小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」 -46ページ目

小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」

「ガード下学会」「横丁・小径学会」活動の報告および、予定などをお知らせします。

大阪でのできごと

大阪環状線の南端「天王寺」駅で、難波利三の『てんのじ村』に登場するニカちゃんに出会いました。ニカちゃんは、平日、北新地でハーモニカを吹いているとのこと。でも北はビジネス街。土日は人が少なくなるため天王寺駅前に移って吹いているそうで、目の前には菓子詰めの缶がおかれ、道行く人はニカちゃんのハーモニカを聞き、その缶からに小銭を入れていました。
この話、某新聞社の記者に話したところ「天王寺の前やろ。目の前が動物園で。そこ、変わった人、集まるところや。片一方だけの靴売ってたり、飲みかけの薬売ってたり」とのこたえ。
ほんまかいな!(この大阪弁あってます?)
でも、飲みかけの薬には、「オッちゃん、それ飲みかけやろ」と突っ込むようで、話は吉本の芸人のように一件落着?
あとから考えると、いろいろ地域性もあって、こんな話もあるんでしょうね、と妙に納得しました。

通天閣にどうやって登るかわかった!
先週から名古屋―伊勢―京都―大阪と、各地で取材し、夕べ東京に帰ってきました。
これらは、基本的に「横丁と路地」の取材。それと、近代建築の撮影、それにガード下ネタの再確認。それらに加え、今回はちょっぴり観光を兼ねた大坂城見物など。大阪のことがわからなけりゃ、大阪ネタの原稿も書けない、というのがその理由でした。
今回、大阪ネタで大きな疑問だったことの一つ、通天閣の下は素通し。じゃ、大阪の人たちは通天閣の上にはどうやって登っているの? というのが、小生の密やかな疑問でした。それが、今回は解決。通天閣は本当に目の前にまでいっても、通路の先、両側のビルの間からそびえ立っていて、途中の展望フロアまで上がる道筋が見えません。ところが、右手のビルの奥、つまり、通天閣の右隣には塔が建っていて、そこから、横に通路が延び、展望フロアに入れるようになっていました。こりゃ、妙案! 手前のビルまで含めた設計になってる!


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-通天閣


右手のビルの奥に通天閣に入るための塔が建っていています。ただし、この一般的なアングルでは現れません。ここまで、設計者の内藤多仲は考えていた? 


本郷菊坂を進むと左手に肉屋さんが現れます。ここで「菊坂コロッケ」を購入。立ち喰いできるように(?)一つ一つ袋に入れてくれて、店の前でほおばりました。時間は午後3時過ぎ。昼でもなく夕刻でもなく、という中途半端な時間帯であったにも関わらず、温ったか~い。それをほおばると、サクッとした食感。次いで、ほどよい大きさにカットされたじゃがいもに美味しさを予感させられたのち、じゃがいもを漉し、味付けられた食材がとろ~りと口の中に広がります。みなこのコロッケで満足! 美味しいコロッケをつくってくれるお父さんとお母さんに感謝!
この肉店をあとにもうチョット菊坂を進むと途中から上道と下道に分かれます。この上道と下道に挟まれたエリア(家一軒分の幅)、江戸時代の切り絵図を見ると、「明地」および「アラツ」、つまり未使用の荒れ地であったことが判ります。(菊坂の名称は、このエリアで菊を栽培していたから、という説もあるそうです。小生は、その当時生まれていなかったので、真偽のほどは判りませんが)
下道はかつて、下水が流れていたところ。このあたりが、本郷台地と真砂台地がぶつかり合った谷間で、左手の真砂台地の上は坪内逍遙が住んでいたことで知られていますが、明治時代の地図を見ると、華族さまがあちこちに住んでいたこととが判ります。その旧真砂町(現・本郷4丁目)の上へは炭団坂から。
急な階段の炭団坂を登り切ると、崖下の街並みが一望。暗く、湿気た空気があたり一面を覆っています。この下町の風景を逍遙たちは見下ろしていたのでしょう。
崖下の街並みは、水路を伴った下道を表道路にし、表側に住居。その住居と住居の間に路地を通し、両側に長屋を列ねる。奥には共同井戸を配置――これが町屋敷のパターンで、その町屋敷が現在も並んでいます。
この崖下には、一時期、樋口一葉が住んでいました。もともと一葉は、本郷台地の山の上の生まれ。本人も現在のお茶の水大学付属小学校に通ったこともあり、兄は現在の明治大学を卒業し、財務省に勤めたという家柄。まあ、決して、不憫な生活をしていたとは思えませんが、家督を継いだ兄が病死し、そこから生活が苦しくなったようで、ここ本郷台地の下、菊坂の長屋に暮らしました。ただし、数年後には、下谷での生活を経て、お屋敷町の西片(菊坂から数分のところ)に移り、そこで短い生涯を終えています。
「横丁・小径学会」は、この一葉が住んだ町屋敷を探訪。現在、皆さん実際に住んでいる方がいらっしゃるので、静かに、静かに訪問させていただきましたが、そこに新たに二人づれが訪れたため、奥の鎧坂へ待避。そこで、一葉の長屋について解説していると、さっきまでの二人ずれが一緒に参加して、話をうなずきながら聞き出しました。これはよくあるパターンで、大学のフィールドワークの公開講座などでも見知らぬ人が途中から話に参加する方が現れることはよくあること。今回も、ひょっとしてと思いを巡らせていると、消え、再び一人だけが現れ……。

14mほどある表通りの本郷通りから、路地というより犬走り(建物の軒下の部分で、砂利を敷いたりコンクリートを打ったりしたところ。これは構造物を保護するために設けられるものですが、建築や土木の世界では、犬が通れるくらいの幅しかない道ということで犬走りと呼んでいます)を入って裏通りへ。途中、押縁下見板張りの家を発見し、みな感動! 板張りの家は人のぬくもりが伝わり、なんともいえないあじがあります。
裏通りを進むと、そこに現れるのが「金魚坂」。ここは江戸時代から金魚を商っているところで、休日には金魚すくいやザリガニ釣りもさせてもらえます。

そこで、出会った子どもにビックリ! 大人がやったら一発で破けてしまって一匹も掬えないのに、何十匹も掬っていました。コツを会得したというより、熟練工の手さばき。けっこう、身近なところに達人はいました。隣にいたお父さんもニッコリ!
*押縁:板張りを押さえるために取り付ける細い棒状の部材のこと。
 下見:外壁などに張る横張りの壁のこと。
 下見板:下見に張る板のこと。

「横丁・小径学会」本郷菊坂遊歩を行いました
10月27日(土)、「横丁・小径学会」本郷菊坂遊歩を行いました。今回も参加者は8名。

スタートは本郷三丁目交差点の「かねやす」から。「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」と川柳にまで詠まれたかねやす。江戸城からこの本郷のかねやすまでが防災上の理由から瓦葺きが奨励された地域です。
このかねやすから東大前を通るのが旧中山道。現在の本郷通りで、これが表通り。現在の道幅を測ったところ、実測で14mありました。この本郷通りに面しているのが東京大学。まずは、赤門。りっぱな薬医門です。
東大は、かつて“帝大”と呼ばれた学校。さまざまな学校を吸収した組織でしたが、戦争を繰り返す中で優秀な官僚の育成を痛感させられた政府は大学制度の構築を図ります。それが帝大制度で、京都や福岡など主要な都市に帝大を新設し、全国規模で優秀な官僚の育成を図りました。これにより単独であった本郷の帝大は“帝大”から“東京帝大”へと名称変更。さらに、戦後、占領軍(アメリカ)から日本の教育制度は「封建制そのものだ!」と批判され、現在のような誰でもが大学に行ける民主的な教育制度(単線型教育制度)に移行しています。
*封建的というのは戦前の教育制度は「複線型教育制度」といって、小学校(小学校→高等小学校)で終わる子どものコースと、高校、大学へと進む(小学校→中学校[女子は女学校]→高校[女子大は高校に相当]→大学)子どものコースが小学校卒業の時点で分けられていたからです。欧州ではまだこうした制度が残っています。
この官僚育成制度が、東大本郷キャンパスのマンホールに残存。マンホールの蓋には「帝大下水」とか「東京帝大暗渠」、さらに「東京大学」――と記されているのを探索しました。
この後、「落第横丁」へと進むつもりが、東大構内はワンダーランド。見るもの聞くもの何もかもが興味津々。ということで、長い長い寄り道の探訪になってしまいました。

下谷坂本富士

根強い富士信仰に支えられた富士塚は明治期に入って衰退の一途を辿り消滅していきますが、まだ江戸期に築造されたものがいくつか残っされています。その一つが下谷の小野照崎神社(台東区下谷2―13―14)境内の「下谷坂本富士」。築造は1828(文久11)年と伝えられています。
この富士塚、高さは2階建ての家屋よりちょいと低い程度の約5m。直径は約16m。京間4~5間が江戸時代の町屋の典型的な間口なので、町屋敷二つ分程度の幅があったことになります。
山は溶岩製。これは、富士から運ばれた溶岩に登ることで、実際に富士山に登ったのと同じ効果を得られる、と考えられたからでした。
この下谷坂本富士は、円墳型。江戸時代の富士塚の典型といっていいでしょう。
面白いのが、この神社、江戸切り絵図を見ると、表通りから路地を入ったところにあります。この“奥性”、神社仏閣には結構多いんです。路地と神社、ご興味のある方は調べてみてください。

小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-小野照崎神社01


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-小野照崎神社02


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-小野照崎神社03

「“窓”学会」を立ちあげました!

近代建築の原稿を整理していたら、そのなかのディテールというか“窓”に興味がそそられました。考え出すと、けっこう哲学的。“窓からみる近代建築”というのが視点ですが、それはそれとして「窓学会」を立ちあげようよ、と思いたちました。
遊歩はまだまだ、難しいと思いますが、田辺聖子さんの『ほどらいの恋』のように車中から住宅の出窓を見るシーンから始まる物語など、文学を踏まえた“窓”っていうのも魅力的。
近代建築としての窓、想い出の窓、文学に登場する窓など、ちょっとロマンチックかも。
賛同する方、小林までご連絡ください!

今日からシリーズで富士講をご紹介します。
江戸のまちづくりは京を手本にしました。その京都は遠く中国(唐の時代)の長安をモデルにしています。その長安のまちづくりの基本は四神相応。つまり、北には玄武の神が宿る〈山〉、東には青龍の神が宿る〈川〉、南には朱雀の神が宿る〈海〉、西には白虎の神が宿る〈道〉が配されている地勢を佳しとするもので、陰陽(おんみょう)学によるものです。
この視点から京を見ると、北に「船岡山」(温泉がでます!)、東に「鴨川」、南に巨椋山(現在では埋めたれられています)、西に「山陽道」――という地勢。では、江戸はというと、北には麹町台地の先に「富士山」(厳しい?)、東に「隅田川」、南に「江戸湊(東京湾)」、西に「甲州街道」――となります。
富士山は権現様が生まれたご近所。信仰の対象ともなりましたが、いかんせん遠い。江ノ島遊山を兼ねて大山詣というのとは大違い。ということで、ご近所でお参りできる富士塚が流行ったのが江戸の頃でした。この富士塚、たいがいが富士山の溶岩を運んできて山をつくったりしていました。ところが、明治以降、衰退をたどり、現在残るのは数ヵ所。しかも、昨年の東日本大地震で損傷を受け、修理・修復が澄むまで登山禁止というところも多くなっています。
今回、ご紹介するのは、江戸のものではなく、明治に入ってから築造されたもの。明治期にこれほどのものがと驚嘆するほど立派。とにかく、巨大です。神社自体が、何階分かの高さの上に建っているところに、この富士塚はさらに溶岩を積み上げているので、巨大な高さ。京浜急行線を越えて遙か彼方まで見通せる、富士塚です。



小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-北品川富士塚01


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-北品川富士塚02


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-北品川富士塚03


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-北品川富士塚04


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-北品川富士塚06


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-北品川富士塚07


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-北品川富士塚08


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-北品川富士塚09


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-北品川富士塚10

時間と場所だけ決めておいて年一度、学生時代の友人と一堂に会す、という企画をはじめて今年で7年。「最後の一人になるまで来られるのはお前だな」というのがみんなの意見。というのは、学生時代から好き勝手なことをして、就職してからも自由気まま。「お前は長生きするよ」だって! そうでもないんだけど……。

第2回「横丁・小径学会」本郷菊坂遊歩の行程が決まりました。
日時:10月27日(土)
時間:午後2時~
集合:東京メトロ丸ノ内線「本郷三丁目駅」改札口前
解散:東京メトロ「後楽園前」
コース予定:①かねやす(までは江戸の内)→②本郷通り→③東大構内(東大→帝大→東京帝大→東大の痕跡)→④落第横丁→⑤金魚坂→⑥菊坂上道→⑦下道→⑧明治初期の町屋敷(表店と長屋+共同井戸。旧樋口一葉宅含む)等。
まち歩きがメインなのか、歩いた後の一献がメインなのか判りませんが、とにかく楽しいまち歩きです。参加できる方、ご連絡ください。