の皮を被った至上のエンタメ作品!https://www.firstshowing.net/2019/full-trailer-for-noah-baumbachs-outstanding-marriage-story-film/上記HPより画像お借りしています。○マリッジ・ストーリー/MARRIAGE STORY(2019)Netflixオリジナル作品監督 ノア・バームバック☆☆☆☆出/アジー・ロバートソン、アダム・ドライヴァー、スカーレット・ヨハンソン『イカとクジラ』の核心的なネタバレも含まれています。 というわけで、ノア・バームバック監督がついにさりげないセンスの良さを捨て去ってですね、ド直球エンターテインメント作品を作ってきたぜ!(だから上映時間は監督作品中突出して長い)。 まず、カップルの破綻を描きますが「明確に男側が主人公」である。比べると可哀想ですが、わざわざ2本の映画に分けてまで視点の違いを出そうとした(そして出なかった)『ラブストーリーズ』を筆頭に、とにかく男女を平等に可能な限りバランス良く描く映画が増えてきている気がします。一番の理由としては、「その方がセンス良く見えるから」だと思います。「えっ、男女同権だからでしょ?」という向きもあるかと思いますが、だったら「女性側から描いた映画」でいいわけで。何故なら男側を描いた映画は腐る程すでに製作されてきたからです。証拠に、ちょっと女性がメインどころになると「女性映画」なる言葉が冠せられてしまう。 いつかは。女性監督特有の繊細な感性とかいう言葉が古語になったら、誰しもが自分の性なんか気にしないでバンバン撮りたい映画を撮れば良い。女性監督、というのが「宣伝上の売り」にならない日が来たら(その意味でウォシャウスキー姉妹には凄く期待しているんですが……新作がマトリックスの続編かよ!?) でもまあ、その日が来るまで「男女同権シネマ」は作られるでしょう。男側の都合で。 さて、話がずれてしまいましたが「イングマール・ベルイマン良いよね」の人であるノア・バームッバック監督が、もろに『ある結婚の風景』をやってみました! というそれだけ聞くと微笑ましい企画なんですけれど、実情はバームバック監督が間に息子をもうけたジェニファー・ジェイソン・リーとの離婚劇で受けたダメージを元に描いたそうです(ベルイマンは言い訳)。なので男側視点なんですね。 そしてこの映画の特徴としては、離婚話しが進行している状態から物語が始まる点です。最初っから男視点でスタート。 で、これで監督が何をしたいのかと言うと、「主人公」を決定しておきたいわけですよ。よく群像劇に対する批判として「誰に感情移入していいか判らない」というものがあります。なので、バームバック監督はこの映画が持つルックを決めた。夫側から描いた物語であると。 それによって感情移入する対象で混乱させない。ただしこれは夫側の肩を持つとかいう構成ではなくて、映画が進行していくうちに家族皆を好きになります。そして好きになるから、辛い。この観客が抱く辛さこそが、離婚につきものの感情であるというね。 それと映画が明確なクライマックスを持っているのも、エンターテインメント性を高めていますね。夫婦が延々怒鳴り合う場面がしばらく続きますが、はっきりと演技的な見所ですよ! というのがポイントになっています。 逆にバームバック監督らしい場面で言うと、チャーリーが調査員の前でうっかり自分の腕を深く切ってしまう場面なんかがありますね。調査員の人の凄く達者な演技もあって、この場面全体がなんというか、シュール劇? 非常に切迫したリアリズムを持った場面設定(父親としてどうかというのを知らない人に採点される)に、ヒリヒリする緊張感を伴うんですが、むしろチャーリーが所属しているような前衛的劇団の演目の様に見えてきます。 それでまあ、本作で監督が描きたかった事は多岐に渡っていると思いますが、制度としての離婚もそうですよね。 ローラ・ダーン演ずる弁護士がニコールを誘導する手管。あなたは一方的な被害者、あなたは夫を憎んでいる、全てあなた1人の功績……。(1年間セックスレスであれ)チャーリーが不倫していた事が最大のきっかけであった筈なので、確かにローラ・ダーンがいたから離婚まで行き着いたという訳ではない。訳ではないのですが、ダメージを拡げたのは彼女を筆頭とする弁護士たちですよね。 やり手っていうのは相手を傷つける事に躊躇無い人の事で、いささか不器用でも家族が受けるダメージを最小のものにしようとした弁護士は除外されてしまう。人と人とのやり取りではなく、法的にどうかだけを争う世界。 ローラ・ダーンとレイ・リオッタがやり合う場面の嫌な感じ。裁判官の言う「あんたらは凄い弁護士なんでしょうけれども、本法廷の時間を食いすぎ」という言葉からも判るように、人の話なんか聞いてない。攻撃材料か否か、という線引きをされる思い出。 この法廷の場面でニコールも、チャーリーも、己に対する恥ずかしさで満杯になりまともに顔も上げていられない。そしてこの法廷での出来事を、ついに2人が再現してしまうのが本作のハイライトである延々と怒鳴り合う場面です。 一緒に時間をかけて築いてきた思い出や、お互いが相手を深く知って理解している事などが全て攻撃材料になる時。自分を1番傷つける事が出来る人は、自分を1番愛している人なんだとわかる。 そしてチャーリーはもうひとつ理解する。ニコールの家族との過度な馴れ合いがいかに彼女を傷つけていたか。親の問題に苦しんできた自分が、妻が親の問題に苦しんでいる事にすら頭が回らなかった。 チャーリーが何を食べるか中々決められないので、ニコールが彼の好みの食べ物を代わって注文するという場面があります。彼女が彼の事を良くわかっている、という場面ですがもうひとつ。彼は自分の事が判っていない、という場面でもありますね。 離婚は決定的な別れであるし、裁判は憎しみ合う理由を2人に与えた。無い方が良かった事かも。でも、離婚を通じて得たのは――いかにお互いが愛し合っていたかという「新しい」事実。 愛だけじゃない、家族であったという過去は、それでも、これからも、家族なんだという力強い事実。 だからこそ本作は、愛よりも、より家族についての映画になっているのだと思います。 そんなわけで、息子のヘンリーについてですけれど。 彼の態度の数々については、本作を観て推測するよりもバームバック監督作の『イカとクジラ』を観ると一発で理解できると思います。 あちらでも「インテリ過ぎて上手くいってない(という言い訳をする)作家の父親」と「最近人気が出てきた新進気鋭の作家である母親」の離婚劇に巻き込まれる子供たちを中心に描いていました。アーティスト通しが結婚している間に立場が変わってしまいフラストレーションを抱える事になる……というのを描いているのも『マリッジ・ストーリー』と一緒ですね(というか『マイヤーウィッツ家の人々(改訂版)』もそうだったな……バームバック監督が心配になるぜ)。そして『イカとクジラ』では、父親を尊敬する長男、母親が好きな次男という子供たちの描き方に最大の特徴があります。それは終盤逆転する。長男が何故父親の事が大好きで尊敬しているのか? そうしないと両親の夫婦仲が上手く回らないからだと。自分だってママっ子だったんだと。『マリッジ・ストーリー』は離婚から得られた建設的な描写もありますが、『イカとクジラ』はひたすらに離婚地獄でした。 これって、『イカとクジラ』はバームバック監督の両親を元にしていて、『マリッジ・ストーリー』はバームバック自身と元妻のジェニファー・ジェイソン・リーを元にしているからなのかしら? この、問題ある両親に対して物凄い比重が置かれている感じがバームバックテイストですかね。 ランディ・ニューマンの音楽が、「既存の曲がごとく知っているような雰囲気満点の書き下ろし新作劇伴」であるというのも凄く上手くて。知っているようで知らない、というね。 それと夫婦がお互い別の時間、別の場所で喉を披露する場面が用意されています。妻は明るく「あの男はクレイジー♪」、夫はしっとりと「孤独は孤独でしかない……♪」。この2つの場面の違いだけをもって「勝者、ニコール!」とは出来ませんが、現在の立ち位置を絶妙に表していますね。 そして旦那の方の歌を聞いていると……女房への恨み辛み的にも聞こえますが、それ以上に「人生の邪魔をされる。寝るのも邪魔をされる。好きな椅子にも座れない。僕は地獄に突き落とされる」という言葉の数々が、「でもそういう事が幸せなんだよ」と訴えているようで。「やりたい様にやれない人生が、寝たい時に寝られない事が、相手に気を遣って座る場所を決める事が、物凄い頭にくる事をされる事こそが」孤独ではない証だと。 どんなに固い結び目も、知らないうちに解けている。 もう一度結べば良い。 自分で結んでも良い。 結んでもらっても良い。 大事なのは歩ける事。 今とは別の場所へ、行ける事。 映画のラストは、家族3人がそれぞれの成長をみせています。 ニコールは母親との関係を修復したし新しい人生も始めた、ヘンリーはだいぶ文字を読めるようになってきた(大事に取っておいた、ママがパパを好きな理由が書かれた紙だって読めるようになったよ)、そしてチャーリーは……元妻に背中を押して貰うのを受け入れられるようになった。「行ってらっしゃい」「行ってきます」 これは家を出るときのやり取りですね。最後に靴紐を結んでポンッと行ってらっしゃい。ありがとうっと行ってきます。にほんブログ村映画レビューランキング