○THE BATMAN-ザ・バットマン-/THE BATMAN(2022)

監督 マット・リーヴス

☆☆☆

出/ロバート・パティンソン、ジェフリー・ライト、コリン・ファレル

音楽 マイケル・ジアッキノ(ジアッキノはいつだって最高!)

 

 はい、というわけで……『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』に対して絶賛大激怒中のおっさんが『THE BATMAN-ザ・バットマン-』の感想を書いていきます。

 まずですね……いや、とっても良い存在の映画だと思います。 今までのバットマン映画とは違う風にしようとしたうえで一定のクオリティーに達していて、ちゃんと面白く観られる。

 もうこのハードルを越えている時点で一本の映画として大成功なわけですけれども、監督のマット・リーヴスを全然評価できない筆者としては、「『ザ・バットマン』もマット・リーヴス映画の一本に過ぎないっちゃ過ぎない」という感じです(好きか嫌いかで言えば好きですが)。

 良い存在と書いたのは、この『ザ・バットマン』のおかげで将来のバットマン映画に結構道が開けたなと思ったからです。新しい監督が挑戦的な作風にしてもきちんと大ヒットするという実績を作ってくれたからですね(でも大ヒットし過ぎてしばらくはこの路線が続くんでしょうが)。

 思ったのは、どんどん新しい監督や役者でバットマン映画を色々作ってみても良い時期になったのではないだろうか、という事です。本作も満足感を与えてくれる重要なバットマン映画である事は間違いないですが、そういう下地作りも同時にしてくれたなあ、と。

 だから尚更あのオチはいらねえ! そういうとこだぞリーヴス!

 

 リーヴス監督に軽く触れておきますが、まず長編デビューの『クローバーフィールド/DASAIKARAYAMERO』は、そんな面白くないけど部分的に面白い(というか自由の女神の首が吹っ飛んでくる場面嫌いな人いんの?)。

次いでのリメイク映画『モールス』はオリジナルである『ぼくのエリ モザイクで台無し』が結構好きな映画だったのでどうなるかと期待しましたが、まあ同じ物をコピーで観てもなあって思わされただけ。

 そしてついに、ルパート・ワイアット監督の大大傑作『猿の惑星:創世記』の続編である『猿の惑星:新世紀』を撮りあげました!

 ワイアット監督帰ってきてえええええええええ!(泣)

 創世記に惚れ込んでいたのもあって新世紀の出来が結構ショックで、完結編の聖戦記を未だに観ていないという状態にまで追い込まれてしまいました。

 新世記も部分ぶぶんは良いんですよ。ゲイリー・オールドマンとか。でも、力業過ぎんだろ! という脚本作法が目に余る部分が結構あって……。

 そして今回の『ザ・バットマン』に到達します。脚本はマット・リーヴス監督とピーター・クレイグ。ピーター・クレイグは力業のお話進行が過ぎてそういう作風な気がしてくる『バッドボーイズ フォー・ライフ』の脚本を書いている人みたいですね。(なるほど納得!)

 

 今回の『ザ・バットマン』は、徹底的に「不殺」を描写します。オープニング付近のジョーカーメイクの不良たちに暴力振るう場面においても、直後にやられた不良たちが立ち上がって「さーせんっした、失礼しまっす」って感じでカメラの外にはけていくという面白映像をわざわざ挟んでいました。バットマンは恐怖の象徴! みたいな場面が連続している中でですよ? だからこの描写は、「ダサくなってしまっても入れておく必要がある」絵面なわけです。

 観客が一瞬たりとも「バットマンだって人殺してんじゃん!!」と思わないように。

 何故かと言いますと、『ザ・バットマン』が描くものが「人ひとりが死ぬこと」の影響であり、人の死を通して「生きていく事」をも描き出すからです。だからバットマンはセリーナに何度も「自分を大事にしろ」って言うんですよね。今後も人生は続くんだから、と。

 愛、なんだけどLOVEとはまた違った愛情。

 で、この愛を描くにあたってマット・リーヴス監督は聖書を参照しています(ねー、洪水も起きてましたねー)。希望の灯りを掲げて民を率いるバットマンの絵面を観た時は、「なんか説教臭え映画だな」と思っていた筆者も膝を打ちました。「臭いんじゃなくてマジで説教してたんだ!」と。

 お説教したい青年の物語、という事で『タクシードライバー』並みに自分の日記を音読してましたしね!

 

 さて、『ザ・バットマン』の劇中で2回流れてテーマソングになっているニルヴァーナの『サムシング・イン・ザ・ウェイ』です。

この歌の歌詞は、

 

 ♪動物はペットにして~、

 ♪草は育てて~

 ♪でも魚は食べる~……だってあいつらには精神なんてねえかんな!

 ♪う~んもやもや~。

 

 みたいな感じです。『ザ・バットマン』における「視点を変えると正義の形も変わる」というのに合わせた選曲ですね。

 そのテーマを如実に表した場面が、筆者が『ザ・バットマン』で一番好きな「リドラーとのやり取りで一言も言い返す事ができずに黙ってるしかないバットマン」です。

 俺と同じで孤児だって言うけど、あんた腐るほど金あったんだから俺よりよっぽど耐えやすかったでしょ? 苦しみの量は違くない?

 っていう、ちょっと聞いただけだと、なる程正論って思っちゃいそうな事をリドラーが言うわけですよ。その人がどういう性格の人間なのかどういう境遇なのか、今の精神状態はどうなのか、といった点をきれいさっぱり無視した物理的な面だけをみた意味のない台詞ですが、遺産なんてどうでもいい! とか言いつつ遺産を使いまくってリドラーを追跡していたブルースには響いてしまう。金だって大事なんだよ。(さらにセリーナにも似たような事を言われてしまう)

 で、こういった素晴らしい場面だっていくつもあるのですが、ちょっとテーマと相反してしまっているなと思ったのは、殺されてしまったセリーナの恋人に関する描写です。

 情報として登場して、主人公とヒロインを引き合わせた直後に死んで、彼女の人となりはまったく描かれない。完全にお話を進めるためだけの役なんですよ。お話を進めるための「死」なんですよね。探偵映画っぽさを出したいから車のトランクに死体とか、やりたい事はわかるものの、ちょっとテーマに反してるんじゃないかな。

 別に時間かけろって言ってるんじゃなくて、例えばセリーナが「あいつは風呂が長すぎてさ……」とか語る部分がちょろっとあるだけでも印象は違ったと思う。

 他にも話を進めるだけの場面と言えば、セリーナがピーター・サースガードから情報を聞き出す場面。いや聞き出すって言うか、べらべら勝手にサースガードが喋るんだけど(笑)。こういう場面昔からあるし、昔からあるからリーヴス監督はこういう場面にしたんでしょうけど……逃げんな! って言いたい。

 映画の雰囲気づくりのために古い映画の数々を参照にするのは良いんですけれど(映画ファンとしては凄く楽しいし)、人の命のやり取り、あまつさえサースガードにしてみれば自分と家族の命がかかった与太話を、3秒前に会った女性にペラペラ大声で喋りますかね? 喋るとしたら、殺される前にせめて若い女とセックスしたい! というのが理由でしょ? そこもほんのりとしか描かないし。なんか現状だと、ピーター・サースガードがただの馬鹿にしかみえない。どれぐらい馬鹿にみえるかというと、「どう考えてもこれは、マフィア側の罠に違いない」と早や合点した筆者が、そのまま映画が進んじゃうから話の筋を見失いそうになるぐらい。

 確かに、映画という文化の中では、「よくぞここまで辿り着いた」から教えてくれたり、「死ぬ前に真実を言え」とにっくき主人公に言われたら何故か教えてくれたり、「死んでも言うもんか!」って言ってたのに平手打ちくらわしたら教えてくれたりする人が沢山います。

 いますけど、それは映画という「ファンタジー世界」でのお約束なわけですよ。少なくとも「リアル」に「僕たちが住む現実世界」に寄せて作った映画であれば、そういったファンタジーな場面が登場する余地なんかないはず。

 ていうか、主人公に対しての壁なわけですよ、情報をいかにして得るのか? っていうのが。今回の『ザ・バットマン』は探偵映画なんだから。その壁が薄くて低くて軽々飛び越せるぐらいのものにしか見えないから、バットマンやセリーナがたいして努力せず情報に辿り着いて見えるんですね。

「真実を言うぐらいならこのまま死ぬー!」っていうサースガードの姿をみて、僕たち観客は「じゃあ酒かっくらってペラペラ大声で秘密を話さなければよかったのに」と思っちゃうんですよ!(あと『SAW』かよ! ジグソウかよ! とも思った。リーヴス監督のオリジナリティの無さは今後の課題よなあ)

 

 そしてやはり語っておきたい、ロバート・パティンソンどうだった? の話です。

 なんというか……良くわかんない、というのが正直なところです。

 場面としても繰り返しが多い映画で、特徴的な演技みたいなものも(もちろん監督の演出で)封印されているようです。だからポール・ダノの演技も別に面白くなかったし、コリン・ファレルのペンギンも……いや、コリン・ファレルのペンギンはめっちゃよかったな! 完全にロバート・デ・ニーロだったのには笑ったし、喋り方もすげえ面白かった。オシッコ漏らしてるのにも感動した。

 でも、特にロバート・パティンソンはバットマンでいる時間がかなり長かったし、バットマンでの演技に何かしら特徴があるわけでもない。かといって良くないな~って思う演技が出てくるわけでもない。

 なんか、演技に関しては不思議な映画だったなあ、と今でも思っています。

 

 そうそう、ダサくてもちゃんと描写するシリーズが本作にはいくつか見受けられます。

 最初に書いた、ぼっこぼこにされた不良たちがすごすご退散する場面もそうですし、バットマンがカウル(マスク)を脱ぐと目の周りに黒い縁取りがバッチリ残ってるとかね。リアルリアル言ってたクリストファー・ノーラン版でさえ黒い縁取りはうやむやにしてカウルを脱いだらメイク落とし済みだったのに、リーヴス偉い!

 そして白眉のダサ映像といえば、バットマンがビルから飛び降りる場面ですよ! ムササビみたいなスーツでビューって滑空するんですが、その時の映像がどうみても「背景だけの映像を先に撮った物にバットマンを合成している」って感じなんですよ。で、大事なのはリーヴス監督がこのダサさをわかってやってて、ちゃんとコメディ場面になってるって事です! パラシュート開いたら歩道橋に突っ込んでバスにぶつかって道路に落ちて、マントない状態でひいこらひいこら歩き去るバットマン――の直後のカットが、バットシグナルの横で超絶カッコいいポーズ取ってるバットマンなんですよね(笑)。しかもちゃんとマントしてんのよ(笑)。

 で、このバットマンがビルから飛び降りるジャンプのくだりは凄い楽しんだんですけども、ラストのバイクに乗っているバットマンの顔アップも何故か同じノリの合成映像みたいになってるんですよ……ラストカットだぜ? 大丈夫?

 

 触れずに終われない音楽担当マイケル・ジアッキノの話。

 えーとまずはそうね……久しぶりに、ヒーロー映画にわかりやすいテーマ曲をつけてくれましたね!! これは嬉しかった。最近テーマ曲ない感じの映画多かったから。

 監督がいち要素にとどまらない探偵映画を目指して、『セブン』を参考にし(バットマンとゴードンが懐中電灯持って2人で捜査する場面とかモロですね)、恐怖を感じる怖い映画に仕上げた――に付けた音楽が(『大アマゾンの半漁人』とかの)ユニバーサルホラーかと思うめっちゃ大仰な音楽(ジャンルは違うけど、ティム・バートン監督作品でハワード・ショアが音楽を担当した『エド・ウッド』とかを連想してもらうと判り良いと思います)。

 そしてテーマ曲は、ぶっきらぼうに親指を鍵盤に叩きつけるようにして弾いたかのごときピアノ音が中心に据えられています。これが、ただ暴力で力任せにしか出来ないバットマンをあらわしてもいるし、怪奇映画っぽさや探偵映画っぽさの底上げに物凄い貢献している。

 そしてまあ多分後でそういうエフェクトを加えているんだろうけれど、ピアノの音を安っぽい録音機材で録音したような音になっているんですよ。音の広がりがなくて、ひずんでいて、ピアノの前にテープレコーダーを直接置いて録音しましたみたいな。これももちろん、完成されていないバットマンの表現ですね。

 

 あとどうでも良い事なんですけれど……

 コリン・ファレルはマーベル『デアデビル』のブルズ・アイだし、アンディ・サーキスもマーベル映画の2作品でユリシーズ・クロウを演じていました&『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』の監督さんでもある。

 マルチバース!! マルチバース!!

 

 さらにどうでも良い事なんですけれど……

 本作の劇場用パンフレットから草団子みたいな匂いがするんですよね。何故だ(´・ω・`)。誰か『ザ・バットマン』のパンフ買った人で同じように草団子のにおいする人いないかな?

 

 最後に……

 なんか恐怖だ恐怖だ、暴力的だって散々公開前は煽られましたけど、やっぱり暴力に恐ろしさを抱く程の描写にはなっていなかった。何でもR指定むけの生々しさが良いわけではないけれど、本作に関しては少し残念に感じました。

 それよりもコロナ禍において、「UNMASK」っていう言葉をキャッチコピーに入れてるのが一番過激に感じましたとさ。

 おしまい。